1章 コロサイ人への手紙の「自由」
                                          (コイノニア京都集会:2021年

■今回の聖句(コロサイ3章9〜10節)
 今回は、三位一体の神に働く「愛と自由」についてです。取り上げる聖書の箇所は、コロサイ人への手紙の3章からと決められていますので、そこから始めます。コロサイ人への手紙で「愛」について語る箇所は、「あなたがたが、すべての聖徒に抱いている愛」(1章4節)と「愛は、すべてを調和させて結び、全体を完成させる帯」(3章14節。以下私訳)とあるところです。
 ところが、コロサイ人への手紙に「自由」は一度も出てきません。その代わり、「耳障りがよくても実効性のない哲学に丸め込まれて虜(とりこ)にされ、連れ去られることがないように注意しなさい。そういう哲学は、(神によらず)人の(自己判断の)言い伝えが編み出したものです。それは、宇宙の(惑星の)諸霊力論からでたもので、御子キリストから出たものではありません」(2章8節)とあります。また「(キリストは)私たちを法的に束縛する手書きの証文を破棄して、その文書を十字架に釘付けにして無効にしてくださった」(2章14節)ともあります。
 そこで今回の3章では、次の箇所に注目します。「互いの間で(神から出たと自称して)偽りを言い合ってはなりません。(自己判断による)古い自己中心の行動を脱ぎ捨てなさい。むしろ、(キリストと共に新生することによって)新しくされた人を身に纏(まと)うことで、新たな人(キリスト)を創造された神の像に近づくために、霊智を働かせなさい」(3章9〜10節/エフェソ4章22〜24節を参照)。「神の像に近づく」とあるのは、創世記1章26〜27節を反映しています。この箇所で特に「霊智を働かせる」とあるのに注目してください。ここでは、「空しいだましごとの哲学」(2章8節)と、これに対比・対照される「知恵と知識の宝」(2章3節)と、この二つの違いが前提になっています。
■霊智か、自己判断か
 ここで言う「霊智を働かせる」とは、コロサイ1章の「イエス・キリストと共になる」ことによって、人間的な自己中心の判断と知力から「自由にされる」ことです。「空しいだましごとの哲学」とは、人間には特別な智慧が具わるから、これによって、宇宙万物も人間存在も、その意味をすべて理解し把握することができる。この智慧さえ働かせれば、人間の肉体は死んでも、魂は肉体を離れて永遠に生きることができる、という思想です。これは、現代でも十分通用する考え方で、人は、頭脳さえあれば、カミもホトケも要らないという考え方に近いです。こういう思想から、「グノーシス」と呼ばれる異端が生まれました。
 この哲学では、「自由」とは、その人が、己の知力で判断するままに、誰にも何事にも邪魔されずに行動する「自由」のことです。こういう「自由」を欲望のままに振る舞う根拠にする人もいました。しかし、当時の哲学では、人間の欲望のままの自由を否定して、智慧の働きで身体的な欲望から抜け出すことで、霊魂だけの「自己」に近づくように説く教えもありました。こうなると、「手をつけるな、味わうな、触れるなという規定に縛られる」(コロサイ2章21節)ことになります。これに対して、聖書は、「自己中心の判断」によって行動する「この世の知力」から離れることで、キリストを信じることによって、神からの霊智を身につけなさいと勧(すす)めています。
 聖書がそのように言うのは、「自由」とは恐ろしくて危険だからです。かつて、オウム真理教の麻原彰晃は、悪い人間を殺して仏の下へ送る(ポアする)ことは、その人のためになると言って、多くの人をサリンで殺しました。人を殺す自由。他人の自由を奪う自由。自分に逆らう者やほかの宗教の人たちを皆殺しにする自由。これは現在でも、世界中で実行されている「自由」です。こういう「自由」は、いわゆる「正義」にとらわれる必要がないからです。だからパウロは、次のように言います。「実を言えば、あなたがたが罪の奴隷身分であった時には、正義からは自由であった」(ローマ6章20節)。この意味で言えば、人間とは、いかなる動物よりも自由で恐ろしい存在です。人間の知力によるこの自由な思い上がりが、今、地球とその生物を危険に曝すところまで来ています。だから、パウロはさらに続けます。キリストの到来によって、人間を囲むこの自然についても、「(アダムの罪によって歪められている)地上の自然現象が、その滅びの腐敗から自由にされて、神の子たちと共に栄光を受ける自由へ入る時を待ち望んでいます」(ローマ8章21節。意訳)。
 人間の自己判断による自由は、しばしば人と人とを分裂させ、共同体を滅びに導きます。これに対して、「主イエスは、御霊となって御臨在します。主の御霊が臨在するところ、そこにまことの自由があるのです」(第二コリント3章17節)。「兄姉たち、あなたがたは、自由になるために呼び出されたのです。ただし、それを欲望のままの自己勝手な自由だととらえないで、互いに相手に奉仕し合うために愛を働かせる自由としなさい」(ガラテヤ5章13節)。
 キリスト教の教会の中でさえも、せっかく「正しい自由」を求めて謬(あやま)りから出てきている人たちに、「さも偉そうな大言を吐いて、人を放縦な欲望へ誘い込もうする者たちがいます。そういう者は、自由を約束しながら、人を堕落の奴隷状態へ誘い込む」(第二ペトロ2章19節)のですから困ったものです。イエスは言われた。「あなたがたが、もしわたしの内に留まり続けるなら、必ず真理を悟る。その真理こそ、あなたがたを(ほんとうに)自由にする」と(ヨハネ8章31〜32節)。だから、私たちは、自己判断に頼らないで、主の御霊に導びかれて判断するのです。
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