2章 三位一体の自由
■「自由」の秘義
 三位一体では、全人類の歴史を貫く「父なる神」と、その御子である一人の個人「イエス・キリスト」と、この二つのペルソナの間には、天と地上との間に介在する人知で計り知ることのできない「次元的な」隔たりがあります。また、歴史のナザレ人イエスと、復活したイエス・キリストから降る聖霊の働きとの間にも、私たちの想いを超える不思議な時間的な隔たりがあります。言い換えると、三者の交わり(communion)の有り様には、人知を超える神秘が潜んでいることが分かります。三位一体の「神」における三者の「愛にある自由な交わり」は、このように人知では到底理解できない「永遠の昔から隠されてきた秘義」(コロサイ1章26節)なのです。
 ところが、この三位一体の神同士の交わりに私たちも加わることできて、そこに働く「愛と自由」に与ることができるのです(第一ヨハネ1章3節)。三位一体の交わりにあっては、天地創造の昔から今に到るまでを支配しておられる父なる神の霊智が働いています。その霊智は、神の御子であり、一人の人間でもあるイエス・キリスト個人のうちにも宿りました。そうすることで、神の霊智は、今度は、イエスの御霊を宿す私たち個人個人においても働くことになるのです。
 だから、三位一体の神のお働きに与る私たちは、自己勝手な判断と選択、自己中心の言動を慎んで、「信仰によって頭なるキリストにしっかり結びつく」(コロサイ2章19節)ことが何よりも大事なのです。これによって初めて、「私たちも互いに愛し合い、相互の交わりを保つことが可能になる」からです。「キリストと共にある」(コロサイ1章12~13節)ことから生まれる自由とは、こういう自由のことです。
■同行二人の良心
 現在、世界中でコロナが猛威を振るっています。こういう事態にある私たちは、どのような判断の仕方に迫られているでしょうか? 営業を続けるべきか、閉じるべきか? 会合に出るべきか、止めるべきか? 人によっては、ワクチンを受けるべきか、避けるべきかに迷う場合もあります。これらの判断は、一般論ではなく、自分個人が、今置かれている状況の中で、どうすればいいのか分からない。どんな判断にもリスクが伴う。こういう事態の中で、あえて判断しなければならないことが、しばしば生じるのです。欲しいのは、正確で詳細な情報です。「自由」と「リスク」と「情報」、「選択」を加えて、これら四つが一つに絡み合っています。
 先に指摘したように、新約聖書の自由は、神秘に包まれています。それは、自由が、未知なるものに向けて、あるいは、正しい答えが分からない場合においても、あえて選択しなければならない「自由」だからです。こういう場合に、私たちは、どういう判断の仕方をするでしょうか? 先ず自分に向かって問いかけます。その上で、自分でその答えを出す。この「自問自答」こそ、私たち人間が、あらゆる場合に必ず行なう判断の仕方です。そこには、「二人の自分」が居ます。二人とも自分でやるのか? それとも、もう一人のほうは、自分以外の誰かにするのか? これもまた判断しなければなりません。
 四国を巡礼するお遍路参りの人たちは、常に、お大師さん(弘法大師)と共に歩みます。同行二人(どうぎょうににん)です。この場合、もう一方の自分のほうは、「謙虚になって」(コロサイ3章12節)、二人で「共に/一緒に」判断し、「正しいと信じるほうに従う」ことが求められます。これが、「共に・知る」、英語の「良心」(con-science)の意味することです。
■祈る自由
 最後に「祈る自由」についてです。私たち主にあるクリスチャンは、幼子がやるように、ただ自分の欲求と想いだけで判断するのではなく、宇宙と人類の歴史を見通す父の神と、旧新約聖書が証しするイエス・キリストと、現在自分が置かれている状況と、この三つが重なり合う中で、三位一体の神からの判断を祈り求めるのです。祝祷の祈りがこれです。「願わくは、父なる神の御愛、御子イエス・キリストの御恵み、聖霊の親しき御交わり、私たちと共にありますように。アーメン。」
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