22章 神殿再興・苦難の僕・知恵思想
■第二イザヤの救済と終末的創造
 第二イザヤ書(イザヤ40章〜55章)の作者は無名である。彼がはたして捕囚期に「裁判にかけられて処刑された」〔エリアーデ『世界宗教史』(2)262頁〕かどうかは分からない。彼の信仰の最大の特徴は、第一イザヤが預言していたことをさらに徹底させた「唯一神」への信仰である(イザヤ46章9節)。しかも、その唯一~とは「わたしは、終わりのことを初めから、成就されていないことを以前から告げてきた」(同10節/フランシスコ会訳聖書)と告げる神、人類の歴史を終末へ導く神である。第二イザヤがここで預言している神ヤハウェの「成就されていない」業とは、直接には、イスラエルの民であるユダヤ人のエルサレムへの帰還とイスラエルの復興であろう。唯一~ヤハウェによるユダヤ人へのこの歴史的な救済への希望は、過去の出エジプトの出来事に基づいている。しかし、第二イザヤは、その過去の出来事を<これから成就する>出来事の予型(タイプ)と見なす。彼は、かつて起こったヤハウェの業に、これから起こるであろうヤハウェによる「新しい救済の出来事」を読み取っている。「救済」と言うのは、その出来事が、イスラエルが犯した「罪の赦し」と罪からの「贖い」を意味するからである(イザヤ54章7〜10節)。
 第二イザヤの救済観は、過去の出来事に照らして見る「赦しと贖い」の出来事だけではない。彼はさらに、今まで誰も預言しなかったこと、唯一~ヤハウェによる全く新しい「歴史の創造」をも預言している(イザヤ45章7〜8節)。45章8節の「わたしはそれを創造した」〔新共同訳〕とある「それ」とは、キュロス王の出現を指すともとれるが〔フランシスコ会訳聖書〕、より直接には、イスラエルの民の帰還と救済の歴史的な出来事であろう。
 完全に滅び去ったかに見えるエルサレム、この滅びから主ヤハウェによるエルサレムの復興を預言したのは、第二イザヤが初めてではない。すでにホセアもエレミヤもエゼキエルも、イスラエルの復興を預言していた。しかし、第二イザヤは、かつての出エジプトの出来事を予兆として、エルサレムへのユダヤの民の帰還を「全く新しい歴史の創造」として意義づけた最初の預言者なのである〔エリアーデ『世界宗教史』(2)263頁〕。彼は、この預言によって、人類の歴史の終末と、人類の歴史に、それまで存在しなかった新たな「時代」(アイオーン)が訪れるという希望へ道を啓(ひら)いた(イザヤ48章6〜7節)。
 第二イザヤは、イスラエルのエルサレム帰還の出来事を語るのに、キュロスの登場に始まり(41章25節/45章1節)、新バビロニアの滅亡(41章11〜15節)、捕囚からの解放(48章20〜21節)、荒れ野の旅(43章16〜20節)、民のエルサレムへの到着と全地からの集合(43章5〜8節)、エルサレム神殿の再建(44章24〜28節)を「歴史の救済と創造」のドラマとして描き出す。第二イザヤ書全体は、帰還以後に編集され、エルサレム神殿が建つ丘の南側で、ドラマとして実際に民の前で上演されたかどうか〔Bartzer. Deutero-Isaiah. Trans. by Margaret Kohl. Fortress Press (2001)24参照〕、この点は確かでないが、彼の描いた預言のドラマは、捕囚期直後のイスラエルの民の心に深く刻まれ、「受難の僕」伝承として、ユダヤ教に受け継がれることになる。ちなみに、釈迦と孔子と第二イザヤは、共に前6世紀頃の人物で、これにソクラテスを加えると、この四人は、不思議にもほぼ同時期にあたる。この時期は、人類の宗教にとって画期的な時代であった。
■第二イザヤの「受難の僕」
 第二イザヤは、「ヤコブの民」(イスラエルの民)の帰還の出来事と関連づけて、この出来事をもたらした「陰の主役」として、「受難の僕」と呼ばれる一人の人物を登場させている。この人物を彼は「僕の歌」として結晶させているが、「受難の僕」は誰をモデルにしているのか? モーセか〔Bartzer.Deutero-Isaiah〕、エレミヤか、ゼルバベルか、第二イザヤ自身か、「ユダヤ人捕囚のエリートを擬人化した」のか〔エリアーデ前掲書264頁〕、確かなことは言えない。「僕の歌」は、その区切り方において説が異なるが、およそ次のようになる。第一の歌(42章1〜4節)/第二の歌(49章1〜7節)/第三の歌(50章4〜9節)/第四の歌(52章13節〜53章12節)〔フランシスコ会訳聖書42章(注)1〕(「受難の僕」と「僕の歌」について詳しくは、「ヘブライの伝承とイエスの霊性」の25章「第二イザヤ書」〜27章「僕の歌」(後編)を参照)。
 「受難の僕」は、ユダヤの民全体の罪を贖うために、その償いとして自己の身をヤハウェに捧げる。このために彼は、あらゆる苦難を我が身に受け入れる。彼は「虐げられ、苦しめられたが、口を開かず、屠(ほふ)られるための小羊のように引いて行かれた」(イザヤ53章7節)。こうして彼は、「多くの者の罪を担い、彼らの背きのために執り成した」(同12節)。「人としての風貌さえ失われた」(イザヤ52章14節)彼を人々は蔑(さげす)むが、驚くべきことに、ヤハウェは彼に栄光を与え、彼を高挙することで、王侯たちさえ、彼の栄光と高挙の姿を見て、驚いて口を閉じることになる(イザヤ52章15節)。第二イザヤによるイスラエルの救済と新たな創造、これを達成する人物としての「受難の僕」像は、後のイエスに受け継がれ、新約聖書もキリスト教も、この「ヤハウェの主の僕」のなかに、待望するメシア像を見出すことになる〔エリアーデ『世界宗教史』(2)264頁〕。
■離散の民ディアスポラ
 ここで一つどうしても注目しておかなければならないことがある。それは、アッシリアと新バビロニアによる捕囚によって、イスラエルの民が、東はバビロニアから南はエジプトにいたる広範囲に散らされて、いわゆるディアスポラ(離散の民)とされたことである。しかし、ディアスポラとなったイスラエルの民は、その宗教的な絆を失うことなく自分たちのアイデンティティーを保持し続け、それぞれの地方の諸民族に吸収されることがなく、しかも、土地を奪われ農耕手段を奪われながら、驚くべき知恵と才覚によって経済的な生存を造り出すことで、彼らはイスラエルの民としての共同体を維持し続けたことである。これは、必ずしもイスラエルの民だけでなく、近代ではスコットランド人たちも同様の共同体を維持したが、ユダヤの民ほど長期にわたり、しかも広範囲に「ディアスポラ」型の共同体を形成することに成功した民は存在しない〔Arnold Toynbee. A Study of History. The One Volume Edition. Thames and Hudson (1988).65-69.〕。おそらくこの「ユダヤ・モデル」は、新人ホモ・サピエンスが、厳しい地球環境の中で絶滅の危機に瀕しながら、少数のホモ・サピエンスが、生存をかけて地球規模に広がることで、人類の繁栄を獲得した経験にその起源を有するのであろう。この独特の「ユダヤ・モデル」は、後のキリスト教の「エクレシア」(教会)形成のモデルとなっただけでなく、20世紀以後も、グローバルな規模での様々な分野の人間の共同体形成のモデルとなることが予想される。そうだとすれば、新しい時代の訪れを告げる終末の到来と、メシアの支配と散らされた民が再び一つに集められるという第二イザヤ預言には、以後のユダヤ・キリスト教共同体を方向付ける重要な意義を担っていたことになる。
 イスラエルの民は、モーセに率いられて出エジプトに成功した。先に指摘した通り、奴隷がその社会の政治権力に背いて独立を達成した例は歴史的に見て希有な例外である。同様に、国を追われた離散の民が、再び故国を復興させた例もきわめて希であろう。出エジプト記と離散からの帰還、この二つはイスラエルの民に起こった不思議な神の業だと見なさされるのはこのためである。ちなみに、1946年に実現した現在のイスラエルの誕生は、出エジプトと離散からの帰還の二つを合わせた大きな意義を帯びた出来事である。だからと言って、現在のイスラエルの保守派のシオニズムを無条件で正当化する根拠にはならない。ただ、この出来事もまた、これからの人類の歴史と、キリスト教のエクレシアの歩みにとって大事な予兆となる事を予想させてくれる。現世の宗教的現実から「出エジプト」をはたして、世界中の新しいイスラエルの民が離散からキリストの下へ集められるという終末を目指すしるしとなりえるからである。
■帰還とエルサレム神殿の再建
 帰還とその直後のエルサレムとユダヤの歴史的な状況には、6名のキー・パーソンが関わっている。ハガイ書とゼカリヤ書の二人の預言者と、彼らが証言する二人の人物、ペルシア政府によって任命されたユダヤ地区の総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアであり(ハガイ1章1節/同2章2節/ゼカリヤ3章1〜5節)、さらにエズラ記とネヘミヤ記の基となったエズラとネヘミヤの二人である。
 ユダの民が帰還したのは、キュロス王による帰還の勅令が出た後の537年だという説もあるが〔『旧約新約聖書大事典』189頁〕、実際は、それよりさらに後で、ダレイオス王1世の治世の522年だと考えられる〔Anchor(3)770-71.〕。大祭司ヨシュアは、ゼルバベルと共に帰還し、帰還と同時に主の祭壇に犠牲を献げて(エズラ記3章2〜3節)、ゼルバベルと共にエルサレム神殿の再興に務めた(同4章3節)。
 この後にダレイオス1世が、ユダヤの民のエルサレムへの帰還を許可したキュロスの文書を再確認した出来事は、ギリシア語エズラ記3章〜4章に記されており、ヨセフスはこれに基づいて、王の夢や弁論の内容などに自分なりの脚色を加えて、帰還の物語を始めている〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』11巻2章8節〕。これによれば、王の親しい三人の護衛の一人であったゼルバベルが、その知恵を認められて、エルサレム神殿工事の再開とバビロンに残る神殿の聖具の返還を許されたとある。これが第2回目の帰還と続く神殿の再建の時期で、前520〜516/5年のことである。
 神殿とその回廊の完成までの経過をヨセフスの記述に従って叙述すると以下のようになろう〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』11巻4章1〜7節〕。
(1)民はエルサレムの元の場所に祭壇を築き、モーセ律法に従って犠牲を献げた(エズラ記3章1〜5節/ギリシア語エズラ記5章46〜52節)。
(2)神殿再建を始めるにあたり、先ず神殿の基礎を作る仕事を開始した(エズラ記3章6〜7節/ギリシア語エズラ記5章53〜55節)。これは516年のことである〔A Historical Atlas of the Jewish People. 29〕。 
(3)シリアとフェニキアの知事たちは、ペルシアの中央政府にエルサレムの状勢に警戒するよう書簡を送った。このため、ユーフラテス西方のサトラプ(長官/総督/知事)であるタテナイが、シェダル・ボゼナイや仲間の監察官たちとエルサレムのユダヤ人の工事を視察に訪れた(519〜518年)。二人はエルサレムへ来て神殿建設についてゼルバベルとヨシュアに問いただし、その上でタテナイとボズナイは、ダレイオス王に書簡を送って、王からの許可の真偽を確かめることにした(ギリシア語エズラ記5章69〜70節/同6章1〜21節参照/エズラ記5章6〜17節)。この事件は、ペルシア帝国内で一連の反乱が生じていた頃のことであるから、ユダヤの中にも、あるいはこの機に乗じて独立しようとする動きがあったのかもしない。ゼルバベルと大祭司ヨシュアとの間には、この独立問題で意見の違いがあったとも考えられる。
 聖書の記事にはカンビュセス2世の名前はでてこないが、ヨセフスによれば、この王の時代に、シリア、フェニキア、アンモン、モアブ、サマリアなど、ユダヤ周辺の諸民族が、行政官レフムと書記官シムシャイを通じて王に書簡を送り、かつてバビロンに連行された反抗的な民が、「我々の土地に侵入してきて、邪悪な町の建設に取り組んでいる」と訴えた。「生来の悪徳漢であった」カンビュセスは、先祖の記録を調べてユダヤの歴代の王たちが強力で暴力的であったことを認めて、行政官と書記官を通じてエルサレムと神殿の工事の中止を命令した。その結果、工事はダレイオス王の治世まで延期されることになったとある〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』11巻2章〕。
 この出来事はエズラ記4章6〜24節/ギリシア語エズラ記2章15〜25節にでているが、聖書では、この出来事が「アルタクセルクセス王」の時代のことになっている。アルタクセルクセス1世(在位465〜424/3年)は、城壁と神殿の工事が再開されたダレイオス1世(在位522〜486年)よりも後の王であるから、年代的に合わない。このためにヨセフスは、この出来事をダレイオス1世の前の王であるカンビュセス2世の時代のことにしたのであろう。
(4)預言者ハガイとゼカリヤは、ペルシア王からの返答の結果を恐れる民を励まして、神は必ずこの工事を完成させてくださると預言することで、王の返事を待つ間も神殿建設を中断しないように励ましている(ギリシア語エズラ記6章1〜6節/エズラ記5章1〜3節)〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』11巻4章4節95〜96〕。その甲斐(かい)あって、神殿の基礎が終わると、祭司とレビ人たちは大声で賛美し、「昔の神殿を見たことがある年取った祭司、レビ人、家長たちは声を上げて泣いた」とある(エズラ記3章10〜13節)。
(5)タテナイから書簡を受けとったダレイオス一世は、キュロス王のかつての勅令が、メディアのエクバタナにある王室の記録に記されているのを確認し(エズラ記6章1〜5節/ギリシア語エズラ記6章22〜25節)、西方(シリア地方)の知事タテナイに書簡を送り、万事キュロスの勅令通りに行なうよう指示した(ギリシア語エズラ記6章26〜33節/エズラ記6章6〜12節)。
 ギリシア語エズラ記には「ユダヤの長官であり主の僕であるゼルバベル」(同6章26節)とあって、ギリシア語エズラ記はゼルバベルの働きに注目している。なおギリシア語エズラ記6章23〜25節のダレイオス王の返事の部分はアラム語で、同じ主旨のキュロスの命令(同2章3〜6節)はヘブライ語であるが、前者のアラム語版のほうがほんらいのものであろう〔新共同訳『旧約聖書注解』(V)441頁〕。
(6)ダレイオス王の命を受けたタテナイたちは、命じられたとおりにユダヤ人に協力したので、ヨセフスによれば工事は、「神の命令とキュロスとダレイオスの両王の意向を受けて進められ」、7年がかりで、ダレイオス王の第6年のアダルの月の23日に、神殿が完成した(エズラ記6章13〜15節/ギリシア語エズラ記7章1〜5節)〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』11巻4章7節〕。なおダレイオス王の第6年のアダルの月の23日は、前515年4月1日(金)にあたる〔新共同訳『旧約聖書注解』(V)441頁〕。
(7)こうしてアダルの月の23日に、祭司たち、レビ人たち、全イスラエルの人たちが、神殿の奉献に集まり、多くの犠牲を献げてその完成を祝った(エズラ記6章14〜18節/ギリシア語エズラ記7章6〜9節)。ただしヨセフスは、祭司やレビ人たちや長老たちは、かつてのソロモンの壮麗な神殿を思い起こして、できあがった神殿が往事のものに見劣りすること、自分たちの現在の貧しさを思って、「すっかり気落ちして、悲嘆の涙にくれた」〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』11巻4章2節〕と伝えている。
■ゼルバベル
 ハガイ1章1節に「ダレイオス王の第2年6月1日に、主の言葉が預言者ハガイを通して、ユダの総督シェアルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュアに臨んだ」とある。シェアルティエルは、前597年に、南王国ユダの王としてバビロンへ連行されたヨヤキン王(エコンヤ)の長男である(歴代誌上3章17節)。シェアルティエルは、おそらくペルシア王キュロスによってエルサレム神殿の再建を命じられ、捕囚の際に奪われた神殿の祭具をエルサレムへ持ち帰ったと記されているシェシュバツァルと同一人物であろう(エズラ5章13〜14節)。「ゼルバベル」とは「バビロンの末裔」を意味するから、彼はバビロン捕囚の間に生まれたと思われる。
 ゼルバベルは、祭司ヨツァダクの子ヨシュア/イエシュアと共にエルサレムへ帰還して、第二神殿の建設を指導した(エズラ2章2節/ネヘミヤ7章7節)。マタイ1章12節ではシェアルティエルの子がゼルバベルとある(ルカ3章27節では、ゼルバベルのほうがシェアルティエルの父になっているが)。ともかくこれで見ると、ヨヤキン王→シェアルティエル→ゼルバベルという王位につながる系譜が見えてくる。ゼルバベルはペルシア帝国によって任命されたユダの総督であり、ヨシュア/イエシュアは大祭司だとあるから(ハガイ1章1節)、ゼルバベルが政治的に指導し、ヨシュアは宗教的な面での指導を司ったのであろう。「総督」とは、ペルシア王国の諸地域を治める地方長官のことであるから、ゼルバベルは、ユダヤの支配を任せられたペルシアの役人だったことになる。
 ゼルバベルは、大祭司ヨシュアと共に、ハガイとゼカリヤの預言に従って、エルサレム神殿の建設を始めた(エズラ5章1〜2節)。彼らは先ず、主の祭壇を築き、そこで朝夕、絶やすことなく焼き尽くす献げ物を献げた(エズラ3章2〜5節)。それから、神殿の土台が築かれ、前536年に、土台の完成を祝う祭りが盛大に執り行なわれた(同8〜13節)。ところが、周辺の諸民族からの妨げに出逢って、それ以後の神殿工事は中断を余儀なくされ、そのままキュロス王の治世と続くカンビセスの治世の終わりまで、神殿建築は滞(とどこお)ることになった(エズラ4章)(歴史的に問題があるが、新共同訳の続編にある「ギリシア語エズラ記」2章15〜25節を参照)。しかし、ダレイオス王の時代に、建築が再び許されて(522年)、516年についに神殿が完成に至る(エズラ5〜6章)。これによってゼルバベルの名はイスラエルの歴史に残ることになった(ゼカリヤ4章6〜10節)。それ以後のゼルバベルのことは記録にない。バビロンに戻ったという説もあり、ペルシア王の不興を買って処刑されたという説もあるが、ゼルバベルの名前がある時期から出てこないのは、彼がペルシア政府に対して反乱を企てたか、あるいは反乱の企てが発覚したために処刑されたとも言われている〔Barnavi, ed. A Historical Atlas of the Jewish People.33.〕。
 ゼカリヤ6章12節に「若枝」とあるのは、ダビデの家系につながるメシアを指すが〔フランシスコ会訳聖書ゼカリヤ6章(注)7〕、「二人の間に一致がある」と言われているのは、大祭司ヨシュアと共に栄光に与るゼルバベルを指すのであろう。「若枝」は、ダビデの家系につながる来るべきメシアの表象でもあるから〔『新共同訳旧約聖書注解』V168頁〕、ゼルバベルは、メシアであるイエス・キリストの系図に加えられることになった(マタイ1章12節/ルカ3章27節)。こうして、捕囚期以後に、「ダビデの家から出たメシア」への待望が受け継がれることになる。
■大祭司ヨシュア
 イツァダクの息子のイェホシュア→イエシュア→ヨシュア(左から右へ読み方がなまったもの)は、ゼルバベルと共にバビロンからユダに帰還した(エズラ2章2節/ネヘミヤ7章6〜7節)。彼の名もハガイ1章1節に「大祭司ヨツァダクの子ヨシュア」とある。これで見るとイエシュア/ヨシュアは、祭司/大祭司の家系で、彼の父ヨツァダクの名は歴代誌上5章38〜40節にでている。これによれば、ヨツァダクは、前587年の第2回の捕囚によってバビロンへ連行されている(同41節)。ヨツァダクの父はセラヤで(同40節)、セラヤは、南王国ユダの最後の王ゼデキヤの祭司長で、エルサレム陥落の時にバビロン軍に処刑された(列王記下25章18〜21節)。「祭司長」"the chief priest"とは、ソロモン時代の頃までの呼び方である。「大祭司」という呼び方がいつ頃からかは、はっきりしない。しかし捕囚期に入って、イスラエルの王権が事実上消滅すると、「大祭司」"the high preist"と呼ばれるようになったようである。したがって、大祭司ヨシュアは、処刑されたセラヤの孫に当たる。
 さらに、ヨシュアの父ヨツァダクは、ヨシヤ王の改革の時に律法の書を見つけ出した(大)祭司ヒルキヤ(列王記下22章8節)の子孫にあたる(歴代誌上5章38〜40節)。だからヒルキヤは、ダビデ王の祭司であったツァドク(列王記上1章32〜34節)の家系につながることになる〔Gray, I&II Kings. 768-69.〕。だから、大祭司ヨシュアは、代々の祭司の名門ツァドクの家系の人であろう。このように、ツァドク→ヒルキヤ→セラヤ→ヨツァダク→イエシュア/ヨシュアへと、ダビデ王の時代から南王国ユダのヨシヤ王の時代を経てバビロンの捕囚期へ、さらに捕囚期を経て、帰還後の第二神殿の時代にまでつながる「ツァドク系の祭司」の家系が続いているのが見えてくる。
 なお、祭司ツァドクの家系と、モーセにさかのぼるアロン系の祭司の家系との関係は複雑である。歴代誌上5章29〜40節には、レビ族の子孫として、アロンからヨツァダクにいたる大祭司の系譜がでているが、おそらくこの系図は、ツァドク系の祭司によって後から構成されたものであろう。しかし、ツァドク系がアロンとつながりがること自体は確かなようで〔Anchor(4)309〕、「アロンの子ら」とは、以後ツァドク系の祭司の家系を指すという伝承は以後もイスラエルにおいて変わることがなかった。「イエシュア」はイスラエルではよくある名前で(ギリシア語名「イエスース」=「イエス」はこの名前から)。神殿建築を指導した大祭司エシュアと聖書にでてくるその他の「イエシュア」が同一かどうかはっきりしない〔Anchor(3)770.〕。詳しくは「ヘブライの伝承」22章「神殿と城壁の再興の指導者」を参照。
 大祭司エシュア/ヨシュアは、このように前520〜515年にかけて、捕囚以後のユダヤ人の宗教的な指導者である。それだけでなく、ゼカリヤ6章12〜13節で彼は、捕囚前のイスラエルの王にも匹敵する地位を与えられている。イスラエル内部におけるこの宗教と政治の祭政一致とも言える権威は、以後のヘロデの神殿を経て、いわゆる「第二神殿時代」の終わりまで(紀元後70年)続くことになる。
 大祭司エシュアに与えられた使命は、捕囚とエルサレムの破壊によって汚されていた聖都エルサレムとユダヤの地をヤハウェに対する祭儀によって「再び浄める」ことであった。かつてのエルサレムの第一神殿(ソロモンの神殿)は、王宮と併設されていたが、政治・財政を司る王権と、宗教的な権威を持つ神殿とは、機能的に分けられていた。しかし、捕囚以後の新しいエルサレム神殿は、祭政一致によって、宗教的な祭儀だけでなく財政的な機能をも兼ねることになったのである。しかもユダヤは、政治的にはペルシア帝国の支配下にあったから、捕囚期以前のように独立した政治権力を行使することができず、このため、ペルシア帝国の中央政府との関係がユダヤの政策の重要な課題となった。
 だから、ゼルバベルは、主としてペルシア帝国とその行政区域のひとつであるユダヤとの円滑な関係を維持する仕事に携わり、宗教面では、大祭司ヨシュアが指導的な立場にあったと考えられる。このようにして、大祭司ヨシュアとゼルバベルによる二頭政治が行なわれることになった。ゼカリヤ4章には、ゼルバベルへの主の言葉が語られるが、そこでは「二本のオリーブの木」が霊的な機能を与えられた「二人の油注がれた人」として現われる(同11〜14節)。二人にとっては、何よりも神殿の再建が急務であったが(ハガイ2章1〜3節)、2年後に、二人は、他の人たち共々に、主の神殿の基礎を築くことができた(エズラ3章8〜13節)。
 ハガイ書では、ゼカリヤ書とはやや異なって、ゼルバベルのほうにユダヤの将来への期待が置かれているように見える(ハガイ2章21節)。これに対してゼカリヤ書では、一連の幻と主からの託宣を通じて、大祭司ヨシュアへの戴冠と浄めが語られていて、彼はその汚れた衣服を脱がされて、それまでの不義と恥辱をぬぐい去られて、新たな神の制度を開始するように命じられている(ゼカリヤ書3章)。同3章7節に「わたしの家を治め、わたしの庭を守る」とあるのは、捕囚以前には王権に属していた権力と使命が、政治(ユダヤの家を治める)と宗教(神殿の庭を守る)こととしてヨシュアに課せられているのである。ゼカリヤは、大祭司イエシュアをダビデ王朝の復興をもたらすメシアの予兆だと見なしている(ゼカリヤ書3章8〜9節)。
 それ以後の二人の活躍は、「新しい神殿の栄光は昔の神殿に優るほど」(エズラ2章9節)だとあり、特にゼカリヤ書では、主は「あなたがたのただ中に住まう」(ゼカリヤ2章14節)、「1日の内にこの地の罪を取り除く」(同3章9節)とあり、二人は「オリーブの木」であり「油注がれた者たち」(同4章11〜12節)であり、主は「武力によらず、権力によらず、我が霊によって」(同4章6節)山々は平らにされ、彼らの足下からは「若枝」(同6章12節)で象徴されるイスラエルを救うメシアの到来が預言される。そこでは、「ダビデの家とエルサレムの住民は、彼自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむ」(同12章10節)とあって、来るべき日に受難の僕が受けるであろう十字架への預言さえ語られている。
■ハガイ
 預言者ハガイは、ゼルバベルと大祭司ヨシュアとともにエルサレムへ帰還し、そこで神殿の基礎工事に携わった人物である。だから彼の短い預言には、帰還後の神殿の基礎工事を開始する頃の状況が生々しく語られている。ハガイ1章1節と2章1節では、ハガイの預言が「ダレイオス王の第2年6月1日」(前520年8月29日)に始まったとあり、さらに2章10節に「同じ年の9月23日」にも預言が臨んだとあり、同20節には「同じ月の24日」(520年12月18日)にゼルバベルへ向けて預言が語られている。これで見るとハガイの預言活動は、わずか3ヶ月半だったことになるが、ハガイは神殿の完成を目の当たりにして老齢の身を終えたのだろうか〔岩波訳『十二小預言書』解説377頁〕。
 ハガイも第二イザヤが預言したイスラエル復興への期待を受け継いでいる。ただしハガイは、この希望を「神殿の復興」という具体的な出来事に結晶させている。彼は、この出来事を第二イザヤと同様、主ヤハウェによる「終末的な」出来事だと観る(ハガイ2章7〜9節)。第二イザヤが預言した「新しい時代の創造」が、神殿の再興を境にして、それ以前の時代から新しい時代へと移行するのである(ハガイ2章15〜19節→この部分は1章15節に続けることが提案されている〔新共同訳『旧約聖書注解』(V)151頁〕)。ハガイの「終末」は、この意味で希望に満ちているが、わたしたちは、そこに、以後の時代に及ぶ大事な二つの預言を読み取ることができる。
 一つは、ゼルバベルへに向けられたほとんどメシア的とも言える期待である(ハガイ2章20〜23節)〔エリアーデ『世界宗教史』(2)266頁〕。ゼルバベルは、ダビデ王朝から奪われた指輪(エレミヤ22章24節)を再び与えられるから(ハガイ2章23節)、彼は、ダビデの家を復興させるべく期待されているのが分かる。ハガイのこの預言は、以後にダビデ的なメシアの到来への預言へ道を開くことになる。
 もう一つは、第二イザヤの預言を受けたヤハウェによる「新たな創造の時」の訪れを告げることである(ハガイ2章15節)。ハガイは、第二イザヤの「新しい天と地を創造する」とある預言にならって、ヤハウェは「もう一度、天と地、海と陸とを揺り動かす」と預言する(ハガイ2章6節)。世界を破壊するほどの宇宙全体への古代からの預言がここに表われているのを見る〔エリアーデ前掲書267頁〕。
 ただし、神殿復興を目指すゼルバベルたちの前には、様々な障害が立ちはだかっている。ハガイは、異邦人と混ざり合うサマリアの民を「汚れた」ものと見なしているが(2章11〜14節)、当時のサマリアの内部は、人種的にも宗教的にも複雑であったと思われる。帰還のユダヤ教の指導者たちは、彼らを一様に「汚れた民」と見なし、神殿建築においても、サマリアからの援助の申し出を断わっている。さらに、帰還の民自身も、荒廃した土地からのわずかな収穫に気落ちし(ハガイ2章16〜17節)、財政的に逼迫(ひっぱく)して(2章8節)、神殿再興への足取りは重かったようである。「元気を出せ。そして復興の仕事に着手せよ」(2章4節)と、ハガイは帰還の民を励ましている。
■第一ゼカリヤ書
 ゼカリヤ書は、1章〜8章の第一ゼカリヤ書と、9章〜14章の第二ゼカリヤ書のふたつに分かれる。第一ゼカリヤ書では神殿はまだできていないが(ゼカリヤ2章4節:着手する「仕事」とは神殿の再建のこと)、第二ゼカリヤ書では、すでに神殿が存在する(14章16〜20節:エルサレム神殿への「巡礼」が語られる)。第一ゼカリヤは、ハガイの後を受けた預言者であるが、第二ゼカリヤは、一人あるいは複数の編集者たちで、第二ゼカリヤ書の成立時期は、アレクサンドロス大王以降で、ギリシア系の王朝による支配時代、前4世紀〜前2世紀であろう〔フランシスコ会訳聖書ゼカリヤ書解説〕。今回の項目では第一ゼカリヤ書だけを採りあげる。
 ゼカリヤ1章1節には、ゼカリヤの預言が「ダレイオス王の第2年目〔前520年〕の第8の月〔10〜11月〕」に始まったとあるから、ハガイの預言(ハガイ1章1節)より2ヶ月遅れて預言を開始したことになる。ゼカリヤは、ゼルバベルたちと共に帰還した祭司イドの子で、ベレクヤの子(したがってイドの孫か)だから(ゼカリヤ1章1節)、彼は祭司の家系で、まだ若かったと思われる〔岩波訳『十二小預言書』解説378頁〕。第一ゼカリヤ書では「ダレイオス王の第4年」(同7章1節)のことが預言されているから、神殿の完成が「ダレイオス王の第6年」であれば、第一ゼカリヤはこれを見ることができたであろう。
 わたしたちは第二イザヤを通じて、「主の訪れ」の終末的な到来と、諸国の民が主を崇める新たな時代の創造への預言、これと共に「苦難の僕」というメシア像を見てきた。第一ゼカリヤ書では、「苦難の僕」のメシア像に代わって、ダビデの血を引く「油注がれた二人のメシア」(4章13節)が登場する〔フランシスコ会訳聖書(注)4参照〕。だから第一ゼカリヤ書では、メシアは、世俗の権威を代表するゼルバベルと宗教的な権威を帯びる大祭司ヨシュアの二人に分けられる。第二ゼカリヤは後に、二人に代表されるこれら二つの権威をエルサレムへ入城する「一人の王」として預言している(ゼカリヤ9章9〜10節)〔エリアーデ『世界宗教史』(2)268〜69頁〕。第一ゼカリヤ書では、第二イザヤが預言したヤハウェによる「新たな創造の時代」が「神殿の再興」によって到来する(ゼカリヤ2章14〜16節)〔新共同訳『旧約聖書注解』(V)159頁〕。民が犯した罪によるヤハウェの「裁きと破壊」の過去が過ぎ去り、新たな「恵みと救い」の時代が始まるのである(ゼカリヤ8章14〜15節/同18〜22節)〔エリアーデ前掲書266頁〕。こうして過去と未来の二つの時代が、「ヤハウェが臨在する神殿」の復興によって区切られることになる。
 第一ゼカリヤが見た幻を概観することにする。
(1)第一の幻では、ミルトスの木立の中いるヤハウェのみ使いが、ゼカリヤに天から遣わされた天使たちとその指揮官を見せる。指揮官は赤毛の馬に乗り、背後に栗毛の馬や白馬に乗る天使たちを従えている。指揮官はそのヤハウェのみ使いに「全地は平穏です」と報告する。神殿再興の時期が訪れたのである。
(2)第二の幻でゼカリヤは、かつて、ユダ王国とイスラエル王国よエルサレムを滅ぼした四つの角を見る。それからヤハウェ(?)はゼカリヤに四人の鍛冶職人〔岩波訳〕を見せて、彼らはユダを蹴散らした諸国民を追い払うと告げる。神殿再興が可能になったのである。
(3)際三の幻で、ゼカリヤは(神殿再興のための)測量の測り縄を持つ人を見る。もう一人の天使が現われてゼカリヤを導く天使に「あの若者」(ゼカリヤ)に告げよと言う。それはヤハウェ自身からの託宣で、ユダの民は「北の国」(新バビロニア)から逃れ出て、ヤハウェ自身がユダの民の真ん中に住み(神殿のこと)、諸国民もヤハウェを礼拝に(神殿に)来ると告げる。
(4)第四の幻でゼカリヤは、彼を導くみ使いから幻を見せられる。大祭司ヨシュアと彼を告発する敵対者(サタン)の二人がヤハウェ(のみ使い)の前にいる。ヤハウェ(のみ使い)はサタンに「ヤハウェはお前の(ユダの罪に対する)告発を斥けて、エルサレム(大祭司ヨシュアが代表)のほうを選んだ」と告げる。大祭司ヨシュアは、(ユダの民の犯した罪の)汚れた衣を脱がされて、「清い被り物」を与えられ、忠実に神殿を治めるよう命じられ、ヤハウェの名を刻んだ(七つ面の?)石(大祭司の胸につける宝石)を置くと告げられる〔フランシスコ会訳聖書〕。大祭司は、「若枝」と呼ばれるヤハウェの僕(メシア)が来ると告げられる。
(5)第五の幻でゼカリヤは、彼を導くみ使いから、灯火をともす七つの皿のある金の燭台(神殿でのヤハウェの臨在を表わす)見せられる。み使いはゼカリヤに、ゼルバベルが「武力によらず主の霊によって」神殿を建てるための土台となる「石」を置くと告げる。また、燭台の両側には二本のオリーブの木があり、それらは油注がれた者(大祭司ヨシュアとゼルバベル)である。
(6)第六の幻でゼカリヤは、空飛ぶ巻物(長さ9メートル巾4.5メートル)を見る。それは「全地への呪い」を表わし、両面には「盗人」と「ヤハウェの名によって偽りの誓いをする者」(ヤハウェとの契約を偽わって契約を破る者)の名が記されている。神殿再興に伴う新たな契約が始まるからである〔新共同訳『旧約聖書注解』(V)163頁〕。
(7)第七の幻でゼカリヤはエファ升(23リットル)を見る。み使いが彼に告げるには、その升は全地の罪を表わす。鉛の蓋を開けると一人の女(邪悪を表わす)が座っている。翼をつけた二人の女(天使)が舞い降りてきて、その升をシンアル(バビロン)へ運ぶ。そこでの(偶像礼拝の)神殿のためである。
(8)第八の幻でゼカリヤは、二つの青銅の山(神殿の入り口の2本の柱で東の日の出の太陽が差し込む方角を向いている)の間から四両の戦車が出てくるのを見る。それぞれ(二頭立ての?)赤い馬と黒い馬と白い馬とまだらの馬に引かれている。それらは東西南北に向かうヤハウェの支配を表わす。
 八つの幻は6章で終わり、続いて、主の神殿を建てる者(ゼルバベル)が「若枝」と呼ばれ、大祭司ヨシュアには冠が与えらる。再興された神殿において二人の間には「平和の一致」があり(ゼカリヤ6章9〜13節)、エルサレムでは「互いに真実を語り、城門の前(裁判を行なう場)で真実と平和をもたらす正しい裁き」が行なわれ(8章16節)、イスラエルの民は全地から再び呼び集められ(8章7〜8節)、全世界がエルサレムへの巡礼を求めるようになる(8章23節)。
■エズラ記とネヘミヤ記の資料批判
 先ずエズラ記の記述を資料として見ると、次のような性質を具えている〔『旧約新約聖書大事典』192頁〕。
(1)エズラ1章1節〜4章5節のキュロス王の勅令から工事の中断までの記事はまとまった資料として信憑性を持つと見なされており、主としてハガイ書とゼカリヤ書を基に書かれたと考えられる。
(2)エズラ8章15〜17節/同21節/同31節:この部分には「わたし(たち)」が用いられているから、ここは「エズラの覚え書き」とされていて、信憑性を持つと考えられる。
(3)ところが、エズラ4章8節〜6章18節のアルタクセルクセス王への書簡から神殿の完成までは、「この文書はアラム文字で記され、アラム語に訳されていた」(4章7節)とあって、以下6章18節までと7章12〜26節のアルタクセルクセス王の書簡はアラム語で書かれている。しかし、アルタクセルクセス1世(在位前465〜前424年)はペルシア帝国初代のキュロス2世から数えて5代目であるから、神殿完成の時期と合わない。また書簡の内容は、神殿建築ではなくエルサレムの<城壁の>建築である(4章13節)。だから、これはエズラ5章以下の神殿建築の<以前の>ことではありえない。したがって、この部分の記述は、記事の内容それ自体に信憑性があるにもかかわらず、王名がまぎらわしいために、後に(歴代誌の編集者によって?)年代的に誤って挿入されたと考えられる。
 次にネヘミヤ記の記述を資料的に見ると次のようになる〔前掲書〕。
(1)ネヘミヤ1章〜7章/10章/12章27〜43節/13章には、「わたし(たち)」が用いられているから、「ネヘミヤの覚え書き」とされていて、ネヘミヤ自身によると考えられる。
(2)ネヘミヤ記2章1節にネヘミヤがエルサレムに到着したのは「アルタクセルクセス王の第20年に」とある。彼は12年間エルサレムにいた(同5章14節)。この「アルタクセルクス王」の治世は少なくとも32年間は続いていたことになるから(同13章6節)、この王は「アルタクセルクセス1世」(治世前465/4〜前424/3年)を指していると考えられる。
(3)これに対してエズラ記によれば、エズラのエルサレム到着は「アルタクセルクセス王の第7年」(エズラ7章7節)とあるから、エズラのほうがネヘミヤよりも13年早くエルサレムへ到着していたことになり、従来これが定説とされてきた。ところが近年(1986年)、エズラのエルサレム到着はアルタクセルクセス<2世>の時ではないか?という説が出された。そうだとすれば、神殿の再建の<後で>ネヘミヤが到着してエルサレムの城壁の修復が行なわれ、さらに<ネヘミヤによるエルサレムの城壁が完成した後で>エズラが到着し、律法の朗読が行なわれたことになる。だから、エズラとネヘミヤのエルサレム到着の順序が逆になる。ただし、エズラが、伝承通りアルタクセルクセス1世の治世に、<ネヘミヤの後で>エルサレムへ派遣されたとも考えられるから、エズラのエルサレム派遣をアルタクセルクセス2世の治世(きわめて短い)だとする必要はない〔詳しくは「ヘブライの伝承とイエスの霊性」21章「ペルシア帝国と帰還の民」22章「神殿と城壁の再興の指導者たち」を参照〕。
 以上の資料的な批判から、捕囚期以後のエルサレムとユダヤの歴史における指導者たちを時系列でまとめると、およそ以下のようになろう〔和田幹男『聖書年表・聖書地図』女子パウロ会(1989年)23〜25頁による〕。
(1)第二イザヤ(前550年頃):キュロス大王がメディアの王となり(前549年)、新バビロニアを滅ぼして、捕囚民に帰還の許可を与える時期(前539年)にあたる。
(2)第三イザヤ(前530年頃):シェシュバツァルとその一行の帰還からカンビセス王の即位(前529年)までの期間にあたる。
(3)ゼルバベルと大祭司ヨシュアと預言者ハガイと第一ゼカリヤ(前521年〜前485年のダレイオス1世の治世の頃):第二神殿の工事再開から神殿完成の時期。
(4)ネヘミヤ(前465年〜前424年のアルタクセルクセス1世の治世):ユダヤに派遣されて(前445年)、エルサレムの城壁を修復し完成する。
(5)エズラ(アルタクセルクセス1世の治世に、ネヘミヤの後で):エルサレムへ派遣され律法の布告を行なう。
(6)第二ゼカリヤ(前336〜前323年のアレクサンドロス大王の治世以降):ユダヤがペルシア帝国からギリシアの支配へ移行する。
■ネヘミヤ
 ネヘミヤの到着(445年か)。ネヘミヤのことはヨセフスの『ユダヤ古代誌』11巻5章6〜8節にでている。ただし、上に述べた理由で、ヨセフスの「クセルクセス」を「アルタクセルクセス1世」に読み替えることにする。ネヘミヤは王の側近で盃にぶどう酒を注ぐ酌人であった。帰還した民からエルサレムの城壁が崩れて、荒れ果てた状態にあることを聞いて心を痛め(ネヘミヤ記1章)、彼は機会を捉えて王に願い出て、エルサレムへ帰還して「城壁を再建し神殿の未完成の部分を仕上げる」ことを願い出て許しが与えられた。王は総督たちへの書簡をネヘミヤに与えて励ましたとある(同2章1〜8節)。彼は「進んで自分に従う大勢の同胞を連れて」エルサレムへ帰り、密かに城壁の状態を調べて、城壁の再建を始めようとするが(同9〜18節)、サマリアを始め周辺の諸民族の妨害に遭い、ネヘミヤ自身の命さえ危うくなる(ネヘミヤ2章19〜20節/同3章33〜4章8節)。このために「建設を放棄する寸前まで」いくことになる。
 しかしネヘミヤはこれに屈することなく、働く者たちには剣と槍と弓を持たせ、短剣を携帯させ、楯をそばに置いて敵の攻撃に備えながら仕事を続けた(同4章7〜17節)。しかし、この間も民の窮乏が激しく、ネヘミヤ自身の生活も苦しかったようである(同5章)。ただしこの間に、ネヘミヤは、サマリア州からのユダヤの独立を勝ち取ったようで、ペルシア政府からユダヤ州の総督に任ぜられている(同5章14節)。周辺の諸族からの妨害はなおも執拗に続くが(同6章1〜9節)、52日間という驚くべき早さで(同6章15節)城壁を完成させた。完成は「2年4か月の間堪え忍んだ」結果のことだとある(442年頃)〔ヨセフス前掲書11巻5章8節〕。こうしてネヘミヤは「エルサレムの城壁を自分の永遠の記念として残した」とヨセフスは伝えている。
 ネヘミヤの時代の城壁は、現在のエルサレムの旧市街を囲む城壁よりもはるかに狭く、東は神殿の丘に沿うキドロンの谷に沿っており、南は昔のダビデの町を囲むように細長く伸びてシロアムの池を囲い、西は、神殿の丘に沿うように南のダビデの町の丘へ続き、北は神殿の丘の北側にあるベテスダの貯水池くらいまでであった〔Bahat, The Illustrated Atlas of Jerusalem.Jerusalem. 36.〕〔Barnavi, A Historical Atlas of the Jewish People. 32.〕。ネヘミヤは、ユダヤをサマリアから切り離して州に格上げすることに成功し、ユダヤ州の総督に任じられた。彼の時代の「ユダヤ州」とは、東はヨルダン川から西で、南はエルサレムの南にあるヘブロンまでは届かず、そのすぐ北のベト・ツルくらいまでである。北はベテルの北側くらいまでで、西はエマオからベト・シェメシュにいたるまでの丘陵地帯であった〔A Historical Atlas of the Jewish People. 36〕。ユダヤ州は、ネヘミヤが来るまでにすでに幾つかの地区に分けられていた(新バビロニア帝国時代からか?)。ネヘミヤが城壁の建設に際して、それぞれの地区に細かく分けて担当する部分を決め、こうすることで城壁全体を一挙に仕上げることができたのはこのためであろう(ネヘミヤ記3章1〜32節参照)。
 城壁建設の次に彼がしたことは、エルサレムへ人々を移住させることであった。当時のユダヤでは、長い捕囚期の間に、現地の人たちの間にも貧富の差が広がっていた。また、帰還の民も比較的貧しい人たちが多かった。このような「経済格差」を解消するために、彼はそれまでの債務をいっさい免除するという思い切った措置をとらなければならなかった(ネヘミヤ記5章1〜13節)。彼自身もわずかな給料に甘んじたのは先に指摘したとおりである。
 ネヘミヤは、城壁の建設を終えてから12年ほどして(ネヘミヤ記5章14節)、バビロンへ戻っている(433年)。その後何年かして再びエルサレムへ帰るが、帰還の理由は記されていない。ユダヤ州と周辺諸族との関係において、ユダヤの分離独立の路線を推進するのか、それとも近隣諸部族とできるだけ融和を図ろうとするのか、この二つの対立があったようだ〔ノート『イスラエル史』409〜10頁〕。先のゼルバベルもそうであるが、ネヘミヤもまた、ユダヤが近隣諸部族から分離する方向を目指していた。これに対して大祭司エリヤシブ(ネヘミヤ記3章1節)は、近隣との融和を目指していたと思われる。これもすでに大祭司ヨシュアの時からかもしれない。このように、捕囚期以後のユダヤは、政治的な路線では周辺からの分離を目指しながら、祭儀的な路線では支配する帝国の下にあって周辺の民と共存する方向をとろうとすることになる。この流れは、基本的にはイエスの時代まで受け継がれて、この分裂が、ユダヤの滅亡の悲劇へつながる結果になったと言えるかもしれない。
 ネヘミヤは、祭司たちを含むユダヤの民と周辺部族との結婚を禁じているが、既婚の者たちを強制的に離婚させることはしなかった。ただし、ユダヤ人の子供たちが周辺の民と結婚することを禁じるている。捕囚期の期間中は、ユダヤの現地において、周辺諸部族との経済交流の必要から、商取引を禁じる安息日の規定は守られていなかった。しかしネヘミヤは、モーセ律法に従って、安息日には異教徒を含むいっさいの商取引を禁じて(ネヘミヤ10章)、その上で、神殿への献げ物も厳守することを命じている。
 先に述べたように、実際のエズラの到着は、(1)伝承通りにネヘミヤ以前、(2)ネヘミヤ以後にアルタクセルクセス1世の治世の後期、(3)アルタクセルクセス2世の398年頃、この3通りが考えられるが、私には、(2)の説が史実に最も妥当ではないかと思われる。
エズラ伝承
 わたしたちがさしあたり求めている「エズラ伝承」は、歴史的な批評に基づく史的エズラ像ではない。むしろ、ヘブライのエズラ伝承に描かれているエズラ像のほうである。だから、さしあたり旧約聖書と紀元1世紀のヨセフスのエズラ像で十分であろう。歴史的な批評に基づくエズラ像は、別個に考察する必要がある。
 エズラが王命を受けてバビロンからエルサレムへ帰還するまでの記事はエズラ7章〜8章15節に、到着してからのエズラの働きは同8章16節〜10章に記されている。また、ネヘミヤ8章1〜12節にも、ネヘミヤと共にエズラが登場する。新共同訳続編にある『第一エズドラ書』(七十人訳ギリシア語エズラ記)も参考になる。
 なお、聖書の証言のほかに、エズラ伝承は、ヨセフス(37〜100年頃)の『ユダヤ古代誌』11巻5章前半〔秦剛平訳:ちくま学芸文庫〕にまとめられている。ヨセフスはなぜか、エズラの活動をアルタクセルクセス1世の時代ではなく、ダレイオス1世の息子クセルクセス1世の時代だと見ているが、この点では、聖書のエズラ記とギリシア語エズラ記のほうがヨセフスよりも正しいと考えられる。
 エズラ7章1〜10節によれば、エズラの父はセラヤとあるから、彼の家系はツァドクにさかのぼる大祭司の家系にあたる。セラヤの息子であれば、大祭司ヨシュアの父ヨツァダクの兄弟にあたるから、エズラは大祭司ヨシュアの叔父になる。エズラは、ペルシア王アルタクセルクセス1世の下にあって、ペルシアの宮廷で、捕囚期のユダヤ人の問題を扱う書記官をしていた(同7章25節)。彼は「律法の書記官」であったとあり「祭司エズラ」とも呼ばれているから、モーセ五書を中心とするイスラエルの律法に精通していたのであろう。このために彼は、捕囚以後に、聖書の正しい解釈を確立した人物と見なされて、ユダヤ教では彼のことを「学者エズラ」"Ezra the scribe"と呼んで、モーセやダビデにも匹敵する人とされている。
 エズラは、バビロン在住のユダヤの民の一部を率いてエルサレムへ上る決意を固めたようである。彼と共にエルサレムへ帰還した民の名簿がエズラ8章1〜14節にでているが、これによれば1500人ほどであるが、ここで挙げられているのは代表的な人たちだけである(この時帰還した人たちは全部で5000人ほどか?)。エズラは先ず、アルタクセルクセス1世に、シリアの総督に自分の身分を示すために総督に宛てた親書を与えてくれるよう願い出た。当時、捕囚のユダヤの民は、その大部分がバビロン周辺に留まったままであった(エズラ9章1〜2節参照)。なお、かつての北王国イスラエルの10部族の民は、ユーフラテス川の一帯に広がって住んでいたようである〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』11巻5章1〜2節〕。
 紀元後のユダヤ教においては、エズラは、特別な啓示に与って、エノクやエリヤと同様に、生きながら天に挙げられたと見なされるようになった(ラテン語エズラ記を参照)。ちなみに、紀元後1世紀以後のユダヤ教においては、『第一エズドラ書』と『第二エズドラ書』が退けられる一方で、ラテン語エズラ記が、エズラ伝承において重要な位置を占めるようになる〔エズラ記には様々な種類があって、その呼び方が錯綜している。『ヘブライの伝承とイエスの霊性』22章「神殿復興の指導者たち」の「エズラ記の名称について」を参照〕。
■歴史的に見るエズラ像
 以下で、エズラに関する現在の歴史的な批評から見た視点を紹介することにする〔Anchor(2)726-28〕
 エズラ・ネヘミヤ記には、エズラに関する記述が、エズラ7〜10章とネヘミヤ8章と12章にでている。その中で、エズラ個人に関するものが四箇所あり(エズラ7章28節/8章22〜23節/9章3〜6節/10章6節)、どれもエズラがイスラエルの民の罪のために激しく悲しんだ様子が描かれている。
 これに対して、エズラの公式の身分/資格につて述べた箇所が以下に見るように数箇所ある。エズラの先祖が祭司アロンにさかのぼること、彼がモーセ律法に精通し、アルタクセルクセス王の好意とその委託を受けていたこと(エズラ7章1〜6節)、彼の身分が「神の律法の書記官であり祭司」であること(エズラ7章12節)〔ギリシア語エズラ記9章39節では「大祭司」であるが、これは後代の呼び方〕、アルタクセルクセス王の委託を受けてエルサレムの事情を調査し、王から寄進された金銀と、バビロニア州からの金銀を携えて、これをエルサレム神殿に捧げるよう命じられたこと(エズラ記7章14〜16節/同21節)、「祭司であり書記官」であったこと(ネヘミヤ記8章2節/4節/9節)、長官ネヘミヤとこのエズラが同時期にエルサレムにいたこと(同12章26節)などである。
 しかしエズラの実像は、歴史的に見ると、エズラ伝承と必ずしも一致しない。アルタクセルクセス1世の当時(前458年頃)、パレスチナ沿岸の諸民族が、エジプトとギリシアの挑発に乗ってペルシアへの反逆の兆しが見えた。ペルシア王がエズラを派遣した直接の動機は、この反乱の鎮圧のために、ユダヤ州が戦略的に重要な位置を占めていたからである。エズラはペルシアの「書記官」の身分である。「書記官」(アラム語「サーパル」/ヘブライ語「ソーペール」)とは、ペルシア帝国の高官のことであるが、宗教的な律法に関して、この身分は律法を編集し布告しかつこれを解釈する律法学者を指す。ただし、エズラが朗読した「律法」とは、どのようなものだったのか、これについては、モーセ五書、申命記、祭司資料による律法、神聖法集(レビ記17章以下)、あるいはペルシア王の勅令など諸説がある。
 エズラが王の委託通りに、実際にペルシアの王宮の宝物を入手したという記事はない(エズラ8章24〜30節参照)。また彼がバビロンの諸州にどれだけの権限を行使したのかも記されていないから、エズラの実際の政治的な権限とその活動は限られていたと見られている。彼がエルサレムの大集会で律法の朗読を行なったのは確かであるが、ネヘミヤ10章1節以下はネヘミヤによる部分で、この民の誓約にはエズラが含まれていない。エズラがネヘミヤと同時期にいたとあるが(ネヘミヤ12章26節)、その時期の記述もあいまいである。さらにエズラ4章12節は、エズラのエルサレム到着がネヘミヤたちによる城壁完成<以後>であったことを示唆している。これらの記述から判断すると、エズラの役割は、実際には、伝承されているよりも限定されていたのではないかと思われる。
■律法主義と安息日制度
 捕囚からの帰還後に、ペルシア帝国の支配の下でユダヤの宗教がたどった道は、次のように概括することができよう〔エリアーデ『世界宗教史』(2)270〜72頁〕。ネヘミヤ記とエズラ記は、神殿再興後のユダヤの民が守るべき事を次のように記述している(ネヘミヤ7章72節後半〜8章12節のエズラの律法朗読は、内容的に見て、エズラ記8章に続けるほうが適切である)。
(1)イスラエルの民は、秋の仮庵祭に、必ずエルサレム神殿への巡礼を行なうこと(ネヘミヤ8章13〜18節)。
(2)民は、主との「契約と律法に背いた」先祖と自分たちの罪を主に告白して悔い改めること(ネヘミヤ9章1〜3節/同29節/同32節)。
(3)安息日を厳守すること。このために、周辺の諸民族との安息日の商取引を行なわないこと(ネヘミヤ13章15〜22節)。
(4)ユダの民以外の諸民族とは婚姻関係を結ばないこと(ネヘミヤ10章23〜28節)。
 (4)についてエズラ記はさらに厳しく、外国人を妻とする既婚の者たちに、妻子を離縁してそれぞれの国へ帰すよう命じている(エズラ10章1〜14節)。レビ記17章〜26章は「神聖法典」と呼ばれるもので、これの編纂は捕囚期に行なわれ、捕囚期以後、「モーセ律法」の中核として、イスラエルの祭儀と祭事と浄・不浄を定めた律法と見なされた。これらの政策と律法には、「律法と割礼と安息日」の三厳守によって、ユダヤの民とイスラエルの信仰の純粋性を保ち、これによって主から与えられた土地の保全と民族の生存を確保しようとする意図が明確である。
 これ以後、かつてイザヤ書が預言したような「主の霊による」民の内面的な革新は後退し、第二イザヤの終末的なメシアへの待望に代わって、諸民族からの罪の誘惑に抗してイスラエルの「聖性」を保持すること、このための贖罪の祭儀と律法厳守による民の組織化が優先されることになる。こうして「新ユダヤ教」を特徴づける律法主義と安息日制度が成立することになる。イスラエルの律法主義は、「律法学者エズラ」(ネヘミヤ8章9節)への尊敬を呼び覚まし、成文律に加えて、新たに口伝律法が発展して、やがてこれらが「ミシュナー」(「反復」の意味)と呼ばれ、広義の律法として民の実生活を支配するようになる。
 イスラエルの純粋性を保持しようとするこの傾向は、ペルシア帝国からギリシア系の政権の支配へと移行するにつれて、民と律法の純粋性を求める「ユダヤ民族主義」と、全地の民がヤハウェを崇める日が来るという普遍的霊性を求める信仰(知恵思想がこれにかかわる)、これら二つの宗教的傾向の間に緊張を生じる結果になり〔エリアーデ前掲書274頁〕、この緊張はイエスの時代まで続くことになった。
■知恵思想
 捕囚期以後のユダヤの宗教と政治は、ペルシア帝国の支配下で、大祭司を頂点とする神殿制度に基づく祭政一致の体制にあった。イスラエルの宗教的純粋性を保持するのは神殿中心の祭儀律法を中核とするが、それは政治的独立性と密接に関連していた。この支配体制に大きな変化をもたらしたのが、前330頃のアレクサンドロス大王によるギリシア系政治権力である(これは「ギリシア主義」を意味する「ヘレニズム」と呼ばれる)。アレクサンドロスのヘレニズム帝国は、パレスチナのユダヤをペルシア帝国の支配下からエジプトのギリシア系のプトレマイオス朝の支配下に置き、さらにティグリスとユーフラテス河から現在のトルコの南半分にいたる長大なセレウコス朝の支配下に組み込まれることになった。
 ペルシア帝国は、もっぱら政治的な統一を重視したから、各地方の宗教的文化的な制度には比較的寛容であった。しかし、ギリシア系の政権の下では、貨幣制度はもとより、ギリシアの言語、文化、学校やギムナシアなどの諸機関にいたるまでヘレニズム化が徹底して推し進められた〔エリアーデ『世界宗教史』(2)275頁〕。その影響は、現在のアフガニスタンにまで及ぶ広大な地域に渡っている。ユダヤでは、貴族や富有階層がヘレニズムの「啓蒙主義」を取り込もうと努めたが、これに対して、宗教の保守派や地方の庶民はヘレニズム的な文化と制度を拒否したのである〔エリアーデ前掲書〕。この対立は、後のマカバイ戦争の原因となっただけでなく、ユダヤのローマ帝国支配(前69年)以後まで尾を引くことになる。
 新ユダヤ教がヘレニズム思想と出逢うこの時期に生まれたのが、箴言、ヨブ記、コヘレトの言葉、シラ書などの「知恵文学」である。ただし、イスラエルの「知恵」(ヘブライ語「ホフマー/ホクマー」)は、ヘレニズムに起源するのではなく、箴言には、ソロモン王からヒゼキヤ王の頃(前10世紀〜前8世紀)までのもの(箴言10章1節〜22章16節/25章1節〜29章27節)も含まれているから、知恵文学はその最終的な編集とその内容との間には、時期的に大きな開きがあることに留意しなければならない。
■箴言
箴言は、ごく大ざっぱに三つに分けることができる。1〜9章は教訓様式と呼ばれ、これはソロモン時代の行政機構にたずさわる若者たちへの教訓を意図したものであろう。10章〜22章16節は知恵様式と云われ、日常の生活に関する倫理的な格言となっている。22章17節以降は、再び教訓的なスタイルであるが、そこには、賢人や王(ヒゼキヤ王)や個人の名前が与えられいて、知恵が「イスラエル化」されている。
 行政のエリートたちを養成するための知恵文学は、遠くエジプト第5王朝時代(BC2400年頃)の『宰相プタハヘプテの教訓』〔『古代オリエント』501〜17頁〕にまでさかのぼることができる。これは、ファラオの側近であったプタハヘプテが後継者のために書き残した教訓で、神の定めた「世界秩序」(エジプト語で「正義」を意味する「マート」)に従うことである。この『プタハヘプテの教訓』は、それ以後の知恵文学の一つの規範とされて第18王朝(前700年)まで伝えられた。ちょうど南王国ユダのヒゼキヤ王の時代に当たる。この教訓と並んでよく知られているのが『アメンエムオペトの教訓』〔『古代オリエント』546〜59頁〕で、これは、箴言22章17節から24章22節の「賢人の言葉(1)」と対応する部分が多い。『アメンエムオペトの教訓』の成立年代もはっきりしないが、前13世紀から前600年までの間と見られているから、ダビデやソロモンの王朝時代から、南王国ユダの滅亡とバビロンへの捕囚までの間に当たる。
 「雨雲が垂れこめ風が吹くのに雨が降らない。
 与えもしない贈り物について吹聴する人。」
                       (25章15節)
 「北風は雨をもたらし、
 陰口をたたく舌は憤りの表情をもたらす。」
                      (25章23節)
 「鳥が巣から飛び去るように
 人もその置かれたところから移って行く。」
                       (27章8節)
 これらの例で注意したいのは、自然現象に対する観察と人間関係に向けられた観察とが一つに組み合わされていることである。自然現象と人間関係との間には、現代のわたしたちから見れば直接の因果関係は存在しない。しかし、箴言では、この両者を共に結ぶある種のつながりをそこに見いだしている。これは「類比」(analogy)と呼ばれる比喩的な表現法である。しかし、この類比は、わたしたちが想像するよりもはるかに深く人間の思考様式の中枢にあって重要な働きをしている。人間にとって、世界と宇宙に生じる出来事は、不可解でとらえ難い。それゆえ人間は、不可解で恐ろしい諸現象全体を統一的に把握しようとする強い要求に促される。「知恵」の普遍性を帯びた理念化が、このようにして生じる。人間とは無関係に動いているように見える自然現象が、実は法則を持ち、かつ人間の倫理的なあり方と結びついていることをこの手法は教えてくれる。知恵は、類比を通じて、一切の事象の奥に潜むなんらかの理念と法則を洞察する知性を秘めていると言ってもいい。
 しかし、箴言の知恵には、その普遍性と同時に、もう一つ見逃せない点がある。それは「知恵のイスラエル化」とでも言うべき傾向である。 知恵文学に限らず、旧約聖書の伝承の場合には、実際に編集された時期とその格言なり伝承なりが生まれた時期との間には相当の開きがある。特に知恵文学の場合には、諺や格言それ自体は、それらの編集よりもはるか昔にさかのぼるから、この意味で箴言の成立を確定することは難しい。例えば、10章から22章までは、前4〜5世紀頃の編集だと云われるが、これの内容は捕囚時代以前にさかのぼると見られる〔McKane 14〕。箴言は、エジプトの教訓様式から影響を受けているけれども、エジプトの教訓様式との間に、はっきりとした違いが見られる。エジプトの教訓の方は、国家や行政のエリートの養成にその主眼点がおかれているのに対して、箴言は、より広く全体の若者にあてて語られていて、しかもそこには「主への畏れ」が一貫しているからである。箴言に見るのは、事象の奥に潜む根本原理をとらえようとする普遍的な哲学だけでなく、生活に密着した実際的な生活の知恵とでも呼ぶべきものである。しかも、その体験主義は、オリエントの多くの知恵者が行き着くような「賢い生き方」へと人を導かない。
 あなたは主を畏れることを悟り、
 神を知ることに到達するであろう。
 知恵を授けるのは主。
 主の口は知識と英知を与える。
                   (2章5〜6節)
 心を尽くして主に信頼し、自分の分別に頼らず
 常に主を覚えてあなたの道を歩け。
 そうすれば 主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
                     (3章5〜6節)
 ここに見るのは「主への畏れ」である。人間の経験が「主を畏れる」方へ向かうためには、経験をそのようなものとして悟らせてくださる「知恵を授ける主」がおられることが前提されている。箴言の知恵は、神の律法や神殿礼拝の規定やイスラエルの歴史的出来事と比較されるときに、ともすれば、世俗の人間的な世界へのきわめて人間くさい次元にとどまる知恵であるかのような錯覚を抱かせる。一見、シナイの律法授与に際して顕現した超越的な神とは直接にかかわりを持たない世俗の領域に属する「人間の自然な知恵」だと受け取られやすい。ところが、注意して読めば分かるように、そのようなささいな日常生活が、実は「主への畏れ」という深い信仰に貫かれているのである。その知恵は、したがって、神学や礼拝や律法解釈とまったく同質の霊的な高さを帯びた信仰に支えられている。わたしたちが箴言を読むときに見落としがちなのは、まさにこの点である。異なるのは、その霊的な信仰が、徹頭徹尾世俗の日常生活に向けられているというその方向性にある。もしもこのような知恵を、信仰の「世俗化」と受け取るなら、それは重大な誤りであろう。「世俗化」を、日常生活の一切の領域を覆うものと理解するのであれば、これを信仰の「世俗化」と呼ぶのは正しい。しかし、それならばこの「世俗化」は、箴言では、知恵が、霊的な信仰を日常の隅々にまで浸透させる、いわば神学や礼拝の究極の「到達点」として受け取られなければならない。もしもこのような意味での「世俗化」を信仰の「俗化」と取り違えるならば、ここで語られるソフィアの本質を完全に見誤ることになろう。宗教的な営為の一切が、「主を畏れる」という一言に凝縮されて、日常の具体的な姿に結実しているのである。
 箴言の知恵のこの「奥深さ」を洞察する時に、ここで語られる知恵が、なぜ神による天地・宇宙の創造それ自体へと結びつくのかが見えてくる。
 
主は、その道の初めにわたしを造られた。
いにしえの御業になお、先立って。
永遠の昔、わたしは祝別されていた。
わたしは生み出されていた
深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しない時に。
      (箴言8章22〜24節)〔新共同訳〕
 箴言8章12〜31節は、知恵を神の霊や神の言葉としての律法と同一視する方向を向いている〔フランシスコ会訳聖書8章(注)5〕。「祝別される」は「油を注ぐ」と同じ原語であるから、これを「メシア」と関連づける解釈がある〔フランシスコ会訳聖書(注)7〕。創造に先立って「わたし(知恵)は<生み出されて>いた」〔七十人訳では「主はわたしを生んだ」〕とあるから、知恵は主なる神の「初子」であり、これが後に、「神のロゴス」(ヨハネ1章1節)と関連づけられることになる。知恵は「神が造られた大地で調べを奏でて楽しみ、人の子(人間)たちと共に喜ぶ」(31節)とあるから、この知恵は、神と人との間を結ぶ仲保者を啓示していると読み解くことができる〔フランシスコ会訳聖書8章(注)13〕〔エリアーデ『世界宗教史』(2)274頁〕。わたしたちが箴言に見る知恵は、このように、普遍性を有すると同時にイスラエルの神へと特殊化されており、宇宙と自然と人を結んで秩序づける理念性を有しながら、神と人とを仲立ちするという人格性を帯びている。実は、イスラエルの「知恵」に具わるこの「相反する」とも言える様々な側面とこれに対する解釈には、ユダヤ教を根底から覆すほどの重大な危機が潜んでいると指摘されている〔エリアーデ前掲書274〜75頁〕。
■コヘレトの言葉
 聖書の中でもコヘレトの言葉(前200年頃)は不思議な書である。この書は、前1世紀にすでに正典に近い評価が与えられていた〔Barton 3〕。作者は、エルサレムの神殿近くに住む富裕で身分の高い老人であり、家族のいない孤独な人であったらしい〔Barton 64-65〕。「コヘレト」というのは、「集会で語る者」を意味する女性名詞であるが、作者が男性であるのは「エルサレムの王、ダビデの子」という冒頭の言葉からも分かる。
 この書には、一貫してある種の無常観が流れていて、このことが、コヘレトの言葉を聖書中でも特異な存在にしている。ジークフリードという学者は、この書に「非ヘブライ的な悲観主義」を見いだしている。その「悲観的な合理主義」にストア派やエピクロス派などのヘレニズム思想の影響を読み取ろうとする人たちもいる〔エリアーデ『世界宗教史』(2)276頁〕。だが、作者の思想は基本的にヘブライの伝統に根ざすと見ることができる〔Interpreter's (II) 7〕。
 この書には、一貫して「空しさの哲学」とでも言うべきものが流れているのは否定できない。では、正統ユダヤ教と異質で、しかもヘブライの伝統に基づくこの書の性格とはなんなのか。
 日は昇り、日は沈み
 あえぎ戻り、また昇る。(1章5節)
 
 かってあったことは、これからもあり
 かって起こったことは、これからも起こる。
 太陽の下、新しいものは何ひとつない。(1章9節)
 
  ここには、現象界を支えている時間のめぐり、すなわち「循環する」時間がある。確かにこのような時間感覚は、旧約のそれとは異なっている。作者の目には、「太陽の下に、益となるものは何もない」(2章11節)。 こういう洞察は、さらに進んで人間の基本的な価値観にまで及ぶ、
 善人でありながら 悪人の業の報いを受ける者があり
 悪人でありながら 善人の業の報いを受ける者がある。
 これもまた空しいと、わたしは言う。(8章14節)
 
 「太陽の下で起こる最も悪いこと」(9章3節)は、善い者にも悪い者にも「だれにでも同じひとつのこと(死)が臨む」のを見ることである。死に神はすべての人を等しく支配する。神の律法も、正義も道徳も、一切が死に神には積極的な意味を持たないように見える。こういう視点は、例えば詩編49篇をさらに徹底させたところに生じるヘブライの知恵の系譜に属する見ることができよう。独りのすぐれた知者が、自己の体験からたまたま学んだ「諦めにも似た悲観主義」を語ると理解されているうちは、この書が示そうとする知恵の真意を悟ることができない。この書が正典として認められたのは、この知恵をイスラエルの知恵の流れの中に正しく位置づけて初めて納得できる。では、いったいこの書の作者が到達した知恵とは、どのようなものだろう。
 焦って口を開き、心せいて
 神の前に言葉を出そうとするな。
 神は天にいまし、あなたは地上にいる。
 言葉数を少なくせよ。(5章1節)
 
 ヨブ記のエリフの言葉に通じるような言葉であるが、エリフのように、「神は人間の行いに従って報い、おのおのの歩みに従って与えられる」(ヨブ記34章11節)のだから、沈黙して神の裁きを待つべきであると説得しているのではない。むしろ作者は、そのような人間的な判断の論拠づけそれ自体がまったく無意味であること示唆している。人間がどのように知力を尽くしてみても、神の前に正しくあろうとする努力それ自体さえもが無意味になる、そういう「空しさ」まで、作者の知恵は及んでいる。これは、完全に「隠された神」の前に立たされた人間の言葉である。人間の知恵では及ばない、というよりは、そもそも絶対に知ることが「許されていない」神がここにはある。人間は、本来の理性なり知力なりを完全に停止させられ、まったくの「空」の中で、<それでもなお>神に向いて立つ。作者が、「神は人間が神を畏れ敬うように定められた」(3章14節)と言うとき、まさにこういう境地を指すのであろう。
 だが、そのような知恵が、いったい人間に可能なのだろうか?そういう「空」の中で、それでもなお「神を畏れ敬う」知恵とは、すでに人間の限界を超えるものではなかろうか。言い替えるなら、そういうところに人間が立つことができるなら、そもそもそのこと自体が、人間の限界を超えたなにか次元の異なる知恵に支えられていることを示唆してはいないか。コヘレトが到達した、というより彼が指し示そうとするのは、まさにこのような知恵の姿である。それは、「人間の」と呼ぶにはあまりにも「神的な」知恵であり、この意味でコヘレトの言葉は、釈迦が切り開いた「悟り」の境地に近い。
 
 神はすべてを時期にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を初めから終わりまで見きわめることは(人には)許されていない。(3章11節)
 
 この節がこの書の心髄である。「永遠を思う心」は神から来る。したがって、この書が語る知恵は、本質的に「神が授けられる賜」である〔Interpreter's( II) 11〕。REBもNRSVも共に「永遠を思う心」という所を「人間が過去と未来を知る知識」と訳している。人間には、ある一定期間の過去と未来を知る知識があるが、それは、神の定めた「初め」と「終わり」を知るまでにはいたらない、というほどの意味に解釈しているのであろう。人間には有限の時間しか知ることができないから、神の無限の時間を知ることはできないというのは、論理的に整合性のある解釈である。バートンにいたっては、「神は人間の心に無知を入れた」〔Barton 98〕とある。彼は原語の「永遠」という語をそのまま受け入れることができない。その理由は、ここに作者の「神概念をかいま見る」〔Barton 101〕ことができるからであると言い、バートンによれば、作者の神は、人間が対等になるのを妬むからだとある。
 このような解釈は、コヘレトの言葉の作者の唱える空しさの哲学に、人間の知恵の限界を見ようとする視点から生じている。ヘルムート・ケスターは、イスラエルの知恵は、「人間性のもつ神的本質に基づく」〔ケスター 325〕と表現しているが、これは「知恵」の定義としてある意味では適切であろう。その適切さは、その撞着法(矛盾した表現)にある。その矛盾は、「人間性」ということと「神的」ということとをより厳密に定義しようとすればいっそうはっきり露呈してくる。知恵の人への内在性と神に属する知恵の超越性、イスラエルの伝統的な神学によれば、「神的」であることと「人間的」であることとの間には越え難い溝がある。このような神概念を基本に据えてコヘレトの世界を観ている限り、律法的な善悪を離脱したとも言える作者の姿勢は、神に対する懐疑主義としてしか映らないのであろう。事実、ケスターは、この書を「世界の成り行きのもつ不条理と人間的実存のもつ無常性をむしろ強調した」ものと受けとめて、「この懐疑的態度についての最も明白な証言である」〔ケスター 326〕と述べている。
 ここでも、箴言の知恵で先に示唆したのと同じことが生じているようにわたしには思われる。この書に現れる「空の知恵」を、単に人間の知恵の挫折を示唆するものとしてしか理解できないとすれば、それは、人間と神との断絶の際(きわ)に立って、この両者を結ぶ神的な知恵が理解不可能だからである。「永遠を思う心」と「神の業を知ることが究極には許されない」こととの間に、神学的に論理的な整合性を欠くからである。こういう見方からは、「神を畏れ敬う」作者の姿勢と「すべては空しい」と喝破する視点との狭間にあって到達した「空」を満たす「神的な知恵」を悟る視野は開かれてこない。なぜなら、そこでは、イスラエルの知恵が、そもそも本質的に、神的な起源を持つことが見落とされているからである。少なくとも知恵を支える神的な起源が制限されることで、コヘレトの知恵が矮小されている。神からの知恵(ソフィア)が、しかも彼女だけが果たすことのできるのは、まさにこの神学的論理では決して埋めることのできない断絶を満たすことだからである。
 神と人間との間に介在する越え難い溝は、そのままでは「虚無」につながる。しかし、コヘレトの言葉が切り開いたのは、そのような虚無ではなくて「満たされた無」の世界への可能性なのである。わたしたちは、ここに、ソフィアの究極の役割を見る。いったい欧米の神学者には、この虚空を満たす神的な知恵、ソフィアの「無心の世界」が見えてこないのだろうか。このように見る時、コヘレトの言葉の「空の知恵」は、作者が到達したもうひとつの重要な「時」の概念へわたしたちを導く。
 何事にも時があり
 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。(3章1節)
 
 これに始まる一連の「時の詩」は、先に引用した3章11節を結びとして、この書全体の基調を形成している。作者の空の知恵は、地上に生起する一切の現象をそれぞれの「時」としてとらえる。コヘレトは、世界とそこに生じる出来事が、徹底的に不透明なものに見えるのに、他方で彼は世界が神の業に引き渡されていることをも知っている、という著しく逆説的な現実の前に立たされる。太陽のめぐりの下で時々刻々移り行く万象を、作者は、自分自身の存在をも含めて、それぞれの「時」の中に観る。作者には、神とはまさにこの「時を創造するお方」として映る。時の創造、これだけは、人間の理解を超えるものとして神のみ手に握られていることを作者は悟る。ここに、彼のソフィアが到達した究極の姿が映し出されている。
 コヘレトは、古代の伝統的な教師の説、すなわち「神への信頼が人間を正しく導く」という理性的な理解を超えるところまで行ってしまった。彼が到達した知恵は、人間の生来の知性によって得られたものではなく、神から来る賜であろう。「神は、善人と認めた人に知恵と知識と楽しみを与えられる」という2章26節の言葉は、編集者の挿入とされている。だが、彼が注意深く挿入したこの言葉は、まさに作者の知恵が神からのものであることを語りたいのであろう。この編集者は自分の挿入の意味を十分に知っている。だからこそ、「これもまた空しく、風を追うようなことだ」でこの挿入を結んだ。この書が正典に入れられる価値があることを、この編集者は正しくも見抜いたのである。
 ディロン(Dillon)というインド・イラン系の学者は、この書に表された思想に通じるのは、世界の宗教では、仏教以外にありえないとして、この書の作者にアショカ王による仏教布教の影響を見ようとした〔Barton 27〕。当時仏教の影響が、パレスチナにまで及んでいたことはすでに知られている。しかし、コヘレトの言葉の思想が仏教起源だとするディロンの結論は、おそらく彼の勇み足であろう。重要なのは、むしろ、このような思想が、ヘブライの伝統的な「知恵」の中から生まれたこと、しかも、それが期せずして仏教の悟りと通じ合うところまで行ったというまさにそのことであろう。人間が、心を尽くして英知を求めるとき、神は、洋の東西を問わず、そのような人たちに「光を与える」からである。これが、コヘレトが、ヘブライの知恵文学の中で到達した「知恵」の姿である。
■シラ書
 シラ書の1章によれば、「わたしの祖父イエスス」がヘブライ語で書き残したものを、その孫がエジプト(のアレクサンドリア)で(ギリシア語に)訳した」ことになる。50章27節には、この書物を書き記したのは、「シラ・エレアザルの子、エルサレムに住むイエスス(著者)」〔新共同訳〕〔REB〕/「シラの子であるエレアザルの子であるイエス(エルサレムに住む著者)」〔NRSV〕とある。これによると著者と訳者の系図は、シラ→エレアザル→イエスス(著者)→その孫(訳者)ということになる。ただし「<エレアザルの子、シラの子、>。エルサレムのイエスス(著者)」〔フランシスコ会訳聖書〕もあるが、これは「エレアザルの<子>であるイエスス」の意味であろう。
 1896年に、シラ書のヘブライ語写本が発見され、1948年には、クムランの洞窟からこの書のヘブライ語の断片が見つかり、さらに1964年に、マサダでヘブライ語の写本が発見された〔新共同訳『旧約聖書注解』(V)323〜24頁〕。ところがヘブライ語の断片には、著者が「シラの子であるエレアザルの子であるエシュアの子であるシモン」となっている〔『聖書外典偽典』(2)70頁〕。これだと著者の系図は、シラ→エレアザル→エシュア(イエスス)→シモン(著者)となり、シラとエレアザルが入れ替わるだけでなく、エレアザルの孫である訳者が「シモン」という名の「著者」になる。おそらく、ギリシア語訳のほうが正しいのであろう。シラ書はシリア語訳では「ベン・シラ(シラの息子)の知恵」と呼ばれているので、この書をそう呼ぶこともある。「ベン・シラ=シラの子/子孫」という著者の名前は、ヘブライ語のほうから由来するのだろうか。
 この書には「エクレシア(集会)の書」という副題がついている。この書がソロモン王の知恵の系譜に属すると見なされて、コヘレトの言葉と同じように、「集会で教えるための書」という意味でこう呼ばれたのであろう。あるいは紀元後に、ラテン系の教会で、聖職者の教育に用いられたのでそう呼ばれるようになったという説もある〔『聖書外典偽典』(2)69頁〕。「訳者」は、エジプト王エウエルゲテスの38年(前132年頃)にエジプトに入ったと述べていて、それからしばらくして翻訳を始めたとある。シラ書50章1節で、著者は、「オニアの子、大祭司シモン」(前220〜198年?)をたたえているから、著者はほぼこの時代の人であると考えられる。さらにアンティオコス4世エピファネスによるユダヤ教迫害には触れていないなどの理由を加えて、この書の著作年代は前190年頃と推定される。
  主を畏れることは、知恵の初めである。
            (1章14節)
 知恵に仕える者は、聖なる方に奉仕する者。
 知恵を愛する者は、主から愛される。
            (4章14節)
 知恵の試練は、おまえを激しく苦しめる。
 知恵は、おまえを信頼するまで、
 数々の要求を突きつけて、お前を試みる。
            (4章17節)
 ここで作者は、箴言の伝統にしたがって、人間的な知恵を「主に対する畏れ」と結びつけている。ただし、ここでは、「知恵」は、人間の側から主に向かうというよりも、むしろ「聖なる方」とある主とほとんど同じ高さから人間に向かい、人間を試み、場合によっては「苦しめる」のである。だから、ここでの「知恵」は、人間のだれにも具わる「賢さ」を指しているのではない。作者は、ほとんど主に向かうのと同じ姿勢で「知恵」に向かう。だから、「知恵の初め」として「主を畏れる」ことが次のように語られる。
 主を畏れることは、知恵に満たされること、
 人々は、知恵の果実に陶酔する。
              (1章16節)
 主を畏れることは、知恵の冠、
  平和の花を咲かせ、健康を保たせる。
  (1章18節)〔新共同訳:以下同じ〕
 作者は、「主を畏れること」がどういうことかを「知恵」と結びつけて読者に悟らせようとしているが、シラ書では、「主への畏れ」が、主の掟・律法を守ることとも結びついてくる。
 主を畏れる人は、主の掟に背かない。
 主を愛する人は、主の道を歩み続ける。
 主を畏れる人は、主を喜ばせようと心がけ、
 主を愛する人は、律法を喜んで守る。
          (2章15〜16節)
 このように、「主への畏れ」によって、「知恵を愛すること」と「律法を守ること」がつながるのがシラ書の特徴である。知恵は「主の律法」とほとんど一つになっているとさえ言えるから、「知恵」は、ごく自然に律法への賛美へ発展していく。
 律法は、ピション川のように、
 初物の季節のチグリス川のように、
    知恵であふれている。
 律法は、ユーフラテス川のように、
 収穫の季節のヨルダン川のように、
    理解力をあふれ出させる。
         (24章25〜26節)
 知恵は、律法と同一視されることによって、シラ書ではもはや「個人の体験」ではなくなっている。知恵は律法とつながり、律法が知恵を人間にもたらす。いったい、この「知恵」は、人間がそれに向かい合う「神の秩序」なのか、それとも人間によって実践される知恵なのか。わたしたちは、「知恵」のもつこの両側面の狭間で戸惑うことになる〔ラート363頁〕。しかし、作者は、知恵と律法とを決して混同しているわけではない。「知恵を熱望するならば、主の掟を守り通すがよい。主は知恵を豊かに与えてくださる」(1章26節)とあり、これに続いて「主を畏れることは、知恵である」とあるから、作者にとって、知恵は、律法を守る者に与えられる主からの賜なのである。
 箴言の知恵は、律法のようにイスラエルの共同体全体に臨むものではない。むしろ、個人の体験にあって注がれるものであり、どちらかと言えば、具体的な日常生活を処していくために神から与えられる賜である。個人が、「主を畏れる」ことによって自分の日常の領域において神と結びつくことができるのが箴言の知恵の働きである。だから、箴言では、人々に「主を畏れる心」を持つようにと勧めるだけで十分なのである。ところが、シラ書では、「主を畏れる」とはどういうことかが、まるで神の律法を説くように、読者に説明されている(2章7〜18節)。イスラエルで、知恵と律法がこれほど近づいたことはこれまでになかった。
 わたしたちにとって興味深いのは、ここでも知恵は、まぎれもなく「ソフィア」(ギリシア語女性名詞)でありながら、しかも「知恵」は擬人化され、ほとんど主ヤハウェを想わせるほどに「人格化」されていることである。
 律法に精通している者は、知恵を悟る。
 知恵は、母のように彼を出迎え、
 新妻のように彼を迎え入れる。
 英知のパンを食べ物として彼に与え、
 知恵の水を飲物として、彼に与える。
         (15章2〜3節)
 これは、新約の「命の水」(ヨハネ4章)や「命のパン」(同6章)を思い出させるような句であり、聖餐の隠喩につながるとさえ言えよう。ここに限らず、シラ書には、字義どおりにヨハネ福音書と呼応する言葉が少なくない。ヨハネ共同体の中でシラ書が読まれていたのはほぼ間違いないであろう〔Scott 106n〕。シラ書では、主の律法は女性なのか。そう思わせるほど、ソフィアは律法の近くにいる。しかし、注意深く読めば、この引用は、作者が決して両方を混同しているのではないことを示唆している。ここのソフィアは、律法にとって代わるものではなく、彼女は、配偶者のように律法に寄り添う。けれども、これをもって、作者が律法を「女性化」していると見るのは誤りであろう。事実はその反対で、知恵がこのように主の律法と表裏をなすことによって、「ソフィア」に具わる母性的/女性的な性格が逆に脅かされ、弱められている。
 事実、作者は女性に対して厳しい目を向けている。「女から罪は始まり、女のせいで我々はみな死ぬことになった」(25章24節)と糾弾される悪妻は、これに続く作者の理想の女性像、「従順でつつましい妻」(26章)と見事に対照されている。このように際だって相対立する女性像は、作者の律法と知恵とが表裏を成していることと恐らく無関係ではない。シラ書の中心とも言うべき24章にでてくる「知恵の賛歌」には、「これらすべてはいと高き神の契約の書、モーセが守るように命じた律法であり、ヤコブの諸会堂が受け継いだものである」とあるから、作者の描く「ソフィア」像には、モーセ律法の枠がきっちりとはめられている。スコットが、シラ書では「イスラエルのトーラーとソフィアの役割とが同一視されている」と指摘してから、「このことは、一方においては、イスラエルと神との最も神聖な関係の領域にまでソフィアの決定的な影響が及んだと見ることができるが、他方において、まさしくこの書の内では、彼女は閉じ込められ、扱いやすく制限されるという否定的な動きをも見ることができる」〔Scott 54〕と述べているのはこの点を指している。ちなみに、この傾向は、『ソロモンの詩篇』(『ソロモンの知恵』ではない)になるといっそう強くなり、さらにイエスの時代にいたると、ファリサイ派の言う「知恵の教師」は、律法の教師とほとんど同じ意味に用いられていたようである。
 シラ書に見られるこのような知恵と律法との結びつきは、イスラエルの知恵の伝統に重要な転機をもたらすことになった。
 海と波とすべての地と
 民も諸国もすべて、わたし(知恵)の支配下にあった。
 それらすべての中に憩いの場所を探し求めた、
 どこにわたしは住もうかと。
 その時万物の創造主はわたしに命じた。
 わたしを造られた方は
 わたしが憩う幕屋を建てて、仰せになった。
 「ヤコブの中に幕屋を置き、
 お前はイスラエルで遺産を受けよ。」
 この世が始まる前にわたしは造られた。
 わたしは永遠に存続する。
 聖なる幕屋の中でわたしは主に仕え、
 こうしてわたしはシオンに住まいを定めた。
 わたしは栄光に輝く民の中に、
 わたしのものとして主が選び分けた民の中に、
     根を下ろした。
          (24章6〜12節)
 ここでは知恵が、全世界をその支配下に置いて、世界中をめぐり歩いたことが語られている。わたしたちは「知恵」が、人類の歴史とともに歩んできたのを見てきた。知恵は、「イスラエルに根を下ろすまでに」すでに世界のいたる所で知られていた。イスラエルの知恵は、いわばその最後に行き着いた所であって、決してその最初ではなかった。世界を巡り歩いて安住の場所を求めていた知恵が、今ようやく、その宿る所にイスラエルを選んだのである。それは昔、主なる神が、この民を選び、主の律法を授けたことと対応する。このような過程を念頭に置いて読むなら、この引用部分には、古代エジプトのマート(世界秩序)の化身としてのイシス女神への賛歌が影響していると指摘されても〔新共同訳『旧約聖書注解』(V)357頁〕ごく自然に理解できよう。
 ただし、そのイシス女神が、著者と同時代にあたるプトレマイオス朝時代からの直接の影響と見るのは、必ずしも正しくない。むしろ、イスラエルに住むこの知恵の老教師は、古代から伝わり、イスラエルの伝統を経て自分の所へ伝えられた知恵の長い道のりを念頭に置いているのであろう。彼は、後に現れるフィロンのような思想家、アレクサンドリアに住み、同時代のエジプトの神話・思想を取り込んで、同時代の先端に立って、世界に共通する思想を産みだそうとする哲学者ではない。世界を巡り歩いた知恵の普遍性は、ここで完全に「イスラエルの知恵」に特化されたのである。
 コヘレトの言葉の所で見たように、仏教の思想でさえ、この時代のエルサレムに伝えられていなかったとは言えない。イシス女神だけではない、太古から知恵は、世界のあらゆる民と国において、心ある人たちに知られていた。しかし、その知恵が、今こそ「栄光に輝く民」の中に幕屋をはり、「エルサレムで威光を放つ」のである。ヤハウェの律法、と言うよりはヤハウェの臨在それ自体と見まがうほどの知恵の輝きを作者はここに見ている。知恵は主の律法と結び、そうすることで、エルサレムに居を定めた。ここでソフィアの知恵は、個人の体験から離れてイスラエル共同体のものとなり、そうなることで、イスラエルの歴史、すなわち救済史と結びつくことになる。なるほど作者は、まだ知恵の働きの救済史的な意味を明確に意識しているわけではない。しかし彼は、「覇権は、民族から民族へと移り行く」(10章8節)のを知っており、「その原因は、不正と傲慢と富」にすぎないのを見抜いている。「主は、支配者たちをその王座から降ろし、代わりに、謙遜な人をその座に付けられた」(10章14節)のである。
 知恵は、全宇宙をその射程に治める。しかし、それは今や、神の救済の歴史に組み込まれることによって決定的な段階に入った。シラ書43章では、大自然と宇宙への賛美が歌われ、これに続く44章からは、数々の「神の人」を通じて、イスラエルの歴史への賛美が続くことでこの書が結ばれる。この構成はこの書全体を貫く「知恵」の独特の地位と無関係ではない。「われわれはここに、原秩序からはじまって幕屋とエルサレムの神殿におけるヤハウェの啓示に至るまでずっと続くラインが引かれているのを見いだす。それは、ひとつの壮大かつ野心的な救済史の見取り図である」〔ラート258頁〕。
 ところで、知恵が、「世の始まる前に造られて」存在していたこと、知恵が「わたしのもの」として選んだ民の中に「幕屋を張った=宿った」こと、しかも、知恵がそうするまでに、「どこに住もうかと探し求めた」、すなわち、彼女は、必ずしも受け入れられるとは限らなかったこと、これらの表現が、ことごとくヨハネによる福音書の序文に生かされているのに読者は気がつくだろうか。ヨハネ福音書だけではない。例えば、知恵が「憩いの場所」を探し求めたとある。知恵が憩う場所とは、同時にそこへ来る人間がそこで憩うことのできる場所でもあろう。すなわち、知恵は自ら憩うだけでなく、その下へ来る人たちを休ませることができる、ということであろう。そうであれば、わたしたちは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11章28節)とあるイエスのお言葉に、シラ書の知恵の教師の呼びかけを読み取ることができるように思う。
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