24章 メシア・復活信仰・永遠の命
■復活信仰
ここからは、主として旧新約中間期の復活信仰に入ることになるが、マカバイ戦争の時期に生じた復活信仰とクムラン宗団の復活に関する以下の記述は、すでにコイノニア会のホームページに掲載してある「四福音書補遺」の中の「復活について:旧約時代からイエスまで」に基づいて、これを簡略にまとめたものである。
〔よみがえり信仰の源流〕
2011年3月11日、東日本を襲った地震とこれに伴う津波の大震災は、これに遭遇した当事者たちの霊性に大きな影響を残した。その一つとして、石巻市のタクシードライバーたちが見た「幽霊現象」が報告されている〔東北学院大学金菱清ゼミナール編『呼び覚まされる霊性の震災学』新曜社(2016年):第1章「死者たちが通う街」工藤優花1〜23頁〕。彼らの体験を要約すると次のようになる。
(1)震災から3ヶ月ほど後に、石巻駅前で待っていると真冬みたいなコートを着た女の人が乗ってきて、「南浜まで」と告げた。「あそこはほとんど更地ですが、かまいませんか?」と返事すると、彼女は「わたしは死んだのですか?」と震えた声で応えた。驚いてミラーを見ると、だれもいなかった(56歳男性)。
(2)震災の翌年8月頃、駅で待機していると季節外れの厚手のコートを着た20代ほどの男性が乗ってきた。目的地を尋ねると真っ直ぐ前を指さした。もう一度尋ねると「日和山」と言うので、そこまで走り、到着すると男性はいなかった(41歳男性)。
(3)2013年の8月の深夜、巡回していると、季節外れの冬支度の小学生くらいの女の子が手を挙げた。深夜なので不審に思い「お父さん、お母さんは?」と尋ねると「ひとりぼっちなの」と返事をした。家の場所を尋ねてそこへ着いた時「おじちゃん、ありがとう」と言うなり姿を消した(49歳男性)。
(4)2014年の6月の正午、回送中に真冬のかっこうで手を挙げているマスクをした男性がいた。目的地を尋ねると「彼女は元気だろうか?」と応えたので、「どこかでお会いしたことがありますか?」と聞き返すと「彼女は・・・・・」と言いかけて姿を消した(57歳男性)。
これらの事例は、タクシーの乗車記録が残っていることからも、架空の思いこみではなく、その通りのことが起こったことが実証できる。ドライバーたちの中には、自分も震災で身内を亡くした人とそうでない人とがいる。しかし、彼らは長年街に住んで、街の様子を熟知している人たちである。石巻は昔から共同体意識が強く、これらのタクシードライバーたちも街の共同体のメンバーであることを自覚している人たちである。彼らは、自分が出逢った「人たち」と個人的な知り合いではないが、同じ共同体であるという意識を強く抱いているのは間違いない。だから、これらのドライバーたちは、出逢った人たちを「幽霊」と呼ぶには体験があまりに生々しく、恐れと言うよりも畏敬の念を抱くのである〔前掲書16頁〕。おそらくそこには、不慮の震災から助かったのが「たまたま」自分であったこと、言い換えると出逢った人たちは、自分たちに代わって犠牲となった人たちであるという想いが心に潜んでいるのではないかと思われる。
作家の高橋源一郎氏は『朝日新聞』(2016年3月?日)の書評欄で、『呼び覚まされる霊性の震災学』について的確にもこう述べている。「(大震災によって)暴力的に『死』と向き合わざるえなかった、震災の当事者たちは、通常と異なったやり方で、『死者』を弔い、『死』を受け入れていった。そこには、わたしたちの社会が忘れかけていたものがあった。彼ら(タクシードライバー)は、単に『死者を忘れないこと』ではなく、やがて『死者と共に生きること』を目指すようになった。」
高橋氏が「暴力的」と呼んだように、自然の災害によるとは言え、石巻の人々の死は、いわゆる「自然死」ではなく、時ならぬ不慮の死であった。だから共同体内で起こった災害によるこれらの「犠牲者」たちは、その共同体の「生き残った」人たちの霊性に、自分たちと運命を共にした「犠牲」だという想いを呼び覚ましたのであろう。
人類学的に見れば、所が変わり状況が変わっても、これと同じような体験や事例は、人類の歴史の中で数限りなく繰り返し生じてきたし、これからも生じるであろう。単に死者を追悼するだけでなく「死者と共に生きる」というこのような霊性の有り様に、わたしたちは、人類に敷衍(ふえん)する「死者のよみがえり」思想/信仰の源泉を見出すことができる。このような体験から発生した「死者のよみがえり」信仰は、宗教する人(ホモ・レリギオースゥス)という霊的な特性を具えた現生人類(ホモ・サピエンス)において初めて明確な形を採ることになる。
前の章で扱った第二イザヤの「死者の生き返り」信仰は、上に述べた人類に共通する「死者のよみがえり」信仰をもう一歩進めたところに生じたと考えることがでる。第二イザヤ書の場合は、自然災害ではなく、新バビロニア帝国によるユダヤの滅亡とこれに続く捕囚という「歴史的な」要因から生じた「死」であり、しかもこれらの死者たちは、神の律法を遵守しようとした「義人」たちであった。神みずからが、これらの死者たちを「わたしの屍(しかばね)」と呼んだ理由がここにある。帰還の民は、これらの死者たちが、「生き残った」自分たちと<共に生きている>ことを霊的に体験したのであろう。第二イザヤが、イスラエルの復活信仰の最初期に属する証しであるとすれば、その背後には、第二イザヤにいたるまでの人類の「死者のよみがえり」信仰の長い歴史がある。
〔「よみがえり」の神話〕
神あるいは神々の「よみがえり」の神話は、人類の古代から伝えられていて、日本に限らず世界のどの神話にも見ることができる。日本の『古事記』には、天(あま)つ神の神世七代(かみよななよ)の最後に生まれたイザナキ(男神)とイザナミ(女神)とが、大八洲(おおやしま)を生むが、イザナミが火を生んだために黄泉(よみ)へ降り、イザナキがイザナミに会うために黄泉へ降るが、そこから命からがら地上へ逃げ帰る。これが黄泉(よみ)からの「よみがえり」である。「よみがえり」は、ギリシアでは、古くから伝わるエレウシス祭儀によるデーメーテールとペルセフォネーの神話がある。ギリシアに古くから伝わる豊穣の太母(たいも)デーメーテールが、その娘ペルセフォネーを黄泉の王ハーデースに奪われたために、デーメーテールは巡り歩いて娘を捜(さが)し、このため地上では作物が実らなくなる。そこでゼウスのはからいで、年の半分だけペルセフォネーを黄泉のハーデースのもとに留め、他の半分はペルセフォネーを地上へ戻すよう決めたとある。ペルセフォネー(別名コレー)は植物の種を象徴し、冬の間は種が黄泉で死んだ状態にあって、春になるとよみがえることを象徴する神話である。この神話は、ローマでは、ケレースとプロセルピナとディースの神話としてオウィディウス(前49〜後19頃のローマの詩人)の『変身物語/メタモルフォーセース』(5巻340〜570行)でも語られている。
死からのよみがえりで有名なのは、ギリシア・ローマのクピードーとプシケーの神話で、この神話はアプレイウス(2世紀のローマの詩人)の『黄金のロバ』(6巻)に採録されている。人間の魂を象徴するプシケー(魂・命)がウェヌス女神の息子クピードー(愛)を慕い、二人の結婚の許しをウェヌスに求めるが、ウェヌスはプシケーに、黄泉の国へ降ってプロセルピナの美貌を持ち帰るよう命じる。プシケーは、プロセルピナから美貌の箱を受け取って地上へ戻る途中で、好奇心からその箱を開けると、死の眠りが彼女を襲い地上に戻れなくなる。ユーピテルはプシケーを哀れに思い、彼女を黄泉から生き返らせてクピードーと結ばせ、彼女は不滅の命を得ることができた。
これらの神話で、特にプシケーとクピードーの話は、人間の霊魂の永遠性を語っている。中国の秦の始皇帝が不老不死の薬草を求めた話にもあるように、「永遠の命」は、人類の普遍的な神話のテーマである。古代メソポタミアの『ギルガメシュの叙事詩』でも、ギルガメシュが永遠の命を与える薬草を求めてウト・ナピシュティームという賢者を訪れ、ギルガメシュは薬草を手に入れるが、蛇にその薬草を奪われてしまう。
旧約聖書でも、「命の神」である主の御臨在に護られて「いついつまでも」生き続ける喜びが語られる(詩編16篇8〜11節/同73篇22〜27節)。しかし、ヘブライの思想では、古代ペルシアやヘレニズムのギリシア思想に見るような地上の時間を超越した絶対の「永遠性」は考えられていない〔John Collins. Daniel. Hermeneia. 394-95.〕。むしろ日本人の「幾久しく」「とこしえまでも」のように、地上の時間から見て「終わりがない」という意味が強いようである。
〔ホセア書〕
ユダヤ教には、上に述べた「永遠の命」と同時に、もうひとつ「復活」という独特の信仰があり、これはユダヤ黙示思想の中から生まれた信仰だと言われている。「復活」"resurrection"は、ギリシア・ローマを中心とするヘレニズムの植物や動物の「再生」"regeneration"、あるいは肉体に対比させた霊魂の「不滅」"immortality"とは異なっている。旧約聖書の復活にかかわる初期の預言として注目されるのがホセア6章1〜3節である。
二日の後、主は我々を生かし
三日目に、立ち上がらせてくださる。
我々は生きる。
(ホセア6章2節)
このホセア預言は、アッシリアの侵攻によって北王国イスラエルが滅びる前後の頃(前734年〜32年)のもので、絶滅の危機に瀕した民が、自分たちの罪を悔いてヤハウェに救いを求めるところである。6章1〜3節は4〜6節と組み合わされて、4〜6節のヤハウェの裁きの厳しさと同時に、1〜3節でヤハウェの慈愛の深さが裏に秘められている。「二日の後」と「三日目に」を辞義通りに受け取ることはできないが、絶滅に瀕したイスラエル王国の民をヤハウェは忘れることなく、憐れみをもって再び「生かし/活かし」「立ち上がらせる」と預言している。「立ち上がる」(ヘブライ語「クゥム」)は、「復活」を表わす重要な動詞で、ここでは<瀕死の状態から生き返る>ことを表わす。
〔エゼキエル書〕
エゼキエル37章1〜14節でエゼキエルは、「枯れた骨」に向かって「主の言葉を聞け」と命令するよう主から告げられる。「骨」は「力」を意味し「骨が枯れる」とは、ヘブライの思想では「命が弱まる」ことであり、命が消えていく死の過程を表わす。預言者が語ると、骨が組み合わされて骨格をつくり、筋と肉がこれを包んで人間の「かたち」ができる(37章7〜8節)。しかし「彼らに霊はない」。再び語ると「霊が四方から吹いてきて」人の姿形に宿り、生き返る。ここには、創世記2章7節だけでなく、創世記1章2節の「神の霊/風が深淵の上を吹いていた」が反映されていて、主なる神の「創造の働き」と重ねられている。生き返るのは「民」であるから集合的な「生き返り」にも見えるが、一人一人の存在も無視されてはいない。
〔イザヤ書〕
イザヤ26章は、捕囚からエルサレムへ帰還する巡礼者たちが、ヤハウェに向かって歌う賛美で始まる(1〜6節)。賛美は民の祈りに変わり、主ヤハウェへの祈りとなる(7〜18節)。19節前半でヤハウェの民への応答が告げられ、19節後半「目覚めよ」以下では、ヤハウェのお告げを受けた人たちの賛美の歌が来る。
「あなたの死者たちは生きる。
わたしの屍(しかばね)は起き上がる。」
「目覚めよ!喜び歌え。塵に伏す者たちよ。
あなたの露こそ光の露。
あなたはそれを死霊の地に注ぐ。」
(イザヤ書26章19節)
ここ19節は、「わたしの」か「彼らの」か、所有代名詞にまぎらわしいところがあり、さらに、動詞が命令形なのか祈願形なのか、未完了形なのかも問題にされている。「あなたの死者たちは生きる。/わたしの屍は立ち上がる」では、「生きる」と「立ち上がる」は、二つとも未完了形の動詞である。ヤハウェの約束は、「<あなた>の死者たち」とイスラエルの民に語りかけ、さらに、「<わたしの>屍」とヤハウェ自身が、イスラエルの死者たちを「自分の者たち」と呼んでいる。現行のヘブライ語原典に従えば、主語が「神/主」であるから、「わたしの屍」とは、神のために死んだ義人たちの死体を指していて、「わたしの(屍)」は、この死者たちが、イスラエルの民に属するだけでなく、同時に「ヤハウェのもの」でもあることが告げられている(ここを「彼らの屍(複数)」と読む英訳もある[NRSV])。主のために犠牲となって陰府に降った者(たち)をヤハウェが「わたしの屍/死者」と呼ぶことで、死者(たち)を「自分のもの」だと宣言するのである。命そのものであるヤハウェに属する「屍」とは、「命にある屍」という一種の形容矛盾であり、すでにこの一句に「生き返り」の思想がこめられている。「命の神」との交わりにおいて苦難を生き延びることと、「わたしの屍」のように、神との交わりにありながら陰府に降った者とが、「生けるヤハウェの命」に与るという同じひとつの「命」で結ばれている。「生き残る」者と「生き返る」者とが、こうしてひとつになる。
ここの「生き返り」の宣言は、イザヤ26章14節の「死者が再び生きることはなく、死霊が再び立ち上がることはない」と対照されている。14節は暴虐を行なう支配者たちに向けられた断罪の宣告であるが、19節は、このような支配者の犠牲となったイスラエルの民の死者たちへの言葉である。だからこの19節は、神の義人たちの「立ち上がり」が、初めて「生き返り/復活」を意味する言葉としてでてくる重要なところであり、ここでは「正義」と「暴虐」という二つの価値観が鋭く対立している。捕囚以後の黙示思想は、イザヤ書のここによみがえり/復活の根拠を見出した。
イザヤ26章19節でさらに注目したいのは、この19節がイザヤ53章7〜12節へつながることである。26章19節で復活が祈り求められている人とは、「わたしの民の背きゆえに、彼は、神の手にかかり命ある者の地から断たれた」(53章8節)とある人のことである。それは、「多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった」(53章12節)とある人のことである。死にいたるまで主に従うことで犠牲になることは、主の御前において、贖いと癒しの力となって民に働きかける。だから、文字通りの身体的な復活ではないとしても、「陰府の亡霊」とされた主の僕が、主から降る「光(命)の露」によって再び地上に戻ることが、単なる比喩の範疇を超えて、具体的かつ実際的に身体の復活と同じ意味で「霊体として民の間に生き返って戻る」と信じられたとしても不思議ではない〔Watts. Isaiah 1-33."Excursus: Yahweh and Death."Word Biblical Commentary.〕。
以上のイザヤ26章19節をまとめると次のようになろう。
(1)ここでも、ホセア書と同様に主にある民全体の生命の回復が語られている。
(2)しかし、その回復の段階は、ホセア書の場合よりもさらに歴史的な出来事としての身体的な死とそこからの生き返りへ近づいている。
(3)身体的な「死」に近づく解釈については、〔A〕単なる比喩説、〔B〕イザヤ53章に見る義人による「犠牲と贖いの死」と彼が生き返って霊的に臨在すること、〔C〕特別な宗団内において祈り期待された「義人たち」の身体的な生き返り/復活、などの諸説がある。
(4)ここでの「死」と「生き返り」は、ダニエル12章2節の「死と生き返り」と密接に関係してくる。
(5)ここで語られる死は自然の死ではなく、歴史的な惨事が引き起こした死のことである。
ここでは、「死」と「命」は、通常の自然の生命と死の意味ではなく、歴史的な意味で、言い換えると、「正義」「暴虐」「善悪」の<価値観>を含んでいると考えなければならない。すなわち病気で死ぬとか、単に身体的な生命が維持されることとは違った意味を帯びているから、これは「神と共にある」ことによって初めて達成される「命」であり、このような「命」は、逆に、暴虐の者たちが神と共にある命から「断たれる」ことで被る「死」の罰と均衡している。したがって、ここで言う「生き返る」は、身体的な蘇生以上の宗教的な意義、「霊的」とでも言うべき価値観と不可分であり、「神の霊」によって生かされることなのである。
〔ダニエル書〕
ダニエル書で復活とかかわりが深いのは12章2節である。
多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。
ある者は永遠の生命に入り
ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。
目覚めた人々は大空の光のように輝き
多くの者の救いとなった人々は
とこしえに星と輝く。
(ダニエル12章2節)
ホセア書やエゼキエル書やイザヤ書からの引用では、復活用語が必ずしも明確ではなく、民の復興あるいは国土の回復を指す比喩的な解釈を採る説もある。しかし、ダニエル12章のこの箇所については、「死からの個人的な復活」が現実に起こり「永遠の命」を受け継ぐことが明記されているという解釈で一致している。したがって、旧約聖書では、ここが新約聖書の「復活」を預言する唯一の確かな箇所と見なされている〔Collins. Daniel. 391-92.〕。
「よみがえり/復活」がどのような姿で起こるのかは、ここで語られていないが、後述する第二マカバイ記7章の殉教物語では、復活の様態を示唆する言葉が記されていて(同7章23節)、それは、パウロの復活観にも反映している(第一コリント15章35〜44節)。上の引用には、「よみがえり/復活」がこの地上で起こるのかどうか、その場所についての記述もない(これは後述する『第一エノク書』にでてくる)。「ある者は〜ある者は〜」とあるところから、ここで言う復活が、人間全体にあてはまるのではなく、義人/信仰者に限られることを意味する。「永遠の命」は、旧約聖書でここだけにしかでてこない。おそらくダニエル書の「永遠」も、超越的な絶対性を持つものではなく「(時の)終わりがない」という意味であろう〔Collins. Daniel. 392.〕。「大空の光のように輝く」には、ヘレニズムの天文/占星術の「不滅の星星」の世界が反映している。
「憎悪/忌避の的」(デーラーオーン)は、イザヤ66章24節を反映している。「新天新地」が創造される時に、主に背いた者たちは死へ赴いて、「そこでは蛆が絶えず、彼らを焼く火は消えることがない」。したがって、ダニエル書には、罪人もまた「死から裁きへよみがえる」という思想はない。
■第二マカバイ記
アレクサンドリアのクレメンスは、2世紀末に、第一マカバイ記と第二マカバイ記とを初めてキリスト教世界に紹介した。これらの写本はギリシア語で書かれていて、5世紀のアレクサンドリア写本が最古のものである。第二マカバイ記は、紀元前2世紀のユダヤが、ギリシア系のセレウコス朝の支配下に置かれていた頃の出来事を記したものである。
〔著者と摘要編集者〕
第二マカバイ記には、「キレネ人ヤソンが5巻の著作にして記した」とありる(2章19節)。このヤソンは、おそらくキレネ生まれのユダヤ人で、アレクサンドリアで修辞学を学び、自らもマカバイ戦争に参加したか、あるいは参加した人たちの証言を集め、さらにセレウコス朝側の資料をも集めて、5巻の歴史書としてアレクサンドリアでこれを著わした。その執筆は前160〜124年の間だと推定される〔『聖書外典偽典』(T)旧約外典(1)「第二マカバイ記概説」(土岐健治)151頁〕。ただし、現在残されている第二マカバイ記は、著者ヤソンによるものではなく、ヤソンが記した歴史書を縮めて要約した人物によるものであるから、彼は「摘要編集者/要約者」と呼ばれている(2章23〜24節/15章38節)。この摘要編集者による第二マカバイ記の執筆時期は前124年だと考えられる〔新共同訳『旧約聖書注解』(V)「第二マカバイ記」(小河陽)264頁〕。第二マカバイ記には、前198年頃から前160年までのほぼ40年間にわたる出来事が語られているから、以下で、第二マカバイ3章〜10章8節までの復活にかかわる箇所だけを簡単に紹介する。
〔物語の概要〕
物語は、ユダヤの大祭司オニア3世(在位前198〜170年)の頃から始まる。オニアの弟ヤソンが大祭司になったころ(175年)アンティオコス4世エピファネス(在位前175〜164年)が即位する。大祭司ヤソンは、新王に取り入ってエルサレムを中心に急激なヘレニズム化を推し進めた。ところがユダヤのメネラオスが、王にうまく取り入って、ヤソンから大祭司職を奪い取り(172年)、その上メネラオスは、前任の大祭司オニアを殺害させた。大祭司メネラオスの兄弟リシマコスは、兄の権勢を盾に神殿を荒らしたために民衆の憤激をかい、彼は民衆に殺害されるが、さらにエルサレムの市民たちは、大祭司メネラオスの非を王に訴え出ようとした。窮地に陥ったメネラオスは、自分も手を回して王に取り入ることに成功したので、逆に訴え出た市民たちのほうが反乱の罪で処刑されることになった。
エルサレムで、ヤソンが反乱を起こすと、これを知ったアンティオコス4世は、エルサレムへ攻め入って大量の虐殺と神殿の略奪を行なった。これが前167年〜164年の大迫害の始まりで、この間に王は、ユダヤの成人男性を斬り殺し、女性や子供を奴隷として売り飛ばし、安息日に兵による殺害を行なわせ、神殿を「ゼウス・オリンポスの宮」と呼ばせ、ディオニューソスの祭りを強制するなど、数々の蛮行を重ねた。さらに王は、主の律法に背く行為をユダヤ人に強制したために、ユダヤ人の中から多くの殉教者が出た。
そこでマカバイ(鉄槌)と呼ばれたユダとその兄弟たちが抵抗運動を組織して、ユダ・マカバイの反乱が起った。主の律法のために命を惜しまないユダヤの兵士たちは、勇敢に戦い、ついにアンティオコス4世の軍隊を撃退した。王自身も激痛を伴う病に倒れて、ユダヤ教を認めることでユダヤ人と和解した。ユダたちは、神殿を浄めて勝利を祝い、このキスレウの月の25日(前164年12月25日)を神殿奉献祭の日(ハヌカの祭り)の起源と決めた。
〔その復活思想〕
第二マカバイ記の復活思想は、主として7章で語られている。ここで7名の兄弟が母親と共に捕らえられ、律法で禁じられている豚肉を口にするよう強制される。これを拒んだ兄弟たちが、一人ずつ拷問を受けて殉教するが、母親は、これに最期まで耐えて自らも死んでいく。
ここで語られている殉教物語は、ダニエル3章にある燃える炉に投げ込まれた3人の若者の話と同6章のライオンの洞窟に投げ込まれるダニエルの物語がその背景にあると考えられる。しかし、ダニエル書では、受難の若者たちは、主の奇跡的な助けによって救助されるが、第二マカバイ記では、若者たちは全員復活を待望しつつ殉教する(ここに語られている律法違反への強制は実際に行なわれた)。第二マカバイ記には、これのほかに、14章でエルサレムの長老ラジスの殉教が語られる。ラジスの殉教では、民族の受難とこれを引き起こしたアンティオコス4世とその手下ニカノルの悲惨な死が語られている。これら殉教者の死とこれを引き起こした悪人どもへの罰、さらに殉教者の復活と栄光への期待は、知恵の書へとつながるところがある(知恵の書2章16〜20節/3章4〜8節/4章16〜18節)〔Nickelsburg.
Resurrection, Immortality, and Eternal Life. 119-120.〕。
邪悪な王よ、あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとするが、
世界の王は、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださる。
我々が彼の律法のために死ぬのだから。
(第二マカバイ7章9節)
たとえ人の手で死にわたされようとも
神が再び立ち上がらせてくださるという
希望をこそ選ぶべきである。
だが、あなたはよみがえって再び命を得ることはない。
(同14節)
ここでは、復活が同時に「救い」を意味するが、復活は「身の証し(あかし)」でもある。王は人であり、地域の君主にすぎないが、神は「世界の王」であるから、王の法律を破ることこそ、神の律法に従うことになる。したがって復活は、殉教者たちが正しく無実であることの「身の証し」なのである。ダニエル3章と6章の奇跡的な救助/救いもまた同様の「身の証し」であるが、第二マカバイ記では、身の証しが<彼らの死後に>起こるところがダニエル書とは異なっている。この点で、第二マカバイ記での身の証しは、知恵の書5章4〜5節/15〜16節に近いと言えよう。
さらに注意してほしいのは、第二マカバイ記では、「(たとえ拷問で手や舌を失っても)天からこの舌や手を再びいただけると確信する」(7章11節)とあるように、復活が「身体的な」姿で生じることである。これはおそらく彼らに加えられた身体的な拷問に対応する信仰だと思われるが、創造主である神は、その創造の業を滅ぼそうとする王たちの企てにもかかわらず、<再創造>するという信仰をここに読み取ることができる。
第二マカバイ7章は、ダニエル12章1節の宗教的な迫害と同じ状況を指しているから、復活と身の証ししは、第二イザヤ書ですでに見たように、迫害に向けられた神の終末的な裁きと結びつくことになる。第二マカバイ7章の復活と身の証しも、同9章のアンティオコス4世への裁きと死も、個人的な出来事であって、人類全体に及ぶ復活と裁きではない。ただし、民族的な危機と宗教的な迫害というこの状況は、イザヤ26章で語られる「屍のよみがえり」の場合に通じるものであろう〔Nickelsburg. Resurrection, Immortality, and Eternal Life. 121-22.〕。
第二マカバイ記がダニエル書と異なるのは、5番目と6番目と7番目の息子の死に際して語られる次の告白である。
あなたは人々の上に君臨して、好き勝手なことをしでかしている。
しかし、我が民族が神に見捨てられたなどとゆめゆめ思うな。
(第二マカバイ7章16節)
思い違いもはなはだしい。
われわれは我々の神に対して罪を犯したために、
このような目に遭っているのだ。
(同18節)
あなたは神を敵にしたのだから、罰を免れない。
(同19節)
ここには、(1)イスラエルはその罪のために苦しみに遭っていること、(2)しかし神はイスラエルを見捨ててはいないこと、(3)アンティオコス4世はその罪のために罰を免れないことが語られている。すなわち、「暴君の成功は神がユダヤ民族を見捨てた結果だから迫害者はこのために罰せられることがない」というような偽りの見解をはっきり否定している。ここでユダヤ教は、ユダヤ人のみにかかわる範囲を超えて、ヘレニズムの読者全体に向けて語っていることに注意しなければならない。このような普遍性を帯びた警告は、知恵の書1〜6章に表われるのと同類で、そこには、ギリシアの宗教観が影響していると見ることができよう。
7番目の息子は、その殉教に際して次のように告げる。
わたしも、兄たちにならって、この肉体と命を
父祖伝来の律法のために献げる。
神が一刻も早く、我が民族に憐れみを回復し
また、あなたに苦しみと鞭を与えて、
この方こそ神であるとあなたが認めるよう願う。
(第二マカバイ7章37節)
ここでは、特に「自らの民族の罪を贖うために、神の憐れみを乞う」とあり、また、「不敬虔な者どもに踏みにじられた神殿を憐れみ、あなた(神)に訴える血の叫びに耳を傾ける」(同8章2〜3節)とあることに注目したい。
7人兄弟の訴えを整理すると、「我々は律法に従うことで殉教する」とあって、自分たちの身の証しを立てていること、しかも「我々は自分たちの罪のために罰を受けている」とあるように、そこには、無罪の「身の証し」と有罪の「罰」という相互に矛盾した陳述が見られる。その上で、ユダヤの民に臨む神からの「正しい罰」が必ず終わるという「神の怒りの終焉」が告げられている。殉教に伴う「神の罰」と「身の証し」という視点から見ると、ここで神の民に与えられる「神の慈悲/憐れみ」には重要な意義がこめられているのが見えてくる。
■クムラン宗団の神学
〔終末観〕
クムラン宗団の終末思想は、礼拝において天使が舞い降りて彼らと共になり、宗団それ自体が、天の神殿に対応する地上の神殿となり、そのことを通じて、来るべき世界の前味を知ることにある。
主よ、感謝します。
あなたはわたしの生命を滅びの穴から救い、
陰府とアバドンからわたしを引き上げてくださった
永遠の高みへと。
それゆえわたしは果てしない平地を歩く。
だからわたしは永遠への希望があることを悟る
あなたが土くれから造った者さえも
永遠の共同体に加わることができるから。
あなたは堕落した霊をもその大きな罪から浄めてくださって
聖なる天使たちと共にいる場所を与えて
天の子らの集まりと共にいる交わりに入れてくださる。
(『感謝の詩編』19〜22節)〔以下を参照した私訳:1QHymns(1QHodayoth=1QH). Col.XI(=III.frag25):19-22a.〕〔DSS(1)332.〕
クムラン宗団の終末観は、世の終わりに訪れる救済のことだけではない。「世の終わり/世界の終末」は、クムラン文書に繰り返しでてくるが、クムラン宗団でいう「終わりの」(アハローン)とは、ヘブライ語/七十人訳の旧約を受け継いでいて、その意味は「その後に続く」「その後に来る」ことである。クムラン文書で引用された詩編37篇11節に「だから柔和な者は地を受け継ぎ、平和がもたらすあらゆる豊かさを享受(きょうじゅ)する」〔4Q171,Frags.1-2Col.1〕〔DSS(2)249〕とあるが、これに「これは、過誤の時代を堪え忍び、ベリアルのあらゆる罠から救い出された貧しい者たちの群れのことである。その後に彼らは、あらゆる・・・・・を受けて、身体のあらゆる豊かさで飽き足りる」〔DSS(2)249〕と注釈している。すなわちイスラエルが「浄められて」、その支配がメシアによって確立するその前に、ベリアルの最後の攻撃を受ける。ここで語られているのは、「世界の終わり」のことではなく、「ベリアルの支配の終わり」のことである。だからクムランの神学では、はっきりと二つの時期が区切られている。一つは、ベリアルに支配されて<限定された期間だけ>続く時代であり、二つ目は、その支配の後に来る全世界に及ぶ楽園的な平和の時期である。繰り返すと、これは「終わりの時」ではなく、「次に続く時」のことである〔Deasley. The Shape of Qumran Theology. 256〕。ここで言う「ベリアルの終わり」とは、歴史上に繰り返される「圧政/悪政の終焉」を象徴しているとも受け取れる。
しかし、クムラン文書では「終わりの時=次に続く時」だけでは割り切れない。クムランでは、ダビデもモーセも「イスラエルの優れた預言者」であるから、彼らは未来をも預言している。4Q174.Col.3.では、詩編2篇1〜2節「なにゆえ、国々(諸民)は騒ぎ立ち、人々は空しく声を上げるのか。なにゆえ地上の王は構え、支配者は結束して主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか」が引用してあり、終わりの日々にイスラエルの民の「選ばれた者たち」に降る迫害が来る。これに4Q174.Col.4.が続いていて「これはユダの家に迫害が臨む時」である。迫害は、邪悪な者どもが火に焼かれ、ベリアルの子たちが滅ぼされる時まで続く。それから、予め定められていた選ばれた者たちが残されて、彼らは神がモーセを通じて命じられた通りに律法を行なう。この時こそ、ダニエル12章10節で預言されている<逆らう者はなお逆らって悟らない時であり、義人たちは浄められさらに清くされる時>である」〔4Q174.Col.4.1-4.〕〔DSS(2)257〕。
したがって、クムラン宗団で言う「終わりの日々」とは、永遠の時相だけでなく、そこには一時的な歴史の出来事も含まれてくる。「この世」と「来るべき世」との二つの時代の重なりは、厳密に言えば四つに分かれる。(1)今の時に先立つ過去と(2)今の歴史的な現在と(3)来るべき悪との闘いの未来と(4)窮極の平和をもたらす終末、これら四つである。宗団は、このような時代観に立って、自らの現在を把握しようとする。終末は次のように記される。
そしてヤハウェはあなたに告げる。「主はあなた〔ダビデ〕に家を建てる。そこにあなたの後を継ぐ子孫を立てて、その王国の座をとこしえにする。わたしが彼の父となり、彼はわたしの子となる」(サムエル記下7章12〜14節)。これはダビデの枝(子孫)のことであり、彼は、終わりに日々に記されている律法の解釈者と共に立ち上がる〔4Q174:10-11.〕〔DSS(1)136〕。
この最後の終末では、ダビデの子孫の到来と、イスラエルのメシアの到来と、律法の解釈者の到来と、終末に顕現する神殿とが重ね合わされている〔Deasley.
The Shape of Qumran Theology. 258〕。
クムランの黙示思想には、天使の現われを伴う神の臨在が語られているが、それは「来るべき時代」を予見させるものであり、特に、現世の人間の心に働きかけて闘い合う二つの霊の働きにその特徴がある。この「霊的な闘い」は、邪悪な霊の滅びを予見させる「訪れの時」を待ち望むものであるが、そこには、救済論だけでなく、「終わりの日々」(アハーリト・ハィヤーミーム)も繰り返しでてくる。これは完全な浄めが与えられる「メシアの時代」を待ち望むもので、世の終わりには、ベリアルの霊どもが最終的に滅ぼされることになる。
だからクムランの黙示思想は、二つの世界の相克、それもクムラン宗団自身にかかわる歴史的は性格が強い。この特徴を最もよく表わしているのが『宗規要覧』の3〜4章で、そこには、人を浄めに導く「真理の霊」と堕落に誘う「偽りの霊」の働きによる人間の内面的な闘いが描かれている。人生は光と闇との二つの霊が闘う場であり、終わりの時に、光の子たちのために神が介入して闇を滅ぼし、神の御心に沿う命が復元される〔1QS.Cols.3-4.→DSS(2)119-122.〕〔The Rule of the Community(1QS).Cols.3-4.〕〔DSS(1)5-7.〕〔『死海文書』日本聖書学研究所編。「宗規要覧」V〜W。97〜100頁〕。
このように、クムラン宗団では、黙示的な終末思想がイデオロギー的なレベルへ高められている。この黙示的な終末観は、クムラン宗団の聖書解釈の手法と重なり、そこでは、ユダヤの民と異邦の諸民との敵対関係を基調として、選ばれた者たちが、神による最終的な介入によって彼らの義が立証されるという歴史観が形成されている〔Deasley.The Shape of Qumran Theology. 263〕。
クムランの黙示思想でもう一つ注意しなければならないのは、神との契約に基づく悪の敗北と善/義の勝利である。ここでも先に起こった出来事がモデルとなり、同じような複製が出来事として後に生じることになる。ただし、モデルと複製との間に、正確な一致は期待されていない。このような、出来事の隠喩性は、現代のわたしたちになじめないところがあろう。わたしたちは、象徴と現実とをはっきり区別するが、クムラン宗団の人たちには、その区別がわたしたちほど明確でない。だから「神との交わり」「ベリアルとの闘い」という言い方を字義どおり受け取るのか、隠喩的に採るのか、これがはっきりしないのである。それらの言辞は「現実的」でもあり、それなりの重みを持っているのである〔Deasley.The Shape of Qumran Theology. 267〕。
〔闘い〕
光と闇、神とベリアル(悪魔)との闘いは『戦いの書』(前140年頃)に描かれていいて、そこに三つの特徴を読み取ることができる。
(1)闘いは、神のご計画の成就を阻もうとするベリアルの敵対によって進行する。ただし、ベリアルが闘いを先導するのではなく、彼は神の御心が支配するのをある程度阻むことができるだけである。
だがわたしたちは、あなた(神)の民の残りの者です。あなたの御名は誉めるべきかな。慈しみ深き神よ。わたしたちの父祖との契約を守りたもう神よ。ベリアルの支配の時代にあっても、あなたの驚くべき憐れみは残りの民をお守りくださった。彼(ベリアル)のあらゆる隠された悪巧みにもかかわらず、彼ら(残りの民)はあなたの契約から迷い出ることがなかった。・・・・・あなたは贖われた者たちの命を保たれた。御力によって倒れた者たちを立ち上がらせてくださった。だが丈(たけ)高い者(巨人/権力者)どもをば、あなたは切り崩して低くされた。
〔1QM/4Q491-496.Col.14.8-11.〕〔DSS(2)160-61.〕
ここには、アッシリアの支配からローマの支配にいたる「キッティーム」との闘いが背景にあり、それは6度に及び、7度目に神の介入によってベリアルは征服される。
(2)闘いは、この地上における現実の戦争となり、同時に霊界でも闘いが行なわれるが、その闘いはまず人の心の内で始まる。
今にいたるまで、人の心には、真理の霊と不義の霊とが対立し合い、人は皆、知恵と愚かとを兼ね具えて歩む。あるいは真理と義を賦与されるままに不義を厭い、あるいは受け継いだ不義のままに邪悪を行ない真理を厭う。神は人にこれらの霊を等しく与え、定められた終わりと新たな創造にいたる。〔DSS(1)7〕〔DSS(2)121〕〔The Rule of the Community(1QS).Col.4.24-25.〕
このように、人の心に働く闘いも、創造の神による一元的な支配の下に置かれている。ただし、クムランの人間観は、個人的であるよりもむしろ共同体的であるから、闘いは、神の民とこの世に働く悪の力に支配されている者どもとの間で生じることになり、同時に、地上での闘いと天上での闘いとが呼応し合う。
天と地との二つの世界は相互に浸透し合っているから、その言語は歴史的であると共に超越的である。相手は一貫して「キッティーム」(アッシリアやプトレマイオス朝やセレウコス朝やローマなどを象徴する)との闘いである。敵はベリアルに支えられた「闇の子ら」で、これに対するのは永遠の光である天使ミカエルに支えられた「贖われた民」である。
(3)終末の闘いにおいて重要な働きをするのがメシアである。メシアは『戦いの書』においてだけでなく、ダビデ的なメシアとして他のクムランの断片にも表われる。中でも注意すべきなのはイザヤ10〜11章に関するもので、そこには次のように書かれている。
今や、万軍の主は斧をもって木々の梢を切り落とす。すべての木より高い木さえも切り倒され、最も強きものも倒される。森の茂みも鉄の斧で切り倒され、堂々としたレバノンの大木も倒れる」(イザヤ10章33〜34節)。
これは、イスラエルの手によって、へりくだるユダによって倒れるキッティームのことである。ユダは、異邦の諸民族を・・・・・、力ある者どもも打ち砕かれ、彼らの勇気も挫(くじ)ける。「すべての木よりも高い木」とはキッティームの戦士たちのことである・・・・・。「森の茂みも鉄の斧で切り倒される」とは、キッティームとの闘いによって・・・・・「堂々としたレバノンの大木も倒れる」とは、逃げ去ろうとする時に、イスラエルの気高い者たち手にかかる・・・・・。
〔4Q161.Col.3. Frags. 8-10.〕〔DSS(2)237.〕
ここで言う「キッティーム」は、ギリシア人でありローマ人でもあり、おそらくより漠然と終末における敵のことを指すのであろう。ただしここには、民を率いるメシア的な人物像は現われてこない。この断片はさらに続く。
「エッサイの株から一つの枝が出て、その根から芽が萌え出る。その上に主の霊が留まる。知恵と洞察の霊、善き計らいと力の霊、真理と知識の霊、主を畏れる霊である。彼は目に見えるところによって裁くことをせず、弱い人たちのために正義の裁きを行なう」(イザヤ11章1〜4節)。これは終わりの日々に現われるダビデの枝のことである。・・・・・神は彼を力の霊で支え・・・・・神は彼に栄光の御座を、聖なる王冠、優美な衣を与える。その手に王笏を握らせ、異邦の諸民族を支配する。「彼は目に見えるところによって裁くことをせず、耳にするところによって判定しない」とは、彼はツァドク系の祭司たちから助言を受けて、彼らが彼を教えることである。」
〔4Q161.Col.3. Frags. 8-10.〕〔DSS(2)238.〕
ここに見るように、クムラン宗団で言う終末的な闘いは、会衆の君でありダビデの枝によって導かれ、イスラエルの勝利が祝われて、キッティームの死体は、その国土から取り除かれる。
(4)終末の闘いにおいて邪悪が倒れ滅び去る。その過程は、悪の根絶へ向かう劇的な進行によって構成される。しかも、この滅びに際して、ベリアルと彼に伴う諸民族も、キッティームとその指導者たちも、闇の子らも、これらすべてが恒久的に消滅して、永遠の贖いが成就することになる。イスラエルとキッティームとの闘いは、光の子らと闇の子らとの闘いでもある〔Deasley.The Shape of Qumran Theology. 270-72〕。
勇者/英雄よ、立ち上がれ。栄光ある者よ、あなたの虜(とりこ)を捕らえよ。勇ましく闘うあなたの獲物を(捕らえよ)。あなたの敵の首にその手を置き、あなたの足は刺し殺された者の背中を踏む。あなたに敵する諸民族を挫き、あなたの剣が彼らの肉を食らえ。
〔The War Scroll: 1QM. Col.12. 10-12.〕〔DSS (2)159.〕
〔復興と復活〕
光と闇との闘い、これの結末としての裁きと終末は、さらに、これに続く出来事をも顕わす。先に引用した『感謝の詩編』では、人を滅びの穴から引き上げて、その霊を浄めてくださる神への感謝で始まるが、しかも、その感謝は、ベリアルの者どもへの容赦ない断罪へつながる。
ベリアルへの怒りの時であり、
近づく死の縄から逃れる術(すべ)はなく、
ベリアルの奔流は高い堤を超えて
すべての水流(?)を食いつくす炎となって
・・・・・・・
逆巻く火炎の炎は
水を飲む者どもすべてを消し去る。
神の炎は地の基(もとい)を焼き尽くし
乾いた陸地の果てに及ぶ
〔1QHymns.Col.XI:27-31.〕〔DSS(1)333〕
ここでは、人間世界の邪悪への断罪と地上世界の絶滅とが結びついているが、強調は人間世界に置かれている。このような破壊を越えてその後がどのようになるのかは示されていないが、これに対する答えが、先に引用した『宗規要覧』の3〜4章に表われている。
なぜなら知恵の人は、人の子らすべての歴史を光の子たちに告げ知らせる。・・・・・今あることも今後成るべきこともすべてが知恵の神から出る。それらが成る/存在する以前から、神はそれらをことごとく計画され実現される。彼の栄光の計画に従って定め通りに何一つ変えずに。
〔Rule of the Community(1QS).Col.4.13-16.〕〔DSS(1)6〕
ここでは、個人の行ないに応じて報酬と罰が与えられるだけでなく、闇の子たちとその世界の消滅に対応して、光の子たちが新たに創造されて、神のご計画によって創造される世界を治める。このために、光の子たちに潜むよこしまな霊が照破される事態が生じ、世の終わりが来ることになる〔Deasley.The Shape of Qumran Theology. 273-74〕。
〔神殿と民の創造〕
現存するこの世の秩序が消滅する時に、次に何が生起するのか? これに対する答えが、以下に三つの相互に関連し合う復興/復活の事態として描かれる。ここでは、ヘブライ語の「クゥム」(復興する/復活する)の思想が、それらの事態を生起させる基になっている。
クムランでは、世の終わりが新たな創造へ結びついているが、それは原初の創造へ立ち帰ることではなく、クムラン宗団のレンズを通して見える未来のあるべき創造の姿である。とりわけここには宗団が抱く宗教的な価値観が「神殿」の姿で結晶していて〔The Temple Scroll.〕〔DSS(2)593-632〕、新たに復興された神への礼拝が、宗団が描く独自の神殿像を形成している〔DSS(2)594〕。
神殿は闘いの終わりに出現する新たな世界に属しており、それは、クムラン宗団で言う「純粋な神殿」である。その神殿で捧げられる礼拝と燔祭を含む献げ物は、1年365日を12で割った1月(30日)の暦に従って執り行なわれ(エルサレム神殿の太陰暦ではなく、クムランの太陽暦のこと)、26人の祭司たちが順番にその勤めにあたる〔The War Scroll. 1QM Col. 2. 1-7.〕〔DSS (2) 149.〕。
クムラン宗団の「神殿」像は、ソロモンの第一神殿と捕囚期以後の第二神殿(これを拡大した後代のヘロデの神殿をも含む)を度外視していて、彼らに啓示された神殿は、以下の特徴を帯びている。
(1)特徴の一つは、それが霊的で天的な存在でありながら、しかもこの地上において今そこで礼拝が可能だということである。『安息日に捧げる犠牲の歌』〔4Q400-407〕には、燔祭の祭儀と共に歌われる祈祷歌がある。この歌の韻律的な構成は、これを歌う者たちを天の祭司(天使)との交わりに誘う不思議な響き/言葉を醸し出す。そこに霊現するのは生ける霊的な神殿であり、そこに出現する神秘な体験は、「七つの不思議な言葉」〔4Q403.Col.2.21-22.〕〔DSS (2)468.〕でしか歌い顕わすことができない〔DSS (2)463〕。それはまさに「天の神殿」に属するものでありながら、現に今地上において霊的に顕われている。クムラン宗団のこの「神殿」は、地上のエルサレム神殿がその力を喪失してから、終末に顕われる神殿が到来するまでの間、中間的に地上に存在すると言えよう〔Deasley.The Shape of Qumran Theology. 276-77〕。
宗団のこのような霊的な神殿礼拝の様子は、『神殿の書』(The Temple Scroll)から知ることができ、そこには、宗団が待ち望む神殿が詳細に描き出されている。それは概(おおむ)ね、当時のエルサレムとその神殿を霊的に再解釈した「天のエルサレム」として描かれる。霊の神殿での礼拝様式は、申命記に基づきながら、「新たな申命記」の創造を祈り求めるもので、神殿は、至聖所を中心にして天的なエルサレムがこれを囲み、さらに周辺に波紋状に広がる構成を採っている。このような神殿観は、申命記12章以下で語られている<聖所の中央化>に対応するものであろう〔DSS(2)594-95.〕。
(2)この神殿のもう一つの特徴は「新しいエルサレム」と結びついていることであろう。しかし、これは、未だ最終的な神殿、すなわち「永遠の神殿」のことではない。神殿は、クムラン宗団の暦に基づく祭儀が行なわれる神殿なのである。暦に基づく祭儀で捧げられる犠牲によって「神の恵みを与えられた」民とその神殿は、次のように記されている。
こうして彼らは恵みを得る。彼らはわたしの民となり、わたしは永遠に彼らのものとなる。わたしはいつまで永遠に彼らと共に住まう。わたしの栄光で己の神殿を浄める。そこにわたしの栄光が留まり創造の日にいたるからである。その時は、わたし自身が自らの神殿を創造する。わたしがベテルでヤコブと結んだ契約を成就し、永遠にいたる神殿を自ら建てる。〔The Temple Scroll. 11Q. Col.29. 7-10.〕〔DSS(2)606.〕
ここには、神自身がその「創造の日」に、自ら永遠の神殿を建てると語られているから、この神殿は、終末へ向かう闘いの中で与えられる神殿とは区別される。したがって、クムラン宗団が言う「神殿」は、現存する滅びるべき神殿と、宗団が天的な礼拝において加わる中間の神殿と、「終わりの日々」に建てられる最終的な神殿と、この三つに区別される〔Deasley.The Shape of Qumran Theology. 278.〕。
このように見てくると、神の民の回復とは新たな民が創造されることであり、しかもそれが新たな神殿の創造と結びついていることが分かる。「回復する」(クゥム)は「復活する」ことをも意味するから、ここで生じる回復とは新たな創造のことであり、それが「復活」をも指すことになる。
〔メシアの出現〕
クムラン文書のもう一つの要素に「民の指導者」がある。これは「メシア」のことであるが、メシアには二つの問題が指摘されている。一つは「メシア」の数であり、もう一つは「メシアの性格」である。ただし、クムラン文書全体から見れば、メシアは重要ではあっても最重要の課題とは言えない。クムランの文書では、メシアは、主として「終わりの日々」との関連で扱われるからです。
クムラン文書では、「メシア」について述べられている箇所を判定する基準が必要になる。その一つが「メシア」(ヘブライ語「マーシーアハ」=油注がれた者。ギリシア語「クリストス」)という用語が用いられていること。次に、その用語が明確に終末的な意味で用いられていることである。したがって、次のような場合、「彼(神)は彼ら(神の民)をば、聖なる霊を注がれた者たち、すなわち真理の見者たちを通して教えられた」〔『ダマスコ文書』写本(A)Uの12節〕〔CD. Geniza A. Col.2. 12〕〔DSS (2)53.〕とある「聖なる霊を注がれた者たち」は、預言者のことであって「メシア」とは言えない。これに対して、聖書からの引用に基づく場合は、「メシア」がでてこなくても、メシア預言だと判断することができる。例えばイザヤ11章1〜10節/民数記24章16〜19節/サムエル記下7章12〜16節などである。
(1)クムランのメシアの特徴として、まず「会衆の指導者」のメシア像がある。「イザヤ書註解」〔4Q161-165. Col.3. 11-16.〕〔CSS (2)237-38.〕の断片にイザヤ11章1〜5節からの引用がでてくるが、その中の「これは終わりの日々に顕われるダビデの枝(子孫)のことである」がこれにあたる。「その時、ベリアルの全軍勢が裁かれ、キッティームの王は裁きに立たされ、会衆の指導者であるダビデの枝が、彼を処刑する」〔4Q285. Frag.7.3-4.〕とあるが、この「会衆の指導者/王侯」"the Leader of the congregation〔DSS (2)370〕/the Prince of the Congregation 〔DSS (1)124.〕"とはメシアを指している。
(2)「メシア」については、そのほかに「王笏を持つ」メシア像がある。「王笏はユダから離れず、統治の杖は足の間だから離れない。ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う」(創世記49章10節参照)とあるが、創世記のこの節については、次のような解釈がなされている。「イスラエルが統治する間、<統治/主権>がユダの部族から離れることがなく、ダビデの王座に座る者が切り倒されることがない。義のメシアであるダビデの枝が来るまで、<統治者の杖>は王国への契約となり、幾千ものイスラエルの民がその足となるからである」〔4Q252. Col.5.1-3.〕〔DSS (2) 355.〕。
ここでは「杖/王笏」(シェーベット)が「統治/主権」(シャーラット)へと置き換えられていて、「王笏」と「主権」が二重になっている〔Deasley.The Shape of Qumran Theology. 280-81〕。
(3)クムラン宗団では、ダビデの枝こそが「ヤハド(共同体)の人々」を導く「義のメシア」である〔4Q252. Col.5.5.〕。この「ダビデの枝(子孫)」は、アモス9章11節で預言されているとおり、イスラエルの家を「復興する/よみがえらせる」。ダビデ的なこのメシアは、邪悪な者どもを刺し殺し、キッティームの王を征服するからであろう〔4Q285.Frag.7.4.〕〔DSS(2)370.〕。ところが、この「ダビデの枝」について『戦いの書』の断片には、次のようにある。
・・・・・預言者イザヤが告げた通り(イザヤ10章34節)「森の最も茂った木々も鉄の斧で切り倒され、壮大を誇るレバノンも倒れる」。エッサイの株から枝が伸び出て、ダビデの芽が闘いに臨み・・・・・<会衆の王が彼、ダビデの芽を殺す>・・・・・。〔4Q The War Scroll(4Q285).Frag.5.1-5.〕〔DSS(1)124.〕
これはマーティーネズ(Garcia Martinez)の英訳である。この人は〔DSS(1)〕として引用しているクムラン文書の訳者であるが、この訳では、「会衆の王が<彼、ダビデの芽を殺す>」とある。この訳は、先にあげた「キッティームの王は裁きに立たされ、会衆の指導者であるダビデの枝が、彼(キッティームの王)を処刑する」〔4Q285.Frag.7.3-4.〕とちょうど正反対で、殺されるのはメシアである「ダビデの芽」のほうになり、殺すのが「会衆の王」(キッティームの王)になる。もしもこの訳し方が正しいとすれば、ここには「刺し殺されるメシア」像が表わされていることになろう〔Deasley. The Shape of Qumran Theology. 285〕。
(4)次にメシア像で重要なのは、「律法の解釈者」としての祭司性である。
「背いた者どもは剣によって倒され、堅持した者たちは、北の地、ダマスコの天幕(仮屋)へ逃れた。わたしは王の幕屋を逃れさせ、あなたの像の基(もとい)をダマスコの天幕へ移す」(アモス5章27節)。「王の天幕」とは律法の書のことであり、「わたしは倒れたダビデの幕屋を復興する」(アモス9章11節)とあるとおりである。「王」とは会衆のことである。「あなたの像の基」とはイスラエルが蔑んだ預言者たちの書のことである。「星」とはダマスコを訪れる律法の解釈者のことで、「星がヤコブから出て、杖(王笏)がイスラエルから立ち上がる(復興する)」(民数記24章17節)とあるとおりである。後者(王笏)は(イスラエルの)民全体の指導者である。
〔Damascus Document.Geniza(A).Col.7. 14-21.〕〔DSS(2)58.〕。
ここにでてくる「会衆(民)の指導者(王)」は、アロン的な祭司である。「預言者と、アロンおよびイスラエルのメシア(油注がれた者)たち」〔The Rule of the Community(1QS).Col.9.11.〕〔DSS(2)131.〕とあるとおり、ここには複数(少なくとも二人)のメシアたちが現われる。だから、メシアは必ずしも単数とは限らない。クムランの『宗規要覧』は、マカバイ戦争とローマの将軍ポンペイウスのパレスチナ支配(前60年)の間に書かれている。捕囚期以後では、メシアへの期待は途切れることなく続いていたと言われているが、マカバイ戦争の間でさえダビデ的なメシア像が現われることは比較的少ない。
したがって、クムランの祭司的メシアへの待望は、アロン系の祭司を廃した「非正統な」ハスモン王朝に対する反抗だと見ることができる。このために、メシアの到来と共に期待される「終末」は、「復興」と「理想」との二重の性格を帯びることになり、イスラエルの復興を求めるのがダビデ系のメシアであり、理想の国の成就を求めるのがアロン系のメシアになる。とは言え、これら二種類のメシア像が、どこまで区別されているかは確かでない。
(5)クムランのメシア像に「ヤハウェの受難の僕」を読み取ることができるかどうかは問題である。「わたしは背く者どもの罠となり、背きから立ち帰る者たちすべてを癒やす」〔Thanksgiving Hymns. 1QH. Col.10.10-11.〕〔DSS(2)180〕とあるのは、イザヤ53章4〜5節を反映していると思われるが、クムランのメシア像に、メシアの苦難に伴う贖いの意義を見出すことはできないようである。キリスト教以前のメシア像に、イザヤ書の「苦難の僕」と彼による贖いの思想を見出すことができるかどうか、この点は疑問であろう〔Deasley.The Shape of Qumran Theology. 283-84〕。
(6)クムランのメシアに「神性のメシア」像がある。彼は「神の子」と称されていて、これが表われるのが「神の子テキスト」(4Q246)と呼ばれる断片である。
彼(暴君の息子を意味する説もある?)はまた「神の子」と呼ばれ、彼らは彼を「至高者の子」の名前で呼ぶ。だが、あなたたちが幻で流星(複数)を見るように、彼らの王国もそのようになる。彼らはわずか数年の間だけ地を支配し、その間に民は民を踏みにじり、民族/都市は民族/都市を踏みつける。ついに神の民が立ち上がり、あらゆる人を剣/戦から休ませる。彼らの王国は永遠の王国となり、彼らの路は(真理と)正義である。彼らは地を正しく裁き、諸国の民は平和を得る。地からは戦が消え、諸国の民/諸都市は彼らに賞賛を送る。偉大なる神は彼らを助け、神自身が彼らのために闘う。神の支配は永遠の支配であり、地の深みもことごとく彼のものになる。
〔4Q246.Col.2.1-10.〕〔DSS(2)347〕
この「神の子テキスト」は、そのまま読むと、イエスの誕生を予告しているように見える。特に「至高者の子と呼ばれる」とあるのは、ルカ1章32〜33節を想わせる。
(7)さらに今ひとつ、クムラン文書で注目すべきメシア像がある。
彼(主なる神)は敬虔なるこの者に永遠の王国の王座へ(登る)栄誉を与える。この者は、とらわれた人たちを解放し、盲人の目を開き、うなだれた人たちをもたげる(詩編146篇7〜8節)。・・・・・なぜなら彼(この者)は、深い傷を負う者を癒やし、死者をよみがえらせ、苦しむ者によい知らせを遣わす(イザヤ書61章1節)。彼は、貧しい者を飽き足らわせ、追い出された人たちを導き、飢えた者たちを豊にする・・・・・。
〔4Q521. Frag.2. Col.2. 7-13〕〔DSS(2)531〕
この断片は洗礼者ヨハネがイエスのもとへ人を遣わして、「来るべき方はだれか?」と尋ねさせた時に、イエスが答えた返事とみごとに重なる(マタイ11章2〜5節)。「この者」とあるのは、クムランのメシアのことで、メシアについてこのように語られている箇所は旧約聖書のどこにもないから、福音書の記者たちは、この断片を知っていたか、少なくともこの伝承に親しんでいた可能性がある〔DSS(2)530〕。「よい知らせ」(福音)をもたらすこのメシアは、神性を帯びていて、超人間的な存在である。しかも彼は、ただ一人のメシアである(断片テキストの欠損のため確かとは言えないが)〔Deasley.The Shape of Qumran Theology. 289〕。
以上をまとめるなら、クムラン宗団のメシア像は、二人(以上)から一人までで、そこに一貫した教義を認めることはできない。メシアは祭司の下に属すると見なされるものの、「祭司的なメシア」像には「苦難の僕」像の反映を認めることができない。彼はまた、唯一のメシアで神の子のような神的な像である。メシアはクムラン宗団の終末と関係するが、その基調にあるのは(ダビデの)王権的なメシア像である。
ただし「会衆(民)の指導者(王)」は王笏を持つメシアでありながら、しかも彼は預言者であり祭司である。この時代、大祭司が最高位にあったから、ツァドク系の大祭司が終わりの日々に顕われるメシアとして最も有力であろう。「義の教師」は明確にメシア的な人物だとは言えないが、彼は預言者であり教師である。預言者としての彼は「律法の解釈者」でもある。メシアの到来は長く引き延ばされることがなく、「教師」が先駆けの役目を果たす〔Deasley.The Shape of Qumran Theology. 290-91〕。
〔人間性の回復〕
クムラン神学で重要なのは「堕落した人間性の回復」で、これは、創造によって授与されていたほんらいの人間性とその栄光を取り戻すことである。「人間性の回復」は、否定的な消極面と肯定的な積極面との二面性を具えている。
(1)否定的な消極面では「人間性の浄め」があり、『宗規要覧』4章20〜21節に次のようにある。
邪(よこしま)な時代に神の真理が裁きとなって降るその時には、神はその真理によって、すべての人の行ないを浄め、ご自分のために人間性(人の成り立ち/身体)を浄め、人の体の奥に潜むあらゆる不義(邪悪)の霊をはぎ取り、聖なる霊によってあらゆる不敬虔な業を浄める。神は人に真理の霊を輝く水のように注ぎ、すべての忌むべき詐欺と、汚れた霊による汚染を浄める。
〔The Rule of the Community(1QS).Col.4.20-22.〕〔DSS(1)7〕〔DSS(2)121-22〕
ここでは、終わりの日に、神は人に真理の霊(清めの水で象徴される)を注いで、「霊の割礼」〔4Q177.〕〔DSS(2)266〕によって人の心を浄める。この真理の霊による浄めに逆らうのが「頑(かたくな)な欲望の心」である〔The Rule of the Community(1QS).Col.1.6〕〔DSS(2)117〕。ただし、このような浄めは「現在すでに」起こって/始まっているようでもあり、「終わりの日々」に起こることでもあるように思われる〔Deasley.The Shape of Qumran Theology. 292〕。
(2)人間性の回復の肯定的な面をあげると、「アダムの栄光の回復」がある。荒れ野でイスラエルの民がさまよった後で、次のようにある。
しかし彼らの中から残されて神の戒めを固く守る者と神はイスラエルのために永代まで契約を立て、イスラエルのすべてがさまようもととなった隠れたことを彼らにあらわし給うた。すなわち彼(神)の聖なる安息日と栄光ある定めの祭りと彼の義の証言と彼の真理の道、そして人が行なうならばそれによって生きる御心の要求を、彼(神)は彼ら(イスラエルの残りの者たち)の前に披瀝(ひれき)し給うた。それで彼らは豊かな水の井戸を掘ったのである。それを軽んずるものは生きないであろう。しかし彼らは人間の罪に、汚れの道に身を汚した。・・・・・しかし神はその奇しき秘密において彼らの罪を償い、その咎を赦し給うた。そして彼(神)はイスラエルのうちに固き家を建て給うたが、そのようなものは古(いにしえ)より今にいたるまで建ったことがなかった。それを固く守る者は永遠の生命を得、アダムの栄光はすべて彼らのものとなる。
〔日本聖書学研究所編『死海文書』「ダマスコ文書」3章12〜21節。256頁〕
ここには「アダムの栄光」の回復が語られている。この回復は「永代の契約」に結びついていて、終末的な意味を帯びており、大地が、そこに住む人(アダム)と共に初めに創造された状態へと回復される。しかもこの回復には、人の罪の完全な贖いが伴い、神へ向かう人の心が入れ替えられて、天の交わりの礼拝に加わることが地上においても可能になる。これもまた終わりの時に起きることで、「隠れたことを選ばれた者たちにあらわす」とあるとおり、選ばれた者たちは、天の子たち(天使たち?)の知恵へと導かれ、アダムの栄光を授かる。
これが成就するのは、未来のことであるが、それは必ずしも終末の時に限られるのではなく、それ以前においてもある一定期間、そのような千年王国が一時的に実現するとある。その後で、終末でのメシアの到来と共に邪悪の力が滅び去り、イスラエルの回復が、定められた日に成就することになる〔Deasley.
The Shape of Qumran Theology. 293-94〕。
〔永遠の命〕
クムラン宗団には終末に達成される超越的な命が信じられていたのであろうか?上にでてくる「永代までの」人の生命の延長も、最終的には死を免れることができないとすれば、死の先に何があるのか? クムランの遺跡には今に残る墓地があって、そこには大勢の男たちだけでなく、女性や子供たちも(場所は違っているが)葬られている。これらの先に逝(い)った者たちはどうなるのか? ユダヤの終末的な希望は、基本的に現世的であり、クムラン宗団の終末も地上的である。たとえ時代が更新されたとしても、それはやはり地上的であるから、そこに「死をも超えた」宗団の「超越的な命」を望むことができるのか?
わたし(霊的に礼拝する者)の目は永遠を見つめる、人の目から隠された知恵を(見つめる)。それは人の子らからは隠された知識と思慮であり、肉の集まりから隠された義の源、力の井戸、栄光の泉である。これらを神は永遠の所有として選ばれた者たちに授けた。神は彼ら(選ばれた者たち)を聖なる方の相続を受け継ぐ者とされた。神は彼らを天の子たち(天使たち)と共に一つの交わりとして集め、「会衆」(ヤハド)とした。それは、彼らが聖なる建物の土台となるため、来るべき世々にわたって、永遠の農園となるためである。〔The Rule of the Community(1QS).Col.11.5-10.〕〔DSS(1)18〕〔DSS(2)134〕
ここでは、地上を越えた霊界への信仰が語られており、宗団はその交わりに加えられる。ここには、クムラン宗団が到達した最も高い宗教的体験が描き出されていると言えよう〔Deasley.The Shape of Qumran Theology. 296〕。同様のことが次の断片でも言い表わされている。
あなた(神)はそれ(神の創造の業)を彼ら(神が創造された霊の人)の子孫のために子々孫々にいたるまで、永遠の年月にいたるまで分け与えられた。・・・・・そしてあなたの知識ある知恵によって、あなたは彼らの運命を彼らが存在する以前から定められた。あらゆる事はあなたの御心で起こり、あなたを離れては何事も生起しない。
〔Thanksgiving Hymns.1QH. Col.9. 20-22
〕〔DSS(2)179〕
永遠の生命に入る者たちと永遠の滅び(消滅)に入る者たちとは、死の直後に裁きによって定まるが、それまでには、幾つもの継続する歴史的な時期が背景にある。だから「愚か婦人」に騙(だま)されて、「彼女の門は死の門、彼女はその家の入り口で待ちかまえる。滅びの穴に落ちるようとらわれた者たちは、皆ハデス(地獄)に落ちで戻らない」〔4Q184.Frag.1.10-11〕〔DSS(2)273〕ことにもなろう。下記の断片では、愚か者たちと義人たちとが対照されている。
愚かな心の者たちよ、・・・・・なしに何の益があろうか? まだ起こらぬ事を前にして何の安息があろうか? ・・・・・彼ら(愚か者たち)は、裁きに出遭って暗闇で喚(わめ)き悲しむ。しかし永遠に存在する者たち、真理を求める者たちは、裁きの時に目覚めて、・・・・・愚かな心の者たちを滅ぼす。
〔4Q418. Frag.69. Col.2. 4-8〕〔DSS(2)489〕
終末の闘い、メシアの到来、イスラエルの復興など、これらクムランの終末観は、ヘロデ大王の時代の前後、すなわち前1世紀末から後1世紀初めにかけて形成されたと見ることができる〔Deasley.The Shape of Qumran Theology. 297〕。クムラン宗団の終末観には、時間的と超越的の二つの側面があり、終末は「訪れ」として語られるが、その終末の時には、すべての人の子らに、善悪に応じて報いが<訪れる>。
知恵の教師は光の子たちを教え導く。あらゆる人の子ら(全人類)の由来と運命(歴史)について、(人の子らの)様々なしるし(階級)を帯びた霊性について、人の子らの行ないと彼らのあらゆる世代について、人の子らへの罰が、あるいは人の子らへの平安の報酬が<訪れる>時期について教え導く。
〔DSS(1)6〕〔DSS(2)120〕。
こうして邪悪の霊は滅ぼされ、「神はこれら善悪の霊を等しく人の子らに分かち与えて、定められた新たな創造の時にいたる」〔The Rule of the Community(1QS).Col.4.25〕。その時「アダムの栄光」も回復される。しかし、もしも人への賞罰の<訪れ>が人の死の時に来るのであれば、その<訪れ>は、終末の神の<訪れ>とどのように関係するのか? すでに逝った真実な者たちが、新たな創造の世において分け前に与るのなら、この疑問はいっそう切実になろう。復活がその分け前の時であるのなら、その「復活」とは、彼らが生きて死んだ時期と、終末の神の訪れとの間にあって、どこか中間の時期になる。この点から見ると、クムランの終末は、ダニエル12章2〜3節に近く、「復活」は、永遠の命か、あるいは永遠の断罪か、そのどちらかに定められる裁きに先立って起こるのであろう。クムラン宗団では、ダニエル書はよく知られていて、親しく用いられていた〔Deasley.The Shape of Qumran Theology. 298〕。しかし、ダニエル書の示す「時期」も結局あいまいであるから、「復活の時期」について確かな結論を引き出すことができない。先の引用を繰り返す。
彼(主なる神)は敬虔なるこの者に永遠の王国の王座へ(登る)栄誉を与える。この者は、とらわれた人たちを解放し、盲人の目を開き、うなだれた人たちをもたげる(詩編146篇7〜8節)。・・・・・なぜなら彼(この者)は、深い傷を負う者を癒やし、死者をよみがえらせ、苦しむ者によい知らせを遣わす(イザヤ書61章1節)。彼は、貧しい者を飽き足らわせ、追い出された人たちを導き、飢えた者たちを豊にする・・・・・。
〔4Q521. Frag.2. Col.2. 7-13〕〔DSS(2)531〕
ここでの「彼(主なる神)は敬虔なるこの者に永遠の王国の王座へ(登る)栄誉を与える。・・・・・なぜなら彼(この方)は、深い傷を負う者を癒やし、死者をよみがえらせる」とある箇所でも、ここで言う「よみがえり」が、逝った人類全体(全人類)の「よみがえり」なのか? それともメシアの到来によってもたらされる「病む者の癒しと貧しい者への助け」のことなのか? おそらくここは後者のほうであろう。
彼(主)は言われた。「天の四隅からの風に向かって預言して、刺し殺された者たちに向けて吹かせよ。するとそのようになった。すると非常に多くの人たちが生き返った」(エゼキエル書37章4〜10節)。彼らは、自分たちをよみがえらせた万軍の主のみ名をほめたたえた。
〔4Q385. Frag.2.7-9〕〔DSS(2)448〕
クムラン宗団においては、主ヤハウェとの契約に忠実であった「残りの者たち」の「再創造」は、エゼキエル37章に準拠している。しかし、エゼキエル37章での「復興/よみがえり」は、民族的な規模であるが、クムランでは、それが個人化している。では、何時、どんなふうに復活するのか? エゼキエル書では「骨が集められ、肉がこれを覆い、霊が吹き込まれるという三段階を経ている。クムランでは、それぞれの人のアイデンティティ(自己同一性)と生前の存在が、死をも超えてなおも継続するようであるが、このような「復活」は義人のみに限られいる。ただし、こういう復活/よみがえりが、はたしてクムラン宗団全体の信仰を代表しているのかは確かでない。
クムランのこの復活観は、その遺跡に残る墓地によっても確かめることができる。当時のエルサレムでは、家族葬が一般であり、それも一年ほど経過した後にその骨を骨箱に納める慣習があったことを思えば、クムランのように、頭を南に向けて南北の状態で墓地に埋葬されている状態は、明らかに特殊である。彼らが「復活する/起き上がる」時に、その顔が北を向いていなければならないのは、クムランの北の方角に「新しいエルサレム」「シオンの丘」「黄金の楽園」が待ち望まれていたからであろう〔Deasley.The Shape of Qumran Theology. 300〕。
ただし、クムラン宗団では、<この地上において>天使たちとの交わりの礼拝に加わることが優先されていたから、死後の問題は、このような天使たちとの礼拝の背後に隠れていたようである。同様に、「終末での闘い」が、来るべき世の命の有り様さえ二義的なものにしていたのかもしれない。
要するにクムラン宗団での「来るべき命」には、地上における命の延長と、来るべき世での超越的な命との間に、ある種の緊張関係があったと見なすことがでる。さらに今ひとつ、その永生への入り口が、死の直後なのか終末の復活の時なのか?という問題もあり、またその復活が、個人的なのか共同体的なのか、という問題もあったと思われる。これらの緊張を孕んだ復活の有り様は、中間的な千年王国思想によってある程度調和させられていたのであろう。共同体的な有り様それ自体さえも「時間的な」現実であると見なすなら、個人か共同体かの問題も解消することになろう。だから、メシア王国の到来は、自然と超自然との二つの領域における生命への祝福を人為的に調和させることができないことを示唆している。黙示思想では、全体において共同体的な復活が優先していると言えるが、これはクムランの場合でも同様である。共同体の消滅は、クムラン宗団そのものの消滅をも意味するからである〔Deasley.The Shape of Qumran Theology. 301-02〕。
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