12章 進化論争を考える
■デネットとプランティンガの討論
 2009年にシカゴで開かれたアメリカ哲学会の中央部会で、「現在の進化論とキリスト教の伝統的な神信条は両立できるか?」と題して、ダニエル・デネットとアルヴィン・プランティンガが論じ合うという「記念すべき出来事」があった〔Daniel Dennett and Alvin Plantinga. Science and Religion: Are They Compatible? Oxford UP. (2011).vii-viii.〕。
 ダニエル・デネット(1942年生まれ)は、現在アメリカで、反宗教的な視点から進化を論じている著名な学者である。その著書『解明される宗教』阿部文彦訳。青土社(2010年)"Daniel .C. Dennett. Breaking the Spell: Religion as a Natural Phenomenon. (2006)."において、彼は主としてアメリカの読者に宛てて、人間にほんらい具わる宗教性さえも「自然科学的に説明できる」と説いている。ところが彼が言う人間の「宗教性」とは、どうやらアメリカの超保守的な「キリスト教信者」を指しているようで、彼がこの著作で縷々反論している「キリスト教的な宗教」とは、現在の日本人のわたしたちから見れば、あまりも幼稚な聖書の逐語霊感説を念頭に置いているようだ。討論相手であるアルヴィン・プランティンガ(1932年生まれ)は、インディアナ州のカトリック系のノートルダム・ユニヴァーシティとミシガン州のプロテスタント系のカルヴァン・カレッジで哲学と解釈学の教授を勤め、進化論について、キリスト教の信仰の立場から発言を続けている。
 アメリカ哲学会での二人の討論は、まずプランティンガの発言で始まる。彼は、現代の進化論が神学的信条と矛盾しないことを次の三点を挙げて説明する。
(1)「無神論」を前提とする進化論者たちの言う「自然主義」は、科学がほんらい関知しない価値観を進化論に当てはめようとするから、彼らの「自然主義」的な進化論は「擬似宗教的」な性格を帯びている。だから、彼らの言う半ば宗教的な「自然主義」のほうこそ科学としての進化論と矛盾するのであって、キリスト教神学と科学はほんらい矛盾していない[Science and Religion: 3.]。
(2)「ダーウィニズム」と呼ばれる進化論は、不規則な遺伝子異変の過程を伴う「自然淘汰」がその基本原理である。だから、これとキリスト教の宗教的神学との衝突は、聖書が言う「神の似姿」による人間の創造説に焦点が絞られてくることになる。人類が現在の人間の姿(神の似姿)へ「進化」したことが、神によって予め計画されていたことと、そこへ至るまでの「過程」それ自体とは、別の問題であって、人類が到達した結果が神の摂理によるという見方は、人類がそこへ至った<過程それ自体>とは直接関係しない。「ダーウィニズム」と呼ばれる説は、進化の過程こそが「盲目的」"unguided" であり、「無計画」"unplanned" で「無目的」"unintended" であると主張する。現在の著名な科学者を含む人たちが進化論の「盲目性/無目的性」を唱えてキリスト教的な信条と両立しないと主張するのは、まさに<この点>である。進化はたまたま偶発的に生じた過程によるから、進化のテープをもう一度始めに巻き戻して、全過程を再現したとすれば、現在とは全く異なる結果が生じてくるだろう。だからホモ・サピエンスは出現しなかっただろうというわけである。遺伝子の異変の過程が「でたらめ」であり「無目的」であるとは、それらが全く偶発的な出来事であり、そこに原因は存在しないことになろう。
 しかし、現代の進化論のどこからもそのような「無原因」説は出ていない。まして、その過程が原因を持たない「偶然」だなどという説はどこからも提起されていない。異変が「不規則」"random" だと言われるのは、新しい遺伝子が生まれることと、与えられた環境に有機体が適応するかどうかという事との間に相互関係が見いだせないことを意味する。もしも、その有機体にもそれの環境にも、環境に適応する原因となる有益なメカニズムも過程も機能も存在しないのなら、その異変は「でたらめ」であることになろう。しかしながら、異変は、その意味での「偶発性」と、<それと同時に>神の導きに意図されたなんらかの原因が存在すること、その<両方の可能性>がありえることを明らかに意味しているのである
(3)したがって、ダーウィニズムに含まれる進化の「偶発性」は、進化の過程が神の導きに由来することを否定する意味合いを含んではいない。だから、遺伝子の突然変異による偶発性は、人間が神の似姿に創造されるための意図性(デザイン)とほんらいは矛盾しない。進化を無神論的な自然主義と結びつけるところに、科学と宗教との相克が生じるのであって、進化それ自体は<そのような結びつき>を持たない[Science and Religion: 5-6.]。
 以上がプランティンガの発言の前半の要旨である。これに続いて彼は、進化が無神論的だと主張する「ダーウィニズム」は、以下の三つの論点から成り立っていると見ている。
(1)進化論から意図性(デザイン)を削ぎ落として、有神論的な見方の合理性を縮小すること。
(2)かくも多くの無駄な苦難から生じる進化の過程は、神がこれを用いたり許したりするはずがないという前提。
(3)無目的な進化を仮定するほうが、神を含む何らかの意図性によって導かれると見る仮説より優れていると前提すること。
 これらに対するプランティンガの答えは以下の通りである。
(1)生命の多様性は、無神論的な合理性で理解するほうが容易だといくら論じても、それだけで有神論的な合理性で理解することが困難になるわけではない。だから、そのことから科学か宗教かという二者択一の相克は生じてこない。
(2)「意図的な」進化論は、強力で知的な存在(群)を支持する。ただし、そのことと神の存在とは別個の問題である。現在の分子生物学は、様々に異なる「進化の意図性」を可能にする。原核生物/前核生物(核膜を持たない単細胞で染色体は1本の螺旋系)という驚くべき複雑なタンパク質の機能が存在する。このようなタンパクは無目的(盲目)な自然淘汰からは不可能だと言われている。こういう盲目性への否定は、決定的ではないまでも強力なまでに合理的である。
(3)有神論的な進化論への反論として、進化に伴う無数の「無駄な苦難」から見ると、自然淘汰はどう見ても神による慈悲深い措置だとは見えないということがある。こういう見解にはそもそも「罪と苦難」はほんらい有神論と相容れないという考え方がその前提にある。だから、この点では、盲目的進化論のほうが単純で分かりやすいのである。
(4)「進化の過程」「生物学的証拠」「盲目か導きか」というこれら三つを合わせると、有神論と無神論のどちらの確率のほうがより高いか?ということになるだろう。神は、適切な異変を適切な時に起こすことで、進化の過程を導いてきたのか?盲目の自然淘汰が偶発的な突然変異を生じさせてきたのか? これに対する答えとしては、現在知られるようになった複雑きわまりない極微の整合性を有する遺伝子機能は、突然変異の確率と考え合わせるなら、盲目論の確率のほうが低く、有神論(神の摂理)に大きく傾くのではないか。
 以上がプランティンガの発言の内容の趣旨である[Science and Religion. 7-14.]。
■デネットの反論
 プランティンガに対するデネットの応答は次の通りである。彼は先ず、プランティンガのあげた三つの論点を肯定する。
(1)現在の進化論は有神論的な信条と両立する。
(2)現在の進化論は、突然変異が全くの偶然で生じるという意味で「でたらめ」だとは言っていない。
(3)「自然主義」と進化論が「結びつく」場合に神の計画性("divine design")が否定されるのであって、進化生物学<それ自体>は神の計画への否定を意味しない。
 以上三つの点をデネットが肯定したことは、注目すべきで、プランティンガもこのことに驚いている。デネットはさらに論を進める。
(1)の点はその通りであるが、自然淘汰の理論は予見的な神の意図を主張しなくてもDNA理論を成立させることができる。だからと言って、神による「知的な計画性」が存在<しない>と「証明する」ことはできない。しかし、現在の進化生物学は、同様にどのような空想や妄想をも「存在しない」と証明することはできないし、それらが存在しない証拠はどこにもない。ただし、現在の有神論は、いずれは終末が訪れるなどと主張して、地球環境を改善する道を閉ざす傾向があり、人々を誤らせる有害な障害を引き起こしている。
(2)の点では、現在の進化論は、突然変異が原因のない「でたらめ」な現象だと言ってはいない。まして偶発的なものにすぎないと言っていないのは、その通りである。進化は決定論的なモデルにおいても生じるからである。
(3)の点で言えば、自然主義と進化論が相伴うことで神の意図を否定する含みを持つが、進化生物学それ自体にはそのような含みはないという指摘は、これも正しい。しかし、自然淘汰による進化は根本的に確証されているから、だれもこれには反論できない。
 デネットはさらに加えて、プランティンガが、自然主義的な進化解釈は擬似宗教的だから、進化論それ自体と両立することが不可能だと指摘したのに反論する。自然主義的な解釈は、自然淘汰による心臓や肺の進化を「説明する」ことができるし、脳は「構造的機能」の働きであって「意味論的な」働きではないからである[Science and Religion. 25-36.]。
■デネットへプランティンガからの答え
 デネットの指摘に対して、プランティンガは次のように答えている。デネットがわたしの意見に賛成しているのに驚いている。しかし彼が述べた説のどこに賛同できないのか、わたしにもよく分からない。彼が否定しているのは、愚かしい宗教的愚論のことであって、それらはわたしの言う有神論ではない。わたしは神の存在と進化論の真理性は両立が<可能>だから、その点でわたしの説は<真理>だと言っているのであって、わたしの説が唯一の可能な説だとは言っていない。彼が言う「自然主義」については、多くの物理学者(40%)は神の存在を信じているが、彼らは物理学の研究において神の存在を前提にしなければならないなどと考えてはいない。むしろ彼らは、神が創造された造形を探求し説明し発見しなければならないと考えている。彼らはその物理学の仮説において神の存在を直接に仮定してはいない。だからと言って、無神論的な自然主義を仮説としているわけでもないのは言うまでもない[Science and Religion. 39-43.]。
■この論争について
 筆者(私市)は、以上の両者の討論から、次の三点を指摘したい。
(1)両者共に、進化論それ自体は有神論的な信条と矛盾したり対立したり<しない>という点で一致している。このことは、きわめて重要である。この一事が確認できたことは、今回の討論の大きな成果であり、この意味でも「記念すべき出来事」である。
(2)プランティンガは、アメリカを主とする現在の「通俗的で保守的な」キリスト教徒の神概念のほうが、進化の過程を探る科学とキリスト教的(宗教)とを対立させている根本的な原因であること、<このこと>に言及するのを避けている。
(3)これに対して、デネットは、プランティンガが避けているまさに<その点に>注目しながら発言している。しかし、両者共に、そういう頑迷なキリスト教徒を特定することも名指しすることも避けている。
 デネットが言う通り、進化の過程を導き出したのは「イエスであった」と仮定する必要はない。彼が言う通り、「神はイエスができないことでもできる」からである。また、適切な異変が生じる原因を起こすのに神自身がその手や指や科学的道具を使う<必要がない>こともその通りである。科学としての進化の出来事は、有神論と無神論のどちらにも属さない。まさにそのゆえに、どちらの側からもこの出来事を説明し解釈することが可能なのである。
 デネットの<反>有神論は、おそらくアメリカの一部のキリスト教的宗教を念頭に置いているところから出ているのであろう。だから彼は次のように言う。「わたしの科学者としての仕事は無神論的である。すなわち、わたしが実験を実施するときには、神や天使や悪魔がこれに干渉するという前提に立ってはいない。わたしの専門の仕事はこれによって成果を上げてきたことでこの前提は正当化される」[Science and Religion.48.]。デネットはさらに「進化論的な生物学は擬似宗教である。だとすれば、そのような進化論的生物学を学校で教えるのは信仰の自由を定める憲法に違反する」という驚くべき「キリスト教」側の主張を引き合いに出している[Science and Religion. 50.]。デネットは、プランティンガが、神を信じる科学者も彼と全く同じ前提に立って仕事をしていると主張しているのだと「納得する」にいたってはいないようだ。これでは両者の意見が噛み合わないのも当然であろう。
 困ったことに、これがアメリカでのことではなく、こういうアメリカの進化論論争が<そのまま>全く土台の異なる日本にもちこまれて、<あたかもこれが>進化論による科学と宗教の対立である<かのように>思われたり、受けとめられたりしていることである。日本のわたしたちが、進化論争を扱う時に注意しなければならないのは、土台の全く異なるアメリカでの進化論と宗教との対立をそのまま日本に持ち込むことだからである。このために、日本では、自分たちの常識とは全く異なる見解の人たちの非科学的な判断が、<あたかも>日本のクリスチャンも同じレベルで進化論に反対している<かのような>錯覚を抱き抱かれることになりかねない。現に、<理不尽な>進化論だとか<危険な>進化論などと題した進化論に関する翻訳や著作が日本でも出回っている。これらを読んだ日本人は、進化論それ自体が科学的に見て「理不尽であり危険である」と考えるか、あるいは、反対に進化論がキリスト教を含む宗教観にとって「理不尽で危険に見える」と受け取るか(これが、これらの著作の狙いであろうが)、そのどちらかになろう。どちらの考えも真の科学的な見地から正しくないのである。このことを読者にはっきり分かってほしい。
 そもそも「こと進化論に関しては」、土台となる考え方が全く異なる日本とアメリカを一緒にして、進化論を「擁護」したり、これに「反対」したりする必要などない。進化論が科学的に正しいことは日本人ならだれでも知っている常識ではないか。だから、学校で進化論を教えてはならないなどと言い出す者が、日本人のクリスチャンを含めてだれ一人いない。人類が原始細胞から発達したことと、聖書の教えが矛盾するなどと考えるほど<幼稚な>日本人クリスチャンはいない。日本人クリスチャンの聖書解釈のレベルを見くびらないでほしい。日本で、アメリカ直輸入のレベルの低い反進化論を主張すれば、アメリカの科学者が知的にレベルの低い進化論反対者を批判するのと同じ批判が、日本の科学者から日本人のクリスチャンに向けられるおそれがある。日本のキリスト教界に、そのような無意味な論争を持ち込む必要はない。だから日本で進化論反対を唱えるのはお止めになるほうがいい。日本には、科学的進化論と聖書の教えが矛盾するなどと考えるほど<レベルの低い>クリスチャンはいないから、どうぞご心配なく。さらに言えば、進化を論じる方々には、進化論を「偶然」だとか「盲目的」だとか、ほんらい科学的な意図とは無関係な価値観と結びつけることを避ける「知的な配慮」をお願いしたい。私の理解が正しければ、進化が「盲目的」だという言い方は適切でない。むしろ「偶発的」のほうが適切だと思われる。ここで言う「偶発」とは、宗教的な意味で文脈を否定する「無目的」で「実意味」だという意味では<ない>。そうではなく、ダーウインが唱えた「自然選択」や「環境適応」では理解できない「偶発的」な出来事だという意味においてである。進化は、現在広く信じられている「遺伝子」の漸進的な変化の結果でさえもない。進化をもたらす「変異」とは、「ある時」に「ある場」において「まだ未知な理由により」生じる不可解な出来事のことだからである〔池田清彦『進化論の最前線』集英社:インターナショナル新書(2017年)55頁/84頁〕。
■宗教と科学について
 16世紀以降のヨーロッパ近世の教会が唱えるキリスト教は、ガリレオ・ガリレイの地動説を否定するなど、事あるごとに自然科学と対立してきた。その影響は19世紀のダーウィンの進化論にも及び、対立論争は現在もなお続いている。このために、宗教(信仰)と科学(自然科学)を全く別の分野に分類するという分離方式がとられてきたが、その結果、自然科学の分野と人文科学の分野との対話が途絶える、あるいは困難になる事態が生じることになった。しかし、「脱近代」(ポスト・モダン)を迎えている現在では、キリスト教と自然科学は、対立ではなく相互補完的に機能する方向へ向かわなければならない。だからと言って、わたしたちキリスト教に関わる者たちが科学の専門家になれということではない。ガリレオの時代でも、教会が彼の説に異を唱えたのは、その当時の「教会の信仰」を基準にしてガリレオの学説を批判したのであって、彼の観測結果や計算の具体的な方法論が問題にされたわけではない。宗教(教会)と学問(学会)の対立は、そのような方法論や機能面での対立ではなく、もっと根源的な世界観、あるいは論理の根本原理に根ざすものだったからである。イングランドの詩人ミルトンは、イタリア旅行の際に、当時軟禁されていたガリレオを訪ねている。ミルトンは天文学の専門家ではないが、当時の知識人や文人たちは、教会とガリレオの論争が「太陽が動いている天動説」なのか「地球が動いている地動説」なのかを巡る論争であることくらいは、十分理解できた。確かなことは言えないが、16〜17世紀のイギリスの詩劇作家シェイクスピアは天動説を信じていたようである。だが17世紀のミルトンは、内心では地動説のほうに傾いていたのではないかと思われる。同様のことが19世紀の進化論争でも言えるし、20世紀の相対性原理でも言えるだろう。ちなみに、自然科学とキリスト教信仰について、最近、ローマ法王フランシスコ(本名ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ :アルゼンチン出身)が、先のベネディクと16世に続いて、自然科学と教会の信仰は矛盾しないという注目すべき発言をしたことが報じられている〔『朝日新聞』(2014年10月30日)〕。
 終わりにもう一つだけ付け加えたいことがある。それは、現在の日本で、漢方を含む東洋医学の視点から、西洋医学に対する批判の声が高まってきていることである。癌治療の分野でも、従来の西洋医学の方法が、東洋の哲学に基づく伝統的な医療法の立場から、厳しく批判されている。わたしは、西洋医学と東洋医学とが相互補完的に機能するのが正しいあり方だと思うが、今そのことをここで論じるつもりはない。なぜなら、これは、西洋医学と東洋医学との比較対照の問題であって、言わば東西の科学同士が、医学の有り様について議論し合っているのであって、今わたしが提起している医学を含む自然科学と宗教的な信仰との相互補完的な関係とは、全く別の問題だからである。東西の医療を含む科学的な考え方の違いと、自然科学と宗教的霊性との関係とは、問題が別であるから、この二つを混同しないよう、注意しなければならないと思う。
 わたしたちが物理学や天文学の専門的な知識を持たなくても、宗教(キリスト教)と自然科学の関係を考えたり、これと自分の有り様とを関連づけることができるのは、キリスト教信仰の立場から言えば、そうすることが「赦されている」からである。人間が猿から進化したのか、人間が突然に無から創造されたのか、進化の過程をめぐる論争で、そのくらいの区別は常識ある人なら誰でも区別できる。現代で言えば、わたしたちの住んでいる地球と太陽系が、膨大な数の銀河の中の一つの銀河系の片隅に存在していて、しかも宇宙全体は、これから収縮するのか拡大するのか分からない状態で確実に動いている、ということくらいは科学雑誌を読めば分かる。シェイクスピア劇の専門家でなくても、シェイクスピアの劇を楽しむことができる。医学の専門家でなくても、医学の知識を頼りに、自分の健康を自分なりに判断することができる。同様に、現代の自然科学者たちの解説を頼りに、キリスト教と自然科学の関係を考えることがわたしたちにもできるのである。進化論を含む生命科学と聖書の伝えるキリスト教は、矛盾しないどころか、相互補完的に働いて、わたしたち人間の生き方を教え導いてくれる。こういう「信仰」こそが、今一番求められているのではないだろうか。
                              宗教する人