17章 アブラハムとモーセ
■進化か進歩か?
 ノア伝承は、わたしたちに「殺さない宗教する人」を啓示してくれた。これを進化と関連づけたが、「進化」とは、そこから「分岐」して枝分かれすることだからは、それまでのものも新しいものも共に共存する時代に入ることを意味する。この点から見ると、ここからの展開は、むしろ「宗教する人」の霊性の「進歩」と呼ぶのにふさわしいことになろう。自然科学も産業技術も、常に新たに「進歩」することで、それまでの古い物に取って代わる。イエスは、天の国のことを学んだ学者を「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人」になぞらえている(マタイ13章52節)。彼は古い物を捨てて新しいものを用いるからである。だからイエスの「神(天)の国」は常に「進歩」していることになる。
 「宗教する人」も同様に「進歩」するのだろうか? イエス・キリストの到来から現在までの「宗教する」人類の歩みを眺めると、ヨーロッパの中世では、イスラム教とキリスト教の間に十字軍遠征があり、近世では、とりわけ南米で、キリスト教布教の名のもとに行なわれた過酷な植民地政策があり、アメリカでは、非人道的な奴隷制度を正当化する「キリスト教」があった。21世紀に入った最近でも、イスラム教徒のテロ組織が、爆弾を抱えて自爆することで他宗派や他宗教の子供たちまでも殺すことが、聖戦の殉教者として楽園に入る道だと信じる人たちを造り出している。ただし、こういう素朴な「宗教する人」たちを陰で操る狡猾残忍な人たちは、権力欲に動かされるテロリストたちであって、彼らの行為のほうは「宗教する人」とは直接関わりがない。ここで言う「宗教」とは、「ホモ(人)」を救う「レリギオ(宗教)」という従来の宗教学的な概念ではない。そうではなく、集団としての生存と、このための殺戮の両面を兼ね具えた「ホモ・レリギオースゥス」という人類学的な概念なのである。だから、ここでは、「ホモ」を救う「レリギオ」のことではなく、「ホモ・レリギオースゥス」としての人間存在が、どのようにすれば、それが抱える難問から救われるのか?という問いの立て方をすることになる。
 過去にホモ・レリギオースゥスがたどった現実を目にすると、「宗教する」人類が、全体として、「進化」(分岐)ではなく「進歩」していると見なすことはとうていできないのではないか?という思いに襲われる。ノア契約に基づく「殺さない宗教する人」は、進歩と言うよりも従来型の「宗教する人」から進化(分岐)することで、新たな段階の「宗教する人」になる啓示を受けたと見るほうが正しいのではないか?ただし、「進化」とはほんらい生物学の用語であるから、これを宗教する人に転用するのは、あくまでも類比的な意味においてである。
 イエスの言う「神の国」は、新たなものが古い物に取って代わるから、これは「進化」ではなく「進歩」と言うべきであろう。いったい、「宗教する人」としての人類全体には、「選ばれた」者たちによる分岐、すなわち「進化」が生じているのだろうか? それとも、イエスの説く「神の国」のように、古い物を脱ぎ捨てて新しいものをまとう「進歩」が生じているのだろうか? 答えは、これからの100万年単位で人類の未来を予測しなければならないから、容易でない。神は、「この世」を救うためにイエスをキリストとして遣わしたとヨハネ3章16節にあるから、イエスにある愛は、全人類を救済する終末を目指していると信じたい。楽観は許されないが、神の国が全人類を覆い尽くして、御国に属する宗教する人が人類全体を含むことができるようになれば、「人類は進歩を遂げた」と言うことができる。これ以上願わしいことはない。
 今回、こういうことを言うのは、これから取り扱う宗教の聖者たちは、「宗教する人」の進化ではなく、どちらかと言えば「進歩」に貢献した人たちだからである。「ホモ・レリギオースゥス」を「ホモ(人)」を救う「レリギオ(宗教)」のことだと受け取るなら、ここで言う「宗教」を理解できないであろう。なぜなら、ここで問われているのは、「ホモ」を救う「レリギオ」のことではなく、「ホモ・レリギオースゥス」(宗教する人)をその全体において「救う」道は何か? ということだからである。すでに見てきたとおり、ホモ・レリギオースゥスは、相互信頼や自己犠牲という人間にとって大事な徳性を具えているが、それと表裏を成して、敵意と殺戮への志向もまた具えている。これから取り上げる人たちは、このような「ホモ・レリギオースゥス」の抱える難問を解き明かし、解決へ導こうとした人たちである。だから彼らは、従来の古いホモ・レリギオースゥスに代わる新たなホモ・レリギオースゥスへいたる道を開いた人たちである。ここからは、人類全体と言うよりも、ノア契約で啓示された新たな「宗教する人」が、それ以後どのような「進歩」を遂げてイエスの神の国へいたるのか、その跡をたどることになる。
■アブラハムの神
 アブラムはセム系の人物である。シュメールのウルは神殿都市であったが、彼はそのウルを出た。前1950年頃のことである。ここからアブラハムとイサクとヤコブ(イスラエル)の「族長時代」が始まり(前1950年〜1600年頃)、モーセに率いられたイスラエルの民による「出エジプト」へいたる(前1280年頃)〔新共同訳『旧約聖書注解』(T)巻末年表〕。アブラムとその一族が住み慣れたウルを離れて放浪の旅へ出たのは、おそらく神殿都市国家にまつわる王権の暴政と、これの支配下にある民の罪悪と関連しているのかもしれない。後に「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と固有名詞を付けて呼ばれることになるから、アブラハムは、農耕以前の遊牧民の「先祖崇拝」へ回帰したようにも見える。確かに「行くところを知らずに出ていく」彼の有り様は、遊牧の民の伝統を受け継いでいると言えよう。しかし、「あなたの生まれ故郷である父の家を離れて」とある創世記12章1節の記事を見る限り、彼の宗教はかつての遊牧民の「祖霊崇拝」ではない。「祖霊」ではないが、彼の神は明らかに「人格~」である。ただしその「人格」は、神殿都市国家における神格化された「王」のことではない。先に指摘したが、アブラムを導いているのは「ヤハウェ~」ではない。それは「エル/エール」(ほんらい「力」を意味するのか)と呼ばれる「神」である。「エル・ロイ」(わたしを顧みる神:創世記16章13節)、「エル・シャダイ」(全能の神:創世記17章1節)、「ベート・エール」(神の家:創世記28章19節)などの「エル/エール」は、おそらく当時のセム系の民に広く信じられていた「神」であろう。だから彼は、それ以前の遊牧民の祖霊崇拝に戻ったのではない。彼を導き出した神(エール)は、神殿都市国家の神観には見られない二つの要素を具えている。それらは、
(1)天地を創造した「万能の神」でありながら、神殿という特定の地域に限定される神ではなく、一つ所に留まらない者に啓示される神、言わば「土地を持たない」者の神であること。
(2)神とこれに従う者とは、血縁関係や地縁関係で結ばれるのではなく、「契約」関係で結ばれること。
 これらが、「アブラハムの神」の二大特徴である。神との契約関係に入ることで、彼は従来の「アブラム」から「アブラハム」へ転位することになる(創世記17章4〜5節)。その選びも契約も、自然を超えた神観も、ノアの宗教を受け継いでいるが、アブラハムでは、それがいっそう徹底してくる。アブラハムのエールは、人格~とは言え、人間のほうから求めることで認識できる神ではなく、言わば向こうから人間に一方的に「啓示される」神である。この意味でアブラハムの神は、人間には認識できない「人知を超えた」存在として己を顕わす〔エリアーデ『世界宗教史』(1)194〜95頁〕。このように、人格を具えていながら、しかも人間に認知できない「人知を超えた」存在としての万能の神で、しかも選ばれた者にのみ啓示されるという不思議な神観は、従来のどのような神々とも異なる。しかもこの神は、人間に絶対の信頼と服従を求めてくる。神とアブラハムとは、従来のどのような神と人との関係よりも親(ちか)しい。超絶と親しさという不思議な二重性を持つ人と神とのこのような関わり方は、アブラハム以後、ヘブライの神の特長となる。
 超絶していながら、かくも親しく交わるアブラハムの神の特長は、アブラハム物語のイサクの供犠(創世記22章1〜19節)においてこの上なく明確に描き出される。イサクの犠牲は、王権保持のために行なういわゆる「初子殺し」ではない。初子殺しには、自己の王権維持という明確な目的を伴う。ところが、アブラハムは、何のためかが全く知らされないままに「ただ神を信じて」独り子を犠牲に献げようとする。従来型の犠牲には、必ず人間の側からの何らかの祈願あるいは要請を伴うが、アブラハムに命じられたイサクの犠牲には、アブラハム自身の祈願も要請も一切含まれない。それはアブラハムの<理解を超えた>神からの要請に基づく供犠(くぎ)なのである。このように、焼き尽くす燔祭として、己を完全に引き渡す自己犠牲を求める神をアブラハムは「父」と呼び、その父に己を委ねきることによって「信仰の父」と呼ばれるにいたった。彼は、その「信仰」によって、イサクを再び生き返らせてもらうだけでなく、自己の子孫の生存と存続を神からの「祝福」によって保証される。「信仰に基づく」ことで「生存」を授与されるアブラハムとその子孫は、従来の「人知の人」(ホモ・サピエンス)としての「宗教する人」から、「信仰の人」として新たな転位を遂げた「宗教する人」になった。
■「選び」について
 ここで、誤解を避けるために「選ばれる」ことについて少し付け加えたい。「選ばれる」ということは、進化論にかかわる欧米の学者に言わせると、生命に優劣を付けるから、進化論の「選び」を人類学に適応するのは、人種差別を促すから控えるべきだという見方があるようだ。欧米では、こういう警戒心が、生命の進化をその歴史的な過程においてたどろうとする試みを妨げて来た経緯がある。だから、現在の宗教人類学は、世界に今なお遺る原始的な宗教形態の有り様を調査してこれを記述することに心を向けるだけで、これを人類の進化の過程と結びつけて歴史的に解明しようとすることには及び腰である。
 しかし、人間のいかにもヒューマニズム的な思い遣りは、かえってあるがままそのままの事実と、これが語る真理の解明を妨げる危険性があることを指摘しておかなければならない。余計な人間的な配慮はなくもがなで、そのような無用な思惑を排除して事実をそのまま探ることが何よりも大事だからである。なぜなら、人類の進化の過程を深く解明することで初めて、人間的な優劣観を取り除くほんとうの道が開かれるからである。人種差別論から脱却する道はこれ以外にない。科学するとはそういうことでもあろう。
 「選ばれる」とは厳しいことである。なぜその人が「選ばれる」のか? その窮極の理由はだれにも分からない。どうしてそうなのかさえも、もっともらしい諸種の理由付けを除けば、未だにだれにも分からない。ただ「選ばれる」、これが「選び」である。それ以上でもそれ以下でもない。不思議でもあり、もっともらしくもあり、有り難くもあり、厳しくもあり、美しくもあり、恐ろしくさえある。言うまでもないことだが、こういう「神の選び」は、人間が「自分は選ばれている」と思い込む思い上がりなどとは何のかかわりもない。全人類が「進歩する」希望があるとすれば、「選ばれる」のは、まだ「選ばれていない」人たちのためであるというのが、新約聖書の、例えばヨハネ福音書のメッセージだということになる。
■モーセ伝承
 モーセとその指導の下でのイスラエルの出エジプト伝承は、創世記(40〜50章)と出エジプト記と民数記に記されている。モーセ伝承とは、ヤコブとその息子たちのエジプト定住に始まり、ファラオによる迫害、モーセの生い立ち、ミディアンへの逃避、燃える柴の前での神との出会い、~名「ヤハウェ」の啓示、エジプトでの十の災害と過越、出エジプトと紅海の横断、シナイでの神の顕現と契約、十戒の授与、荒れ野の旅、モーセの死である。
 イスラエルのエジプト定住が始まったのは前18世紀〜17世紀で、出エジプト記12章40節によれば、その「430年」の後に、エジプト第十九王朝のおそらくはラムセス2世の時に、出エジプトが行なわれた(前1250年頃)。モーセの伝承から史実を選り分けるのは困難であり、「モーセ」というエジプト起源の名前とその人物像を歴史的に確定するのも難しい。ギリシアの英雄ペルセウスやアッカド王サルゴンやアケメネス朝ペルシア帝国の王キュロス(ギリシア語読み)が、モーセ像のモデルだという説さえある〔エリアーデ『世界宗教史』(T)197頁〕。ただし、わたしたち「宗教する人」の歴史的過程を探る上で言えば、伝承か史実かを厳密に区別することは必ずしも重要でない。
 現在では、イスラエルの十二部族の出エジプトも十二部族全体のカナンへの侵攻も、後の時代(捕囚期以後)に形成された史観に基づくもので、ほんらい、おそらくはレビ族出身のモーセとその部族が、出エジプトをはたして後にカナンに侵攻し、すでにそこで定住していた他の部族と連合をはたすことで、モーセとレビ族を中核とする出エジプト物語全体が構成されたという見方もある〔ジョンソン『ユダヤ人の歴史』(上巻)75頁〕。
■モーセの神
 古代オリエントやエジプト、古代インドや日本古来の多神教から、例えば中国の「天」あるいはギリシア神話のゼウス、日本のアマテラスのように最高神が現われる。多神教のエジプトでも、エジプト第18王朝の宗教改革者アク・エン・アテン王(在位前1372〜1354年)が崇拝した太陽神アメン・ラーは一神教の神であった。ただし、「おお、他に比類することなき唯一の神よ!」〔アメンヘテプ4世「アテン賛歌」より『古代オリエント集』614頁〕とあるように、アメン・ラーは、ほとんど「唯一~」に近いと言ってもよい〔エリアーデ『世界宗教史』(T)115頁〕。多神教から最高神を経て唯一神教へいたるこの移行は、人類の神観がたどる歴史的な過程から見て自然な成り行きである。
 すでに見た通り、アブラハムの神は土地も神殿も持たない一神教の神であった。モーセは、長期にわたるエジプト在住の間に学んだエジプトの文化と宗教の影響を受けているが、同時に、アブラハム以来のメソポタミアの神観を父祖の神とし受け継いでいる(出エジプト記3章16節)。しかも彼は、アク・エン・アテン王の宗教改革によるエジプトの太陽神アメン・ラーの(唯)一神教を知っており、エジプトの宮廷に伝わる「知恵の教訓」の影響を受けていると思われる。
 モーセは、ミディアンで出逢った神から「ヤハウェ」(有りて有る者)という~名を初めて啓示された。ところが啓示を受けたモーセは、「自分はいったい何者ですか?」と、自己のアイデンティティーをヤハウェに向かって問いかけている。ヤハウェからエジプトへ向かうよう指示された時も、「エジプトに住むイスラエルの民に神についてなんと答えるべきでしょうか?」と尋ねている。「ヤハウェ」は、アブラハム以来の父祖の神でありながら、同時に未知の神なのである。「ヤハウェ」もまた、アブラハムの「エール」同様に、未知の宇宙論的な~観を受け継いでいる。そもそも「わたしは有りてある者」を指す「ヤハウェ」とは、ほんらい固有名詞なのか?という疑問さえある。ある意味でこの~名は、宇宙的な存在それ自体を極めがたい神として言い表わしているとも言える。
 先に指摘したように、アブラハムの「エール」は、遊牧民の父祖霊への逆行ではない。彼の~観は、神殿王国の体制下で発達した宇宙論的な~観だけでなく、神殿で王権を支える天の宮廷の廷臣たち「神の子たち」(ベネ・エロヒーム)をも受け継いでいた。モーセの「ヤハウェ」も、牧畜民の宗教の伝統を受け継いでいるから、アブラハムの神(エール)同様に一所不住であり、神殿を持たず、人格を具え、人との契約による「選び」の神である。それでいて、天における「至高の王権」というアブラハムの「エール」の神殿王国的な~観をも具えているから、「エール」と「ヤハウェ」が、モーセにおいて同一化したと言えよう〔エリアーデ『世界宗教史』(1)199頁〕。
 アブラハムからモーセにいたるイスラエルの神観は、もろもろの神々を従えた最高神と言うよりも、どちらかと言えば「独り神」である。だから、アブラハム=モーセの~観はまだ一神教の段階にある。宇宙を動かすすべての力はいったいどこから来るのか? モーセは、目に見える神殿でも王権でもなく、さらに、王権の背後に控える太陽や星星の力さえも超えた力の源を人格的なヤハウェとして認識した。この神以外にはどこにも力の源は存在しない。王権も悪魔もこのヤハウェ神と並び立つことができない。だから、モーセはこのヤハウェ神の像を刻むことを拒否した。理性的に考えるなら、神の像は、人間の不遜以外のなにものでもないからである〔ジョンソン『ユダヤ人の歴史』(上巻)69頁〕。この神観は、古代の宗教観において革新的な意義も持つものであったが、「宗教する人」にとっても画期的なことであった。ただし、偶像否定のモーセのこの~観は、後にイスラエルの偶像破壊行為となって、周辺の他民族からの敵意を招く原因となる(出エジプト記34章13〜16節)。
 偶像~は生命を再生し増殖させることができる。しかし、宇宙のリズムそれ自体が危機に瀕するような<人類の歴史の恐怖>においては、一~教がその力を発揮する。原始宗教において最高神は、通常「沈黙する」閑な神であるが、他の神々や先祖の諸霊への訴えがことごとく空しく終わった時には、この「閑な神」が力を発揮する。一神教であり最高神でもあるヤハウェ神が、その特徴を発揮するのもこのような危機においてである。モーセが直面したイスラエルの民の危機は、当時のエジプトを襲った大災害と考え合わせるなら、まさにこのような「歴史の恐怖」体験であった。そこから抜け出すために起こったのが「過越」の出来事である。
 このように、モーセは、アブラハム以来の「エール」~を父祖の神として、遊牧民特有の過越祭の供犠を取り込み、この過越と出エジプトを結んでヤハウェの出来事を歴史的に現実化した。ヤハウェのこの行為が「聖なる歴史」となることで、宇宙的な神観を「歴史的出来事」として位置づけることによって、モーセは、従来見ることがなかった神信仰を人類の神観に導入した〔エリアーデ『世界宗教史』(T)198頁〕。結果として、インドとギリシアにおいて形成された永遠回帰の思想は、ユダヤ教がもたらしたこの神観によって根本的な変革が迫られることになった。ユダヤ教では歴史の時間は初めと終わりを持つからである。循環する時は打ち棄てられ、聖なる時は、<不可逆の歴史的時間>において顕現する。ヤハウェのこの行為は、選ばれたイスラエルの民にのみ「歴史的な干渉」によって聖性を啓示する。多神教から「閑な神」としての最高神へ、そこから、「働きかける」ヘブライの至高の一神教へ。多神教から唯一~へいたる人類の神概念の移行をイスラエルの~観は鮮明に体現している。
■十戒とモーセ律法
〔モーセ以前の法典〕
 最古の法典は、ウル第三王朝の「シュメールとアッカドの王」であるウルナンムが編纂したものである(前2050年頃)。アブラハムはこの法典を知っていた可能性がある。さらに古代エシュナンヌ王国の法典で、2枚の粘土板にアッカド語で刻まれた法典がある。最もよく知られているのが、先に紹介したスサで発見された閃緑岩の石碑にアッカド語で刻まれたハンムラビ法典(前1728年〜1686年)である。前15世紀頃の中期アッシリア時代の粘土板の法典も発見されていて、これがモーセの時代に最も近い〔ジョンソン『ユダヤ人の歴史』(上巻)58〜59頁〕。
 メソポタミアに比して、神々と王権が一体化されていたエジプトでは、実生活への知恵あるいは教訓の形で幾つもの遺訓が遺されている〔ジョンソン『ユダヤ人の歴史』(上巻)59頁〕。エジプトでは、法典ではなく「知恵」「教訓」が宮廷の官吏の養成学校などで教えられていた。『宰相プタハヘテプの教訓』(第五王朝末の前2400年頃)、『アメンエムハト一世の教訓』(第十二王朝の前1962年頃)、『ドゥアケティの教訓』(第十二王朝の初期頃)、『アニの教訓』(第十八〜二十王朝の前1552年〜1070年)、さらに時代が下ると『アメンエムオペトの教訓』(前13世紀頃から前600年頃まで?)があり、この『アメンエムオペトの教訓』はソロモンの王宮でも採り入れられて、旧約の箴言と並行する内容が多いことで知られている〔筑摩世界文学大系『古代オリエント集』501頁〜559頁〕。これで見ると、古代エジプトの教訓では『アニの教訓』がモーセの時代に最も近い。事実この教訓には、神(太陽神)を敬え(7)、訴訟を起こすな(10)、偽りを言うな(15)、親を敬え(12)、他人の財産をあてにするな(26)、学識を尊べ(33)、女性に惑わされず妻を大切にせよ(50/51)などとある。
 アブラハムの~観は、エールの宇宙的構造と王権信仰を受け継ぎ、神の神殿において神に仕える「神の子たち」(ベネ・エロヒ−ム)思想も取り込まれている。「神の子たち」は、神殿の主神に仕える神々のことであるから、彼らは言わば「神の宮廷」の廷臣たちである。同時に、彼らは王に仕える廷臣たちの保護~たちでもあったのだろう。ただし、これは最古のメソポタミアの神殿王制の宗教であって、古代エジプトでは、神と王が一体化した神殿王制であるから事情が異なっている。エジプトの神殿王制は「神王」思想に基づいている。この場合、王自体が絶対的な権威であるから、法典は必ずしも必要ではない。だからエジプトの教訓は日常生活への規則に限られていて、「マート」(義/知恵/教訓)として、宮廷内で発達したものである。
 メソポタミアでは、すでに、法の権威を尊ぶハンムラビ法典が存在していたから、モーセの十戒も、その法体系はメソポタミアの法に基づくところがある。しかし彼はエジプトの「教訓」をも採り入れている。ただし、自国の神の神殿礼拝と異教を崇拝する異民族に対する好戦的な敵対関係は不可分であるから、モーセのヤハウェは、事異教と異教徒に対する好戦的な敵対意識おいて他に劣るところがない。むしろ偶像を礼拝する異教の民に向けられる「熱情の神ヤハウェ」(出エジプト記20章5節)の敵意は、より先鋭化されている。共同体を供犠(くぎ)によって罪から守り、敵対する異教の共同体を供犠の対象とする内なる平和と外との対立関係、モーセ律法は、この二分法的を鮮明に保持していると言える〔エリアーデ『世界宗教史』199頁〕。
〔言語化された啓示〕
 伝承によると、モーセはシナイ山で、神から啓示を受けて神からの言葉を「十の言葉」(十戒)として民に伝えた(出エジプト記19章9節/同20章18〜19節)。彼は、この啓示を通して呪術的なカリスマ性を体現する者となった。モーセが受けた啓示は、夢やヴィジョンではなく、明確な「言葉」として彼に臨んだことに注目しなければならない。モーセはこの「十の言葉」を<書き記した>(出エジプト記24章4節)とあるが、後にこの伝承は、おそらく祭司資料編集者たちによって(前6世紀の捕囚期の頃か?)、「神が直接に十戒を2枚の石板に神の指で刻んだ」と言われるようになった(出エジプト記31章18節)。ちなみにこの二枚の石板は、ソロモンの神殿時代には至聖所の律法の櫃(はこ)に収められていたが、新バビロニアによる捕囚の時に持ち去られたのか、それ以後は失われている。
 モーセが、エクスタシー状態に陥り、啓示を通して「神の言葉」を受けた最初の預言者なのかどうかは確定できない。しかしモーセは、占いや「ローエー」(未来を<見る>預言者)ではなく、啓示を明確な「言葉」として体験した預言者であるのは間違いない。「言語化」は人間の理性の働きに深く関わるから、モーセにおいて、神の霊感に基づく啓示は人の理性の働きと結びつくことになる。モーセ律法の合理性あるいは透徹した論理性は、おそらく啓示の言語化と無関係ではない。彼は、宇宙の最高神である見えざる神(ヤハウェ)からの啓示を「言語化」するという大事な使命を実現したおそらく最初の預言者である。モーセがシナイ山で啓示を受けた出来事は、集団的な無我状態や共同体全体のカリスマ的エクスタシーの状態から、至高の神からの啓示が、人間の理性に訴える明確な言語として法制化された記念すべき出来事である。「神の指」とは神からの霊感を指すから、このことが、後に聖書の逐語霊感説の起源となった。
〔聖なる律法〕
 モーセの十戒に始まる律法は、古代オリエント国家の場合のように、王の発布による法典ではなく、神からの啓示に基づくところに基本的な違いがあった。イスラエルでは、立法はすべて神によるから、イスラエルの王たちは自らの権威による法典の制定を決して許されなかった。法典を授与したモーセは、王ではなく啓示を受けた預言者である。だからモーセ自身さえ、啓示された十の言葉を変えることも、これに新たに加えることも許されなかった〔ジョンソン『ユダヤ人の歴史』(上巻)59頁〕。
 「十の言葉」のおそらく原初の形は、例えば次のようだったのだろう(出エジプト記20章1〜17節参照)〔ジョンソン『ユダヤ人の歴史』(上巻)62〜63頁〕。
 
序言「わたしはあなたの神ヤハウェである」
第一戒「わたしのほかに何ものをも神としてはならない」
第二戒「自分のために偶像を彫ってはならない」
第三戒「あなたの神ヤハウェの名をみだりに口にしてはならない」
第四戒「安息日を覚えよ」
第五戒「あなたの父母を敬え」
第六戒「殺してはならない」
第七戒「姦淫してはならない」
第八戒「盗んではならない」
第九戒「偽りの証しをたててはならない」
第十戒「貪ってはならない」。
 
 第一戒から第三戒までは、アブラハムの「エール」信仰をほぼそのまま受け継いでいる。第一戒と第二戒は分かちがたく結びついていて、神の像を刻まないことは、真の神ヤハウェと偽りの神を区別するためである。この戒めによって、イスラエル共同体の結束をヤハウェ信仰で強固にすると同時に、共同体の内と外とを厳しく分離しているのである。アブラハムの場合とは、~名が「ヤハウェ」であることが大きな違いである。神のこの御名は、当時のどこにも見られなかった~名であろう(「ヤハウェ」は、ほんらいモーセが避難していたミディアンの部族の神名だったと言う説もある)。ただし、「わたしは有りてある者」という意味が、はたして、当時の神々の固有名詞と同じに見ることができるかどうかが、問われている。第四戒の安息日は、その起源がバビロニアの天文学までさかのぼるが、より直接にはカナン定住以後に定められた制度である。イスラエルでは、安息日は、神が定めた聖なる日として、他のオリエントのどの諸民族よりも厳格に遵守された。安息日制度は後の新ユダヤ教時代には詳細な法体系へ発展する。第五戒から第九戒までは、メソポタミアの法典とエジプトの教訓にも見られるものであるが、モーセ律法の場合は、エジプトの知恵思想が反映しているのかもしれない。
 先に指摘したように、古代の法典は、王が制定したものであったから、世俗の事柄に関するものが主で、したがって法典の改廃が可能であった。これに対して、モーセ十戒を初めとするイスラエルの律法は、ただ神だけが律法を制定することができたから、言わば「不磨の大典」であり、イスラエルの王さえも律法の制定が許されなかった。しかも、モーセは王ではなく預言者だから、モーセ律法には、世俗と宗教的な聖性の区別が希薄である。したがって、イスラエルでは、たとえ世俗の事柄でも、法(律法)に背くことは神に背くことになる。
 古代の法典は財産権を中心に構成されているが、モーセ律法は神を中心に構成されている。だから古代の王権に基づく法典では、王の権限で恩赦を与える余地が残されていたが、モーセ律法では、死刑に値する者に区別も容赦もない。したがって、人の死に関しても、古代の法典では賠償を支払えば済むことでも、モーセ律法では決して許されなかった〔ジョンソン『ユダヤ人の歴史』(上巻)〕。
 ただし、人命についてモーセ律法は、他の法典に見られない特質を具えている。「人は神の形に似せて作られている」(創世記1章26〜27節)とあることが、十戒の後半において重視されているからである。ノア契約の場合に見たように、みだりに人命を断つのは神への冒涜と見なされた。古代の法典では財産権を侵した場合にも死刑が適用されることがあったが、モーセ律法では、財産に関する罪で死刑にされることはなかった。夫の罪が妻に及んで処刑されることもなく、罪は当人に限られていて、その罪が家族に及ぶことはなかった。古代の法典に比べると、人命尊重の視点から、例えば鞭打ちの刑の場合でも、人の身体を傷つけることに慎重であった〔ジョンソン『ユダヤ人の歴史』(上巻)61頁〕。ただしここで言う「人命」とはイスラエル共同体の内部の人だけに関わることであって、一度(ひとたび)戦ともなれば、異教の諸部族に対する殺戮には容赦するところがなかった。
■モーセ共同体の特徴
〔部族連合〕
 イスラエルの十二部族が、何時どのような過程で連合したのかは、まだよく分かっていない。モーセに率いられた民が、シナイ半島を通り、カナンの南部に到達した頃、おそらくはカデシュ・バルネアあたりで、ユダ族、レビ族、ルベン族、エフライム族など幾つかの部族の間で最初の連合契約が結ばれたのではないかとも想定される。カデシュ・バルネアは、当時のツィンの荒れ野の南部にあたり、シナイ半島における現在のイスラエルとエジプトの国境線のちょうど真ん中になる(民数記13章26節/同20章1節/同27章14節/申命記2章14節などを参照)。十二部族全体の連合はカナン定着以後のことであろう。部族連合はイスラエル共同体の特徴の一つで、この連合は後に南北の二王朝に分裂する原因ともなった。モーセは、部族の祖霊信仰を克服して、ヤハウェの下にこの連合を成功させたと考えられる。共同体内の平和と結束を固くすると同時に、部族連合によって、多数の集団を一つの宗教理念のもとにまとめることに成功したモーセの功績は大きい。
 モーセ律法も連合契約も古代オリエントの契約関係を反映しているが、モーセの場合は、国家間の条約ではなく、王と民との支配と被支配の関係に基づくものでもなく、ヤハウェ神と共同体との間の契約に基づく律法である。だから、契約遵守と契約違反に対しては、神からの祝福あるいは逆に呪いが伴う。古代国家間の条約でも誓約に伴う神からの祝福と呪いが語られているが、モーセ律法では、それがより直接に神と民との関係で理解されているから、契約違反は「神への背き」となり、これはそのまま領土の喪失へつながることにもなる〔ジョンソン『ユダヤ人の歴史』(上巻)63頁〕。
 言うまでもなく、十戒を中核とする律法全体は、はるか後のおそらく捕囚期からそれ以後に整備されたものである。しかし、イスラエル共同体に受け継がれている「割礼」は、ほんらい結婚前の成人儀礼として行なわれていたと考えられる。メソポタミアでは、この風習が見あたらないが、この風習は古く、カナン地域のエドム人、モアブ人、アンモン人、さらにエジプトでも行なわれた。ただし、それも前2千年には廃れていた。だから、イスラエル共同体の割礼は古い時代の風習を保持していたことが分かる〔ジョンソン『ユダヤ人の歴史』(上巻)66〜67頁〕。
〔高い倫理性〕
 十戒は、法としては簡潔であるが、その倫理性の高さゆえに現在でも十分通用する。第五戒以下が完全に守られている国家あるいは民族の共同体は、21世紀の現在でさえ世界のどこにも存在しない。この共同体が部族連合であったことを考え合わせると、3000年前の古代で、これだけの倫理性をともかく保持していたのは驚きに値する。もとより、違反や反逆さえなくはなかったから、モーセは民の罪のために己を神への犠牲として献げなければならなかった(出エジプト記32章31〜32節/民数記14章11〜19節)。イスラエル共同体内での、この倫理性は相互信頼と結束の固さをもたらすことができた。
〔人命の尊重〕
 十戒の特徴は、共同体内の人の生命と財産を奪ってはならないことが、直接~名によって命じられていることである。「血」は命であり、「命」は神(ヤハウェ)から出ているというイスラエルの宗教が、この律法を支えているのは間違いない。共同体の生存が、そのまま共同体を形成する個人の生存への希求と結びついていて、これが神の名によって聖なる掟とされていることは、民の犠牲の上に王権が成立する古代国家においては希であり、この人命尊重の思想は、現代まで個人の基本的人権として受け継がれることになる。
〔法の下の平等〕
 モーセさえも、神の前に罪ありと認められて、その罰を免れることができなかった。共同体内部では、法的な差別が認められなかったからである。法の下の平等というこの思想は、後にフィロンがこれを「民主政」と呼んだように、後代の立憲政治へ発展する最良の仕組みであったから、律法の下での平等性は、民主政治を導き出す起源となった。モーセ律法が、人類の歴史においてもたらした大きな意義の一つがこれである。
〔王権の排除〕
 モーセ以後に、預言者サムエルの時代に、イスラエルにも「王」が誕生する。しかし、イスラエルの王権は、厳密な意味で神の「代理」であったから、王が神の律法に叛くことも律法を支配することも許されなかった。モーセの神を信じる民が当時の神殿王権制度のエジプトに逆らい、荒れ野へ脱出することを可能にした根底には、この思想がある。この思想は、後に第二イザヤの「主の僕」思想へ発展することになる〔ジョンソン『ユダヤ人の歴史』(上巻)72〜73頁〕。
〔偶像禁止〕
 十戒は厳格な一神教であるから、「偽りの神々」に対する激しい敵意と、契約に基づく絶対の忠誠を誓う熱意に支えられている。だから、ここには、かつての狩猟遊牧の「宗教する人」共同体が有していた内部結束と外部への敵対心がヤハウェと偽りの神という二分法の形でいっそう明確に一体化されているのが分かる(民数記25章1〜13節)〔エリアーデ『世界宗教史』(T)200頁〕。
〔七民抹消〕
 上に述べたイスラエルの偶像礼拝に対する敵意と憎悪が、カナン征服の際に偶像礼拝の民を赦すことなくこれを抹殺するいわゆる「聖絶」の正当化を生み出す根拠になった(申命記3章6節)。カナン侵入に際してイスラエルが行なった「七民抹消」は、この思想に基づくものであり(申命記7章1〜5節)、ダン族が、その移動に際して行なった殺戮もこの思想に基づいている(士師記18章)。これが辞義通りの史実かどうかは確かでないが、申命記も士師記も捕囚期以後に最終的な編集を経て成立したから、イスラエルのこの七民抹消思想が、捕囚期以後にまで及んでいたことに注目しなければならない。
 モーセ共同体による敵と味方のこの二分法は、狩猟民族時代のホモ・レリギオースゥス共同体の性格をそのまま体現している。だから、この点に関する限り、モーセ共同体にホモ・レリギオースゥスとしての「進歩」を見ることはできない。その上、この流血の惨事は、先のノア契約において「すべての人の血を流す」ことを禁じた教えからも明らかに後退している。ただし、ノア契約のこの部分は、捕囚期の祭司資料編集者たちによるから、モーセ共同体の頃から500年近く後のことである。文献的に見れば、モーセ共同体の聖絶からノア契約へいたる移行だと見なすなら矛盾はない。しかし、世界の終末と再創造というノアの神話の時代から、アブラハムに始まる歴史の時代に入るという聖書の内容構成から見るならば、イスラエル共同体の置かれた歴史的な現実から、これが最終的に無血の世界を目指すことになるまでの聖書全体の構図が、ノア契約においてすでに啓示されているのが見えてくる。この点で、創世記2章1〜3節での神の「安息」が、終末で神から授与される「安息」と対応しているという旧新約聖書全体の語りの構造と類似することになる(ヘブライ4章3〜11節)。
 以上モーセによるイスラエル共同体の七つの特徴をあげたが、この共同体が、以後のホモ・レリギオースゥス共同体の有り様に与えた影響は計り知れない。以後のユダヤ教はもとより、キリスト教においても、約3000年前にさかのぼるこの共同体の有り様が、基本的に変わることなく現在も受け継がれていることで分かる。
■過越の出来事
 過越祭は何らかの歴史的な出来事に起源するのは間違いない。この出来事は、奴隷制を底辺に成り立つ古代神殿王国の内部で、奴隷たちが反乱を起こして脱出するという文字通り前代未聞の出来事が起こったことで注目に値する〔ジョンソン『ユダヤ人の歴史』(上巻)48頁〕。これがいかに希な事件であるかは、前73年のローマ帝国内で起こった剣闘士を中心とするスパルタクスの乱が、その頑強な抵抗にもかかわらず、帝国によって鎮圧されたことでも分かる。
 モーセは、宇宙と自然を創ったのが神であるのなら、宇宙と自然それ自体のうちに神が存在することはありえないと考えて、いかなる天体も自然現象も神ならぬ偶像(虚りの~)として退けた。この宗教的な合理性によって、天地の創造主である神を自分たちのただ一人の神として絶対視し、彼は比較的平等な共同体を形成し、法による平等な支配を実現した。律法の下に人命尊重を第一とする宗教によって結束する共同体が、神殿王制国家の組織的で強力な軍事力でも制圧されなかったことを過越の出来事は証ししている。過越は、このような宗教する人共同体が、ある程度の武力を保持する場合、逆に、神殿王制国家の軍事力をも撃破することが可能だということ、このことを証しする歴史的な最初の事例なのである。
 この出来事以後、「過越」に類する事例は多い。圧倒的な軍事力に抗してこれを撃破したペルシアとギリシアのペルシア戦争、少数のマケドニア軍に敗れたペルシアの大軍、ペロポネソス戦争でスパルタの軍事力を跳ね返したアテナイがある。近年では、幕府軍に抗して勝利した長州、アメリカの軍事力に屈することなく勝利したヴェトナムの戦争などがある。
 これらの歴史的な事例は、進んだ宗教的信念と心情に結ばれた民主的な共同体が、一定の条件が整うならば、王制や専制国家に対抗して勝利することができることを示すものである。ただし、過越の出来事に戻ると、ここではエジプトの権力と軍事力に対抗する力は、ただ「ヤハウェの力」だけである。ヤハウェ神のもとで、平等な関係で結束する宗教する人の共同体が、世俗の権力や軍事力による弾圧をも克服して生き延びることができるという、この思想の起源がイスラエルによる過越なのである。
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