6章 個人と使命
     
三位一体の御霊と個人
       横浜聖霊キリスト教会(2021年4月11日)
■ひと味違う生き方
 このメッセージは、京都のコイノニア会で語ったものに基づいて、これを深谷牧師の教会のために、さらに書き改めたものです。始まりは、ルカ3章からです。ここで、洗礼者ヨハネは、彼の所へ来た人たち一人一人に、それぞれ異なる仕方で、「あなたが悔い改めたことを実践によって証ししなさい」(ルカ3章8節)と告げます。そして、「今何をすべきか」を具体的に教えます。「どんなすごいこと」をやれと言うのかと思いきや、人それぞれが、自分の置かれた状況の中で、「ひと味違う」生き方をしなさいと言うのです。そうすれば、今のあなたのその場所で、成すべき使命を神から与えられると言うのです。けれども、こういう悔い改めも、ひと味違う実践も、自分でやろうとしても、できることではありません。新しく注がれる「聖霊の熱い想いに」に浸されて(ルカ3章16節)初めて、できるからです。では、その聖霊のお働きは、どこから来るのか? 「あなたは私の愛する子。私はあなたを喜ぶ」(ルカ3章22節)とあるとおり、父なる神の御子イエス様と、イエス様の聖霊のお働きからです。新しい「キリストの民」が、こうして生まれるのです。
■三位一体の霊智
 三位一体の神では、全人類の歴史を貫く「父なる神」と、その御子である一人の個人「イエス・キリスト」と、この二つのペルソナの間には、天と地との間に介在する人知で計り知ることのできない「次元的な」隔たりがあります。また、歴史のナザレ人イエス様と、復活したイエス・キリストから降る聖霊の働きとの間にも、私たちの想いを超える不思議な時間的な隔たりがあります。言い換えると、三者の交わり(communion)の有り様には、人知を超える神秘が潜んでいることが分かります。三位一体の神における三者の「愛にある自由な交わり」は、このように、人知では理解できない「永遠の昔から隠されてきた秘義」(コロサイ1章26節)なのです。
 ところが、この三位一体の神同士の交わりに、私たちも加わることができて、そこに働く「愛と自由」に与ることができるのです(第一ヨハネ1章3節)。三位一体の交わりにあっては、天地創造の父なる神の霊智が働いています。その霊智は、神の御子であり、イエス・キリスト個人のうちにも宿りました。そうすることで、神の霊智は、今度は、イエス様を信じてその御霊を宿す私たち個人個人にも働くのです。霊智のお働きは、人知を遙かに超える「秘義」です。その秘義とは、御復活のナザレのイエス様から降る御臨在(エゴー・エイミ)の「赦しの秘義」です。
 だから、三位一体の神のお働きに与る私たちは、自己勝手な判断と選択、自己中心の言動を慎んで、「信仰によって頭なるキリストにしっかり結びつく」(コロサイ2章19節)ことが何よりも大事になります。これによって初めて、私たちも互いに愛し合い、赦し合い、相互の交わりを保つことができるようになるからです。「キリストと共にある」(コロサイ1章12〜13節)ことから生まれる自由とは、こういう自由のことです。
■霊智と個人の使命
 わたしたちは、日常のいろいろな出来事に接した時、その場合に応じて自分の頭を働かせて、その都度対処します。今の時期で言えば、マスクをするかしないか、会合に出るかでないかなどは、他人のすることを見たり教えられたりして、自分なりに判断できます。決まり切ったことや、誰にでも起こることは、御霊の助けを求めなくても、自分で処理できるでしょう。ところが、今まで誰も経験したことがない出来事、あるいは、人には言えない自分だけの密かな問題、こういう場合には、答えは人からも、自分からも出てこないのです。こういう<答えの見えない>出来事は、ほかの誰にも相談できないその人だけの切実な悩みや課題だからです。
 三位一体の神との交わりに与る人に働く聖霊の智恵(霊智)は、こういう時に、その本当の威力を発揮するのです。三位一体から発する霊智は、ナザレのイエス様という「個人」に宿りました。クリスチャンの場合は、イエス様に宿られたこの霊智が、イエス様を信じる「一人のクリスチャン」に働く時に初めて、その人の「個人の自由」が正当化されるのです。ここに居る皆さんは、主様から異言の賜を与えられています。異言は、使徒言行録(2章1〜3節)が証しするとおり、「みんな」に働くと同時に「一人一人」にも臨みます。異言の祈りを通じて、皆さんに、霊智が働くのです(第一コリント14章15節)。この霊智は、先に述べたように「神秘」と結びつく霊智ですから、「霊智」は「未知」と表裏を成しています。<すでに分かっている>ことに、祈りも信仰も要りません。どうすればいいのか全く分からない。こういう時こそ、異言の祈りとそこから与えられる「導き」が啓示されるのです。それは、あなただけに与えられる「個人的な霊智」です。「信仰の自由」とは、こういう「個人」を前提にしなければ正当化できません。こういう「信仰の自由」は、父と御子と聖霊の三位一体の神にあって初めて可能になります。しかも、この三位一体の神から注がれる霊性は、イエス様の十字架の贖いによる「恩寵の霊操」ですから、多神教の世の中でも、儒教的な国家でも、イスラム教のような絶対的な唯一神教の社会でも、いわゆる「キリスト教国」でも、降る雨のように全く変わりません。この「恩寵の霊操」のほかに、「個人の自由」が正当化されることはありません。一人だけの判断は、「自己勝手な」言動だとみなされるからです。
 異言で祈る人が「未知なること」に向かう時に、その人に、霊智の働きによる「自由」が与えられます。「どうすればいいか分からない」からこそ、御霊の霊智の導きによる「個人の自由な選び」が可能だからです。例えば、結婚・離婚の時などの「自由な選び」は、これに近いです。異言の祈りから与えられる御霊のお働きは、未だ答えの見いだせない「未知」の出来事に出逢う時に、そのほんとうの威力を発揮するのです。どんな人の場合でも、「自由な選び」には、必ず「危険」(リスク)が伴います。「選びの自由」は、常にリスクと一体だからです。だから、様々なリスクを計量して、その比率を判断する霊智の働きが必要になります。しかし、最後は、その人だけの「個人の信仰」です。その上で、「選んだ個人」には、自己の選びに従って「実践する」ことが求められます。このようにして、主イエス様から、その個人でなければできない信仰に基づく「使命」が生じるのです。御霊にある霊智の働きからは、その人だけの独自の使命が生み出されるのです。この使命を活かそうとしないならば、異言は、ただの習慣にすぎない「暇(ひま)な異言」になります。
■近代の個人と自由
 政治的・社会的に見るならば、この三位一体の霊智を宿す個人が、まことの民主主義の主体になります。これが欠けている国家は、全体主義に陥る危険性を帯びることになります。いわゆる「近代社会」は、16〜17世紀の宗教改革の中で、オランダとイングランドにおいて、「個人の発見」として始まりました。これは、上で述べたとおり、信仰の自由と深く関わっています。だから、「個人の自由」は、先ずキリスト教社会のオランダで、資本主義的な「個人の自由」として唱えられて、それが、イングランドでは、議会制民主主義を形成する「個人の自由」となり、近代のキリスト教社会が形成されました。資本主義でも、民主主義でも、「個人の自由」は、人と人との間に「愛と信頼」が働かなければ、正当化されません。このために、「個人」は、三位一体の神の御交わり(the Communion)に働く「愛と信頼にある自由」に与らなければなりません(ヨハネ13章34〜35節/ガラテヤ5章6節)。
 ところが、21世紀の現在、「個人」は健在ですが、「自由」のほうは、イエス様を通じて働く「霊智」と、これが生み出す「愛と信頼」を失ってしまったのです。このために、「個人の自由」は、きわめて大きな危険(リスク)を伴うものに変じました。私たちは現在、こういう「自由の迷路」の中をさ迷っています。21世紀の現在、従来の資本主義と民主主義の社会が、世界規模で混迷を深めています。
 この時にあたり、神は、この日本で、新しい社会と国家を作り出すための御業を初めておられます。それは、あらゆる分野で、<まことの文化を創り出す個性>を具えたキリストの民を育てることです。日本人のクリスチャンの善いところは、宗教的に寛容なこと、その信仰が知的な合理性を求めることです。反対に、悪いところは、用心深すぎて、個人の発信能力が低いことです。「みんな」のために、もっと「自分の個性を発揮する」人が出てほしいのです。
■教会の使命
 
現在の日本のあらゆる分野で、それぞれの仕事において、実を結ぶ結果を産み出すために、「個性を発揮するキリストの民」を育てること、これが、わたしの見受けるところ、この横浜聖霊キリスト教会が、現在行っていることです。これが、教会のほんらいの使命です。この教会の一人一人には、それぞれが、みんなのために「自分の個性を発揮する自由」が与えられています。このことは、それぞれに与えられた独自の場で、主イエス・キリストから使命が与えられていることを意味します。その使命には、次のことが伴います。
(1)主のみ名を呼び求める者は、誰でも必ず救われます(ローマ10章9節/13〜15節)。
(2)信じた者には、主からその個人に使命が与えられます。
(3)その使命を全うするための生活が与えられます(マタイ6章31〜33節)。
(4)その家族が護られます(使徒16章31節)。
(5)日本人のクリスチャンが、その使命を果たすならば、この国は必ず護られます。
 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も、あなたの国も救われる」のです。どうか、あなた自身の使命を全うするために、全身全霊を傾けてください。主イエス・キリストの導きに信託してください。皆さん一人一人が、自分に与えられた使命を果たしてください。
 そして、主イエス様からあなたに与えられた個性の恵みを、教会のため、職場や周囲の人たちのために、発揮してください。自分の個性を自由に現してください。横浜聖霊キリスト教会を育てるために、深谷先生と一緒になって、あなたが置かれたそれぞれの場所で、「私のイエス様」を証ししてください。そうすることで、この教会を育ててください。職場でも、家庭でも、「みんなのために」あなたの個性を発揮する人。この教会には、こういう個人を育てる「使命」が、イエス様から与えられているからです。私たち主にあるクリスチャン、一人一人は、神からの霊智が与えられていますから、未知の出来事へ向かう時に、信仰を持たない人にはできない判断でも、異言で祈る人にはできるのです。だから、祝祷にあるとおりです。「願わくは、父なる神の御愛、御子イエス・キリストの御恵み、聖霊の親しき御交わり、私たちと共にありますように。アーメン。」
                  個人の自由へ