異言から御霊のお働きへ
                      牧師たちとの祈り会で(2023年8月10日)
  今から28年も前に(1995年11月14日)、私には、次のような啓示が、主様から与えられていました。「御霊のバプテスマを伝えることと、異言を語ることとは、同一でないのを悟りなさい。」
 御霊のバプテスマは、驚くほど大きい世界ですから、異言は、御霊が証しする世界のほんの一部にすぎません。異言以外の御霊の賜(たまもの)は、他人にも理解できる多方面の能力を具えさせてくれます。しかし、異言は、<その人個人に御霊がその時に働いている>という<しるし>であって、それ以上に、他者への意味づけはありません。「それ以上の意味」がないとは言え、異言の持つ意味はとても大切ですから、決してこれを軽んじてはなりません。異言体験に始まるイエス様の聖霊には、とりわけ、「あなたたちに(私の)聖霊が降る時に、あなたたちは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまでも、私の証人となる」(使徒言行録1章8節)と証しされています。異言体験は、その人がキリストに<献身する>ことと結びついています。主を信じた者は、己をキリストに<聖別>して、御霊のキリストの証人となることを目指ように導かれます。
 ところが私は、異言のバプテスマを受けたその後で、いったい自分になにが起こったのかを図りかねて、伝道者としての献身を止めてしまったのです。三十歳くらいの時だったと思います。私は、その間、主様の御前で、自分の言葉を一切出さない「沈黙の祈り」を保ったのを覚えています。その間の事情は、コイノニア会のホーム・ページの「私の場合」で、詳しく語っています。教職に戻った後で、私は、ただ一人になって、改めて、異言に導かれながら、イエス様の導きを求め続けました。
 ひたすら、聖書を読み、「御霊にあるイエス様ご自身」を求め続けるうちに、徐々に啓(ひら)けてきたのが、その人個人に授与される御霊の世界です。「ナザレのイエス様の御霊の風よ、どうかそよいでください」と祈りました。これは、徹底した「へりくだり」の世界につながるものですが、あえて言語化すれば、「霊風無心 春風接人 霊智謙虚 愛光無限」の霊境です。不思議なことに、そこから与えられたのが、今年(2023年6月)出すことになった『東アジアにおける日本の使命』です。だから、この本には、今までの私のいろいろな想いが詰まっています。「あなたがたに力が与えられる」とある「力」は、ヘブライ語では「エール」で、これの複数形が「エロヒーム」(神)です(複数形は強めのため)。神ご自身が、「力」となって働いてくださる。これが、聖霊体験のほんとうにすごいところです。「エール」の神の御力は、大地とそこに住む人を照らし続けて、太陽が花を咲かせるように、人を輝かせます(マタイ5章44〜48節/同13章43節)
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