深谷牧師と小泉牧師の私との対談から
コイノニア京都集会(2023年4月30日)
前回は5分間を守らず、後半の異言問題がうまく語れずお詫びします。
深谷牧師が指摘した問題は、日本人が、異言体験に対して消極的で、せっかく体験が与えられても、その後での異言の証しにも消極的で、それを「隠そう」とする傾向さえあることです。その通りだと思います。
御霊のお働きが、自分の言葉と脳に及ぶことは、自分が、御霊の働きに「全面的に信頼する」ことを要します。これが日本人には難しいのです。ここで大事なのは、御霊体験が「イエス様から自分に」 与えられたものだとはっきり自覚しているかどうかです。このためには、そもそも、異言体験を受ける前の祈りが、「(ナザレの)イエス様の御名による」かどうかが、重要な決め手になります。御霊(みたま)体験は、イエス様からの十字架の赦しのパワーです。それゆえ、イエス様に全身全霊で信託する心が、異言体験を本物にする秘伝です。
次に問われるのは、異言体験を他人に証しする時の消極性です。一つには、日本人は、自分の幸せを吹聴すると、人の反感や妬みをかう恐れがあるという用心から、これを隠して「言わない」傾向があることです。公私を区別して、異言体験を誤って「私事」(わたくしごと)と見なすため、せっかくの異言体験が共同体の形成につながらないのです。
これを解決するのは、異言体験から御霊の<赦しの慈愛の風>へと導かれることです。穏やかにそよぐ御霊の春風に秘められる絶大なパワー、これこそ、今の日本人にふさわしい福音的な祈りの霊性です。
2023年3月24日 私市元宏
【深谷牧師の返信より】
大変お世話になりました。お元気な姿を拝見して大変嬉しかったです。先生の大丈夫という言葉に大変励まされました。本当にありがとうございました。不思議な交わりと書いていらっしゃいましたが、祈っていただいた時に、一体何人に手を置かれているのか、と感じました。取り囲まれていた? 「あなたは後から、前からわたしを囲み、わたしの上にみ手をおかれます。」詩篇139そのままだったからです。小泉さんの按手を見ていましたが先生は片手を置いて祈ってくださっていた。しかし、彼女も少なくとも両手を置かれていたと感じていました。しかし、先生は片手を置いて祈っておられました。不思議なことにはかなり慣れているのですが、祝福を感じました。本当に感謝でした。
五分間説教集