13章 「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)について
■用語としての「宗教する人」                          
 題名の「宗教する人」は、ラテン語の「ホモ・レリギオースゥス」"homo religiosus" から出た人類学の用語である。したがってこれは、ローマや中世のキリスト教会で実際に用いられていたラテン語ではない。「ホモ・レリギオースゥス」の語尾の発音は理論上は「スス」となるが、これは造語であるから、実際に用いられ発音されていたわけではない。だから、「スス」は理論上の発音であって、言語学的にこのような発音は不可能である。
実際に発音されるとすれば「ホモ・レリギオースゥス」が適切だと思う。
 人類学(anthropology)は大きく分けて、自然人類学(natural anthropology)と文化人類学(cultural anthropology)に分かれる。文化人類学の一部門に宗教人類学(religious anthropology)があり、「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)はこの分野に属する。自然人類学とは考古学者や地質学者たちによって人骨の発掘やこれが発見された地質の調査から生まれた概念である。原人の「ホモ・ハビリス」や旧人の「ネアンデルタレンシス」(ネアンデルタール人)や現生人の「ホモ・サピエンス」(英知の人)なども同じ人類学の用語で、これらの用語はどちらかと言えば自然人類学に属する。これに対して「ホモ・エコノミクス」(経済する人)、「ホモ・ロクエンス」(話す人)、「ホモ・ファベル」(道具を作る人)、「ホモ・レリギオースゥス」(宗教する人)などは、文化人類学の分野に属する。
 宗教人類学は、狭い意味では、文化人類学の一分野にすぎない。しかし、現在、日本の宗教人類学が関心を寄せているのは、世界中において、実際どのような民間の宗教的な営みが行われているのかということであり、これの実態調査をフィールドワークとして行うことにあるようだ〔関一敏・大塚和夫『宗教人類学入門』弘文堂(2004年)〕。だから、「ホモ・レリギオースゥス」としての人類が、どのような進化の過程をたどったのかという課題は、宗教人類学でもまだまだ未開拓の分野になるようである。これに対して、考古学や地質学や生態・生物学での人類学は自然人類学になる。「ホモ」の自然人類学では、類人猿から猿人(ラミダス猿人)へ、猿人から原人(ホモ・エレクトス)へ、さらに旧人(ネアンデルタール人)へ、そしてホモ・サピエンスへと人類の進化の過程を時間軸に沿って跡づけようとするから、わたしはむしろ、「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)を自然人類学と文化人類学の両方にわたる進化人類学の視野から扱いたいと思う。このようなアプローチの仕方は、かつてのナチスのように、人種差別を助長するという危惧もあるようだが、わたしは、こういう学問的なアプローチこそ、逆に人種的な差別を無意味にする正しい方法だと考える。
  現在、新たなキリスト教組織神学者として注目されているフィンランドのヴェリ=マッティ・カルカイネンは、その『三位一体と啓示』の冒頭で、20世紀を代表する二人のキリスト教神学者、パウル・ティリッヒとカール・バルトに触れている〔Veli-Matti Kärkkäinen Trinity and Revelation. Constructive Christian Theology for The Pluralistic World Vol.2. Eerdmans (2014)1.〕。カルカイネンは、ティィッヒがその晩年において、キリスト教以外の他宗教との対話が不十分であることを認めたこと、一方のバルトは、キリスト教以外の宗教に触れてはいるものの、自然科学的な理解に関与することなく創造論を構築していると指摘している。カルカイネンのこの見解は、キリスト教を含む人類の宗教的普遍性と、宗教と自然科学の相互関係、この二つが、これからのキリスト教神学にとって重要な課題であることを示すもので、わたしが「ホモ・レリギオースゥス」を取り上げるのも、まさにこの二つの視点からにほかならない。
■「宗教する人」の意味
 「ホモ・レリギオースゥス」をネットで検索すると、マイケル・ブルーム(Michael Blume)という人が、人類学的な「ホモ・レリギオースゥス」をNatural History of Religion (自然宗教史)という分野で扱っている(2009年5月11日とある)。彼は、様々な分野の科学者たちが、超自然的な働きかけに対応する人類の宗教的行動を「進化論」の観点からとらえようとしていると述べてから、なぜネアンデルタール人は死者を埋葬するという宗教的な行為を行なったのか? なぜホモ・サビエンスはかくも活発な宗教活動を行なうのか?と問いかけている。この謎を解くために多くの異なる分野の科学者たちが共同で「進化宗教学」(The Evolutionary Religious Studies.)という分野を開拓しているようだ。こういう「宗教の進化」は、近世以降分離されてきた自然科学と宗教を再び結合しようとする試みの一環である。ブルームが、"evolution of natural religion" と言う時、それは、わたしが人類の宗教的な進化を指す「ホモ・レリギオースゥスの進化」とほぼ同じ意味ではないかと思われる。
 ところで、「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)をわたしが用いたのは、わたしの講演集『これからの日本とキリスト教』(2001年)の5章「宗教する人」が最初である。以後、この用語をしばしば用いてきたが、わたしがこれを人類学的な用語として用いたのは特に誰かの真似をしたわけではない。その辺の事情は、『これからの日本とキリスト教』(2001年)の5章に記されているから今回は控える。ただし、この語は次にあげるエリアーデの著作でもすでに用いられていたことが後で分かった。しかしエリアーデは、ホモ・レリギオースゥスの特徴については縷々説明しているが、彼はこの語を人類の進化の過程と関連づける進化人類学の用語として用いているわけではない。この意味で言えば、わたしがここで用いている「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)は、あまり前例がないのではないかと思う。わたしはこのことを自慢するつもりで言うのではなく、逆に、こういう進化人類学の用語としては、「宗教する人」はまだまだ未熟な概念であり、したがって、わたしがこれから述べる「宗教する人」の起源とその形成過程もほんの試論程度にすぎないことを言いたいのである。だから、キリスト教が言ういわゆる「救済史」と、ホモ科の人類の自然史とが、この「ホモ・レリギオースゥス」において初めて出合うことになる。この分野にもっと明るい人類学の専門家が、わたしがここで言う「宗教する人」の概念をさらに深め、宗教人類学の用語としてより正確に、より的確に論究してくださることを切に願う。
 「ホモ・レリギオースゥス」の起源については、ニコラス・ウエイド『宗教を生み出す本能:進化論からみたヒトと信仰』依田卓也訳(NTT出版:2011年)が最も総合的で分かりやすい。「ホモ・レリギオースゥス」の特徴を最も総合的にとらえて優れた考察を加えている名著にミルチャ・エリアーデの『聖と俗:宗教的なるものの本質について』風間敏夫訳(法政大学出版局:1969年)がある。これらの著作は、「宗教する人」の人類学的な起源を扱うものではないが、ホモ・レリギオースゥスの特徴を人類学と宗教学の視点から解き明かしてくれる。
■「永遠の命」の福音から
  わたしが「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)だとか、自然人類学だとか、文化人類学だとか、自然科学(例えば進化論)とキリスト教の対立の解消などと言うのは、それなりのわけがある。それは、わたしの視点が終始一貫して、ヨハネ福音書がわたしたちに伝えている「永遠の命」(ヨハネ17章2〜3節その他)とは何か? という問いかけから発出しているからである。確かなのは、ヨハネ福音書の「永遠の命」が、猿や鳥や犬や猫のことではなく「人間」(ホモ)に関するものであり、人間に与えられるものだということである。しかもそれが、「命」である限り、どのような意味にせよ、「人間が生きる」ことを意味するのは間違いない。
 ある人たちは、ヨハネ福音書の永遠の命は、現在わたしたちが生きている命とは無関係で、死んでから天国でイエス・キリストという<人間ではない>神が所有する命のことだと考えるかもしれない。けれども、ヨハネ福音書をどう読んでも、イエスの弟子たちもサマリアの女も救われた盲人もマリアもマルタも、わたしたちと同じ日常で生きていた人間のことであり、これらの人間に働くイエスが与える命のことであって、これ以外の意味に読むことができない。だから、現在わたしたちが生きている命とヨハネ福音書が伝える永遠の命は、全く同じではないまでも、どこかでつながっているのは確かである。
 永遠の命が現在わたしたちが生きている人類の命と関係するのなら、わたしたち「人類の命」はそもそもどこから来ているのか? このことを知らなければ永遠の命の「真理を知る」ことができないだろう。「人間の命」であるから、その命の働く場は、当然<わたしたち一人一人の>物理的存在であり、生物的な存在であり、文化的な存在であり、思想的、精神的、あるいは宗教的な存在から成り立っている。ヨハネ福音書はキリスト教の書だから、<クリスチャン人間>だけに関わるもので、他の人間には関係がないと思う人は、もう一度ヨハネ福音書の1章をお読みになることをお勧めする。「すべてのものは、神のロゴス(イエス・キリスト)によって出来た。現在出来ているもので、この神のロゴスによって出てこなかったものは何一つ存在しない」とある。
 ヨハネ福音書の冒頭の言葉によれば、イエス・キリストを信じている者も、イエス・キリストを知らない者も含めて、わたしたち一人一人の現在の命は、46億年前の生命である単細胞にさかのぼり、その生命体は、太陽系の成立にさかのぼり、太陽系は宇宙の創造にさかのぼることになるだろう。ダーウィンの言う「最適者生存」の進化(種の分岐)に従えば、ヨハネ福音書を信じて永遠の命を受けて生き活かされている現在のクリスチャンたちは、例外なく、この生命の歴史とこれがたどり着いた人間存在である。ただし、聖書を信じることで「宗教的人間」は新たな段階の霊性に行き着くことになろう。聖書が証しする永遠の命を信受するなら、わたしたちは間違いなく「宗教する人」だから、わたしたちは、このような存在としての一人一人の「自分」がどこから来ているのかを出来るだけ確かな方法で知る必要がある。
 思うに、「物質界」と「霊界」というように、現在一般的には、目に見える物質の世界と目に見えない霊的な世界が区別されているが、どちらにも時間と空間が共通している。現在の量子物理学は、もはや目に見える物質界を扱うのではなく、「謎の物質」(ダーク・マター)と呼ばれる不思議な存在を始め、電磁力や引力など、物質と密接に関連しながらも、そこに働く「力」を扱っている。さらに、極微の物理的な世界は、人間の主観と客観の区別さえ失われる主客一如の領域に属していると言われる。だからわたしが言う「霊性」も、物質や身体と区別された「霊魂」や「精神」のことではなく、身体と精神を一つにとらえる霊能や霊威や霊現象を含むことになる。物質界と霊界は表裏の関係にあると考えていい。
 わたしが、自分を「宗教する人」と位置づけて、この存在を自然人類学と文化人類学の両方を含む「進化人類学」とその一分野としての「宗教人類学」と関連させて、人類進化の過程を見ようとする理由がこれである。ただし、わたしは聖書の霊性が自然科学で説明できるとも考えないし、まして、聖書が自然科学で「証明される」などと言うつもりはない。聖書の霊性を解明するには、現在の自然科学はまだ未成熟であり、人間の脳の働きをコンピューターで再現するまでは、まだトホウもない時間がかかるだろう。現在の自然科学のレベルは、驚くほどの進歩にもかかわらず、聖書の霊性を解明できる段階にはほど遠い。ただ、聖書の霊性と自然科学が決して矛盾しないこと、両者はcompetitive(競合関係)ではなく、complementary(相互補完)な関係にあることに気がつく時代が来ていることを分かっていただきたいだけである。
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