「統括する」について
              コイノニア京都集会
           (2021年5月29日)
 
イエス・キリストにあって、わたしたちは、
  その血による贖い代(しろ)を賜わっている。
贖い代は、わたしたちの数々の罪過への赦免のためであり、
この赦免のおかげで、御子の豊かな恩寵が
  わたしたちの内へ注がれ溢れ出て
  あらゆる知恵と洞察となって働き
  神の神秘なお計らいをわたしたちに知らせるのである。
これは、キリストにあって予め定められた神の摂理に従って
時満ちるに及んで御経綸が成就するためであり、
これによって、あらゆるものがキリストにあって統括され
天にあるものも、地にあるものもその支配に入るためである。
               (エフェソ1章7〜10節)
 
 冒頭の「イエス・キリストにあって」は、パウロ書簡では、「イエス・キリストにある贖いの血」として出てくることが多いです。しかし、エフェソ人への手紙では、「イエス・キリストにあって、わたしたちは、その血による贖い代(しろ)を<賜わっている>」とあるから、御子の血の贖いは、わたしたちの日常生活のおいて「現に働いている」出来事のほうに、その重点が置かれています。「贖い代を(わたしたちが)賜わっている」とある以上、御子の血というわたしたちへの贖い代を「だれか」が「受け取って」いなければなりません。そうでなければ、「御子の豊かな恩寵がわたしたちの内へ注がれ溢れ出て、あらゆる知恵と洞察となって働く」ことがありえないからです。しかし、エフェソ人への手紙の著者は、これについては一切触れず、ただ、御子の血による贖い代が、「現実に効果を発揮していること」、自分たちが、神の不思議な摂理による「絶大なパワー」を受けていることをひたすら語っています。ひたすら謙虚になって、ナザレのイエス様からの十字架の赦しの御霊を受け容れるのです。 
  その絶大なパワーが、どんなに大きくて広いかは、エフェソ1章20〜23節が、この上なく的確に語ってくれます。さらに、そのパワーが、どんなに慈悲深く、恵みと憐れみに富むかは、エフェソ2章4〜7節に、はっきりと語られています。 
 これを現在のわたしたちに当てはめると、これからは、神の不思議なお計らい(経綸)によって、東アジアのキリスト教の時代が始まろうとしていることを意味します。その上で、日本が、これを「統括する」、言い換えると、リーダーシップを発揮するように求められているのです。このために「絶大な力(パワー)」がわたしたちに働くのです。「統括」(ギリシア語「アナケファライオーサスタイ」)は、反対や批判ではありません。批判や反対は、パワーがない者のやることです。パワーを具えている者は、和解させ、調和させることで支配するのです。これが「統括する」イエス・キリストの力のお働きです。これからの日本には、アジアにおいて、キリスト教を広めるために、アジアの平和を維持するリーダーシップを発揮することが求められています。
           5五分間説教集