2章 日本の民主主義の課題

■民主主義の特長
 「民主主義とは何か?」これは「国家とは何か?」という難しい問題を含みますから、後の章で扱います。今回は、民主主義の最も大事な特長だけをあげます。
 民主主義で、その土台となるのは、「個人の自由」(freedom of individuals)です。これを「人権」(human right)と言います。「個人の自由」とは、一言で言えば、一人一人が誰でも自由にものが言えることです。この自由は、現在の日本の憲法で保障されています。しかし、単なる「人間の自由」は、「正しい」とは言えません。「(多数の人を巻き込む)自爆テロ」も「他人の自由を奪う自由」も、家庭内暴力もいじめも、自己勝手な「自由」(liberty)から生じるからです。
 憲法で保障されている「個人の自由」とは、共同体のメンバー(community member)が、それぞれの「個性を発揮する」ことで、その共同体を形成し育成させる働きを目指すものです。野球やサッカーなどのスポーツ選手には、チームのメンバーとして、その個性と能力を発揮することが求められます。個人の自由は、その人の個性を発揮して共同体を形成するために不可欠だからです。個人を無視したチームは、強そうに見えても、本当の力を発揮できません。逆に、勝手な「私人」の集まりは、バラバラで、チームになりません。だから、「個人」とは、公人(public person)と私人(private person)のどちらをも含み、その両方を統合する働きをします。
 こういう「個性を発揮する」個人の自由は、その国も社会と政治に対して、決して否定的ではありません。個性を発揮する自由は、逆に、社会と国に対して積極的に、あえて言えば肯定的に働きます。故ケネディ大統領が、アメリカ国民に「国家があなたがたに何をしてくれるかではなく、あなたがたが国家に何をしてくれるのか?」と問いかけたのはこの意味です。これが、あの有名なリンカーンの言葉、"Government of the people,by the people, for the people"が意味することです。
 現在の日本で言えば、私が体験した高校の職員会議や大学の教授会などでは、この民主主義の自由が十分発揮されています。しかし、民主主義のこういう特長が、現在の日本全体で、十分に活かされているかと言えば、残念ながら、「まだ」 "Not good enough"です。政治の分野では、政府と与党への批判に明け暮れる野党、行政では、地方から中央政府への補助金陳情のお参り、教育では、「何でも反対日教組」の後遺症からまだ抜けきっていません。残念ながら、日本の教育制度は、今、世界的に見ても劣っています。
■日本の民主主義
 「個人の自由」を基軸にする民主主義は、「下から上への働きかけ」という形を採ることで、達成されます。コロナが始まった頃には、その対策をめぐって、「上から下へ」の上意下達がさかんでした。しかし、下から上への働きかけが弱かったために、適切な対策が大幅に遅れました。中央政府に、地方の役所の声が届かなかったからです。だから、大阪府の元池田市長が次のように言っています。
 
 (今までの)コロナ禍で目立つのは、「中央政府至上主義とお任せ民主主義のもたれ合い」だ。町の実状を一番分かっているのは基礎自治体だ。住民を守る政策を大胆かつ丁寧に進め、感染症法が機能不全に陥らないようにするためにも、全国横並びでなく、個々の小さな自治体が個性的な判断をできる予知がもっと必要だ。・・・・・総じて分権改革を迫った時のような勢いやリーダーシップが今の首長らからは感じられない。それを可能にするために、政府と都道府県、基礎自治体は、互いの役割分担をもっと徹底的に議論するべきだ。・・・・・政府にはむしろ、持てる知見・情報を発信する役割や保障をきちんと担ってほしい。地方分権改革こそが「この国の未来をすくう玉手箱」なのだから。
      〔『朝日新聞』(2022年5月24日)「国は地方に柔軟に委ねて」〕
 
 大都市と地方とでは、コロナの感染状況が全く異なるのに、政府は、「オール・ジャパン」の政策ばかり出すから、うまくいかないのは当たり前です。日本では、国に対する地方都市、地域に対する個人の病院や、個人の患者。この下から上へ向かう制度と働きかけが、まだ弱いのです。
 コロナのような疫病や地震などの天災、それにウクライナでの戦争のような、聖書が言う「疫病と劔と飢え(経済危機)」は、思いがけない時に襲ってきます。その際に、これにどのように対処すべきかは、誰にもその答えが見いだせない場合が多いのです。こういう場合、中央政府の言うことなど、「我が身を守る」のに、なんの役にも立ちません。「自分の身の回りの実状」を把握できるのは、それぞれの地方であり、それぞれの地域の個人です。一人一人は、それぞれの地域の医療体制、感染状況、危険性などを考慮した上で、自分の身の周りの出来事を、分からないながらも、からだで判断しなければなりません。そこには、驚くほどの「多様性」があります。各自の決断には、それなりの科学的根拠が与えられる場合もあれば、全く与えられない場合もあります。各地域は、それぞれの個人は、それでも「判断」しなければなりません。この場合、科学的根拠は、決断の「参考」にはなりますが、「決め手」にはなりません。いざとなったら、「我が身」のことは、その人なりの決心であり、つまるところは、理屈無しの信念であり、「信仰による」決断です。
■科学と信仰
 キリスト教では、人は、イエス・キリストを信じることによって、「その個人」に「イエス・キリストにある自由」が与えられます。これは、自己勝手な自由ではありません。新約聖書が証しするイエス様の見守りは、<イエス様に従う>心から生まれる自由です。イエス様の御霊が働く時に、その人に与えられる「愛と力と勇気」による信仰です。イエス様へのこの信仰と自由が、夫婦を守り、家庭を守り、職場の正しい組織を作り、民主主義の国家を育てる大事な働きをします。
 イギリスで発生したコロナの異変種が、東京と静岡でも感染者が発見された時、政府は、日本の医学専門家にその菌がどの程度危険なのかを調べるよう要請しました。専門家から、そのチェックにはしばらく時間がかかると言われた時、政府は、「専門家の意見に従って」外国からの入国禁止をしばらく見合わせると発表したのです。これはおかしいという意見がでました。専門家は、「医学的なチェックには」時間がかかると言ったのであって、それを根拠にして、「入国制限を延長せよ」と言ったのではありません。危険なウイルスなら、検査結果を待たずに、<とりあえず>入国を禁止する処置を執る。こういう選択も十分ありえるからです。科学的なチェックと、入国制限という政治的な判断とは全く別のことです。
 この場合、政治的な判断は、全く予想できない未来に向かって降(くだ)さなければなりません。チェックを待っている間に、ウイルスが取り返しの付かないほど蔓延する可能性があるからです。だから、科学的な方法とは関係なく、選挙で選ばれた政府は、科学的に判断できないことでも自分で判断しなければならないのです。
 これから分かるのは、いざという時には、政治家にとっても、三位一体の神を信じるクリスチャンがするのと同じように、「かってな自己判断」に頼らず、祈りの内に神の導きを信じて行なうクリスチャンの判断と、全く同じ状況に置かれることが分かります。民主主義で選ばれた人の判断も、クリスチャンの判断も、自力を超える未来の出来事について判断しなければならない点では、全く同じなのです。
 だから、民主主義で選ばれた人の判断は、科学的な根拠に基づくから正しいと考えたり、新聞やマスメディアがそう主張したりするのは、ある意味で適切ではありません。また、三位一体の神を信じることによる判断は、科学的な根拠によらないから間違いだと考えるのも謬りです。三位一体の神を信じることと科学的な根拠を重視することとは全く矛盾しないからです。政治家の判断も、クリスチャンの判断も、科学的な根拠を必要とする点では同じです。
■ 民主主義と情報
 後章で扱いますが、民主主義の国家と言えども、国家を<実際に運営する>のは、専門的な知識を具える一握りの行政官であり、選挙で選ばれた政権与党であり、与党が選んだ総理大臣とその内閣です。日本という国家の安全は、「彼らの手に」握られています。いったい、彼らは、何によって、国の安全を図ることができるのか? 最近のメディアは、武力こそ防衛の要(かなめ)だとさかんに言い立てています。しかし、「国の民主主義」を守るためには、武力よりも、もっと大事なものがあります。それは、自由の多様性と、多様性を可能にする情報です。ここで問われてくるのが、現在の日本の情報能力です。欧米はもとより、韓国や中国に比べても、現在の日本の情報能力は劣っています。「ペンは剣よりも強し。」今の日本に求められているのは、武力よりも核よりも、国外に向けての情報収集の手段と情報発信の能力です。これほど、平和で確かで力強い「安全保障」はありません。日本のクリスチャンの若い人たちにお願いします。これからの国の運命を左右する情報の分野で、あなたたちが、世界の最先端の情報力を担ってください。日本の情報力をあなたたちが担えば、この国の「民主主義の力」は、アジア諸国のトップに立つことができます。

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