h                3章 近代の個人と自由
■キリスト教と「自由」
 キリスト教の初期の時代を含めて、古代のギリシア・ローマの世界では、「自由」は、主として、「自由人と奴隷」の社会的な身分を表わす言葉でした。ヨーロッパーにおいて、この「自由」が、「個人の自由」として意識されるようになるのは、16世紀初頭に始まった宗教改革以後です。カトリックとプロテスタントとの争いの中から「個人の信仰の自由」が意識されるようになったからです。先駆けは、信仰的に最も自由であったオランダです。そこでは、「個人の自由意思」と「個人の理性」が重視されるようになりました。イエスを信じるキリスト教徒が、主イエスの「意思」とその「言葉と理性」(ロゴス)を個人としてどのように判断するのか? こういう課題が、その根底にあります。
■近代の個人と自由
 いわゆる「近代社会」は、16~17世紀の宗教改革の中で、オランダとイングランドにおける「個人の発見」で始まりました。しかし、その「個人の自由」は、個人と個人の間に働く「愛と信頼」に支えられていなければ、「正しい自由」にはなりません。このために、「個人」は、三位一体の神の交わり(communion)に働く「愛と信頼の自由」に与らなければなりません(ヨハネ13章34~35節/ガラテヤ5章6節)。
 ところが、21世紀の現代、「個人」は健在で、生き残ったのに、個人相互の「自由」は、イエス様を通じて働く「愛と信頼」を失ってしまったのです。このために、「個人の自由」は、きわめて大きな危険(リスク)を伴うものに変じました。私たちは現在、こういう「自由の迷路」の中をさ迷っています。キリスト教国の人々は言います。「個人の自由」は正しい。なぜならそれは神から出ていると。そのとおりです。しかし、個人の自由は、三位一体の神に与ることから生まれる「愛と信頼」がなければ、「正しい自由」にはなりません(ヨハネ8章32節)。愛と信頼を欠いている「自由」ほど、人を傷つけるものはないからです。
 現代は、国家権力の圧力によって自由を奪われるだけでなく、個人の勝手な暴力によっても自由を奪われる時代です。何よりも危険なのは、誤った悪い「個人の自由」を行使しながら、本人は、それが「正しい自由」だと思い込んでいる場合です。極悪人が、自由に野放しにされていて、しかも、本人は、少しも悪いとは想わない。こういう場合が一番恐ろしいのです。
 今(2021年3月)、イギリスの王室から「離脱した」(?)と称される皇太子とメーガン妃の問題が、イギリスの王室と国民を困惑させています。一人の女性が、個人の「恋愛の自由」を利用して皇太子に近づき、男女二人の個人の「結婚の自由」を利用して王室に入り、その上で「離婚の自由」を利用して王室から離れ、今度は、メディアの自由を利用して、スキャンダルを振りまいて何億というお金を儲けて、その上で、「自分は被害者だ」とうそぶく。こんな驚くべき事件です
 こういう自由は、独裁者を産み出す危険につながります。人間が、悪霊の頭であるサタンに最も近づくのが独裁者です。ところが、クリスチャンであろうとなかろうと、程度の差こそあれ、人は誰でもサタンになり得る性質を具えているから、やっかいです。「個人の自由」は、現在、香港でもミャンマーでも、国家的な問題になっています。「個人の自由」は、「基本的人権」と呼ばれて、この価値観は、これからも世界が求める理想の一つであることに変わりありません。しかし、この「自由」を正しく用いることを知っているのは、イエス様の福音だけなのです。私たちは、「個人」であること、その「個人の自由」を正しく用いること、この責任を誰一人として免れることができません。現代人には、こういう重く大事な課題が個人に課せられているのです。

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