9章 鮮新世と更新世
■猿から人へ
一口に「猿から人へ」と言っても、そこには(1)初期猿人、(2)猿人、(3)原人、(4)旧人、(5)新人の5段階の発達過程がある。
初期猿人の期間は、サヘラントロプス・チャデンシス(700万年前)からアルディピクテス・ラミダス(約440万年前)までで、猿人の期間が、アウストラロピテクス属(およそ390万年前〜250万年前)の時代である。原人は、ホモ・ハビリス(約200万年前)の頃からホモ・エレクトス(190万年前〜50万年前?)の時代に渡る長い期間であり、旧人は、ホモ・ハイデルベルゲンシス(およそ70万年前〜30万年前)とホモ・ネアンデルタレンシス/ネアンデルタール(30万年前〜4万年前)である。ホモ・ハイデルベルゲンシスから、およそ60万年前に、「新人」と呼ばれる現生人類のホモ・サピエンスの祖先が分岐して出たと思われる。ホモ・ハイデルベルゲンシスからは、さらに45万年ほど前に、ネアンデルタール人が分岐するのであるが、その分岐の際に、ネアンデルタールと共に、デニソワ人も分岐したようである〔『地球46億年の旅』40号23頁を参照/さらに、篠田謙一『人類の起源』中公新書(2022年)9〜26頁/38頁に準拠〕。
■初期猿人
800万年前頃、アフリカ大陸は、地球の冷却の影響を受けて、森林から、よりまばらな疎林(そりん)と草原へ変貌した。最初期の猿人は、猿仲間(類人猿)と同様に木の上で生活していたが、森林の減少に伴い、果実などの食物獲得で、生存競争に負けて、森から草原へと降り立つことになったのかもしれない〔『地球46億年の旅』40号10頁〕。現在知られている最古の猿人の遺骨は、フランスの考古学者ミシェル・ブリュネが、それまでアフリカ東部に集中していた初期猿人の遺骨をアフリカ中央部のチャド(トロスメナラ遺跡)で発見したものである(2001年)。これがサヘラントロプス・チャデンスで、約700万年〜600万年前の遺骨である。サヘラントロプスの脳の容積は現在のチンパンジーと同じほどだが、チンパンジーよりも目の上に盛り上がりがあり、それまでの類人猿に比べて犬歯が退化していた。何よりも、背骨で支えられる頭蓋骨の後頭部の孔が、人類に近く下向きであることが、直立した二足歩行を始めたことを表わしている。
従来の類人猿と比較すると次の特長がある。
(1)頭骨の孔が中央に近い(猿は後ろにある)。
(2)骨盤が広く二足で体重を支えることが出来る。
(3)大腿骨が膝から下で、真っ直ぐ下ではなく内側に傾く。
(4)足指では、猿のように親指が他の指と離れていて枝を掴むのに有利な形状ではなく、足の親指が他の指と並んでいる。
〔『地球46億年の旅』40号12〜13頁〕
ただし、まだ土踏まずはなく扁平足だから長距離の歩行は出来ず、木の上の生活と地上歩行の両方によって、草原の暮らしと二足歩行への進歩を開始した段階であった。
初期猿人では、次にアルディピテクス・ラミダス(450万年〜430万年)がいる。ラミダスも、木の上で生活できる枝を掴む長い手の指や柔軟な関節を持っていたが、手のひらは猿より短く、枝を伝って自由に動くことができなかったようだ。疎林の上での生活が主であったが、時々地上に降りていたらしい。ラミダスは他の類人猿のように、雌をめぐって雄が争った形跡がない。このことは、雄が雌に多くの食料を供給することで配偶関係が成立していたことを示すもので、このために、両手に果実をかかえて、直立二足歩行で離れた距離から果実を運ぶことができた。
■猿人
猿人を代表するのは、アウストラロピテクス・アファレンシスである(370万年〜300万年前)。アファレンシスはアフリカのタンザニアのラエトリ遺跡などで多くの化石が見つかっている。とりわけ、女性の個体が見つかっていて、彼女は「ルーシー」と呼ばれている。アファレンシスの体重は35〜55キロで、脳容積は400〜500立方センチ、同じ体重ながらチンパンジーの脳容積は350立法センチである。小臼歯と大臼歯が大きいから、噛みつぶす力の必要な固い食物を食べていたことが分かる。足の裏に土踏まずができているから、直立二足に適応してきたが、長距離を歩くのはまだ無理であった〔『地球46億年の旅』40号18〜19頁〕。
アファレンシスの猿人時代は400万年前から100万年前までと長期間で、この間にアファレンシス直系のアウストラロピテクス・ガルヒ(250万年〜230万年前)がいる。彼は身長130センチくらいで脳容積は420〜450立方センチである。猿人のガルヒは、石器を用いて動物の死体を解体したことが分かっている〔『地球46億年の旅』40号22頁〕。この流れからさらに分岐した猿人アウストラロピテクス・アフリカヌスやアウストラロピテクス・セディバなどがいるが、彼らは絶滅してしまう。
だから、初期猿人から旧人への人類の進化は、直線的な一本の線ではなく、数本に枝分かれした系統樹となる〔『地球46億年の旅』40号20頁〕。
■原人
原人を代表するのはホモ・ハビリス(240万年〜160万年前)とホモ・エレクトス(180万年〜4万年前)である。彼らは腕に比べて脚がかなり長く、現代人並みの身長160センチ以上であり、土踏まずも発達して、長距離の歩行が可能になっていた。ハビリスの脳容積は500〜800立方センチである。現在の人類ほどの容積ではないが、手先も器用であり、道具を使ったと思われる。このホモ・ハビリスは、先に枝分かれしたセディバやボイセイなどの猿人と同時に生きていたことになる。ホモ・エレクトスは、別名ホモ・エルガスターとも呼ばれ、しばしば、ほぼ同時代にアフリカで暮らしていた別系統のホモ・ロブストス(前200万年〜120万年)と比較される。ホモ・ロブストスは背丈がやや低く、ずんぐりした丸顔であったのに対して、ホモ・エレクトスは背丈が高く面長であった。両者の最大の違いは、地球の気候変動によって食料が減少した時に、ホモ・ロブストスは木の根を食べることで生き延びようとしたのに対して、ホモ・エレクトスは野獣が食べ残した動物の肉を漁ることで肉食へ向かったことである。この結果、ホモ・エレクトスのほうが生き延びることができたが、ホモ・ロブストスは絶滅することになった。ホモ・ハビリスからホモ・エレクトスにいたる段階で、自然発生の火の利用から人工で火を燃やす方法を編み出すという過程があったという説がある。後にネアンデルタール人が行なったように、貝殻などで身を飾ることができただろうか? 後にホモ・サピエンスが行なったように、両手でリズムをとって両足で飛び跳ねることで踊ることができただろうか。顎の骨は複雑な音声を発することができたから、両手を打って拍子を取り、声を合わせて歌い、踊ることで霊的なトランスに陥り、複雑な心象を象徴的に思い浮かべることができるようになっただろうか。よく分からない。
■南北アメリカ大陸つながる
新第三紀の鮮新世(533万年前〜258万年前)の時期に、地球では大きな変動が生じた。南北のアメリカ大陸がパナマ地峡を通じてつながったことである。北アメリカ大陸は、ベーリング海付近でユーラシア大陸と陸続きになっていたから、これでアフリカからアジア大陸と南北アメリカ大陸が陸続きになった。
このために、北アメリカから南アメリカへ入り込む動物と逆に南から北へ向かう動物たちで出ることになり、北から侵入した長い牙を持つ豹に似たスミロドンに南のナマケモノ類の巨大なメガテリウムが襲われる場面も起こる事態になった〔『地球46億年の旅』41号4〜5頁〕。北からの侵入者には、ジャガーや馬に似たヒッピディオンや象に似たステゴマストドンなどがおり、南米では、これら外来の侵入者に捕食されて絶滅する種が出る一方で、南から北へ進出することで生存して進化を遂げたアルマジロやアメリカヤマアラシなどもいる〔『地球46億年の旅』41号12〜13頁〕。
この時期、ゾウ類が、アフリカからヨーロッパへ、また東へはアジア大陸の北部から日本にいたるまで広がり、さらにベーリング海を通って北アメリカから南アメリカにいたるまで広がった。シベリアから北アメリカにいたるマンモスや日本にいたナウマンゾウなど多様なゾウ類が存在していたことになる〔『地球46億年の旅』41号16〜17頁〕。
■地球の寒冷化進む
鮮新世に生じたもう一つの変動は、地球の急速な寒冷化である。白亜紀から古第三紀の始新世にかけて、地球は暖かかった。しかし、5600万年前の曉新世の頃を境に地球は寒冷化に向かい、3400万年前からは、南極大陸に氷床が発達した。鮮新世の260万年前頃からは、急速に寒冷化が進み、約2万年前の最終氷河期には、地表の約3割が氷床で覆われることになった〔『地球46億年の旅』41号18〜21頁〕。2万年前には、北欧、北米、南米の南部で、氷床の厚さが3000メートル〜4000メートルもあった。
寒冷化の原因は複雑で、地球の離心率(太陽をめぐる地球の軌道が円形から楕円形に周期的に変わる)、地球の自転軸の傾き角度の周期的変動、さらに地球の自転軸そのものが回る駒のように円を描く歳差などが重なって、太陽熱を受ける度合いが変化することが気候変動の原因だと考えられている。この理論は、セルビアの地球物理学者ミルティン・ミランコビッチ(1879年〜1958年)によって理論化されたが(1910年)、1950年代に発達した酸素同位体比測定によって、彼の理論が正しいことが実証された〔『地球46億年の旅』41号20〜22頁〕。
■マンモスの繁栄と絶滅
75万年前から1万年前ほどの更新世の期間で、特に最終氷河期の7万年前〜1万年前は、寒冷な氷期と温暖な間氷期とが小刻みに交代で変動した。この時期、ゾウがアフリカから始まって、西はヨーロッパへ、東はアジアの中国北部へ、さらに日本へ(ナウマンゾウ)、またシベリア(ケナガマンモス)を経由してアラスカから北米へ(コロンビアマンモス)、そして南米へと拡がった。ケナガマンモスは、1メートルもの毛で覆われ、発熱を防ぐため耳は小さく、巨大な牙をもっていて、寒さに適応していた。当時のシベリアは、現在とは異なり、1万キロにも及ぶ広大な草原が拡がっていたから(「マンモスステップ」)、1日200〜300キロもの植物を食料とする巨大なマンモスを養うことができた〔『地球46億年の旅』44号12〜13頁→ここでは号順が変更しています〕。しかし、このように繁栄したマンモスも最終氷河期が終わると姿を消すことになった。
■大型哺乳類の絶滅
1万年前には、ヨーロッパにもマンモスを始め、巨大な角を持つオオツノジカ、猫科で最大級のホラアナライオン、毛の生えた犀などの大型哺乳類がいたことが、スペインのアルタミラ洞窟などヨーロッパに遺る洞窟の壁画から分かる〔『地球46億年の旅』44号26〜27頁を参照〕。 ところが、最終氷河期の末期には、これら大型の哺乳類が絶滅することになる。アメリカ大陸で76%、ヨーロッパでは60%、オーストラリアでは86%もの大型の哺乳類が絶滅した。原因はいまだよく分からないが、一つには、現生人類によって捕獲されたための「過剰殺戮説」(1967年アリゾナ大学古生物学者ポール・マーティンによる)がある。人類が北米大陸に渡った時期とアメリカの大型の哺乳類の絶滅が重なるからである。これに対して、小刻みで急激な気候変動によって、シベリアでは広大な草原が喪失して、現在の針葉樹の森で覆われる結果になったなど、環境に対応できなかったからだという説もある(気候変動説)。これら両説を併合した見方やウイルス説もあるが、巨獣たちがなぜ消えたのか、今もって謎である〔『地球46億年の旅』44号24〜25頁〕。
■ホモ・エレクトス
わたしたちは、最終の氷河期である更新世(258万年前〜117万年前)の後期から最後の完新世(117万年前〜現代)の初期に入ることになる。700万年前から、アフリカには、サヘラントロプスやアウストラロピテクスなどの猿人が出現し、滅んでいった。類人猿から分岐したこれらの猿人は500万年もの間アフリカに留まり続けて、猿人から原人へと進化した。ホモ・ハビリスからホモ・エレクトスの出現までが、原人の時代である(ほぼ200万年前〜100万年前)。そして今から190万年前頃、原人ホモ・エレクトスが出現し、アフリカから出て、カスピ海西岸のドマニシ(現在のグルジア)へ、さらに中国の北京原人やインドネシアのジャワ原人へと進化して広がった。これらの原人を総称して「ホモ・エレクトス」(190万年前〜4万年前)と呼ぶ〔『地球46億年の旅』42号11頁〕。
ホモ・エレクトスの出現は、現在のアフリカのエチオピアとケニアの境界にあるトゥルカナ湖の周辺で180万年前のことである。これの発見は1984年に160万年前の10歳前後の少年のほぼ完全な遺体の化石が発見されたことに始まる。ホモ・エレクトスは、体型的には猿人と旧人の中間にあり、背も高くなり二足歩行で、火を使用し、それまでよりもはるかに鋭く削った石器を使用していた。特に注意したいのは脳の容積で、猿人(370万年前〜300万年)では385〜550ccであったのが、原人のホモ・ハビリス(240万年前〜160万年前)では600〜700ccへ、ホモ・エレクトスでは1100〜1300ccになる。ちなみに、チンパンジーの脳容積はほぼ350ccで、現在のホモ・サピエンスのそれは1000〜2000ccである〔『地球46億年の旅』42号24〜25頁〕。
ホモ・エレクトスは、鹿やダチョウやキリンや馬を捕らえて、その鋭い石器を使って肉食することを知っていた。このことが、脳容積が大きくなったことと関連すると考えられている。このため、植物と動物の両方にわたる食物選択の幅が広がることになった。ただし、肉食の人類もまた、他の肉食猛獣の餌食にされたのは言うまでもない。彼らは、おそらくより広範囲な食物を求めて、アフリカを出て、ヨーロッパと東北アジアと東南アジアに進出することになった。ただし、このホモ・エレクトスは、4万年前に姿を消す。現在のホモ・サピエンスが、このホモ・エレクトスから進化したのは間違いない〔『地球46億年の旅』42号16〜18頁〕。
およそ700万年前の初期猿人(サヘラントロプス・チャデンシス)から、実に600万年以上もの期間を経過して、およそ60万年前に、旧人(ネアンデルタール人とデニソワ人)と新人(ホモ・サピエンス)とが分岐した〔篠田謙一『人類の起源』中公新書(2022年)61頁の図を参照〕。その全期間は、新生代の中期である新第三世紀の後半の「鮮新世」(533万年前〜258万年前)から新生代後期の第四世紀の前半「更新世」(258万年前〜1万1000年前)までである。
このように、今からおよそ70万〜60万年前に、ホモ・エレクトスからホモ・ハイデルベルゲンシスと呼ばれる旧人が出現した。この旧人の期間は、およそ70万年前から30万年前までだろうか。ホモ・ハイデルベルゲンシスは、1100〜1300ccの脳容積を持ち、貝殻で身を飾り、体に紋様を施したり、死者を埋葬する儀式を行なったりしたから、やや現在のわたしたちに近い。ホモ・ハイデルベルゲンシスは、ネアンデルタール人とデニソワ人、ホモ・サピエンスの共通の先祖だと考えられている。ホモ・ハイデルベルゲンシスから、およそ60万年前に、ホモ・サピエンスが分岐し、ホモ・ハイデルベルゲンシスから約45万年前に分岐したのが旧人のホモ・ネアンデルタレンシス(ネアンデルタール人)とデニソワ人である〔篠田謙一『人類の起源』61頁の図〕。ネアンデルタール人は、抽象的な思考もでき、天然のアスファルトを用いて石器の槍を作り、顔料で体に模様を施したり、貝殻で身を飾ったりしていた。その平均の脳容積は、ホモ・サピエンスよりも大きく1500ccあったと言われている〔『地球46億年の旅』42号22〜23頁〕。ホモ・サピエンスに比べると、身体がより頑強で
、脳もより大きかった。ネアンデルタール人は、主として現在のヨーロッパを中心に、親族単位の比較的小さな集団(最大でも20人くらい)で、その頑丈な身体の能力を活かして、大きな動物を狩ることで暮らしていた。しかし、寒冷の時代になって、次第に獲物が少なくなり、最期は、ジブラルタルの洞窟にこもっていたが、絶滅した。近年、現生人類の2〜3%に、ネアンデルタール人の遺伝子が確認されているから、ホモ・サピエンスとの間に交配が行なわれたことが分かってきた(5万年前くらい?)。
■人類進化の樹
現在のわたしたちホモ・サピエンスを頂点として、その進化の過程を逆にたどるなら、ホモ・サピエンス→ホモ・ハイデルベルゲンシス→ホモ・エレクトス→ホモ・ハビリス→アウストラロピテクス・ガルヒ→アウストラロピテクス・アファレンシス→アウストラロピテクス・アナメンシス→アルディピテクス・ラミダス→アルディピテクス・カダバ→サヘラントロプス・チャデンスという進化の幹が見えてくることになるだろうか? しかし、アウストラロピテクス・アファレンシスあたりから、別の系統へさらに二つに枝分かれした種族がいた。幹の根元に近くなるにつれて、進化の分岐の系統があいまいになるのは仕方がないだろう。それでも人類の進化だけで、大きな「進化の樹木」を形成しているのが分かる。『地球46億年の旅』40号23頁では、全部で17種のホモの名前がでているが、これとは多少異なる形で27種もの名前がでている人類の系統図もある〔チップ・ウォルター『人類進化700万年の物語』長野敬/赤松真紀訳(青土社)31頁〕。
■旧人の絶滅
ネアンデルタール人は、ホモ・ハイデルベルゲンシスと並ぶ「旧人」に属する。現在のジブラルタル半島南端のゴーラム洞窟で、約2万8000年前にネアンデルタール人の小集団が暮らしていた。ところがこの時期、そのほかの地域には、ネアンデルタール人の姿はすでに亡かった。彼らの生息地の比較的南のこの洞窟は、氷河の影響が小さかったからで、海に面して魚を捕り、アスパラガスなどが自生する自然が拡がっていたからであろう。
彼らの化石は1856年に発見されたが、彼らは埋葬を行ない、顔料で体に装飾を施し、細かい手の込んだ工芸品(動物の骨で作った小さなネックレス用の加工品)を生みだしていた。現生人とネアンデルタール人とを比較すると、彼らはずんぐりしていて、がっしりした体格であった。もしも彼らの一人が背広を着て椅子に座っていたら、人々はそれとは気づかないだろう。現生人とのDNAは99.7%まで同じだからである。違いがあるとすれば、ホモ・サピエンスに比べてネアンデルタール人は、芸術面で劣り、長距離の交易が不得手で、針を作ることができず、男女の仕事の分担がホモ・サピエンスほど明確ではなかったことであろう〔『地球46億年の旅』44号19頁〕。しかし、彼らの遺物を見る限り、現生人と知性にそれほどの差は見られない。
彼らは、現在のヨーロッパ中部からアラビア半島、カスピ海の東部から中央アジアの辺りまでに拡がっていた。この人たちがなぜ絶滅したのかもいまだに謎である。現生人とのほんのわずかの差が、致命的な結果をもたらしたと考えられる。体格の違いが、気候変動にうまく適応できなかったこと。狩猟を主としたネアンデルタール人にとって、大型の哺乳類の絶滅は死活問題だったとも考えられる。ホモ・ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの最大に違いは、ホモ・サピエンスの喉の上部の骨が湾曲しているのに対して、ネアンデルタール人のそれは、チンパンジーと同じく平らであること。さらにもう一つ、喉仏の位置の違いにある。ネアンデルタール人の喉仏はチンパンジーなどと同じく比較的高い所にあるが、ホモ・サピエンスの喉仏は、それよりも低い。したがって、上部の湾曲した骨とより長い咽喉を通して、より複雑な音声を発することができた。この「ことば」の発達は、気候変動に伴う狩りの動物の移動時期を予測したり、これを知らせるために有利であったと考えられる。2010年にクロアチアで発見されたネアンデルタール人の化石のDNAを解析すると、ホモ・サピエンスの非アフリカ系の人類には、1〜4%ほどネアンデルタール人の遺伝子が受け継がれていることが分かった。両者は、10〜5万年前に交配が生じたと考えられる〔『地球46億年の旅』44号20〜21頁→この部分は号番号の順序が変更されています〕。
■ホモ・サピエンスの出現
わたしたちはここで現生人類(ホモ・サピエンス)にたどり着くことになる。700万年前に、アフリカでチンパンジーから分岐(進化)した類人猿から、猿人を経て、原人へ、そして数十万年前から人類の創造性が徐々に高まり、原人と旧人(特に60〜20万年前のホモ・ハイデルベルゲンシス)の段階を経て、約60万年前にホモ・サピエンスが誕生した。その発祥地として、現在のエチオピアとソマリアとエリトリアの境にあるアファール盆地があげられている。ここで16万年前のホモ・サピエンスの化石が発見された。さらに南アフリカ共和国の南部のブロンボス洞窟では、10万年前〜75000年前のホモ・サピエンスの遺物が発見されている。ホモ・サピエンスの遺物と化石は、主としてアフリカ東部のヘルムやムンバ洞窟(エチオピア)とアフリカ大陸南端のブロンボス洞窟周辺と大陸の西北テマラ周辺(モロッコ)で発見されれている〔『地球46億年の旅』43号10頁〕。ヘルトで発見されたホモ・サピエンスは、脳容積が1450cm立方で、現代人よりもやや大きく、小集団で生活し、火の使用はもとより、調理用の炉や多種多様な道具(左右対称の石器や先の鋭いヤジリ)を使用していた。トナカイの角で作った投げ槍(1万7000〜1万3000年前)や粘土の土器(1万2000年前)や動物の骨の縁に溝を掘り薄い黒曜石の刃を付けたナイフなどが見つかっている〔『地球46億年の旅』43号26〜27頁〕。
しかし、近年(2020年頃)では、
ホモ・サピエンスは、アフリカで誕生したものの、寒冷期と温暖期が交代を繰り返した長い時代に適応するために、ホモ・サピエンスの実際の進化の過程は複雑で多様であったことが分かってきた。ごく大雑把に見るなら、アフリカで誕生したホモ・サピエンスは、20万年前に二つに分かれて、一方は、アフリカの南部から、東のアラビア半島南部を経由して、中央アジアとインドへ渡り、そこからさらに南北に分かれて、北はシベリアの東部へ、南はインドからインドネシアへ移住した言ったと考えられている〔篠田謙一『人類の起源』113頁図表を参照〕。
現在のパレスチナの地域では、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスとが長らく共存していたと考えれる。ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの体型的な違いでは、身長は旧人のほうがやや高い(152センチ〜168センチ)。旧人には顎の下の「おとがい」がない。旧人の肩幅はやや広く、骨盤も大きく、足指も幅広く長時間の移動に適している。これに対してホモ・サピエンスは、全体としてほっそりと華奢である〔『地球46億年の旅』43号12〜13頁〕。しかし、ホモ・サピエンスの身体の弱さこそが、家族単位から、さらに多くの集団を生み出し、シベリアでは、4000人ほどのホモ・サピエンスの集団が暮らしていた痕跡が発見されている。だから、ネアンデルタール人に比べると、ホモ・サピエンスの脳は、社交性を司る前頭葉が発達している。ネアンデルタール人の道具は、何万年もの間ほとんど進化しなかったのに比べて、ホモ・サピエンスの道具は急速に進化を遂げている。これも、一人の独創的な発明が直ちに集団全体に伝わるシステムのお陰であろう。また、食料が乏しい時には、互いに助け合うことも可能であった。ところが、この社交性は、同時に、相互の殺し合いをも生じさせる原因になった痕跡が発見されている。ホモ・サピエンスには、宗教的な相互扶助の絆と同時に、おそらく、その集団と社交性のゆえに、集団的な殺人という
真逆の矛盾をも抱える存在となった〔NHKBS1の人類の進化に関する3回シリーズ(2018年12月17日?)〕。
■絶滅の危機
かつて、ホモ・サピエンスは世界中に広く分散して、それぞれ特有の進化を遂げたと考えられていたが、最近では、そうではなく、現生人類のルーツはアフリカのサハラ砂漠より南の地域に集中していたことが分かってきた。このことは、現生人類も、それ以前の多種多様な人類と同様に、地球の寒冷化によって絶滅寸前に追い込まれて、南アフリカの南端の洞窟にこもっていたことが発見されている。最小期には、1万人ほどであったと考えられている。ホモ・サピエンスの進化の歴史は、その弱さやその無力さを補うための道具の発達や社会性の発達など、逆転に次ぐ逆転によって、不思議に支えられてきたことが分かる。
現在ゴリラは11万ほどしかいないが、現生人類は70億を超える広がりを見せている。かつて、これほど多数が生存した生物の種は地球上に存在しなかった。ところが、現生人類は、そのDNAのルーツが驚くほど狭く限られていて、ごく少数の生存者から現在のホモ・サピエンスだけが生き残ったことを示している〔『地球46億年の旅』43号16〜17頁〕。
その危機は7万5000年前にインドネシアで起こったトバ火山の大噴火が原因で、地球が火山灰と塵のために6年間以上も寒冷化(気温はそれ以前より10度〜15度も低下)したことが最大の原因で、これの影響を受けて植物が枯渇し、極度の食糧難に陥ったと見られている。推定では、アフリカのホモ・サピエンスは、1万人以下まで落ち込んだ可能性がある〔『地球46億年の旅』43号16〜17頁〕。この寒冷化は6600万年前に恐竜の絶滅を招いた隕石の落下にも匹敵する状況だった。現生人類の先祖がアフリカだけに集中しているのはこのためだと考えられる。
■現生人類の拡散
7万5000年前、アフリカ大陸の片隅でかろうじて生き延びた現生人類は、そこからアラビア半島を経由して西はヨーロッパへ、東は中央アジアから中国へ、別の一隊はシベリアへ、さらに、ほぼつながっていたベーリング陸橋を伝ってアラスカからカナダへ、そして南米大陸へいたった(1万5000年前)。中国へ来た人類は、アフガニスタンを経てインドへ、そこから南下して、当時陸続きであったマレー半島を経由して、オーストラリアへいたっている(4万500年前)〔『地球46億年の旅』43号24〜25頁〕。日本列島へは、東南アジアから4万年ほど前に渡ってきた縄文人(その名残がアイヌ民族)と1万年ほど前に北東アジア(モンゴル)から来た弥生人の2段階説が有力である〔『地球46億年の旅』43号34頁〕。
■ホモ・サピエンスの生態
暗い洞窟の中にたき火が灯り、これに照らされて祖父と夫婦と3人の子供のホモ・サピエンスの家族の姿が描かれた絵がある。全員全裸で、母は小さな丸い貝のビーズで首飾りを作り、父は顔に紋様を描くための顔料を小さな貝殻の中でこねており、祖父は、長方形の赤い酸化鉄の石に何かを象徴する幾何学的な線模様を刻んでいる〔『地球46億年の旅』43号4〜5頁〕。これは7万5000年前のアフリカの南端にあるブロンボス洞窟の中の想像図である。
地球の極度の寒冷化で、旧人を始め原人や猿人から分岐(進化)し、人類の様々な種族が死に絶える中で、ホモ・サピエンスの一団(1万にも満たないほどの)だけが、かろうじてアフリカ大陸で生き延びたのである。その極度の危機の中で、彼らは「文化を創造する」ことを学んだ。これが彼らをして生き延びさせ、現在の地球を覆うほどの単一なホモ・サピエンスが繁栄を極めている理由である。
道具と火の使用はすでに210万年前の原人ホモ・ハビリスの頃から始まっていた。貝殻や紋様で身体を飾り言語を発達させ、死者を葬ることは30万年のネアンデルタール人がすでに行なっていた。だから道具も火も言語も死者を弔う祭儀も、ホモ・サピエンスは熟知していた。チンパンジーから進化したとは言え、遺伝子から見れば、チンパンジーのDNAとヒト科のそれとは99%同じで、違いはわずか1%しかない。にもかかわらず、そのわずか1%には、言語のコミュニケーションを司る発話遺伝子FOXP2と、手先を器用に動かすことを可能ならしめるHAR2と、理性的な思考を可能にさせる大脳皮質を発達させるHAR1と、食生活でデンプン質の消化を促進させるAMY1Aの4種類の遺伝子が含まれている〔『地球46億年の旅』43号〜11頁〕。核DNAによる現生人類の系統樹は『地球46億年の旅』43号21頁を参照。
これらの結果、ホモ・サピエンスは、(1)食物を広く遠方から獲得するために必要な情報の技術と(2)未来を予測して計画的に行動できる推理力と(3)感覚で得た知識を抽象的な思考へ昇華させることができる思考力と(4)思考や情報を象徴化して象徴(シンボル)を蓄え、随意にそれらを引き出し組み合わせることで、いっそう複雑な知識を可能にする象徴化を獲得したのである。
■原人と旧人から現生人へ
200万年の遺伝的多様性を経た後で、ホモ・エレクトスが、ホモ・サピエンスのように火を扱ったことは分かっているが、彼らのコミュニケーション方法はサピエンスとは非常に異なっていたに違いない。ホモ・エレクトスは音楽や芸術を発達させたのだろうか。彼らは確かに社会的だった。何と言ってもホモ・エレクトスはわたしたちと同じ社交的な集団から生じたのだから。だが、彼らはどれくらい宗教や迷信を創り出したのだろうか。彼らはそれを説明しようと思っただろうか。脳化学や脳の構造に関する何かの違いが、彼らの生存様式とわたしたちの生存様式を根本的に違うものにしたのだろうか。彼らは自分を飾ったり化粧をしたりしたのだろうか。彼らはどのような衣服を着たのだろうか。彼らは世界を説明するために宗教や迷信を創出しただろうか〔チップ・ウォルター著/長野敬/赤松真紀訳『人類進化700万円の物語』〕青土社(2014年)149頁〕。これらの疑問が残る。
ネアンデルタール人は、賢く、荒々しく、優秀な狩人で、シカ、クマ、バイソソ、マンモスなどを仕留めることができた。12万5000年前のある遺跡は、ラ・コット・ドゥ・セント・ブリレード〔英領ジャージー〕の洞窟に住むネアンデルタール人の一群が近くの崖から獲物のマンモスやサイを追い落として、死んだりのたうち回ったりしているのをその場で解体し、他の肉食獣が来る前に最高級の部分を近くの洞窟に運んでいたことを明らかにしている。そのような行動には能力と協力と洗練されたコミュニケーションが必要だった。彼らの文化は発達していた。そして彼らの社会構造は厳しく公平だった。イラクのシャニダール洞窟で得られた証拠は、彼らが10万年前、わたしたちホモ・サピエンスよりも前から死者を埋葬し始めていたことを示している。わたしたちは大昔のその儀式を想像するしかないが、ネアンデルタール人たちは仲間の死体を浅い墓穴の中に胎児のように眠っている姿勢で横たえた。彼は過酷な一生を送ってきた。複数の骨折、変形性関節疾患、萎えた片腕、視力を失っていたと思われる片目のどれもがそれを物語っている。しかし遺体の周囲や下に残された花粉や常緑樹はこの男性が、彼を看取ったあるいは新たな生へ見送った人々に愛された重要な存在であったことを示していた。このことからわたしたちは、ほんの少しだがネアンデルタール人の心を垣間見ることができる。彼らはわたしたちの先祖のように、死後に何があるのかを知りたいと思ったに違いない〔チップ・ウォルター著/長野敬/赤松真紀訳『人類進化700万円の物語』〕青土社(2014年)166〜67頁〕。
■ホモ・サピエンスの文化
古人類学者は、少なくとも今のところ、ホモ・サピエンスが19万5000年前に出現したことで同意している。これはつまり解剖学的に現代的な生物ーーーわたしたちのように見える生物!であることを意味している。ホモ・サピエンスの最古の化石が1961年にエチオピアで発見されたが、残念なことに象徴的思考の痕跡、脳の適合性の具体的な証拠を示すものは一緒に見つからなかった。これは、これらの人々がわたしたちのような外見をしていながら、わたしたちのように行動していなかったのではないかという根本的な疑いを科学者たちの間に引き起こした。彼らはそれ以前の人々よりも優れた道具を作った。彼らは確かに豊かで複雑な社会生活を送った。だが全ての化石あるいは遺伝的証拠は、彼らが、その前の多くの先祖たちと同じように、いぜんとして東アフリカの草原を放浪して狩りを行い、必死で生き残ろうとしていたことを示している。10万年以上の間、わたしたちの同類の最初の人々は、このように生き、身体的に、そしてことによると感情的にも多くの点でわたしたちに似ていたが、精神的には明らかに異なっていた。脳は規定サイズに到達したが、わたしたちと同じように世界を見る心を呼び起こす配線や生物学的魔術をまだ完成させていないようだった。
プロソボス洞窟では一握りのホモ・サピエンスがへマタイト(赤鉄鉱)という鉄分を含む石の小さな塊を.幾何学模様で飾っていた証拠がある。科学者たちは同じ洞窟の中で貝殻に穴を閃けた装飾品のビーズを発掘した。これははぼ間違いなく人間が作った宝飾品の証拠と思われる。これらは1990年代と2000年代初期に発見された。こうした手がかりがあるにもかかわらず、そしてヨーロッパのネアンデルタール人が象徴的思考に似たものを手に入れていたという証拠が散在しているにもかかわらず、現代人の創造性の証拠は約4万年前になるまで現れなかった。それからは、驚くほど素晴らしい証拠が広範囲に見つかるようになった。この頃になるとホモ・サピエンスはアフリカを後にして、ヨーロッパ、アジアの東部と南部、そしてインドネシアを通ってはるかオーストラリア北部にまで進んでいった。古代の人間は、オーストラリアの洞窟の壁に、象徴的な形や動物を遺している〔チップ・ウォルター著/長野敬/赤松真紀訳『人類進化700万円の物語』〕青土社(2014年)218〜19頁〕。
そこでは何らかの儀式が行われ、詠唱や原始の音楽が伴い、打楽器のばちが一定のリズムを叩き、うなり板の不気味なつまびき、大きな獣の寝息のような音がそれに伴い、全てが合わさって強力なシソフォニーを作り出しているのを聞くことができる。これは新しい種類の霊長類を感動させて結束させた。詠唱とダンスはほぼ間違いなく150万年前にホモ・エレクトスの集団によって行われた。70万年前のホモ・ハイデルベルゲンシスによっても行われ、3万5000年前に、音楽とダンスはそれ以前のものよりも複雑になり、楽しみや個人的な気持ちを表すためにも、さらに結束して祝うためにも行われた。この能力はわたしたちの中にも組み込まれているが、いとこのチンパンジーやゴリラには組み込まれていない。このことは、言語と足の親指と道具を作る技術が、この700万年の間に進化したことを教えてくれる〔チップ・ウォルター前掲書222〜23頁〕。
■ホモ・レリギオースゥスの二大要素
ホモ・サピエンスの特質は、猿人の二足歩行に始まり、手で道具を作り使うこと、火を燃やすこと、音声による「ことば」を発達させたこと、衣類や飾りを身につけること、ホモ・レリギオースゥスとして宗教すること、より複雑な共同体を形成すること、これら七つの点で、他の動物、さらに他のホモ属よりも優れていたことである。行為言語の発話と象徴の関係をさらに考察するならば、発話それ自体は人間だけでなく動物にも共通する。烏の鳴き声、雀のさえずりは、それぞれ仲間に向けた合図であるから、音声という象徴を通じてコミュニケーションを行なっている。では人は、なぜ死者がなお自分たちと何らかの関わりがあると考えるようになったのだろうか? それは、その死者と自分との間に思い遣りやいたわり合いがなければ成立しない。人は思考の発達と共に家族と仲間への思い遣りと共感を発達させることで初めて、尊敬され愛された人が死者になった時に、その死者を「埋葬する」ことを学んだのである。この「人間らしい思い遣り」こそホモ・レリギオースゥスの原点である。
しかし、人同士の思い遣りは、生存のために不可欠な要素であるから、自分や自分の仲間の生存を脅かす存在に対しては、それが他の動物であろうと同じホモ・サピエンスであろうと、これに敵対してこれと闘う必要に迫られることになろう。言い換えるなら、自分たちの生存のために、他者を「犠牲にする」ことをも同時に学ばざるをえないことになろう。こうして「思い遣り」と「犠牲」の相反する心情が、ホモ・レリギオースゥスの本質的な性格に関わる二大要素になる。
生命の進化へ