26章 「宗教する人」から「永遠の命」へ
■「宗教する人」か、非宗教化か?
『朝日新聞』(2016年4月14日号)で、客員論説委員の國末憲人氏(千葉大学教授)は、「暴力生むからくりを探れ」と題して次のように述べている。
国際社説の担当者として欧州や中東のニュースを追いながら、どうも戸惑いがぬぐえない。人質を斬首する。生きたまま焼き殺す。その動画をこれ見よがしに拡散させる。過激派組織「イスラム国」にかかわる若者たちは、よほどの悪人でもためらう行為を、いとも簡単に成し遂げる。パリやブリユツセルのテロでは、自分たちと全く縁のないはずの市民を容赦なく殺害した。「イスラム教徒への差別に対する強い怒りから」「揺るぎなき信仰心のため」などの説明を耳にするが、彼らとて現代文明社会に暮らす人間だ。そんな理由で一線を越えるだろうか。紛争や犯罪での集団心理を研究する九州大学の縄田健悟講師(32歳)を福岡に訪ねたのは、そのような疑問からだった。「宗教が理由ではありません。攻撃的な集団に属すると、誰でもこのような行為に走る可能性があります」そう語る縄田さんの謎解きを聴いた。
これに続いて國末氏は、縄田さんが試みた心理学実験を引用して、「集団が社会から孤立し、これらの心理が内部に定着すれば、時に、常軌を逸した価値観が支配する組織に発展する」と結論づけ、暴力団もテロ組織も同類であると見なしている。私はこのような見解を批判したり反論したりするつもりはない。その通りだろうと思う。しかし、このコラムには一つ問題がある。それは、この後で國末氏が、オウム真理教地下鉄サリン事件や連合赤軍リンチ事件などを引き合いに出して、集団が暴力的に過激化する条件について次の四つをあげている点にある。
▼絶対的なカリスマ指導者の存在。
▼自分たちが正しいと信じるあまり、敵を非人格化し、殺害を正当化する意識。
▼組織の活動に自ら参加する責任感。
▼訓練や戦闘、礼拝などに時間を奪われ、正常な思考力が失われる状態。
先に引用した「宗教が理由ではありません」という発言と、ここにあげてある四つの条件とは、いったいどう結びつくのだろうか? 「絶対的なカリスマ性」「自己を正しいと盲信して反対者を敵視する行為」「組織活動への責任感」「訓練や礼拝を通じて思考力を喪失する危険性」、これらこそまさに、人間の「宗教的な」行為の本質にほかならないではないか。
私が国松氏を批判するつもりがないというのは嘘ではない。新聞の論説委員でもある氏が、このような矛盾を気づくこともなく(と私には思われる)語っておられるのには理由がある。それは、このコラムに見られるのと全く同じように、人間の宗教的な行為を「非宗教化する」発想が、ヨーロッパでは近代以降、根強く存在しているからである。人間の神話的な発想や宗教的な行為をことごとく非神話化し非宗教化することが、科学的な方法論として「正しい」という前提のもとに、学問的な思考が行なわれてきたし、現在もその傾向は変わらない。明治以降の日本の学界もこの傾向を受け継いできたから、現在の日本のメディアが、こういう非宗教化をそのまま受け入れて、これが「知的」であると思い込むのはごく自然なのである。現在のフランスの知性を代表すると言われる人類学のエマニュエル・トッドは、こういう「信仰の喪失」に現代の危機を重ね合わせてみている(『朝日新聞』2016年2月11日「展望なき世界」)。ただし、宗教の名のもとに科学を否定するのも同様に誤りであることを付け加えなければならないだろう。宗教と自然科学は、人間と自然の関係において、相互補完的に機能しなければならない。
ところで、心理学の実験から導き出した「非宗教的な」結論で、國末氏のイスラムへ抱く「戸惑い」は消えたのだろうか? もしもこの結論を、アッラーを信じて自己犠牲を厭わず自爆していく若者たちに向かって投げつけたとすれば、「お前たちのやっていることは、宗教とは関係がない」と彼らに言ったとすれば、アッラーの大義のため自己を犠牲にする「彼ら」はどう反応するだろうか? そう言われて「戸惑う」のは彼らのほうではないだろうか? イスラム教徒の信条も、そこから生じるイスラム特有の心情も全く理解しないし、しようともしない。学問的に「非宗教化する」自分たちの知性こそ正しいと己を絶対化して、自分たちの世界だけを信奉するヨーロッパのこのような「知的傾向」こそ、欧米とイスラム世界とを激しく対立させている「思想的な」背景であることに欧米も日本の学界もメディアも全く気付かないのである。欧米のことはさておいて、現在の日本の学界とメディアの「宗教」に関するこの驚くべき無知は、韓国、中国、インド、フィリピン、インドネシアとマレーシア、タイやミャンマーの国民性を「知的、思想的に」見誤らせる原因となるのではないか。私は今こういう危惧を抱いている。
「人間を理解する」ために、私があえて「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)を人類学の一概念として提唱する理由の一つがここにある。先の章で引用した宗教学のミルティア・エリアーデも人類学的な視点から同様の危惧を漏らしている。ここで言う「宗教」が、人間を理想化した姿でとらえようとする諸宗教の教義を指しているのでないのは、このシリーズの第二部を読まれた方ならお分かりいただけると思う。だから、国松氏がコラムで提示している「集団的な危険性」は、良くも悪くも、「宗教する人」にほんらい具わる性質を知ることで初めて理解できるのではないか。私はこのように考えている。
■「宗教する人」の集団的危険性
人間が「宗教する人」として集団あるいは共同体を形成する時、その集団は単なる機能的な集団にとどまらない場合が多い。ホモ・レリギオースゥスの共同体は、なんらかの目的(夢/ヴィジョン/理想)を抱きその目的を共有する集団だからである。したがって、この集団は、その目的に「のめり込む」あるいは「取り憑かれる」傾向が強くなる。だから、宗教する人の集団においては、共通の目標を目指す集団特有の固い結束が生まれることになる。このような共同体にとって、その目的はしばしばそれ自体が絶対化されるから、その共同体は、ある種のマニア的な性格を帯びる傾向がある。ある特定の目標に「取り憑かれた」この集団的自己陶酔は、ホモ・レリギオースゥスとしての人間の共同体が陥りやすい特徴なのである。こういう場合に、自己の集団以外の一切の干渉を排除し、その目標を妨げたり、これに反対する外部に対して敵対意識を抱き、外敵を抹殺しようとする行動に出るだけでなく、そのような敵対行為を正当化することによって、内なる結束と外への敵対は表裏一体化することになる。宗教する人の集団に潜むこのような本性は、しばしば重大な危険をもたらす。
日本の場合で言えば、日本人は伝統的に「和」を重んじる傾向が強い。だが、日本人の内なる「和」も、外なる外敵との「不和」と表裏一体を成すのは、宗教する人間共同体の例外ではない。最近気になるのは、日本人論で『永続敗北論』とか『敗北を抱きしめて』など「敗北」という言葉をしばしば耳にすることである。敗北はとりわけ戦国の武士たちにとって特別の意味を有していた。戦国の武士たちは、「殿」に忠誠を誓うことで「殿の馬前に死ぬ」ことを名誉だと心得ていた。しかし、「殿」が戦において常に勝利するとは限らない。敗北する場合がしばしば生じるのは避けがたい。このために、武士の忠誠心には、殿の死あるいは敗北に殉じる覚悟が要求されることになる。事の成否にかかわらず、常に死を覚悟して殿に仕える武士道の「必死の剣法」は、このようにして、生存への希求に左右されることがない諦観に裏打ちされることになる。これには禅仏教が影響しているのかもしれない。お家の存続を断たれる殿のため、藩のため、国のため(現代では会社のために)切腹し、犠牲となって殉じるという自己の生存への諦観に基づく武士道の美意識がここから生じる。死を賭して「お家再興」を願いつつ切腹した四十七士の物語には、日本人好みのすべての要素が含まれていると言われるのもこのゆえであろう。ただし、「武士道とは死ぬことと見つけたり」という葉隠れの思想は、武士道の真意を見抜いているとは言えない。「一所懸命」こそ、武士ほんらいの生き方であるから、子孫存続の「所(土地)を得る」ために命をかけるのが武士のあるべき生き方であり、武士に具わるほんらいの生存への希求だからである。
しかし、事の成否を問わず、死を賭してまで目的に向かうマニアックな精神に動かされる集団では、赤穂浪士の仇討ち美談では済まない場合が生じる。とりわけこれが国あるいは民族に指導的な役割を果たす共同体ともなれば、「宗教する人」集団に具わるこのマニア的な性格が大きな危険と悲劇をもたらす結果になりかねない。なぜなら、死をも賭して進むそのマニア性は、しばしば共同体の内外の多数の人たちを犠牲に巻き込む大きな悲劇へ発展するからである。そこには、この世をうらんで自殺を図る者が、できるだけ多数の人たちを巻き添えにして死のうとする心理がもたらす危険性と通底するところさえある。
数え上げれば切りがない。現代に限って言えば、民族の浄化を掲げるナチスの集団はもとより、旧ソ連の指導層が、その共産主義イデオロギーを通じて引き起こした厖大な数の犠牲者たち、終戦間際の陸軍参謀本部の将校たちが国体護持のため抱いた2千万の日本人の犠牲を想定した日本本土一億総力戦構想、共産主義撲滅を掲げて虐殺を繰り返したインドネシアの右翼民間団体、カンボジアのポル・ポト集団がもたらした150万人の殺戮行為、利潤追求を目的とするウォール街の金融集団が外部の国や社会に引き起こした世界的な経済危機、イスラムのテロ組織への復讐を目的にしたアメリカのブッシュ政権のイラク攻撃、日本の原発を推進するいわゆる「原子力村」が陥った根拠のない絶対安全神話を信じる思考、そして2016年の現在、国家を超えた「イスラム国」の建設を目指すイスラム原理主義者たちの集団が、敵対する他のイスラム宗団やキリスト教圏の諸国へ向かって自爆テロという非人道的な殺戮行為を繰り返している。
言うまでもないが、これらは特定の「宗教」活動ではない。ここで言う「宗教」とは、「ホモ(人)」を救う「レリギオ(宗教)」という従来の宗教学的な概念ではないことに注意してほしい。そうではなく、共同体の生存と殺戮が表裏一体化している「ホモ・レリギオースゥス」(宗教する人)の有り様を表わす人類学的な概念なのである。上に述べた人間集団は、まぎれもなくホモ・レリギオースゥスとしての人間の有り様を具えた目的陶酔型の思考と行動様式に動かされている。キリスト教の十字架の贖い信仰さえも、人間の苛烈な暴力行為を<覆い隠そうとする>方向へ機能することで、暴力を正当化する神話となる危険性が潜むことをルネ・ジラールは指摘している〔ルネ・ジラール『世の初めから隠されていたこと』〕。ホモ・レリギオースゥスに潜む宗教的な正体は、例えばヨハネ福音書に登場する「ユダヤ人」の集団、あるいは共観福音書の「ファリサイ派と律法学者」の集団の思考様式にも見ることができる。
人は誰しもホモ・レリギオースゥスとして目的を抱く者である以上、個人であれ集団であれ、常に自己の目的を何らかの<より高い>目標によって相対化することが求められることに気付かなければならない。なぜなら、自己目的の相対化を通じて初めて、その目的を批判的かつ客観的に見つめることが可能になり、その上でその目的を達成できる適切な方法にたどり着くことができるからである。とりわけ、人間の生命と生存に関わる重要な問題においては、いかなる場合も生存への希求を否定したり諦めることを<しない>思想が求められる。生存への希求に基づきつつ、しかも一切のこの世的な目標を相対化することを可能にさせる<より高次な>目的、これこそが新約聖書が伝えるイエス・キリストにある「永遠の命」であり、これを<追求する>霊性であろう。イエスの十字架と復活がもたらす「永遠の命」は、この世に存在する他の一切の目的を相対化する。逆説的に言えば、共同体であれ個人であれ、自己の目的がこのように相対化されることで初めて、具体的な目的を達成する適切な方法を見出すことが可能になるのであろう。かつてのイスラエルの首長ゴルダ・メイアが、イスラエルの国家存亡の危機に際して、「我々は生存することを決意した民族である」"We are the nation that has determined to survive." と言い切った時、彼女は何かこういう窮極の目的に支えられていたのではないだろうか。
■永遠の命
「生存する」こと、人類はこの一事をひたすら追い求めてきた。その結果行き着いたのが、ホモ・レリギオースゥスの「霊的な命」である。ここで聖書の「永遠の命」について言えば、旧約聖書では、ヘブライ語の「永遠」(オラーム)は、ほんらい「記憶にないほど昔から」の意味で、これは詩編25篇6節の「昔から変わらぬ」やイザヤ64章3節の「昔から聞いた者がない」、エレミヤ2章20節の「お前は久しい昔から反逆した」などにでてくる。この「オラーム」(いつまでも)は、ほんらい名詞の対格の副詞的な用法からきていて、「愛」「喜び」「しるし」「恥」などと共に用いられる場合が多い。
捕囚期以後の「永遠」は、ダニエル書のアラム語の箇所では複数が多く、主として「王がとこしえに生きる」ことを指している(ダニエル2章4節/3章9節など)。「王国が永遠である」(ダニエル2章44節)もこれと同類である。これなどは日本の「君が代は、千代に八千代に」と類似していよう。同じダニエル書のヘブライ語の箇所では「永遠(複数)の正義」(ツェデック・オラミーム)がでてくる(ダニエル9章24節)〔TDOT(10)531〕。イザヤ45章17節後半「代々にわたる救い(テシュガット・オラミーム)」"the salvation of ages"は、唯一ヘブライ語「オラーム」の複数の絶対形の用法で(これ以外はconstruct形)、この複数形は「一定の期間」が幾つも連なることを意味している。
マカバイ戦争の時代になって、殉教者が復活するという信仰がはっきりし形をとるようになる(ダニエル12章2節/第二マカバイ7章)。知恵の書では、「義は不滅である」(1章15節)とあって、義人は不死・不滅であることが証しされる。知恵の書の著者はギリシア思想を熟知しているはずなのに、人間の二元論的霊魂ではなく、主の祝福こそが「不滅」であると見ていることに注目したい(知恵の書7章7節)。このような「不死」は、主からの愛によって達成されるから、この意味で主に祝された者は「聖なる知恵の霊を授与された者」とされている(知恵の書9章17〜18節)。イエス以前の初期ユダヤ教で言う「命」とは、(1)生と死と(2)「この時代(の命)」と「来たるべき時代(の命)」との二つ側面で対照されて考えられている。
七十人訳で、ギリシア語の「永遠の命」が初めて聖書に現われるのはダニエル12章2節である。この用法は新約聖書にも受け継がれて、ヨハネ17章4節の「永遠の命」(ヘー・アイオーニオス・ゾーエー)の「アイオーニオス」いう形容詞は「ゾーエー」と共に用いられる。ちなみにヨハネ福音書では、マルコ福音書やマタイ福音書のように「永遠」が「罪」や「火」とは結びつかない。「永遠の命」(ゾーエー・アイオーニオス) は、ヨハネ福音書に17回、ヨハネの手紙に6回(定冠詞がつく場合は、この用語がイエス・キリストの命に限定されているから)である。ユダヤ教で言う「命」は、この世と死後との「二つの時代」と対応していたが、ヨハネ福音書では、「命」は「現在」の事態をも含んでいる(5章24節/11章23〜25節)。ただし、11章のラザロの奇跡は、死後の終末に墓の中から復活する「しるし」だと見ることができよう。ヨハネ福音書の「命」は、12章25節から始まり11章25節へ、そこから5章25節と24節へ、そして6章63節へとたどることで、一連のつながりを読みとることができるだろう。この「命」は「イエスに宿る復活の御霊」のことである。だからヨハネ福音書では、「永遠の命」は長さではなく質であり、「神の愛の本質」を表わす言葉である。プラトンの『ティマエウス』では、永遠は「無時間的」であるが、新約聖書では「今日この時の命」となり、そこに「神の聖霊の働き」を見ているから、「神の永遠における今日」が重視される。それは「神の今日」であり、その時時の「神のみ業」のことにほかならない。こういう永遠観にギリシア的な「永遠」とヘブライ的な「永遠」との結合を見ることもできるが〔ドッド『第四福音書の解釈』〕、その本質はヘブライ的な「時」を貫いて流動する運動であろう。
パウロは、「一人の人を通して罪が人間世界に入り込んだ」(ローマ5章12節)と述べているが、これなどは、ホモ・サピエンスに原初から具わる「ホモ・レリギオースゥス」に潜む「原罪」の事態をみごとに洞察している。「罪」とは、宗教する人の共同体が信頼関係で結ばれる際に、これと表裏を成して不可避的にまとわりつく敵対するものへの<宗教的憎悪>のことだからである。ホモ・サピエンスに潜むこの宗教共同体の罪の矛盾を鋭く暴くのが「後から加えられたモーセ律法」であることをパウロは見逃さなかった(ローマ5章12〜14節)。人はモーセ律法を通じて初めて、人類学で言うホモ・レリギオースゥスの正体、すなわち「人間の宗教性」に潜む真の罪性を悟らされるからである。
しかしパウロはここで終わらない。モーセ律法が人間の罪性を暴くと同時に、その罪性を覆い、覆うことによってこれを変容せしめる「神の恵み」もまた働くからである。しかも神は、その「恵み」をイエス・キリストという「一人」の贖いの業を通して実現した。一人のアダム(土の人)によって拡がった人類全体の罪、ユダヤ教に伝承されてきたモーセ律法が暴露した人類全体のこの罪状こそが、一人のイエス・キリストによる贖いの業がもたらす<神の裁きから発する恵み>という驚くべき逆説を導き出した。一人のアダム(人)から発した人類全体の罪性こそ、人類全体にも及ぶ神の赦しを呼び起こす結果をもたらしたこと、しかもそれが一人の贖いの業となって実現するという何とも奇妙な「アンバランス」な事態、これがここでパウロが提示している出来事である(ローマ15章15〜16節)。いったいこれは「人類の進化」なのか? ましてこれを「人類の進歩」などと呼べるのか? いわゆる無神論的な進化論学者たちが、人類のこのような歩みを「無目的かつ偶発的な」出来事だと片付けようとする心理が理解できなくもない。
ここでパウロは、ホモ・サピエンスが、ホモ・レリギオースゥスに不可避的に具わる原罪から脱して、イエス・キリストにある新たな「ホモ・スピーリトゥス」(霊の人)へ変容を遂げる事態を見ているが、大事なのは、彼が、その移行の境目に、ホモ・サピエンスが、「自然の人」として身体的に現存しているこの世において、イエス・キリストの十字架の死を通じて<霊的な死>を体験することを強調している点である。パウロはイエスの十字架の死がもたらしたこの働きをとりわけ重視して(ガラテヤ2章19〜21節/ローマ6章1〜8節)、彼は、この事態を「死は勝利に飲み込まれた」(第一コリント15章54〜55節)と言い表している。これは、「死は命に飲み込まれた」/「死は復活のキリストに飲み込まれた」と同じ事態を指す。復活したイエスの御臨在を帯びる者は、いかなる罪の事態や死の状態に陥ろうとも、ただ、「イエスのみ名」において立つだけで、牢獄のペトロの鎖のように、罪と死の呪縛から解かれる。ナザレのイエスにある御霊の福音の極意がここにある。
パウロはこの事態をさらに推し進めて「自然の体が蒔かれて、霊の体が復活する」と語る(第一コリント15章44節)。アダムとキリスト、自然の体と霊の体、この二組のタイポロジーはパウロによって完成された。土から生じる「自然の体」に宿る命(創世記2章7節)、これと対比され対応するのが、イエスの御霊から生じる「霊の体」に宿る命である(第一コリント15章46節)。「自然のからだ」が種として土に蒔かれると「霊のからだ」が生じる。土なくして種は霊体としては育たず、霊体を生じさせる種なくして土は実を結ばない。「自然のからだ」の<霊的な死>を通じて初めて「霊のからだ」が生じる。「自然の体」(ソーマ・プシュキコン)と「霊の体」(ソーマ・プニューマコティコン)の関係はこのようであるから、同45節でパウロは、「自然のからだ」を土から生じる生命体と見て、これを終末のアダム(イエス・キリスト)に宿る「命を造り出す霊的生命」(プネウマ・ゾーオポイウーン)と対比させている。自然に<発生する>生命と霊的に<創造する>生命というこの自動詞と他動詞の不思議な対比は、アダムとキリストの対比を指すだけでなく、イエス・キリストが現在もなお生き続けていて、すべてのキリスト者が、このイエス・キリストの命に与ることをも含むのであろう(第一コリント15章22〜23節)〔フランシスコ会訳聖書15章(注)16参照〕。
パウロは、「古い人」と「新しい人」という対比を好んで用いるが(ローマ6章6節/同7章6節/第二コリント5章17節/なおエフェソ4章22節/コロサイ3章9節参照)、これは、「ホモ・サピエンス」という<古いからだ>からその死を通じて「ホモ・スピーリトゥス」という「新たなからだ」へ変容することだと言い換えることができよう。パウロのこの信仰を受け継いで、これをさらに徹底させているのがヨハネ福音書である。「イエスが神の子メシア(キリスト)であることを(読者が)信じて、イエスの名によって<命を得る>ためである」(ヨハネ20章31節)。ヨハネ福音書は、その著作の目的を簡潔にこう述べている。神は、ナザレのイエスの出現という歴史的な出来事を通じて救いをもたらした。その救いは「イエスに宿る生命」であるが、ヨハネ福音書では、その命が、「渇く水と渇かない水」(ヨハネ4章)、「朽ちる食べ物と永遠の食べ物」(6章)のように、人類の滅性 "mortality" と「イエスの霊的な生命」の不滅性 "immortality" として対照されている。ヨハネ福音書の言う「不滅の命」とは、世の初めから存在した神のロゴスが地上に降って「人となった」イエス自身のことである。イエスに宿る永遠の命は、イエスの生涯を通してこの世に啓示された。それだけでなく、その受難と復活を通じて、イエスの弟子たちへ、そして全人類へと一貫して現在もなお働き続けている。
ヨハネ福音書には、イエスといわゆる「ユダヤ人」(原語「ユーダイオイ」)との厳しい相克と対立がでてくるが、ここでのイエスと「ユーダイオイ」との対立は、純粋に<宗教的な>対立であることを指摘しておきたい。ホモ・レリギオースゥスの共同体に潜む排外性とそこから生じる異教共同体への敵対意識と憎悪は、モーセ律法において最も鮮明に律法化されている。だから、申命記から導き出された「ユダヤ的律法主義」は、「宗教する人」の共同体が異教の共同体に対して抱く避けがたい敵対意識を鮮明にする旗印なのである。ただし、いわゆる「ユダヤ教とキリスト教との対立」は、「ユダヤ教」に潜む異教への敵対意識と、この限界を克服しようとする神の聖霊によるイエスの霊性との間の宗教的な相克であって、決して「ユダヤ人」と「異邦人」の人種的な対立のことではない。だからこそ、ヨハネ福音書では、「この世」は「ユーダイオイ」と同一なのである。この対立は従来そう見られているような「光と闇」という二元論的な対立でもない。この意味で、ヨハネ福音書が描くイエスの霊性は、決して「反ユダヤ人的」でもなければ、この世を否定する「あの世的」な性格のものでもない。「この世」はイエスの御言葉が語りかける「対象」であるばかりか(ヨハネ3章16節)、この世との対立を通してなおも語りかけることで、対立を克服する御霊が勝利する場なのである。とは言え、イエスがもたらしたこの永遠の命が、罪のこの世においては罪の赦しと同時に裁きともなりえること、イエスにある命の働きが、これに接する人の救いと同時に滅びにもつながることをヨハネ福音書は隠そうとはしない(ヨハネ3章31〜36節/8章42〜47節)。
新約聖書が伝える「永遠の命」とは、ナザレのイエスに働いた御霊に生かされることである。イエスの御霊にある人同士のコイノニア(交わり)は、それぞれの個人に応じて、御霊にある霊知と霊性と霊愛を通して育まれる。このような個人の集う共同体としての「エクレシア」には、人の思いをはるかに超えて人類を導く神の意志から発する栄光が宿る。これこそ、キリストのエクレシアを特徴づける霊性であり、この霊的特長こそが、日本人と韓国人と中国人のエクレシアの民を主にあって正しく導く霊灯となりえる。このような霊灯を掲げること、これが日本人のエクレシアに与えられた使命であろう。権力と財力に寄らず、教派や宗派の宗教的非寛容に傾かず、人類に宿る御子の「永遠の命」を重視する信仰こそ、東アジアのエクレシアの「我が足の灯火、我が道の光」であろう。
現在の物理学は、宇宙の万象の根本原理を数式で表わそうとする。その数式が示す法則が、目に見える物質の構成を説明する原理であり、しかもこれの窮極の数式が成立したとすれば、たとえ人類が絶滅しても、数式が指し示す法則は「永遠に」変わらないはずである。これに対して、ヨハネ1章3節は、宇宙を創造した神の「ロゴス/ことば」こそが万象を成り立たしめていると言う。だから、宇宙を成り立たせているその「ことば」は、目に見える人間の身体を形成している。新約聖書が証しする「人間のあるべき姿形(すがたかたち)」が、ナザレのイエスという人の目に見える「ロゴス」となってこの世に啓示され、このイエスが復活することでイエス・キリストとなった。「たとえ天地が過ぎ去っても、わたしの言葉は滅びない」とイエスが証しするとき、「イエス・キリストは昨日も今日も永遠に変わらない」と新約聖書が証しする時、このイエス・キリストこそ、現在の物理学が求めている宇宙の根本原理の数式と霊的に対応することになろう。物理学が求める窮極の原理に対応するのが、ナザレのイエスを通じて啓示された<霊的な人格>、「神は愛である」ことを顕わす霊的な人格なのである。宗教する人に具わる愛と憎悪という肯定面と否定面、命と死の双子の二重性を克服するために、わたしたちは、イエスが啓示した「永遠の命」、すなわちホモ・レリギオースゥスの「死と復活の命」へたどりついた。言葉(ロゴス)は、これを「語る」ことによってしか伝わらない。信仰は、これを生きることによってしか伝わらない。主イエスの道は、主にすべてを明け渡すことによってしか伝わらない。ヨハネ福音書の「永遠の命」は、これを生きることによってしか伝わらない。アッシジのフランチェスコの祈りの結びの言葉、「与えることで受け、赦すことで赦され、死ぬことで永遠の命へ生まれる」は、この狭い道を伝えているのであろう。以上でわたしたちは、「宗教する人類」の問題点と、これを克服するために与えられた教えと啓示をたどってきた。それは、ノアに始まりイエスにいたる人類への啓示の過程である。これらの聖なる人物たちの教えに共通するのは、次の二点になるであろう。
(1)「宗教する人」にほんらい具わる「自己の共同体内での信頼関係と自己犠牲の精神」を限られた共同体内部に留めるのではなく、その人間関係を全人類へ拡大し及ぼそうとしていること。
(2)「宗教する人」に分かちがたく絡みついている他の集団への敵対心と憎悪を、これに代わる博愛、慈悲、仁、礼節などによって克服し、そうすることで人類全体の和解と一致を目指すこと。
■もしもパウロが東へ向かったなら
「心を尽くし精神を尽くし力を尽くして、あなたの神を愛せよ」(申命記6章4節)。これはナザレのイエスが旧約から受け継ぎ、これによって生きた霊性の神髄である。パウロは、イエスのこの霊性を受け継いで、ユダヤ教の相続から閉め出されながらも、ユダヤ教の神髄を相続した。律法によって証しされイエスの御霊にあって成就された福音を携えたこのパウロが、もしも西へ向かわずに、東へ向かったならどうであったろうか。パウロの霊性は、東へ向かうその先で、おそらく仏教と出逢い、同時にその北側の中国の儒教と出逢ったことであろう。これによって、イエスからパウロへつながる福音的霊性は、ラテン世界へ向かった道とは、いささか異なる路線を歩むことになったと予想される。釈迦が啓いた人間の宗教性からの脱却と、孔子の儒教的な倫理性、この二つが、パウロ以後の福音的霊性を大きく左右することになったであろう。律法宗教から福音の恩寵への推移も、ラテン世界の合理的な哲学ではなく、より宗教色の強い、無の解脱への道をたどり、ヘレニズム世界に共通する倫理性も、孔子の説く倫理性として受け入れられていたであろう。実際に、ネストリオス派のキリスト教が唐代に景教として伝わった時には、そのような性格を帯びていたことから、この推理は誤りでないことが分かる。
バルトはフィリピ4章8〜9節の注解で、「何が善であり悪であるかは、キリスト者に教えてもらわなくても、この世はすでによく知っている」と指摘している。だから、人類は、善悪を判断する方法をイエスの到来以前から十分身につけていた。では、イエスの福音は何をもたらしたのだろう。イエスは、その十字架と復活による贖いの業を通じて、「人間の宗教的な諸行」のいっさいが、神の前に無力であることを悟らせてくれた。ホモ・レリギオースゥス全体が、イエスの十字架にある贖いの事態にあって「死ぬ」こと、そこから生じる聖霊にある新たな創造の業、この事態を通じて初めて、これまで人類に知られていた善悪の価値基準が、現実のものとなり、そうなることで、この世が求めて来た善悪が、初めて真の意味で可能になり成就すること、これが、ナザレのイエスの福音がもたらす人類への賜(たまもの)なのである。
■「永遠の生命」の目的と結果
新約聖書が伝える「永遠の生命」について、ここで改めて確認しておきたいことが二つある。一つは、学問的に見るならば、生命の進化と人類の生存の目的が「永遠の命」への到達であると主張するのは正しいとは言えないことである。なぜなら、そのような「有神論」的な主張に対抗する主張、すなわち、生命の進化も現生人類の生存も、宗教的な意図とは無関係であって、単なる偶発性がもたらした盲目的で無意味な結果にすぎないという「無神論」的な主張もまた「有神論」同様に可能だからである。現在の学問的な方法論からは、「永遠の生命」が神の計らいによると結論することも、逆にそのような摂理が存在<しない>と結論することも、そのどちらの結論をも導き出すことも証明することもできない。生命へのそのような洞察は、「霊的な啓示」(タイポロジー的な歴史観?)によってしかもたらされないからであり、このような霊性の啓示それ自体を学問的に解明する「正確な方法論」は、自然科学の分野でも人文科学の分野でもまだ確立されているとは言えない。
もう一つは、上に述べたこととは対照的に、学問的に見るなら、現生人類が抱くにいたった「永遠の命」という人の霊性に根ざす概念それ自体は、人類が生存しなかったならば決して存在しえなかったと結論することが「正しい」ことである。なぜなら、そもそも人類の生存なしには、新約聖書も、そこで語られる永遠の生命についての洞察も存在しえないこと、この結論は自然科学を含めて、学問的な判断として正しい定理だからである。しかもそれが、事「生命」に関する以上、人類の生命だけでなく、人類をこの地上にもたらした生物の生命進化の過程なしには絶対に不可能であると前提することも学問的に正しい。「永遠の生命」が進化の目的だと結論することが、自然科学を含む学問的な視点から導き出すことが<できない>のと全く同程度に、現生人類が到達した生命へのこの霊的な洞察もまた、地球上での生命の存在と進化なしには決して<ありえなかった>のである。この結論が、自然科学を含めて学問的に正しいこと、このことを改めてここで確認しておきたい。
■結び
共観福音書の「大宴会のたとえ」には、「礼服なしで」神の宴会に出席した人が、宴会から追い出されることが語られている。「礼服」とは神がイエスを信じる人に賜わる「霊衣」のことであるが、「終末の神の宴会」に与るために授与されるこのような「霊衣」が人類に啓示されるまでに、どれほどの時間が経過してきたのだろうか? 宇宙が存在するようになってからおよそ145億年が経過し、太陽系と地球が存在するようになってからおよそ45億8000万年、地球に本格的な生命体である多細胞生物が出現してから約6億年、現在のネズミの先祖にあたる哺乳類が出現してから2億2000万年が経過した。先祖を弔うことを知っていたネアンデルタール人が「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)として現われたのが今から約30万年前であり、「ホモ・サピエンス」と呼ばれる現在のわたしたち「最新型の人間」が出現したのはほぼ20万年前のことである。そして、パレスチナにイエスが誕生して「命の啓示」を与えたのはほぼ2千年前である。
新約聖書が伝える<いついつまでも続く永遠の命>は、これだけの長い時間を経過して、神がわたしたち人類に賜わった「生命の進化の証し」である。自然人類学と文化人類学が証しする通り、事ここにいたるまでの間に、地球上の動植物全体の生命は、絶滅寸前に追い込まれるという危機体験を繰り返してきた。生命の進化は、生命の危機と常に表裏一体であったし、この事情は現在でも変わらない。ナザレのイエスの十字架と復活がもたらす永遠の命とは、イスラエル生命体が苦難の末に啓示された進化の貴重な体験である。それだけに、現在わたしたち人類に示されている「永遠の命」の啓示は、厳しい試練をくぐり抜けた末にようやく与えられた最も新しく、最も貴重な賜物であることをわたしたちは悟る必要があろう。
(2017年5月)
宗教する人へ