ウェストミンスター寺院
(1)
ロンドンを訪れた観光客が必ず見に行く所、と言うよりは行かされるあのウェストミンスター寺院のことである。テムズ河畔にそびえる「ビッグベン」と呼ばれる時計台と華麗な国会議事堂を眺めてから、その向うに側面を見せているこの寺院を目にする時、人は今自分がロンドンに居るのを実感する。ウェストミンスター街からセント・ジェームズ公園に沿って歩くと、女王陛下のいるバッキンガム宮殿に出る。バッキンガム宮殿の前から真っ直ぐに延びている広い通りを行くとスプリング・ガーデンという名は美しいがやや古めかしいアーチ型の門に出る。ここと国会議事堂を結ぶ通りに官庁が並んでいる。つまり、宮殿と議事堂と官庁街とが三角形を形成していて、寺院は、議事堂と共に、この三角形の一郭を占めている。だから寺院の位置は、イギリスという国家の一部を形成しているように見える。
この見方が決して見当違いでないことが、寺院の成立過程を知ると分かる。この寺院は、エドワード告白王が、11世紀の半ばに、ベネデイクト派の修道院として建立したと言われている。信仰厚く純粋にアングロ・サクソンの血をひく最後の王が、どういうわけで大陸のノルマン風な建築を望んだのか私には分からない。ものの本によれば、王室によるこの寺院の建立に20数年が費やされ、これが完成の1065年12月28日、寺院の命名式(「聖ペテロ聖堂」と名づけられた)の前夜に王は息を引き取ったと言う。1065年と言えば、その翌年1066年は、イギリス人にとっては忘れ難い屈辱の年となった。ノルマン(現在のフランス)によって征服されたからである。
ウィリアム征服王は、出来上がったばかりのこの聖堂で、その年のクリスマスに、イングランドの王として即位の戴冠式を挙げた。英語とフランス語の入り混じる荒涼とした式であったと言う。ノルマンの苛酷な圧政のそれは始まりであり、同時に、歴代の王が現在に至るまでここで戴冠式を挙げる最初の事例ともなった。何とも皮肉な、いかにもイギリスらしいやり方でこの寺院の歴史が始まったことになる。
国家権力と宗教との対立や和解などという劇的な舞台を、この寺院の歴史に求めようとしても無駄というものだろう。そもそもの始めから、寺院は政治と抜き難く密着し、泥まみれの歴史を耐え抜いてきた。良くも悪くも政治一筋に生さ抜いてきたイギリスにふさわしい寺院である。その後、ヘンリー三世の時に改築され、さらにへンリー七世の時に増築、ヘンリー八世の時にローマ・カトリックから独立してイングランド国教会となり、エリザベス一世の時には、どの教区にも属さない王室直属の寺院となっていた。ようやくノルマン征服の決着をつけたことになる。だから、この寺院の有り様は、歴史の趨勢に翻弄されながらおのずと出来てきた。
寺院の中に入ってみると、花環で飾られた無名戦士の墓が先ず目にとまる。墓と言っても床の上に墓碑がはめこまれているのだから、その上を歩くこともできる。「この下に、一人のブリテンの兵士、名も知られず階級も知られぬままに眠る・・・・・」という言葉で始まり、終りは「神と国王と国家と愛する家庭と帝国と聖なる正義と世界の自由のために生命を捧げた」と結んでいる。第一次大戦の時のものらしい。第二次大戦で散った空の勇士たちの碑もある。イギリスの聖堂や教会堂には大抵こういう墓碑があるが、ここは、やはり特別で、イギリスの靖国神社、それに即位式もおこなわれるから伊勢神宮でもある。実際、寺院の至る所に墓碑がある。王のがあり文人のがあり政治家のがあり、これらの墓碑の上に彫像が並ぶ。アイザック・ニュートンのもある。正に、寺院全体が、イギリスという国家の巨大な墓碑なのだ。それは、まだ生きている国が、自分の死を確実に刻み込んでいく壮麗な墓石となっている。
回廊を通り抜けて奥のヘンリー七世の礼拝堂へ行く。エリザベス一世の墓があり、同じ所に異母姉妹でカトリック教徒であったメアリー女王も居る。憎み合い殺し合おうとしたこの二人を仲良く葬るのは、イギリスらしいしたたかなユーモアを感じさせる。ラテン語の訳をものの本から写すと、「王座と墓を分かち合う我々二人の姉妹、エリザベスとメアリーが、復活の希望の下にここに眠る」とある。現実を直視した何ともしぶとい希望である。
ヘンリー七世の礼拝堂に入ると何とかいう騎士団の旗が、薄暗い堂内に古色蒼然と亡霊のように並んでいる。創立者であるエドワード告白王の墓は、どう見ても様式美に欠ける。まるで違う二つの様式、恐らくはノルマンのとルネサンスのとが、ちぐはぐにくっつけてあるのだ。これも歴史の遺物で、最初からこんな風に造ったのではない。何ともにぎやかなことである。ローマの聖ピエトロ大聖堂の壮大な華麗さはなく、パリのノートルダム寺院の内部のように、すっきりとした空間に厳かさが漂うのでもない。いかにも田舎臭い。島国というのは、大陸から種々なものが次々と押し寄せて来ては、ごちゃごちゃと溜まる所なのか、わが国のことを思い浮かべながら考えこんでしまう。良くも悪くも、この寺院さえ残れば、イギリスとはどんな歴史をたどった国であったかが後世に伝わるのではないか、そんな気がする。
(2)
ウェストミンスター寺院の中で特に私の好きな所がある。それは、南翼廊(寺院全体が十字架の形をしているから、入口から見て右の翼)にある「詩人のコーナー」と呼ばれる一郭である。真ん中にシェイクスピアのにこやかな彫像がある。その回りに、およそ英文学にゆかりのある人なら誰でも知っている作家や詩人の立像、胸像、名碑がひしめいている。靖国神社に詩人を祀るとはさすがにイギリスだと感心していたら、これも始めはそのつもりでなく、自然とこうなったのだと分かった。
言うまでもなく詩人や文人の中には、キリスト教や国教会に反対した人たちもいる。カトリックから独立してそれほど年を経ていないイングランド国教会制度を罵倒して、国王の処刑を正当化したピューリタンの一人、ジョン・ミルトンの胸像もあれば、今流に言う自由恋愛を唱えて、時の社会道徳に反発したバイロンやシェリーもいる。もっとも、バイロンなどは、さすがにそう簡単には仲間入りさせてもらえなかったようで、確か今世紀に入ってようやく祀ってもらったと記憶する。始めのうちはなかなか真理だと認めないが、時を経てほんものだと分かるとちゃんと受け入れていく。いかにも現実的で賢いやり方である。反対に、これぞまことの、とばかり早々と祀ったところ、大した者ではなかったという例もある。
ふとした機会に恵まれて、私は、この6月21日に、ここで行なわれたジョージ・エリオットの碑名の除幕式に出席することができた。ジョージ・エリオットというのは、例の有名な『サイラス・マーナー』を書いたヴィクトリア朝(19世紀)の女流作家である。なぜ彼女の除幕式が、今頃行なわれるのかと言えば、この人は、少女時代に厳しいキリスト教の薫陶(くんとう)を受けたのであるが、20歳頃からこれに反発して、フォイエルバッハの『キリスト教の本質』を訳したり、20年以上にわたって、妻のいる男性と愛の生活を貫いたりしたために、死後、彼女をこの寺院に葬ることに反対があったからである。そんなわけで、とうとう、百年余りを経た今頃、この著名な女流作家の碑名が、この寺院の床の一画にはめこまれる次第となった。
私の席は、ちょうど詩人のコーナーの片隅で、大勢の人が南北の翼廊を埋めていた。夕暮なので、シャンデリアが明々とともり、堂内には人々のざわめきを鎮めるかのようにパイプオルガンの音色が流れていた。やがて、高い十字架が、人々の頭上をしずしずと通ると、一同は起立した。主教の入場であろう。やがて賛美歌があり祈祷が続き、短い主教(ディーンというのは正確には「主教」ではないが)の挨拶があった。それから、米国のエール大学の何とかという教授のスピーチがあったが、私には、全体が、文人の碑の除幕式と言うよりは、礼拝のように感じられた。この日ばかりは、日頃生意気な文学者たちも、かしこまって神を賛美しスピーチに耳を傾けている。
形というものはある意味で恐しく強いものである。特に宗教的な意味を帯びた形はそうである。彼らが、ごく自然にこの形に溶けこんでいる姿を見ているうちに、そういう彼らにさせる力が、このウェストミンスター寺院にはいまだにあるのだという、言ってみれは当前のことが、その場の情景を通じてひしひしと伝わってきた。私は、今自分が、イギリスの教会にいるのだということをはっきりと感じさせられた。
百年以上も成仏できなかったジョージ・エリオットが、これで往生できたかどうか私には分からない。ただ、イギリス人の心情では、エリオットの件はこれでけりがついたと言えるのだろう。この女流作家を自分たちのものとして正式に認め、その名をイギリスの墓石の一隅に劾みこんだのだから。エール大学の教授の言葉を借りるならば、エリオットは、「時のキリスト教よりも厳しい道徳牲を抱いていたために、これに反発した」ことになる。形はともあれ、内実において誠実な愛を貫いたのは、「豊かな人間牲に基づく真理」であったのだ。良くも悪くも、イギリス流の真理とは、こういう仕方で発見され実践されるらしい。いかにもスローではあるが、賢く現実的な対処の仕方である。
(3)
ウェストミンスター寺院が、寺院としての本来の存在を取り戻す時、それは日曜の朝である。この日ばかりは、観光客のざわめきが礼拝堂を乱すことがない。入口で少数の人たちが拝礼を見ているだけである。参列者は、私たちをも含めてそれほど多くはなかった。少なくとも、広い会衆席の割にはそう見えた。
薄暗い堂内には、ろうそくがともり、真中の十字架を照らしていた。会衆席と聖歌隊席との間に立っている十字架である。十字架の後は、ルネサンス風のややきらびやかすぎるくらいの美しい門が仕切になっている。合唱とパイプオルガンの演奏は、その奥から響いてくる。更に奥には、司祭の入る聖所があり、その奥が至聖所となる。十字架を境にして、こちらが人間の世界であり、門の向う側が天国である。聖歌隊の合唱は天使の合唱を意味し、パイプオルガンの響きは天からの応答をとどろかせる。ゴシック建築の聖堂では、オルガンの音は、側面から天井に集まり、あの目のくらむように渦巻く天井かち下へと響くようになっている。説教壇は、側面高くに設けられて、そこから、神のお言葉が聞こえてくる。もっとも、今は、マイクを通じて、美しい英語が静かに堂内に広がってくるが。
私たちは、やや前のほうに席を取り、合唱に耳を傾けた。聖歌隊(ウェストミンスター少年合唱団)の声が、高く柔らかく堂内を包む。やがて、静かな祈りの声が響いてきた。その声に耳を傾けながら、私は、あのローマの聖ピエトロ大聖堂のことを思い、パリのノートルダム寺院のことを思い、そして、簡素で飾りをすっかり取り除いてあると聞く(残念ながら中へ入る機会がなかったので)カルヴァンが説教したジュネーブの聖ペテロ教会のことを思い、さらに私たちのささやかな集いのことを思った。それらの一つ一つは、福音が現在の自分たちのところまで到達するのに、どのような歩みをたどってきたのかを、くっきりと心に映し出してくれた。長い長い十字架のみ跡の一節(ふし)一節が、動かし難い巨大な碑となって迫り、それらの碑を結ぶみ霊の流れが、今自分の内に働いていて下さるのを覚えると、このいかめしい聖堂で語られるお言葉も祈りも、ごく自然に自分の心に入ってくるのが不思議なくらいであった。
すると、この寺院全体が、そこに飾られているもろもろの墓碑や記念碑もろとも色褪せて映り始めた。もしも、この聖堂や彫像などが、何らかの意味をこの瞬間に持つとしたら、それは、人間の一切の営みがいかに壮大で空しいかを悟らせる効果を、外ならぬこの聖堂全体がつくり出している正にその事であった。私は、パリやシャルトルの後期ゴシックの聖堂内が、なぜあのように、がらんとした巨大な石の空間と、その空間にちりばめられた宝石のようなステンドグラスだけになってしまったのかといぶかっていた。だが、そのがっしりとした石の空間は、人間の崇高な営みを誇示すると同時に、それが空洞にすぎず、外からの光に照らされた時に、始めて堂内がその意味と限界とを与えられる、そんな風に意図して造られているのではないかと思えてきた。大聖堂は、外から見ると確かに天国を指しているように見える。しかし、内部に入ると、それは、外からの光に照らされ満たされるように出来ている。
私は、改めて、イギリスとイギリス人の偉大さとは何であったかを思った。イギリス人が、一個人の責任において自由に行動し、かつおたがいにその自由を傷つけないように最大限の努力を払ってきたこと、一定のルールさえしっかりと守れば、一人一人がそのような自由を獲得することが出来る実に巧みなシステムをつくりあげてきたこと、それは、私がロンドンで暮してみて、事あるごとに体験させられた。この国では、いかに多くのことが個人の責任と自由にゆだねられてきたかを。とにかく、日本を含めた世界全体が、いまだに、この国が先鞭をつけた自然科学と産業革命、個人の尊厳と議会制民主主義の延長線上にあって、これに代わる決定的な価値観を見出しえないでいる。
合唱の声と祈りの中に身を置いているうちに、イギリスのもう一つの裏面が映し出されてくるのが見えた。その植民地主義、巧妙な政策と苛酷な搾取、抜き難い人種差別に基づいた大英帝国の姿である。先に述べたイギリス人のすぐれた資質が、これらと結びついて、このちっぽけな小国民が、16世紀以来、世界を一周りする広大な植民地帝国を築くという驚き呆れる事実が歴史に起こった。ちょうど、小さな都市にすぎなかったローマが、一大帝国をつくりあげたのと似ている。
イギリスの偉大さ、それは、案外、偏狭なナショナリズムと征服欲、巧妙な政治力と苛酷な植民地政策、これらを支える金融資本の力ではなかったのか。しかし、イギリスがこれだけ大きな役割を歴史の中で演じることができるためには、これに先立つ産業技術、さらに、国民の力を発揮させる政治思想、そして、これらすべてに先立つ宗教改革がなければならなかった。キリスト教は、イギリスの思想的、技術的、経済的な優位を生み出す力となりながら、この大英帝国を築く精神的な支柱となってきたのだろうか。それとも、イギリスのナショナリズムも植民地主義も、キリスト教によって、それらの偏狭と苛酷さを克服されたからこそ、あのように長い間、世界を支配することができたのだろうか。そんなことを思った。
寺院の内部が、なくもがなの様々な夾雑物で一杯なのに、それでも、こうして祈りの声と賛美の歌声に包まれると、そこが神のみ霊の働く場所となり、寺院全体がそのためにつくられ存在していることが明らかにされる。合唱隊の歌声は、いまだに優越意義を捨てきれないまま没落を続けるイギリスへの挽歌のようにも、又、この国が、ヨーロッパの一小国としての己れの位置に目覚め、その長い伝統の中から再び活力を取り戻す希望の歌声のようにも響いてきた。
(4)
ウェストミンスター寺院が、何の制限もつけずに一般に解放される夕辺が週に一度ある。水曜の夕方6時半からである。この時はカメラ撮影が許される。フラッシュを炎くのも自由である。それでも、人の多い割には静かで、時折カメラのフラッシュが光るだけで全体の静けさは乱されない。パイプオルガンの音色が流れてくる。イギリス人がほんとうに偉いと思うのはこういう時である。この自由な雰囲気と人々のひかえ目で礼儀正しい振舞は、恐らくイギリス以外では味わうことができないであろう。
私は、大聖堂の右に付いている回廊のほうへ足を向けた。「付いている」と言ったが、実は、この回廊だけが、この寺院が聖ペテロ聖堂として建立された当時の修道院の跡を留めている。古びた石柱と、これも古くなった天井の間に広がる薄暗い回廊は、私をいきなり11世紀の修道院に引き戻してくれた。すると、回廊の縁に沿って設けてある石の座席の下に、顔も姿もすり減った人の姿が横たわっているのに気がついた。明らかにその下に眠る修道士たちの墓石である。よく見ると、1080年とあり、又、111?年とあるから、この寺院が建てられた頃に亡くなった人たちのものであろう。誰も顧る者がいないままひっそりとベンチの下に横たわるこれらの墓石を見ているうちに、改めて、この人たちの祈りと献身、彼らの信仰のことを考えずにおれなくなってきた。座席の上方には、第二次大戦で亡くなった陸海空の兵士の像と追悼の石碑がある。イギリスの植民地で任に当った大英帝国の役人たちの碑もある。座席の上と下とのこの奇妙な組み合わせは、私に改めてイギリスの墓石としての寺院の有り様を考えさせた。
ここに眠る修道士たちは、ノルマンの苛酷な圧政も、ヘンリー八世の気まぐれも、イングランド国教会の成立も、この寺院で即位した数々の王の権謀術数も、帝国の植民地政策も、二度にわたる大戦も、現代のイギリスの没落も、何一つ知らずに眠りについた。恐らくは、ひたすら神を信じ、この寺院が神に用いられ神の栄光をあらわす場所となるのを信じ望みながら。イギリスの歴史そのものを具現するこの一大石碑は、これを飾る数々の、王侯、武人、文人、科学者、政治家たちの碑銘をまといながら、これら修道士たちの墓石の上に建っている。本堂から離れたこの一隅には、歴史の騒乱も及ばなかったかのように、彼らは、いつまでも静かに横たわっている。北アイルランドが南と合併されようが、スコットランドが自治権を得ようが、依然として、これからも刻まれていくであろうイギリスの歴史の堆積を彼らは根底で支えている。
私は、改めて、歴史とこれを支える信仰とは何かを、この回廊の一隅で考えざるをえなかった。ここに眠る修道士たちの信仰と祈りが、この石碑が寺院として現存する有り様の出発となった。もしもこの人たちが居なかったら、イギリスの歴史は、良くも悪くもこういう形では残らなかったはずである。信仰という純粋に無形な営みが、このように巨大な具象を生み出すその強靱さに目を開かれる思いがする。ウェストミンスター寺院は、イギリスという国家と国民が成し遂げた業とその価値とを象徴している。この寺院は、後の世までも、イギリスを語りイギリスを伝えていくのだろう。私は回廊の格子を通して見える国会議事堂を眺めながら、宗教というものの持つ不思議な力を考えていた。
イギリス紀行へ