ミルトンの家
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 私がイギリスに居て羨しいと思うことの一つは、ここには自然がまだ豊かに残されていることである。「残されて」いるのではなく大切に「保存」されている。現に、こうして汽車の窓から移りゆく景色を眺めていると、7月の陽光の下に青々と牧場が広がり、森が点々と、あるいはこんもりと茂っている。牛の群が草をはんだり、寝そべっているのも見える。立看板は一つも見当らない。しぶい黄土色の尾根とレンガの家々が、森の間に見え隠れする。ロンドンの市内からわずか20分ばかり汽車で行くともうこうなのだ。
 フランスを訪れた時もそう思ったが、イギリスも牧畜と農業の国ではないかと思うほどである。なるほど乗っている汽車は、お義理にも立派とは言えない。がっしりしてはいるが、いかにも古びた車両である。それでも、人影まばらな車内のシートは、大きくゆったりしていて乗り心地も悪くない。
 ロンドンの郊外ばかりではない。市内でさえも、現に今私の下宿している近くにあるハイゲイトと言う地下鉄駅の周辺もそうである。実に広々とした公園に囲まれている。それはもう「公園」などと言うものではない。こんもりと茂る「森」である。その森の中の曲りくねった路をたどると広い草地に出て、子供たちがブーメランを飛ばしたりしている。山の中で遊んでいる田舎の子供たちを羨しがる必要は彼等にはない。来た路を引き返して車のさかんに通る道路に出る。その通りを横切って反対側は、これも森に覆われた谷である。
 これはもう偶然にそこだけが人の手にかからずに残ったと言うべきでない。初めからそのつもりでちゃんと遺してある。しかも誰が入ってもいいような公共の場としてである。どうしてこういう事ができたのか私には不思議で仕方がない。人ロが少ないというのも一つの原因だろうかと考えてみるが、それ以前に、何かもつと根本的な考え方があって、こういう風に保存されているとしか思えない。イギリスの人は偉いと思う。ボンドの値打が少しぐらい下がっても、これだけ豊かな緑が残れば、生活水準は上がり物は豊かになったと言え、美しい田畠や森がどんどん潰されていくどこかの国より、こちらのほうがよほど豊かではないかと思う。
 話が少しそれたが、要するにロンドンの郊外を北西に、汽車で30分ほど行くと草深いジェラーズ・クロスという駅につく。駅と言つても長いプラットホームと陸橋があるだけで、駅そのものは小さい建物にすぎない。そこで降りて坂道を少し上がると、ジェラーズ・クロスの町に出る。ここへ来るのは二度目で、前に来た時は静かな所であったが、ロンドンからの自動車道路が完成したとかで車の往来が頻繁になり、そのために新しい(と言っても建物はそれまでと変らないレンガ造りだが)家が建って大分開けてきたようである。そこからさらにバスで2、30分行くと、チャルフォント・セント・ジァイルズという村に来る。この村には、17世紀のイギリスの詩人ジョン・ミルトンの住んでいた家がある。今でもこんなに静かな田舎なのだから、その当時は、人里離れた隠れ処(が)と言った所であったに違いない。
 ミルトンは、1665年に、ロンドンで疫病がはやった折に、甥のエルウッドの紹介でここに滞在した。1665年と言えは、王政復古の5年後になる。ミルトンは、33歳の若さと才能のすべてを賭けて、当時のイギリスを根底からゆるがすような内戦、いわゆるピューリタン革命に身を投じた。当時のイギリスは、王党派と議会派とに分かれて相争ったのであるが、その背景には、カトリック教会から独立したとは言え、まだかなり保守的な伝統を温存していたイングランド国教会と、より徹底した改革を求めるピューリタンたちとの宗教的な対立があった。
 ミルトンは、クロムウェルたちの議会派に立って、信仰の自由、言論の自由、政治的な自由、さらに驚くべきことに離婚の自由に至る広範囲な分野にわたって、矢継ぎ早にパンフレットを書いていく。当時のパンフレットを一寸見ただけで、それがいかに凄絶な争いであったかを察することができる。それはも早、議論などと呼べる代物ではない.罵詈雑言(ばりぞうごん)のすさまじい応酬である。ミルトンもその点では人後に落ちない。相手の言葉尻をとらえては、これを徹頭徹尾罵倒する。1960年代の過激派の学生たちの論調といささか似ている感がする。
 しかも、クロムウェル政権は、歴史上初めて、国民の「正当な権利」によって国王チャールズ一世の首をはねたのだから内外のショックは大きかった。クロムウェル政権の秘書官として、彼は堪能なラテン語を駆使して、大陸の諸国からの批判に対する『イギリス国民を弁護する論』を出す。パンフレットを書き続けるうちに、彼の両眼は全く視力を失ってしまう。やがてクロムウェルは急病に倒れ、ミルトンが、人生の最も大切な20年間を費やした共和政権は瓦解する。1660年の事である。彼は、一時囚われの身となったが、その学識を惜しまれて、それに盲目であったのも幸いしたのであろうか、難を免れることができた。ミルトンが、このチャルフォントのセント・ジャイルズに来たのは、その5年後のことである。親しい友人は皆牢に居る。三度日の妻エリザベス(彼はすでに二人の妻を失っていた)と娘に伴われて彼がここに来た時は、もう57歳であった。
 「ミルトンの家」と呼はれるこの家は、この盲目の詩人に縁(ゆかり)の現存する唯一つの家で、言わばミルトン博物館とでも言うべき所になっている。村の真中を貫通している自動車道路を真直に登ると、こじんまりした煉瓦の家が左手にあって、「ミルトンの家」と小さな案内が出ている。木の柵を開けて入ると美しい庭がありバラがきれいに咲きそろっていた。二階建の家の一階だけが公開されていて、書斎と台所兼食事の二部屋がある。質素な木造りの部屋が今なお昔の名残を留めている。
 食事部屋には古い炉があって、その上にとてつもなく大きいやかんが掛けてある。白い漆喰の壁と黒い柱、粗いレンガの床に黒光りのする椅子が一つ置いてある。展示物が陳列してある棚を除くと、これが台所のすべてと言ってよい。書斎には、大きな暖炉ががっしりと古びた口を開けていて、木の床の上に、これも黒い光沢の机と椅子がある。机も椅子も小さくがっしりとした造りで、椅子の背には紋様が彫ってある。家具と言えばこれくらいのものであるが、盲目の詩人は、これらを一つとして見ることはなかった。何しろ彼は、二度目と三度日の妻の顔さえ見てはいないのだ。
 ミルトンがこの家に住んでいたのは1年ほどの間にすぎない。その間彼は、失意と幻滅と孤独の中に居た、と一般にはそう思われている。しかし、この見方は必ずしも正しくないだろう。むしろ、ここの静かな1年は、彼の心を慰め、新しい力と意欲を湧かせる一時を与えてくれたのではないか。今度ここへ来て、私は、改めてこの事を強く感じた。ミルトンは、ここで『楽園喪失』を仕上げ、『楽園回復』の着想を得ている。「仕上げた」と言うのは、もちろん彼がペンを取ったのではなく、妻や娘に口述して書き取らせたのである。この二作と、さらにもう一作、『楽園回復』と一緒に出た『闘士サムソン』とが、王政復古以後にミルトンが仕上げた三つの作品であり、彼の名を英文学史上、と言うよりは英国史上に不朽のものにした。
 この三作は、いずれも聖書から題材を得ていて、『喪失』は、エデンの園でのアダムとエバの堕罪の記事に、『回復』は荒野におけるキリストの試練に、それぞれ題材を得た詩であり、『サムソン』は土師記のサムソンを主題にした詩劇である。ミルトンは、ピューリタン革命に参加する以前の若い頃に、美しい仮面劇や挽歌を書いているが、何と言っても彼の代表作は『楽園喪失』であろう。12巻から成るこの一大叙事詩は、現代のわれわれには読み通すのに一苦労であるが、それでも近頃になって2種類もの立派な日本語訳が出ている。きらに今一つ、これも名訳と言ってよいと思うのが進行中なのを私は知っている。繁野天来の訳と、長らく岩波文庫で出ている藤井武の訳とを合わせると、代表的なものでも五種類の訳が出揃うことになる。これだけの叙事詩を書き上げるのに7、8年は要していると思われるが、ミルトンは王政復古以後に本格的にこれにかかり、このセント・ジャイルズの小さな一室で仕上げたのであった。
 もしも彼が失意と孤独に沈んでいたのなら、これだけ力のこもった作品をどうして仕上げることができたろう。激しい論争、敵意と自己主張、これに幾分自己誇張も加えてよい、これらに明け暮れて、身を擦り減らしていた頃の意気盛んなミルトンと、このセント・ジャイルズの一室で、木造りの椅子に坐わったまま見えない目で机を見つめながら、自己の才能とぼう大な知識と屈折した体験のいっさいを投入し燃焼させている詩人の姿を思い浮かべる時、私は改めて、人間が生きるとはどういうことなのかを考えざるをえなくなる。
 人は己れの仕事が順調に進んでいる時には悦びを感じ、それが挫折すると失意と焦操を覚える。ミルトンとて例外ではあるまい。その上に一つ、彼には人知れぬ悩みがあった。それは、自分が、神のみ前に何か本当に意味のある事を成しとげたいという思い、言い替えれば、人生をほんとうに生きたと納得できる価値のある業(わざ)を達成したいという思いと、この願いがなかなか思うように実現できないという悩みであった。この気持は彼の若い頃に芽生えたもので、彼が革命に身を投じた動機の一つにもこういう気持が強く働いていたと考えられる。しかし、革命に参加しながら、彼の気持は、どうしてもこれが自分に納得できる神から与えられた本分であるとは思えなかった。第一彼は詩人なのだ。ラテン語をあやつり弁術の限りを尽しながらも、今自分のしていることが「左手の業」であるのを痛切に感じていたのである。
 失明は、この焦燥にかられる彼に最後の止めを刺した。神のみ前にほんとうに価値ある事を成しとげたいと願い続けてきた人間が、何一つその願いが果たされないまま、暗闇な中に放り出されることがどういう状態なのかを想像するするのは容易でない。
 まだ人の世の道半ばに至らぬうちに
 わが眼の光消え失せて、為す術もなく
    この荒涼とした暗き世に取り残きれる時
で始まるミルトンのソネットは、イタリアから伝えられたソネット形式が、それの伝統的な主題を完全に異質なものに転じたという文学史的な価値を別にしても、甘く楽しかるべき人生の中に、失意と悲嘆を通じて全く別の意味と価値とをそこに見出した記念碑であろう。本当に意味のある事を何かしたいと心から願う人が、それにもかかわらず、成すこともなくただじっと待つより外に何一つできないとはどういうことかをこれほど切実に歌い上げた詩を私は外に知らない。恐らくこの心境は、あのダマスコの途上で盲目にされたパウロが、アナニヤの按手によって目が開かれるまでの暗い時に通じるのであろう。人は黙って待つ事を本当に知るまでは、何か本当に意味のある事ができないのでないか。この事を、ミルトンのこのソネットは教えてくれる。「ただ立って待つだけの人も又神に仕えている人」なのだということを。
 この家を管理しているクラークさんの案内で、手入れのゆきとどいた庭園を見せていただき、緑の芝生の周りに咲き乱れるバラの花を見ながら、私は、盲目の詩人が決して目にすることがなかったこの庭や野のたたずまいの中で、詩人の胸中に起こっていたことを考えていた。彼の生涯は孤独なように見えていて、内には次々と湧き上がる詩想が滾(たぎ)っていたに違いない。詩人は、そのつもる想いに言葉を与えて口述していった。年を経るに従ってミルトンの文体は、若い頃の華やかな流麗さ、皮肉や嘲笑、冗長な言い回しが影を秘めて、代わりに一言一言が、磨き上げられた珠玉のように輝いてくる。あの、能舞台のように静かで動きの少ない深みをたたえた『楽園回復』もここで想を得ているとすれば、ここの自然と、この人里離れた小さな家とが、詩人の心にそのような慰めと励ましを与えたに違いない。神は、「ただ立って待っていた」彼にも、その時を与えて下さったのである。彼が長らく待ち望んでいた「本当に意味のある事」を成しとげる時を。それは、詩人が思いもかけない仕方ではあったけれども、この詩人の名を不朽なものにした一時がここで彼に訪れたのであった。
 家を去って先ほど来た道を引き返すと、小川が流れていてベンチが置いてあった。道路に背を向けて腰を降すと、小川の向こうに牧場が広がり、その向こうに森が見える。イギリスの夏の午後は長い。坐ってまだミルトンのことを考えているうちに、イギリス人の「自由」ということに思いが向いた。ミルトンは自由のために闘い自由のためにその生涯を捧げた。だが、それは何と厳しく肩に食い込む「自由」であろう。目に見えない何ものかが人に働きかけてくる。人がその働きかけに真に「服従」しようと思うならば、彼は、それ以外の一切のものから「自由」にならなければならない。ミルトンの闘い取っに「自由」とはそういう種類のものである。この「自由」は、やがて、イギリスの近代市民社会を形成する重要な理念になっていく。イギリスの人は礼儀正しい。他人の持っているこの基本的な自由に触れないよう細心の注意を払う。私はこのような自由が必ずしも絶対的だとは思わないけれども、やはり、イギリス人のそのような一面に触れた時に、この自由のかけがえのない大切きを実感するのである。
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 ウエストミンスター寺院のすぐ傍に、あまり目立たない教会がある。名を聖マーガレット教会という。この教会が私にとって意味があるのは、ここでミルトンが、歳若いメアリー・ポウェルという女性と結婚式を挙げたからでゐる。1642年、ミルトンが23歳の時であった。ところが、このメアリーは、結婚後間もなく実家に帰ったまま久しくミルトンの下へは戻らなかった。理由は種々と考えられるけれども、要するに二人の仲があまりうまくいかなかったのは確からしい。ミルトンが議会派であったのに対し、メアリーの実家が王党派であったという事情もからんでいたのかも知れない。
 メアリーとの結婚をも含めて、ミルトンは、生産に三度結婚している。メアリーが亡くなり、ミルトンが完全に失明した後で、彼はキャサリンという心の優しい女性を妻に迎えることができた。ところが、キャサリンは、お産の後が悪く、生まれたばかりの子供の後を追うように亡くなってしまう。キャサリンとの結婚生活は、確か一年半ほどではなかったかと記憶している。その後、50歳を過ぎてから、エリザベスという3人目の妻を得ている。
 ミルトンの結婚生活は、そんな訳で、少なくとも外面的には必ずしも幸福ではなかったように見える。「外面的に」と言うのは、彼の詩の中に、詩人の充実した結婚生活を暗示する所が見えるかである。キャサリンの亡くなった後に、この「先頃結ばれた聖徒」の夢を夜の幻の中に見た時のソネットは、ミトンの彼女に抱く想いが滲み出ていて哀切一しおである。
 「純潔」をこよなく尊んだミルトンの結婚生活が、このように波乱に富んでいたのは、皮肉と言うより不思議な気がする。彼は、己れの結婚生活で得た体験を『楽園喪失』の中に織り込んだ。「織り込む」と言うよりは、天界と地獄、神とサタンに狭まれたアダムとエバをめぐって、この一組の男女の憎愛が作品全体のテーマそれ自体と言ってよいほどの重みを持つ。ミルトンは、結婚生活を外面的な形式とは考えずに、徹頭徹尾内面的に把握していたように思われる。神のみ前でアダムとエバが新鮮な愛で結はれる。やがてふたりはその結婚愛を失っていく。しかし、罪を悔い改めて、二人の間には再び新しい愛が甦るのである。
 私が聖マーガレット教会を訪れたのは、ここがメアリー・ポウェルとの結婚式の場だったからだけではない。実は、この会堂の入口の左側に、「ミルトンの窓」と呼ばれるステンドグラスの窓があるからだ。19世紀の作ではあるが、ここで式を挙げた詩人の記念碑としていかにもふさわしい造りである。
 窓は、3本の枠で縦に区切られた四つの長いステンドグラスで出来ている。が、全体が一つのまとまりを見せていて、その中央にある正方形の中に『楽園喪失』を口述しているミルトンの姿が描かれている。あのセント・ジャイルズの一室の場面である。これを囲むように、エバから木の実を受け取るアダム、楽園を追われる二人、神の前で祈る二人、地獄の中に立つサタン、などの図が配している。ステンドグラスとしては必ずしも美麗ではないが、単純でがっしりした構図はいかにもミルトンにふさわしい。なるほど、近代市民社会の基盤を形成する「純潔な愛の家庭」という考え方が、こういう所から出発したのだと、しばし会堂はそっちのけで、入口の窓ばかり眺めていた。
 入口に「写真禁止」とあったので、カメラを持っては来たが使わずにいた。絵葉書などを売りながら会堂を管理している体格の良い叔父さんに念のために聞いてみたらやはりどの窓も黙目なのだそうだ。仕方がないから、会堂の座席に背をもたれて蝕かず眺めていると、その叔父さんが一寸来いと手招きする。何だろうと行ってみると、「私が責任を取るからフラッシュをたかなければ撮ってもいい」と言い、早くやれと手で合図してくれた。私は、礼を言うのも忘れるほど嬉しくなって、主な部分だけ撮らせていただいた。こういうイギリス人の親切は何とも心がなごむ。お陰で外へ出てからもしはらく快い気持に浸っていた。
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