日本人とキリストの御霊
(2025年6月23日)
キリスト教と日本人との出会いは、不幸な始まりでした。国家権力による250年に及ぶキリシタン弾圧という罪過のへ禍根は、今もなお遺っています。毎年、8月15日が近づくと、日本のテレビは、決まって戦前戦中の日本の政治家や軍隊の犯した「不当な謬(あやま)り」を反省する番組を流します。このように、日本人は、自分たちの過去の過(あやま)ちをはっきりと自覚して、これを「悔い改めて」来ました。日本は、その「悔い改め」を、言葉によらず、実行を通して現わしてきました。これらの事実は、戦後七〇有余年を経た現在の日本人が、神によって「罪赦(ゆる)された民」であることを証(あかし)するものです。かつて日本人が犯したキリシタンへの弾圧への罪過もまた、キリストの十字架によるこの「赦し」に含まれているのです〔私市『東アジアにおける日本の使命』6章(一)戦後の日本〕。「国際平和」と「個人の人権」は、今や、憲法で保障された日本の国是です。アジアの平和を目指す日本の民が、イエス様の福音によってその業を成し遂げるまでには、「宗教する人」(ホモレリギオースゥス)に潜む宗教的な敵対意識を超克し、白人・非白人問題をも含む国際的な人種差別意識を乗り越えなければなりません。これには、人間の想像を絶する巨大なパワーの働きが必要です。新約聖書が証しする「イエス・キリストの御霊」とは、神から降るまさにこのような「絶大な力」のお働きです(エフェソ1章19~22節)。かつて、空海が日本人に仏(ほとけ)の救いを説いたように、十字架にかかり罪を赦すイエス様の神は、アジアの平和のために、必ず日本の民を救い導いてくださいます。