3章 近代民主主義の誕生
       コイノニア京都集会
      (2022年6月25日)
■民主主義とは何か?
 先日お話ししたとおり、現在、日本は、アメリカ及び西欧諸国と組んで、ウクライナを支援し、ロシアと中国と北朝ほ鮮に「敵対」しています。理由はただ一つ、前回申し上げたとおり、「日本の民主主義を守る」ためです。なぜ、そこまでして、民主主義を守らなければならないのか? これを考えるよすがとして、今回は、「民主主義」の「そもそも」の初めについて、少しお話しします。
〔ホッブズの思想〕
 16世紀以降のヨーロッパの「近代」国家を考える時に、その出発点として、しばしば、イギリスの政治思想家であるホッブズ(Thomas Hobbs.1588--1679)の国家観があげられます。ホッブズの時代、ヨーロッパでは、カトリックとプロテスタントとが、30年戦争という血で血を洗う宗教戦争を繰り広げていました。ホッブズの国家観には、このキリスト教徒同士の醜く恐ろしい争いが、その背景にあると思われます。
 割り切った言い方をすれば、彼は、当時の自然科学の物理的な原子論を応用して、人間集団とは、原子の粒の集まりであり、一つ一つは、自己の生存のために、その欲望と利得のままに動く「生き物」であると見なしました。だから、一人(ひとり)一人は、国家を形成する「個体」の原子にすぎません。ホッブズに言わせれば、人間は「万人の万人に対する戦争状態」にあります〔大澤麦「リンゼイのホッブス解釈」『A・D・リンゼイ:イギリス・デモクラシーの擁護者』永岡薫編著(聖学院大学出版局)243頁〕。だから、「国家」は、その強大な権力を行使して、個体原子の集まりを強制的に支配しなければなりません。ホッブズの言う「国家」は、海から上がってきた怪獣の『リヴァイアサン』(ホッブズ著/1651年)にたとえられます(ヨハネ黙示録13章1〜2節参照)。人間に絶対的な主権を振るう国家が、人間の集団の自然的生存権を確保するために、どうしても必要だと彼は考えたのです。ちなみに、現在のロシアの政治権力による国民支配、あるいは、中国の強権的な人民支配は、本(もと)を正せば、ホッブズの動物的な「バラバラ人間」から発生していると言えましょう。
【ロックとルソー】
 こいうホッブズの思想に対しては、イギリスの政治思想家ジョン・ロックがいます(John Locke:1632--1704.)。彼は、イギリスのピューリタン革命後に、イギリスからオランダに亡命しましたが、イギリスの王制が復興した1688年の名誉革命で、帰国しました。ロックは、ホッブズの契約思想を法(理性の支配する自然法)の立憲政治として現実の政治に具体化しようとしました。著作として、『二つの政治支配の統治論』(1690年)があります。また、フランスでは、哲学者ルソー (Jean-Jacques Rosseau:1712--78)の『社会契約論』(1762年)があります。彼は、「人民」主権に基づく共和制を主張し、フランス革命に影響を与えました。
【リンゼイの民主主義】
 ここでは、イギリスの近代民主主義の誕生を分析し、その経過を跡づけたリンゼイの説を採り上げたいと思います。(Alexander Dunlop Lindsay. The Essentials of Democracy. Oxford University Press.1929.)〔A・D・リンゼイ『民主主義の本質』永岡薫訳/未来社(1964年)〕。近代の国家の議会制民主主義は、17世紀の英国国教会のイギリスにおいて、「小規模な信徒の集まり」から始まったと言われています。国教会の内外の「小さな信徒共同体」は、「上から」求められる「信仰の同意(一致)」よりも、信仰による相互の不一致や異論を容認した上での「討論による同意」をその手段として用いたからです。彼らは、討論の結果、「投票による多数決」に従う「全員の同意」という「多数決の原理」を選んだのです〔リンゼイ『民主主義の本質』。「第3章:共同思考としての討論と集いの意識」70頁以下〕。 kuromu
 こういう「同意」が、最も顕著に現われたのが、王党派の軍隊を次々と破ったクロムウェルの鉄騎隊でした。水平派は、人が「自分の」意志を表明するよう努めるべきだと主張しました。しかし、クロムウェル(1599〜1658年)は、人は、<自分の>意志ではなく、自分に啓示された<神の意志>を表明すべきだと説いたのです〔リンゼイ前掲書45頁〕。クロムウェルの軍隊は、当時の長老派やアナバプティストなど、「互いに討論できる規模」の小さな宗団の集まりから成り立っていました。だから彼らは、自分たちの現実の体験によって、論じ合うことができました。クロムウェルは、これらの小宗団に、自己満足の自我に動かされず、「神の御心を求める意志」を抱いて、「全体を活かすために小我を没する」よう説得しました。その結果、鉄騎隊は、驚くほどの力を発揮することができたのです〔永岡薫編著『イギリスデモクラシーの擁護者A・D・リンゼイ』聖学院大学出版局(1998年)30〜31頁〕。
■民主主義の目的 
 いったい、「民主主義」の目的とは何でしょうか?それは、生存することです。しかし、単に生存するだけならホッブズの言うように全体主義の絶対権力体制でも間に合います。だから、民主主義とは「よく生存する」ことです。では、その「よく」とはどういうことでしょうか?「人がよく生きる」ためのまことの民主主義、これが現代において問われているのです。 人が「よく生存する」ための民主主義では、最小単位の「人の集い」(congregation)が必要です。この「人の交わり(コイノニア)」を信頼することから、民主主義が始まります〔リンゼイ前掲書42頁〕。その最小単位は7人くらいが理想です〔リンゼイ前掲書47頁〕。この人数だと、「集いの意識(空気)」"the sense of the meeting"が生まれるからです〔リンゼイ前掲書48頁〕。
 民主主義は、人々の「共通意識」(common sense)と現実の「有効性」(efficacy)の二つの要因で成り立っています。例えば、「原発の誘致」問題で言えば、誘致の可否は共通認識によって定まります〔リンゼイ前掲書36頁〕。しかし、その原発が事故を起こした場合、その共通性は有効でなかったことになります。だから、全員の共通性と現実の有効性とのギャップを埋める働きが必要です。これが「話し合い/討論」(discussion)です〔リンゼイ前掲書38頁〕。民主主義の「話し合い/討論」には、「個人の自由な発言」が認められなければなりません。その上で、個人は自己の発言の結果を「交わり全員」を信頼してこれに委ねなければなりません。
 ところが、このように「共通する空気を造り出す話し合い」は、少人数を超えて大規模になると、有効性をめぐり「話し合い」それ自体が難しくなり、「話し合い/討論」を放棄する人が出てくるのです。その結果、少人数で最初に決めた運動の主意は、人の数が広がる政治形態の中では、不可能になってしまうのです。イエス様の聖霊に導かれた個人の発言は、その有効性について、発言した個人の責任を伴います。キリスト教の交わりでは、個人が「内なる光」に導かれて発言し、その結果をコイノニア会に委ねることになります。個人への聖霊の導きと、イエス・キリストのコイノニア会への信頼と、その結果を導く神の意志とがこのように重なります。 人を他者から分離する自由は、「個人」ならぬ「孤人」を生じる結果になりかねません。日本では、「個人」と(「公人」に対する)「私人」との区別さえつかない人が少なくないのはこのためです。日本人は、「公私」の区別を付けるのは上手です。「公」とは、江戸時代の「ご公儀」を受け継いで、「上から命令されることに服従する自分」だという考えが強いです。ところが、「個人」とは、自分から教会を作り、社会を作り、国家を作る働きのことです。これが、まことの民主主義の原点です。
■民主主義と国家
 「話し合い」とこれの有効性との狭間には、避けがたい障害が潜んでいます。それは、政治的な統治とは、話し合いから生じる理想によって決定されるものではなく、地理的、経済的、歴史的、文化的なもろもろの事情に不可避的に迫られて、これらの諸事情の妥協によって決まるからです〔リンゼイ前掲書46頁〕。
 少人数の民主主義の限界を克服するのは、代議員制度だと言われます。アリストテレスは、演説者の声の届く範囲の人から代議員を選ぶよう言いました。しかし、その代議員制度についても、水平派とクロムウェルとは、全く異なる見解を抱いていました。水平派に言わせるなら、「代表者」に選ばれた者たちは、その時から、代議員"representatives"であることを止めてしまうからです。代議員制度は、このために、本質的に非民主主義的な者に変質するのです〔リンゼイ前掲書54頁〕。しかも現代では、民の代表者が語る意見それ自体が、メディア(出版と放送とSNS)によって、代表者の真意が歪められたり、誤って変容されてしまうのです。だから、現代の政治は、「宣伝」するメディア組織体の仕業になっています。こうして、民主主義が拡大すると、民主主義への失望が拡大することになります。現代の民主主義で言う「同意」とは、(1)政府の言うことを国民に同意させることなのか?(2)民の言うことを政府に行なわせることなのか?どちらも、「民主主義の同意」を意味します。(1)の場合は、専制政治が、民を同意に導くことが民主主義ですから、民主主義は、専制政治に行き着きます〔リンゼイ前掲書65頁以下〕。
 リンゼイによれば、専制的な国家主義は、国家それ自体を目的とするが、民主主義は、国家を国民のための手段と見なすのです〔永岡薫「イギリス・デモクラシーの政治哲学的背景」永岡薫編著『イギリス・デモクラシ−の擁護者A・D・リンゼイ』聖学院大学出版局(1998年)。294〜322頁〕。国家間の権力抗争のために国民を育成するのではなく、国家を構成する国民の自由と安寧を守るための国家だからです。国家は言わば、国民から「委託委任された」存在だから、民主主義の社会では、国家は常に国民によって相対化されます。だから、憲法で保障された国民の権利は、国民の側からの普段の働きかけによってしか成就しないのです。
【宗教的良心に基づく民主主義】
  以上で分かるように、その国家が民主主義であるかどうかは、「自由で自発的な共同体」が、その国に存在するかどうかにかかっています。そのような、自発的な自由を活気づける源泉となるものこそ、「自由な霊感」(inspiration of freedom)に支えられたキリスト教の諸教会/諸集会」の役割です。
 民主主義を支えるのは、いわゆる「一般大衆」のポピュリズムではありません。民主主義は、そのような浮動する「大衆社会」から発生するのではなく、宗教的な信念と良心に目覚めた「共同体」から産み出されるからです。そこには、「すべての人が、個人として、よく生きるための命を授かっている」という信念がなければなりません。この意味で、民主主義の根拠は、例えばホッブズのような科学的な根拠によるものではなく、究極において、その国の国民の個人としての信念であり、その信念は、「宗教的な真理」に根ざすものです。
  だから、「個人の信念/信仰」は、多数決による民主主義の「基礎」となるものです。その上で、国民全体の同意は、民主的な政治への「プロセス」(過程)によって形成されます。国民の心からの同意が得られた民主主義国家が、はたして、国の安全と平和に有効性を発揮するかどうか? これは、歴史(を導く神)だけが与えるもので、その「結果」(英語の"success")が、「サクセス」(よい結果=成功)として証しされるのです。
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