イエスの愛 
   (2023年4月30日)
1994年の京大キリスト教学会での発表を参照
(1)イエスによる「愛と律法」。パウロによる「福音と律法」。law”には、「聖約/律法」(covenant)と「契約/法律」(contract)のふたとおりがあります。
(2)「律法」も「法律」も英語では”law”です。これを破れば神(罪)/国家(犯罪)/自然(不幸)の罰を受けます。
(3)聖約によって生じる「聖約共同体」(エクレシア)には、神(ヤハウェ/御子イエス)の聖霊が宿るから、聖約/律法を<意識しない>状態になるほうが望ましいです。これに対して、法律による契約の場合は、車の運転やビジネスのように、常時これを意識するほうが望ましいことになります。
(4)意識しないほうが望ましい聖約は、親子や夫婦のように、無条件の「自然な愛情」と共通するところがありますから、共同体内の一人一人は、他者と自己を切り分ける個人的な自己アイデンティティー(identity)だけでなく、自分を他者と重ね合わせる多重性を具えた個性的な自分(multi-identity)が大事になります。これに対して、法律に基づく場合は、個人(individual)の意志による行為と他者への「責任」が重要になります。
(5)親子や夫婦のような自然な愛情の場合、その関係がうまくいっている時には、その結びつきが意識されない場合が多い。親子関係、夫婦関係が壊れそうになる時には、逆にその「結びつき」が意識されます。ルカ15章の放蕩息子の場合にあるように、普段一緒に居る兄よりも、家出して戻った弟のほうに父の愛情が表われるのは、こういう自然な愛情の特徴です。
(6)ルカ10章の「サマリア人のたとえ」は、「人間としての」自然な愛情に目覚めることです。ここでイエスは、「神の愛が善人にも悪人にも春雨のように降る」ことを教えています(ルカ6章35〜36節)。イエスの頃のユダヤの祭司は、「ユダヤ人を助ける」ことだけが、ユダヤ教の律法の義務でした。だから、イエスの話は、これを聴く人たちの驚きでした。
(7)イエスの「愛」は、放蕩息子のたとえにある「家族愛」から、善いサマリア人のたとえにある「人間愛」へと、愛の働きを広げることで、「神の愛」の普遍性を悟らせるものです。一般に、キリスト教の愛は人間の自然な愛とは異なると言われますが、イエスの愛は、大自然に栄光を輝かせる「神の愛」です。大自然を創造し、これを働かせているのは神ですから、これは当然/自然(natural)です。だから、敵味方に分かれて戦う戦場で、人間愛が壊れそうになる時には、殺す相手への「敵をも愛する」気持ちが良心のうめきとなって自然と湧いてくるのです。第一コリント13章1〜13節の御霊の愛の広大無辺です。全体が啓示されるとき、部分は消え失せます(同10節)。

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