出来事を客観的に解釈して、その現象を分析し把握するのが、人の知性の働きです。出来事は、多様性を有しますから、これの分析と解釈にも多様な視野が求められます。ところが、現象や出来事それ自体が、人の知性の営みと同一視される場合には、客観と主観という自然科学的な知性の営みは、その主客一如の現象に潜む真理の法則を見いだすことが難しくなります。
人間の男女の愛が、まさにこれにあたります。愛は、言葉で表わすにせよ、行動で表わすにせよ、現象としての恋愛は、人の知性と感情という想いそれ自体と一体化しています。だから、こういう主客一如の事態を、イデオロギーとして原理的にとらえることが難しいのです。聖書は、このような主客一如の現象を「神秘/秘儀」を呼んでいます。結婚生活における夫と妻の愛の有り様がまさにこれにあたります。それゆえ、結婚生活における夫と妻の愛の有り様は「偉大な秘義/神秘(ミュステリオン)」と称されます(エフェソ5章32節)。夫婦愛のこの秘義は、雅歌にある男女の恋愛関係と不可分に関わっていますが、聖書では、この夫婦愛が、基督と教会との愛の有り様と対応します。
現在、私たちの国の家族を成り立たせている夫婦愛は、古来の「夫唱婦随」思想と結びつけられて、ジェンダー・イデオロギーからの批判の対象にされる傾向があります。これに対して、エフェソ5章の夫婦愛では、夫の自己犠牲の愛情と、妻の霊的で自由な応答による二人の交わりの有り様が求められています。
恋愛と結婚の神秘を扱う場合には、イデオロギー的な原理から導き出される「法則」に則(のっと)ってこれを解決しようとすれば、社会を形成する男女関係だけでなく、夫婦関係を基軸とする家族関係にも、分裂と分断が生じるリスクを避けることができません。国や社会の夫婦関係と家族意識を変革しようとするイデオロギー闘争が、意図的にせよ、結果的にせよ、恋愛や結婚観を巡る論争を通じて、夫婦関係と家族意識を崩壊させるリスクを伴うのはこのためです。私たちは、家族意識を巡るこのような論争が、まさに現在のアメリカ社会を分断し、分裂させているのを見ています。
恋愛と結婚の問題は、女性差別や性被害・性加害の問題と密接に関係します。自分が受けた性被害を、止むに止まれぬ想いから、メディアを通じて告白する彼/彼女は、人々の戸惑いや無関心に阻まれたり、場合によっては、心ない悪意や陰口にさらされる覚悟が要ります。それでも、人々に訴え続け、応援する人たちが与えられ、人々の偏見や無知やとまどいを克服して、人々の「意識を変える」ことに成功する人たちがいます。あるいは、性被害のために苦しむ子供たちや人たちの心のケアを通じて、「社会の意識を変える」困難な仕事を成し遂げる人たちがいます。
こういう人たちのことを私が否定的に見ていると思わないでください。そうではなく、人々の戸惑いや偏見や悪意に出逢いながら、それらを克服して人の心を変えることに成功する驚くべき技を見せる人たちは、もしも私の推測が正しければ、自己の正義感を振りかざして、人々を批判し社会の分断を図る人たちではありません。批判や理論や法律は「人の心を変える」手助けにはなりますが、成し遂げる力にはなりません。
これを成し遂げる「驚くべき成功者」に共通するのは、私の推定が正しければ、「すみません」の一言を発する人です。止むに止まれぬ自己の想いと行動を、説得ではなく納得によって、相手に分かってもらうために、彼/彼女が幾度も発する「すみません」です。なぜそのように言うのか? 分かってくれない人たちの気持ちを誰よりも分かるから出てくる「すみません」です。なぜ謝らなければならないのか?その理由が分からない事態に自分が直面しているのを肌で体験する「すみません」です。本当に人の心を変えることに成功するのは、自己主張を声高に唱えて批判する人ではなく、「すみません」を発して、相手がこれを「許して受け入れる」ところに働く愛の人です。これが、人の心を変え、性被害をなくす唯一の方法だからです。
愛の秘義と神秘にとって重要なのは、人の思惑から生じる「原理的な正しさ」をひたすら主張することではありません。人間は、恋愛と結婚に潜む神秘を十全に活かして、その理想を実現できるほど、強くもなければ正しくもなく、有能でもないからです。それゆえ、人間同士の、あるいは男女間の愛に潜む意識の矛盾を、争う代わりに双方の赦し合いを通じて、互いの欠陥を補い合うことで解決するように努めることが大切です。愛と赦し、これによって初めて、崩壊ではなく、新たな創造へ向けて、夫婦関係と家族関係を築くことができるからです。
恋愛関係にある二人の一体感は、よく言われるように、結婚の当初は二人を結びつけますが、時と共に、その愛も色あせて、様々な悲劇を生じるのが世間の習いです。ところが、聖書が説く結婚愛は、たとえ多少ぎこちない始まりであっても、歳を重ねるごとに「成長して」、その終わりには、二人の一体感から生じる愛情の花を咲かせるのです。この意味で、花嫁姿を求めて終末を目指す教会とキリストとの交わりの有り様が、夫婦関係における結婚愛と対応しているのが分かります。
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