神聖なるもの
         京都集会(2021年11月27日)
   エフェソ人への手紙1章4節に、「キリストにある聖なる愛」に生きなさいとありますから、「聖なるもの」について語ります。
(1)
絶対に犯したり汚したりしてはならないもののことを「神聖なもの」、あるいは「聖なるもの」と言います。エフェソ5章21〜33節の「結婚愛」もその聖なるものの大事な一つです。ここで言う「結婚愛」とは、法律に縛られたいわゆる「結婚制度」のことではありません。「結婚愛」は「愛」ですから、強制しても生まれません。愛は自由な心の中にしか育ちません。だから、結婚<しない>自由がなければ、結婚する自由は存在しません。結婚しても、離婚する自由がなければ、結婚愛を追求して育てる自由は生まれません。「スル自由」は「シナイ自由」と表裏一体だからです。悪い言論を認めなければ善い言論の自由が生まれないのも同じ理由からです。「理性」にも「自由」にも、良い理性と良い自由、悪い理性と悪い自由とがあります。結婚愛は、神から出る「聖なる自由」から生まれますから、これを犯したり汚したりする者は、その身に災いをもたらし、周囲にも災いをもたらします。
(2)結婚愛はなぜ神聖なのか? それは、男と女が一つ心になることが、人間には不可能だからです。男と女は本質的に異なるからです。ところが、イエス・キリストを心から信じる夫婦は、一つ心、一つ霊となり、二人は、霊肉共に一体になることができるのです。人にはできないことでも神にはできるからです。イエス・キリストにある夫婦愛は、死に勝つ力をその夫婦にもたらします。エフェソ5章21〜33節は「この大いなる神秘」について証ししています。このように、人にできないことを成し遂げてくださるのが神の御霊のお働きです。この働きは「聖なる働き」ですから、結婚愛をもたらすイエス・キリストの霊のことを「聖霊」と呼ぶのです。神は、人にはできないことを成し遂げるから「聖なる方」であり、三位一体の神の霊は「聖霊」と呼ばれるのです。コイノニア会もこのような聖なる結婚愛を大事にしています。こういう結婚愛を日本に導入したのは、明治期の賀川豊彦や救世軍の山室軍平、それに、内村鑑三の弟子で、ミルトンを訳した藤井武たちです。
(3)日本では、親子の情は自然であると言われますが、実の親が自分の幼子を殺す事件が頻発している昨今の状況を見れば、親子と言えども、その情愛は「人に自然に具わる」とは言えません。親と子も、やはり本質的に異なりますから、一つ心になることは、人には不可能な場合があります。親子が一つ心になるとすれば、それは、親子関係を定めた神の聖なる働きよるほかありません。エフェソ6章1〜4節はこのことを証ししています。
(4)この世では、社会の身分や職業において、支配する者とされる者とが居ます。支配者と被支配者は、利害関係が異なりますから、心から一致するのは不可能です。人にはできないこの両者の心からの一致ができるとすれば、聖なる神のお働きによるほかはありません。エフェソ6章5〜9節はこのことを証ししています。
(5)同様に、国家の場合でも、国の民が一つ心になるためには、国家権力を持つ者と持たない民とが、イエス・キリストの聖霊にあって、一つ心になるほかに、為政者と民とが一致することはできません。国の平和は、人ではなく神の聖なる力無しに成り立たないのです(エフェソ1章20〜23節)。
(6)異なる民族から成り立つ国家同士が、一つ心にされて平和を達成することは、人間には不可能です。それが成就できるのは、聖なる神の聖なるお働きによるほかありません。エフェソ1章20〜23節にあるとおりです。
(7)最後に、宗教的な違いを克服することも人には不可能です。エフェソ4章2〜7節にあるとおり、信仰が違う者同士を一つ心にするのは、聖なる御霊のお働きだからです。そこに啓けるのは、驚くほど深くて広い聖愛の世界ですエフェソ3章16〜19節
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