御霊にある民主主義 (2022年11月1日)
今の日本人にキリスト教の必要性を説くのは難しいです。「神の愛」と言えば「仏の慈悲」があると言います。「永遠の命」と言えば、「仏教にも極楽と輪廻転生がある」と応えます。けれども、イエス・キリストさん以外に、「デモクラシーの神様」は居ません。だから、今の日本人に必要なのは、キリスト教の「デモクラシーの神さん」です。こう言えば、イエス・キリストを信じる理由が、今の日本の人々に納得してもらえるでしょうか。
今の日本人は、結婚したければ出雲の縁結びの神、受験に受かりたければ菅原道真を祀る北野天満宮にお札を納め、金儲けを望むならお稲荷さんにお参り、生まれたなら七五さんのお宮参り、結婚式はキリスト教の教会堂で、葬式は先祖伝来のお寺さん。そのほかにも、家内安全、無病息災の神様がいろいろあります。
だから、今の日本は、世界でもまれに見る「宗教的に多様で広い自由な国」です。そこには、あらゆる可能性が潜んでいます。こういう状態は、あらゆる思想も信仰も「相対化」されて、「絶対的なもの」が何にも見いだせないところに成り立つ「自由」です。
ところが、「相対」には、「相対立する」という困った性質があります。こういう多様で自由な社会では、何かのきっかけで、宗教同士、異なる思想同士が、「競い合い争い合う」ことで、混乱状態に陥る危険をも具えているからです。だから、「多様で自由」な社会を、その全体において「まとめる」働き、相互の「自由」を認めつつも、相対立(あいたいりつ)する関係を平和な相互協力の交わりへと導く「まとめ役」がどうしても必要になります。これなしに日本の平和は守れません。これなしに私たちの国民の「自由と安全」は保障されません。自由を放棄すれば独裁者が統一を果たしてくれますが、これでは民主主義は崩壊します。人類の歴史を悩ませてきた難しく複雑な「民主主義の矛盾」が、ここに浮かび上がるのです。
今私たちが保持する「自由な社会」を「平和と安全」へと導く力、それは、武力や権力の「にらみつけ」ではありません。「まとめる力」は、生き物を育む大自然にも内在している「赦しと愛」の絶大な働きです。これが、天地を創造された神とその神が遣わしたイエス・キリストの御霊のお働きなのです。だから、イエス様の御霊は「まとめ役」と呼ばれています(エフェソ人への手紙1章7〜10節を参照)。
およそ、宗教は、美化され、観光化されるに及んで、その宗教的な役割を終えます。これは、新たな宗教がその上に習合する条件が整ったことを証しするものです。私は、古来のもろもろの占いやお呪(まじな)いや、神道・仏教・儒教・道教などと、これらから派生した様々な諸宗教を信じている今の日本人が、そういう宗教の上に、聖書が証しする「デモクラシーの神さん」を受け容れてほしいと思っています。
イエス様の御霊が働くところでは、初めて、「愛」について、「永遠の命」について、「結婚愛」について、イエス・キリストの奥深い御霊の実体験が授与されます。宗教も宗派も、人の身分も才能も、人の知識も、一切かかわりなく、恵みの雨となって降り、赦しの風となってそよぐのです。奥深い十字架の愛と赦しが生じる「永遠の命」が、輝く大自然のように包み、身心共に働きかける神からの聖霊の絶大なパワーが顕現します。
しかも、その御霊のお働きは、人の才能や権力や組織によるものでは<ない>ことを、この上なく明らかに、そのお働きに与る人たちの間で証しします。御霊は、ごく普通の人の「祈る心」にしか働かないからです。誰が指導するでもなく、ごく自然に、春風がそよぐように、祈る人々に働いてくださるのです。ひたすら謙虚にされて、イエス様を信じて祈らされる人の心に初めて顕現する不思議な霊風です(マルコ5章36節/ヨハネ14章1節/ローマ1章17節)。実に、自由と平安の支配する御霊にある「デモクラシー」が現実する世界です。
あえてこれを和風に言えば、「和敬清寂」の境地です。自由で民主的なかつての堺の町において、キリシタンの影響を受けて始まった「茶道の典礼」に由来する「和敬清寂」は、これをキリスト教流に解釈すれば、「和」はエクレシアの交わりの和、「敬」はひたすらイエス様を信じる心、「清」は聖霊にある赦しのお働き、「寂」は普遍不動の神の御臨在です。こういう福音の奥深い霊操を、ゆっくりと時間をかけて、体感し実感していけばいいのです。聖霊こそ、最大の民主主義の神です。