カンタベリの聖堂
(1)
 「ケントはイギリスの庭園である」と言ったのは誰の言葉であったか忘れたが、今、ロンドンからドーヴァー行の汽車に乗ってカンタベリに向かう車中に居るとこの言葉がなるほどとうなずかれる。どこまでも広がる豊かな畠、こんもりと茂る森、いかにも古い教会堂や家屋などの佇まいが落着いた色調で心にしみる。車内は、フランス人やイタリア人など、「大陸」に向かう人たちで一杯で、ドーヴァー行の国際列車という趣である。なるほど、このロンドンとドーヴァーとを結ぶルートに当たるケント街道は、昔から大陸とイギリスを結ぶ幹道であった。
 人々は、この街道を通じて大陸の文化を採り入れた。そしてキリスト教が紀元何世紀かにこの国に伝わり、何とか言うアングロ・サクソンの異教の王が大陸から嫁いできた王妃の感化を受けて洗礼を受けたのもこの街道の町カンタベリであった。そんなわけで、カンタベリは、イギリスのキリスト教発祥の地になったと言ってもよい。こうして、イギリスと大陸を繋ぐこの街道が、カンタベリ聖堂への巡礼道と重なることになった。チョーサーの『カンタベリ物語』の序歌にあるように、春になると人々の心が浮さ浮きし出し、イギリスの各州からカンタベリへと巡礼に出かけることになる。ちょうど、今私の乗っている列車が、そういう人たちを大勢乗せているように。
 ロンドンから1時間半ほどで、東カンタベリという小さな駅に着く。駅を出ると陸橋があって、下の道路を車がびゅんびゅん走っている。しかも、橋を渡った所からは、ローマ時代からと言われる城壁が、石塔を所々に遺しながら、この道路に沿って町を囲んでいる。かつては外敵から町を守ったこの高い城壁は、今、車という文化の敵からこの古い門前町を守っている。
 町は小さくて、真ん中にそびえる聖堂の鐘楼がどこからでも目に入る。スーパーマーケットやガソリンスタンド、観光バスの駐車場などのある通りを抜けて聖堂に近付くにつれ、中世以来の面影を伝える町並みが姿を現した。いかめしい門をくぐつて、裏側から聖堂に入る。回廊が老骨のように欠けた柱に支えられていて、いかにも「老い」を感じさせる。外壁では、高い足場を組んで大修理が行なわれているようだ。大変な手間と出費だろうと思うが、イギリスでは時折こういう情景に出合う。儲からない事にこれだけ金をかける国も珍しいとある知人が皮肉っていたが、なるほどこれではポンドの値打もなかなか上がるまいと感心して見ていた。
 聖堂それ自体はゴシック様式で、私には特別変わっている風には見えなかった。ただ、ステンドグラスがすごく美しい。中にはごく新しい、1960年に完成されたという現代風なのもある。実は、私がこのカンタベリを訪れるのはこれが初めてである。この大聖堂に心惹かれて来たのは、ここが由緒ある町でもあるが、それ以上に、この聖堂で殉教したトマス・ベケットという大主教がいたからである。だが、カンタベリもベケットも、自分のあやふやな知識と簡単な案内を読んだ程度で、その代わり先入観だけはなるべく持つまいと思いながら訪れてみた。
(2)
 カンタベリは美しい巡礼の町である。市中の街路も方々から集まって来る観光客で一杯である。この町は、すでに14世紀のチョーサーの時代に、いやもっと早く、12世紀からすでに巡礼の町であった。その理由は、ここの聖堂が、ウエストミンスター寺院のような護国神社だからではない。又、聖パウロ大聖堂のように戦勝記念や、戦士を祀っているからでもない。ひとえに、聖トマス・ベケットという大主教の殉教が、かくも多くの人たちをこの町へ惹きつけてきたと言ってよい。
 ベケットが生まれたのは1118年12月21日、所はロンドンとある。だが、ベケットの両親は、大陸(ノルマン)から渡ってきたらしい。そのためか、彼は若くしてパリヘ留学している。ベケットが聖職につく決心をしたのはこのパリ滞在の間であったと言われている。大陸の影響を受けたこの青年は、20歳を過ぎた頃にイギリスへ戻り、カンタベリ大主教の下で役職を得て、大陸とイギリスの間を行ったり来たりしていたらしい。もっともこの時代は、イギリス王が、フランスの領主を兼ねたりするのは普通のことであるから、彼は別に変わったことをしていたわけではない。
 だが、1154年に、彼よりも一まわり年の若いへンリー二世が王位につくと、ベケットは王の大法官となり、言わば王の片腕として国事にその才を振るった。ところが、王の信任厚いベケットが、王の肝煎(きもいり)でカンタベリの大主教に任命された頃から、二人の間の雲行きが怪しくなり始める。ヘンリー二世が、親交のあったベケットを大主教に任命したのは、これによって教会の行政を自分の意のままにしようとの下心があったのかも知れない。ところがベケットは、一度大主教に任ぜられると、国王の意に沿うどころか、事ごとに国王と対立し「ただ神にのみ仕える」姿勢を崩そうとはしなかったのである。
 王が教会を籠絡しょうと謀ったのに反発して、ベケットが王と反目したと言ってしまえば、人間同志の感情的ないざこざから来る身も蓋もない話になってしまう。しかし、事はそれほど単純ではなかったであろう。教会と国家、あるいは宗教的権威と政治権力という、相容れることのできない二つの力の頂点に立たされた二人にとって、この対立は根本的な構造に根ざしていたと見る方が正しい。
 少なくともベケットの側からは、王に敵意を抱いたというよりも、王との変わらぬ友情にもかかわらず、己れの勤めに忠実ならんとするほどに、神と教会以外のあらゆる力から教会の自由と自治を守らなくてはならなかったと見るのが正しい。例えば裁判権、特に聖職者に対する裁判権一つを取り上げてみてもこの点がはっきりとうかがわれる。宮廷での刑罰は一般に苛酷で、死刑を課する事も度々であったのに対し、教会のそれは比較的寛大で、死刑は認められていなかった。一事が万事で、税の問題、行政権(教会の行政は市民生活の全般に及んでいた)、外交等、争いの種には事欠かなかった。
 ベケットは教会の立場を厳守して一歩も譲らない。業を煮やした王は、教会の権力を制限しようと領主たちと協議の末につくった規定をベケットに突きつけてくる。世に言う「クラレンドン憲章」である。一旦はこれを諒承したベケットも、その文書の真意を悟るに及んでこれを拒否し、先の自分の浅はかな行為を懺悔したものである。宮廷に召喚されたベケットは、国王に「反逆者」とののしられる。死刑の脅しを受けた彼は、これは「ステパノの殉教」であるとやり返す。
 ついにベケットは、6年間ほど大陸に亡命する羽目になった。ようやく怒りを解いた王の許可で、ベケットがカンタベリへ戻った時に、彼が先ずやった事は、亡命中に自分の方針を批判した主教たちに、破門、あるいはこれに近い処罰をもって臨むことであった。フランスに滞在中の王は、これを聞いて怒り心頭に達し、誰かこの「坊主」を亡き者にする者はいないかと廷臣たちに呼びかける。命を受けた4人の騎士が、早速、ドーヴァー海峡を渡り、馬に乗ってカンタベリへ向かう。ベケットは従容として聖堂内に騎士を受け入れ、そこで彼らに殺害されたと伝えられている。1170年12月29日の事である。
 ところで、この殉教が、王にとってまことに皮肉なことに、ベケットに「聖人」の称号をもたらす結果になった。あまつさえ、その聖人の墓にお詣りすると病気が直るという言い伝えが広まったものである。イギリスはおろか大陸からも続々と巡礼の列がカンタベリへ向かうことになる。チョーサーの『カンタベリ物語』の序歌に歌われるのがこの情景である。この「聖トマス」崇拝は、ついにヘンリ二世の政治的立場をさえ危くするに至った。国王は、やむをえず、彼の罪を認め、懺悔のしるしとして、衆人が注視する中を素足でベケットの社へと歩き、ひざまずいて非を詫び、僧によって鞭打の刑を受けることになったと言う。1174年の事であった。
(3)
 実は、私がこの日カンタベリを訪れたのは外にわけがあった。と言うのは、この日、私の勤めている大学の学生と教師の一行が、この町を訪れるのを知っていたからである。彼らとは前日にも顔を合わせていたので、その日は来るつもりでなかった。しかし、二ケ月ぶりに異国の地で会う日本の同僚や学生たちは、ふいに私の心に眠っていた里心を目覚めきせたらしい。つい、汽車に乗って来てしまった。そんなはずではない自分の内に潜む民族意識の根深さに、われながら驚きながらこの大聖堂を訪れた次第である。
 学生や同僚に別れを告げてから、私は再び唯一人の日本人となって、聖堂の方へ引き返した。ようやく晴れてきた午後の日差しが、夏の到来を告げるように暑かった。大勢の観光客でにぎわう通りを抜けて、古い石造りの門をくぐると、雑踏が消えて、中は意外に静かであった。古い石畳の回廊に沿って今にも折れそうに縁の欠けた石柱が並び、その先が放射線状に分かれて天井に広がっている。人気の少ない回廊は薄暗くどっしりと外の明るさを遮っている。
 本堂に入ると美しい合唱の響きが広がった。祭壇の後方に階段のように高くなった所があって、そこにかなりの人が腰を降ろして聴き入っている。私も腰を降ろすと、下方に、祭壇の上に置かれた大きな十字架が目に入る。その下の聖歌隊席で合奏と合唱の練習をしているのだった。どうやらこの町の人たちらしく、この聖堂の聖歌隊であろう。種々な年齢の男女の混声合唱である。そうか、今日は土曜日だから明日の礼拝の練習をしているのかも知れない。そう思いながら耳を傾けていた。
 合唱の響きは、高く堂内に広がっていく。その歌声と外からほんのりと差し込む光の中に、ゴシックの石柱が淡く浮かび上がるのを見つめているうちに、その石柱の一本一本が、ベケットとその志を継ぐ人たちに見えてきた。カンタベリの大主教で国王に処刑きれたのはベケット一人ではなかった。
 時代は4世紀ほど下るが、ヘンリー八世とその大法官であったトマス・モアの関係だってそれほど違ったものではなかった。へンリ一八世が、ローマ・カトリック教会から独立して、自らをイングランド国教会の頭とする「首長令」を出した時に、これを拒否したのは確かモアだった。ヘンリー八世が、この時に、ベケットとベケットに縁(ゆかり)のここの聖堂を目の仇にしたのも無理はない。彼は、この聖堂内にあった「ベケットの社」を完全に破壊した上、ベケットの名をイングランドから抹殺せよと命じたのだ。六人の王妃を持った多感な王のやりそうな事である。
 モアもベケットと同じように、才人であった。彼も巧みに国王を補佐した。二人の意気は合っていたようである。しかし、ヘンリー八世が国家の権力を優先させることで英国を外国と対立関係へ導こうとしたのに対し、モアは、どこまでも大陸とのつながりの中でイギリスの生き方を探っていた。どちらが本当の国益につながるのかは速断し難い。国家の権力を優先させるか、逆にこれを制限するかは、真の国益を優先させるかこれを犠牲にするかという事と同じではないのだ。二人共イギリス人である。一方には王権があり他方には深い神学と知性に支えられた良識があった。王の離婚問題は、この二人の食い違いの延長上で争われたに過ぎない。そしてモアはついに「反逆者」として王権の犠牲になった。
 私は、ベケットもヘンリー二世も共に「大陸」と深いつながりを持つイギリス人であるのを思い出した。二人共イギリスを大陸とのつながりの内に置いて見る目を持っていたのだから、両者の息が合ったのも不思議ではない。しかし、ベケットが大主教になり、そして王が王権を主張するにつれ、両者の間は亀裂を見せ始める。国権が自己主張を始めた時に、教会の権威がその前に立ちはだかったのである。ベケットもイギリス人である。イギリスにとって真の意味での「国益」とは何か? この問題をめぐって二人は対立した。そして彼は、「聖」なるものを貫くために国権の犠牲になった。
 ベケットが「聖人」となったからと言って、彼の人柄が非の打ら所がないほどすぐれていたと考えるのは誤りである。「聖」とはこの場合、教会の敵、すなわちキリストの敵と闘って殉教した者に与えられる称号なのである。だから、人々が彼を崇めたのは、彼の人となりが完全であったと信ぜられたからではない。彼が国王と闘って殉教したからである。これが聖ベケットの「聖」なる所以である。ここに、王自らが膝をかがめてこの聖人に赦しを乞わなければならなかった根本的な理由があった。
(4)
 聖堂内にそびえる石柱の一本一本を見ながら、私は、国王の権力に抗して死んでいったこれらの人たちのことを想った。と同時に、自分自身をも含めて、人間の内面が、いかにもろく崩れ易いかということを感じさせられた。そして、民族意識に巻きこまれ国家の権力に屈従する人間のこの弱さに、これらの人たちはどのようにして克つことができたのだろうかと考えた。合唱の歌声と聖堂に差し込む光によって映し出される聖堂内は、そのような人間のもろさをも克服できる道を何か証(あかし)しているように見える。だか、それは、人間の営みが行なわれているこの世の外から差して来る真理、言わば、彼岸から差し込んで来るとでも言うべきもののように思えた。すると、祭壇の上に置かれている十字架が、この世と彼岸との境界に立てられた道標のように映ってくる。
 この800年にわたって、人々は、この聖堂へやって来た。今も、こうして合唱の声に耳を傾けながらじつと敬虔な面もちで坐っているこの人たちは、ベケットの霊にそうとは知らずに詣でているのかもしれない。恐らく、ここに居る人たちも、私同様に自分自身の限界を乗り越えることのできない弱い人間なのだろう。だからこそ、人々は「聖人」に救いを求めて来るのだろう。神の祭壇に捧げられた犠牲をたたえに人波に押されて出かけて来るのだろう。そして、この聖堂の中で「聖」なるものに触れることによって、自己の弱さと神の存在とを確認するのである。これが、カンタベリの聖堂がイギリスの人たちにしてきた事であり、これからもしていくであろう事なのだ。
 イギリス人特有の権力に対する不屈な抵抗の精神、常に自国の利益を優先させながらも驚くほどバランスのとれた国際感覚、こういう能力が培われるためには、普段に、この聖堂のような「社」が、人々の心の片隅に宿っていなければならない。そんなことを考えながら私は再び回廊へ出た。そこには古びて朽ちかけた柱が並んでいる。それらは、そのまま現在のイギリスを適確に象徴している。だが、これらの老骨は、こんな風にして幾世紀も耐えてきたし、まだまだこれからも耐え続けていくのだろう。そう思うと、イギリスとイギリス人に改めて敬意を表したくなった。
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