試練を超える自然な御霊
(2024年5月)
■ペトロへの試練
四福音書で、「鶏が二度鳴く前にペトロは三度イエス様を否認する」という警告を読んで見ると、人の「霊は強く、肉は弱い」という言葉を思い出します。「人の信仰心は強くても、人の肉体は弱いから、肉体が信仰に追いつかない」という意味にもとれますが、この言葉は、「人が、どんなに勇ましく自分の信仰を唱えていても、いざとなったら、様々な人間的な弱みを見せる」という意味に理解されています。しかし、どうもそれだけではない、なにかもっと奥深い真理が潜んでいるという印象を拭えません。一つには、ペトロのイエス様への「信仰告白」が、彼の「自己欺瞞の強がり」だけとは思えない真実味を帯びていることがあります。ペトロは、「たとえ、ほかのみんながつまずいても、私はつまづかない」と誓い、イエス様に「あなたと一緒に死んでもいい」と言います。このペトロの発言を聞いて、ほかの弟子たちは、ペトロが嘘をついているとは誰も思わなかったようです。彼の語気、彼の真剣な態度から、ペトロは、本心からそう願い、そう信じている様子がうかがわれたからでしょう。私たちクリスチャンは、だれでも、ペトロのように、真剣にイエス様を信じて、イエス様に最後までついて行こうと願っています。これが、私たちの「ペトロに見習う信仰」です。だから、ペトロが「自信過剰」であり、「自己欺瞞」だと言うのなら、私たちの信仰のほうも、「自信過剰の自己欺瞞」を免れることができません。だれでも、自分では、そうでないつもりでも、なにか予想もしない困難に出逢うなら、「鶏が二度鳴く前に三度裏切る」可能性を秘めているのです。これが、「強霊弱肉」の人間の哀しさです。
■ペトロを支えたもの
私は、ペトロの三度の裏切り行為の記事を読みながら、ふと考えることがあります。それは、日本人なら、こういう哀しく恥ずべき情況に陥ったら、「自殺する」のではないか?という懸念です。ところが、ペトロは、裏切り行為の後で、悔し涙に暮れる最中でも、彼の身体は死ぬことなく、「なおも生き続け」たのです。涙に暮れる彼の心臓は、それでも動き続けたし、彼の呼吸も止まらなかった。試練の中でもペトロの体は生き続けた。「彼の霊は弱くなっても」、彼の肉体は、なおも彼を生かし続けた。ペトロのこういう「弱霊強肉」を支えたのは、ほかならぬ、ペトロの身体を産み出した大自然の不思議な働きです。ペトロの理解を超える不思議な大自然の働き、これが、ペトロをして、「霊に病んでも」なおも生き続けることを可能にした。彼の自然な体の驚くべき不思議な営みです。ペトロの身体を造ってくださったのは創造の神の働きですが、これこそ、試練のペトロの「弱霊」を支えた神の恩寵にほかなりません。私たちは、ペトロの試練から、「このこと」を悟るのです。
イエス様は、ペトロに言われた。「たとえサタンがあなたを罠にかけても、私は、あなたの信仰がなくならないよう祈った」と。「サタンが罠にかけても」は、サタンが神に「ペトロへ試練を要請したこと、しかも神は、サタンの要請を容認した」ことを意味します。それでも、イエス様は、ペトロの信仰が「なくならない」よう祈ってくださった。「なくなる」(ギリシア語「エクレイポー」)は、「燃え尽きる」こと「亡くなる」こと、「もはやこれまで」の状態に陥ることです。
■超自然の御霊のお働き
イエス様の御霊のお働きには、私たちの体に働く自然の力をも含みながら、さらに、これを超える不思議な「エネルゲイア」(力/働き)があります。「スーパー・ナチュラル」とは、「ナチュラル」(自然)然をも超える力のことですが、「アンティ・ナチュラル」(反/不自然)ではありません。ペトロが、崩れ落ちかけた「信仰」から「立ち直る」ことができたのは、イエス様の祈りと、そこから生じる御霊のお働きが、大自然の不思議な「弱霊強肉」の恩恵とも通じるからです。ペトロの信仰を「立ち直らせた」働きは、彼の体を支え続けた大自然の恩恵と無関係ではありません。大自然に働く創造の神の恩恵こそが、いざというときに、人の信仰を支える不思議な御霊のお働きにつながる。イエス様の御霊のお働きには、こういう大自然の恩恵にも通じる不思議な「超自然の」エネルゲイア(働き)が宿っているのです。イエス様のお言葉は、「このこと」を私たちに悟らせてくれます。ペトロと私たちを「立ち直らせて」くださるのは、神からの不思議なお働きです。私たちが、人々を「力づけてあげられる」のは、こういう神のお働きを体験したからです。これが、今回のイエス様から、「強霊弱肉」の私たちに宛てられたまことのメッセージです。私たちの信仰は、弱くて危なっかしいです。でもその信仰は、イエス様の執り成しに支えられているのです。
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