『ヨハネのアポクリュフォン』
『ヨハネのアポクリュフォン』
 私たちは、『ヨハネのアポクリュフォン』において、聖書の伝統に対立するソフィア解釈の最終的な姿に行き着くことになる。この文書は、エイレナエウスの『異端論駁』の中で批判されているから、これのギリシア語原本は、遅くとも紀元185年以前には出ていたことになる〔Robinson 104〕。ギリシア語原本のコプト語訳の写本は四つ現存していて、「ベルリン写本」以外の三つは、ナグ・ハマディ文書のものである。四つの写本は、文献批判によってそれらの系譜が判定されていて、最近出版された大貫訳は、成立の年代順に、写本(V)→(B)→(U)の順に並べ、内容の項目別に見出しを付けている。この文書は、グノーシス的な宇宙観の基礎となる神話体系を物語るもので、いわゆるバルベーロー派グノーシスと呼ばれる。これはヴァレンティノス派の神話体系に近いもので、ソフィア型のグノーシスの典型と考えられている〔ヨナス 264〕。原話は、本来キリスト教とは別個のものであったが(著者はユダヤ教グノーシス主義者でヘレニズム・ユダヤ教徒と考えられる〔『救済神話』 304〕)、この非キリスト教的グノーシスが、救済者をキリストと同一視することによってキリスト教化していったことが、写本成立の過程からも推定されている〔『救済神話』290ー93〕。ここでは、英訳のテキスト〔Robinson 105-23〕とヨナスの解説〔ヨハス 264-73〕、それに大貫氏の訳注〔『救済神話』11ー125〕を参照しつつ、ほんの概略のみを以下でまとめてみることにしよう〔引用の冒頭にある( )内の写本記号は大貫訳による〕。
原初の霊とバルベーロー
 最初は、ヨハネ黙示録に倣って、ヨハネという人物に、様々な姿を合わせ持つ「僕(しもべ)のような姿」が顕れて、「私は父であり母でありみ子である」と語りかけるところから始まる(B21)。その三重の姿は、ヨハネに「純粋な光のうちに存在する単一なるもの」で、あらゆるものの上にある不可視・不滅な存在について告げる。それは「見えざる処女の霊」とも呼ばれ、同時に人間の至高の姿を含む存在である。この単一なる至高の神に自己分化が生じて、その霊を包む光の中から、それの「思考」が位格を持つ実体と化す。こうして彼女(プロノイア)が、父の霊の前に姿を現わす。彼女は万物に先立つ思考であり、不可視なるものの影像であり、「バルベーロー」とも呼ばれる(B27)。彼女は、すべてに先立つがゆえにあらゆるものの胎であり、母=父であり、聖霊でもある(U5)。バルベーローは両性具有であるが、彼女が見えざる霊に求めると、そこに第一の認識、真理、不滅性、永遠の命の四つが(いずれも女性的な存在)姿を現した(B29)。
バルベーローとキリスト
 至高の父が、自分の霊を包む純粋な光にあってバルベーローを見つめると、その火花によって彼女は身ごもった。これが、<母=父>の独り子で、彼が唯一「生み出した」ものであり、父の独り子であり、純粋なる光(U6)であり、「アウトゲネース」と呼ばれる。「見えざる霊は、彼をその至善によって塗油した。そこでそれは完全かつ欠乏なき者となり、キリストとなった」(B30ー31)。ここでキリストが登場するが、この部分は、本来ユダヤ教グノーシスから出た物語を編者がキリスト教化したものであろう。キリストは、見えざる霊と完全なるプロノイアを誉め讃え続けた。このアウトゲネース〔男性的〕が、純粋な光とともに意志(セレーマ)と言葉(ロゴス)と英知(ヌース)の三つを生み出し、独り子(アウトゲネース)を加えると四つの男性的存在が現れた。これらは先の4つの女性的存在と対を成すものであろう。
 アウトゲネースは、第一の光アルモゼールを発して、恵み、理解、真理、形が流出した。第二の光オーロイアエールからは、エピノイア、知覚、想起が、第三の光ダベイテからは理解、愛、現象が、第四の光エーレーレートからは完全、平安、知恵(ソフィア)が流出した。これらがキリストの傍らに立つ12のアイオーンである。ここで、見えざる霊とキリストによって、「完全なる真の人間」が成立した。彼らはこれを「アダム」と呼んだ。アダムは、父と母(アウトゲネース)と子(アイオーン)の三つ、及び完全なる力を賛美した(B33ー34)。
ソフィアの堕落
 エピノイアである知恵(ソフィア)は、もろもろのアイオーンの一つでありながら、見えざる霊と先在の知識とを思念することによって、彼女自身とそれらとの間にひとつの思念を身ごもった。すなわち彼女は、見えざる霊と第一の認識の同意なしに、すなわち彼女の伴侶である男性であり処女なる霊でもある者の同意のないままに、自分の似姿としての影像を産み出そうと欲したのである(B37)。「彼女の業が現れた。それは不完全で醜悪な外貌をしていた。というのも彼女は彼女の伴侶なしにそれを作り出したからである。そしてそれは母親の姿に似ていなかった」(B37)。ソフィアがその者を無知の内に産んだからである。ソフィアが、自分の欲望の結果を見ると、それは「蛇とライオンの外貌を呈していた」。彼女は、それを自分の側から、すなわちかの場所から、外へと投げ捨てた。彼女は、生き物の母と呼ばれる聖霊(万物の母なる命)以外に、不滅の者たちがだれもこれを見ないようにするために、これを輝く雲で包み込んで(肉体を纏わせたこと)、その雲の真ん中に玉座を置いた。それから、自分の前から、すなわちプレーローマ界から、それを外へと追い払ったのである。彼女は、これを「ヤルダバオート」と名付けた(B38)。
 ここに展開される独特の知恵(ソフィア)論は、この神話物語全体だけでなく、旧約以来の知恵の系譜の流れの上からも重要な位置を占めている。この部分だけは、プラトンやストアのギリシア哲学的背景に類するものではない。また、正統ユダヤ教ともキリスト教とも異なっていて、グノーシス独特の発想がここに見いだされる。
ヤルダバオートとアルコーンたち
 ヤルダバオートは、その母から偉大な力を得た頭首の第一アルコーンである。彼は強くなり、自らの力で輝く炎によって、別にひとつのアイオーンを造り出した。それから彼は、自分の内なる伴侶の「無理解」と共に、12人の天使たちをアイオーン(天の黄道12宮)として生んだ。それらは、ヤオート(白羊宮)、ヘルマス(金牛宮)、ガリラ(双子宮)、イョーベール(巨蟹宮)、アドーナイオス(獅子宮)、サバオート(処女宮)、カイナン(天秤宮)、アビレッシネ(天蠍宮)、イョーベール(人馬宮)、ハルムピアエール(磨羯宮)、アドーニン(宝瓶宮)、ベリアス(双魚宮)である(B40)。さらに7人の王たち(惑星)、1週間を司る天使たちなど、全部で360(あるいは365)の天使群をつくった。これらが、プレーローマ界から堕ちた天使たちによる下界の創造である(B38ー40)。
 ヤルダバオートは、多面相で、その欲するところに従って、あらゆる顔で自分を現す。彼には名前が三つあり、それはヤルダバオート、サクラス、サマエールである。彼の内には不敬虔と傲慢とがあり、彼は「自分こそ神であり、他に神はいない」と豪語した。このヤルダバオートこそ、旧約の神ヤハウェのパロディとして登場する半神(デミウールゴス)である。彼は己の力と自分が出てきた場所について全く無知で、母親一人以外にいかなる力も存在しないと考え、自分が造り出した天使の無数の群を見て優越感に浸り(B43)、己が創造した天使の群に向かって宣言した、「私はねたむ神である。わたしのほかに神はいない」。このことは、彼以外にも神が存在することを告げたことにほかならない。なぜなら、ほかに神がいなければ、誰に対してねたむのか?
ソフィアの後悔
 母であるソフィアは、自分が纏う闇の衣が不完全であることに気がつき、彼女の伴侶が自分に同意しなかったことを知った。彼女は後悔して大いに泣いた。プレーローマ界全体は、彼女の後悔の声を聞いて、彼女に代わって、見えざる処女の霊に賛美を捧げた。するとソフィアの伴侶は、彼女に同意を与えた。そこで、聖霊がプレローマ界から彼女に注がれ、聖霊は彼女を訪れて、彼女の欠乏を正そうとした。すると、一つの声が崇高なるアイオーンから届いた。「人間と人の子が存在する」と。ソフィアはその欠乏を回復するまで、第九の天に止められた(B46ー47)。この部分も、先のソフィアの堕落と同じく、グノーシス独特の発想であり、他に類を見ない。
 アルコーンの頭首ヤルダバオートは、その声が(天からではなく)母から出たと思った。この第一の人間は、聖なる母=父、あらゆるものがそれによって存在した見えざる父の像を彼ら(天使の群・全被造物)に教えた。彼は、自分の形をその立像として、すなわち人間の姿として顕した(U14)。
人間の創造
 アルコーンの頭首は、諸権威に向かって、「神の像に従って、我々の姿に似せて人間を造ろう」と言った。こうして、諸々のアルコーンたちは、それぞれの特質を持ち寄って、最初の完全な人間に似せたもの〔ここでは偽物の意味〕を造り、これを「アダム」と名付けた。彼は、母なる物質から成り、諸々の悪霊たちの宿るところとなった(U15)。彼らは、「善」で骨の魂を、「プロノイア」で腱の魂を、「神性」で肉の魂をつくった(U15)。ここで人体の各部分の創造が詳細に語られ、かつそれぞれの部分には、これを支配する悪霊が割り当てられる。次に人間の認識論として、知覚、受容、心象、合致そして衝動を支配する悪霊がいる(U17ー18)。同様にして悪霊に支配された人間の四つの属性論と4つの情念論が続く。
 母のソフィアは、自分がアルコーンに授与した力を再びアルコーンから取り戻したいと願った。彼女がアルコーンの頭首に与えた力を取り上げようと母=父に願ったので、彼(母=父)は、五つの光をアルコーンたちの所へ遣わした。さてアルコーンたちは、ヤルダバオートに、「(彼らがこしらえた)人間の自然な体の中にあなたの息を吹き込むなら、それは立ち上がるでしょう」と勧めた。そこで、彼は、母からの力をその人間の内へ吹き込んだ。彼は無知だったから、自分の力が抜き取られることを知らなかったのである。すなわち、ヤルダバオートは、母と母=父の策略にかかって、知らずに天から遣わされた光を人間に吹き込んだのである(U19)。彼らが人間に力を与えると、人間の知性は、それを造った者たち、すなわちアルコーンの頭首よりもさらに偉大になった。祝福を与える母=父は、憐れみによって、アダムに、援助者として輝くエピノイアを遣わした。彼女こそ、アダムを助けるために来た光のエピノアであり、「ゾーエー」(命)と呼ばれた者である。その光は、アダムの内に隠れてアルコーンたちに気づかれることがなかった(U20)。
「楽園」のアダムとエヴァ
 アルコーンたちは、人間が彼らより優れているのを知って、互いに相図って、火と土と水を混ぜ合わせて、四つの燃える風を起こし、大いに悩ませた。彼らはアダムをば、無知の暗闇と欲望の物質界から生じた土と水と火と霊の形の中に閉じこめた(肉体の中に閉じこめた)ので、彼は死の影に置かれた。それは忘却の墓であり、人間は死ぬものとなった。しかし、人間の内に宿るエピノイアは、彼の思いを目覚めさせたのである(U21)。
 アルコーンたちは、アダムを楽園に連れて行って、「何でも思いのままに食べよ」と告げた。しかし、アルコーンたちの言う豊かさとは苦さのことであり、欺瞞であった。彼らの樹の実は、不敬虔で死の毒であり、その約束は死である。彼らは、命の樹を園の真ん中に植えた。その樹は苦さであり、その枝は死、その影は憎しみ、その葉は欺瞞、その実は欲望と死である(U21)。しかし、善悪を知る樹は、光のエピノイアであり、彼らはそれを光の前に置いて、アダムが自分の姿を見て己の裸に気づいて恥じることをしないないように仕組んだ。
 エピノイアはアダムの内に隠れていたが、ヤルダバオートは、彼女をアダムのあばら骨から引き出そうとした。しかし彼女は捕まらなかった。そこで彼は、アダムから力の一部を引き出すと、もう一つの「こしらえもの」を今度は女の姿に似せて作った(B59)。するとエピノイアの姿をした女が生まれた。その時アダムは、暗闇から醒めた。彼の内に潜んでいた光のエピノアが、彼を目覚めさせたのである。アダムは、「これこそわたしの骨の骨、肉の肉」と言った。ソフィアは鷲の姿で、知恵の樹の上に現われ、二人は、完全な知識を味わった。ヤルダバオートは、二人を呪い、楽園から彼らを追い出した(U22ー24)。
 ここでヨハネは、この物語を語ってくれているキリスト(?)に尋ねる、「エヴァに木の実を食べさせたのは蛇ではなかったのですか?」と。するとキリストは答える、「蛇(=ヤルダバオート)は彼女に汚れと滅びに満ちた生殖行為を教えたのである」と(B58)。
アベルとカイン
 ヤルダバオートは、アダムの傍らに立つ女に命の光エピノイアが宿るのを見た。ところが万物のプロノイアは、そのことに気づいて、使いを送って、エヴァからその命を抜き取らせたのである。第一のアルコーン(ヤルダバオート)は、エヴァを辱めて、二人の息子、エローイムとヤウェとを生んだ。エローイムは熊の顔であり、ヤウェは猫の顔であった。この二人をヤルダバオートは、アベルとカインと名付けた(B62ー63)。こうして、人間は生殖を続けることにより、模造の霊を分与し続けることになった。
■セツの種
 一方アダムは、己の先在の知識に目覚めて、人の子の模造を生み出した。アダムは彼を永遠のアイオーンに倣ってセツと名付けた(U24)。同じように、別の母親(プロノイアのことか? しかし、母なるソフィアとも解釈できる)も自分の霊を自分に似た女の姿で地上に送った。第一のアルコーンは、セツの種に忘却の水を飲ませた。このために彼らは、自分たちがどこから由来するかを忘れたのである。しかし、聖なる霊がアイオーンから到来するならば、その霊はセツの種を立て直して、彼らをその欠乏から救い出すことになろう。こうして、全プレーロマが、欠けることのない完全なものとなるためである(U25)。
ノアとその子孫
 物語はさらに続いて、ノアの洪水による人類の裁きがあり、その中でノアの種族だけが、光の霊で包まれて隠れることになる。最後に「万物の完成者であるプロノイア」が、光の豊満として訪れることによって、プレローマを想起させ、真理の神を認識した者たちを暗闇から救い出すという約束で物語が終わる(U30)。
 以上の粗筋だけからも、「ヨハネのアポクリュフォン」で展開される神話は、キリスト教化しつつあるとは言え、キリスト教成立とは独立に発達したグノーシスに起源を有することが読みとれる。これの原話が形成された時期が、キリスト教成立に先立つのか、あるいはこれと並行するのかは分からない。ここでは、聖書の神は、宇宙の圧制の象徴として揶揄されていて、世界の原理を超越するグノーシスが、この神に勝利することで、宇宙と真の人間の救いが完成することになる。「ヨハネのアポクリュフォン」の反旧約的傾向は、正典としての旧約の解釈を受け継ぐものではなく、逆に歪んだ書き換えになっている。このような旧約の伝統への嫌悪は、マルキオンに見られるような旧約への拒否とつながるのであろうか。
 アレゴリー(寓意)とは、元々ギリシアの哲学者たちが用いた解釈の一つの方法であった。それは、古代から伝えられた神話的象徴を、哲学的抽象概念に置き換えるやり方であって、この方法によって、自分たちの語る思想に、古代から伝わる神話的権威をまとわせることができた。したがって、アレゴリーは、本来伝承を尊ぶ保守的・道徳的な思想に適する解釈法であった。この手法を旧約聖書に適用したのが、アレクサンドリアのユダヤ人哲学者フィロンである。彼を始めとして、初期の教父たちは、旧約聖書をこのようなアレゴリーを用いて解釈した。
 ところがグノーシスの人たちは、聖書の善と悪とを逆転させることで、聖書の神よりもさらに高次の「知識」を解き明かそうと、アレゴリーを用いて、旧約聖書の伝統的な解釈を逆転させたのである〔ヨナス 131〕。「ヨハネのアポクリュフォン」は、きわめて非正統的なエデン神話の解釈に立つ。そこでは、造られたアダムの知性が、アルコーンの頭首彼が旧約の事実上のヤハウェに当たるのそれよりも偉大になる〔Robinson 116〕。アダムを救いだしたのは、アダムの内にあるエピノイアの光である。しかも、この樹の実をアダムに食べさせた者こそ、「救い主」(キリスト)と呼ばれているのである〔Robinson 117〕。この逆転は、さらに徹底していて、例えばヨナスによれば、「普遍の知性を持つ蛇」は、エヴァの知恵(ソフィア)でもあり、これが、エデンの川から流れ出る河の奥義でもある。アベルの神は血の生け贄を好むが、カインはこのような神を拒否する。こうして、逃亡者となり放浪者となったカインは、霊(プネウマ)の象徴とされて、キリストに連なる系統に加えられることになる〔ヨナス135-36〕。
 グノーシス的な発想は、人間の知性を絶対化することによって、宇宙とこれを創造した神の秩序を崩壊させ混沌へと導き、創造の神をより劣った半神(デミウールゴス)へと転落させる。このようなグノーシス的な発想は、おそらく、旧約のエデンの知恵の樹にかかわる人間の原罪神話を、人間による知の追求の視点から逆照する意図から生まれたのであろう。わたしたちは、このような「知恵」の姿をいわゆる「黒い知恵」の系譜の上に置くことで理解することができるだろう。ちなみに、ミルトンの『楽園喪失』に描かれているサタンにも、「真の知識」をめぐって、これに近い神への反逆の論理が流れていることを指摘しておきたい。
 粗略な『ヨハネのアポクリュフォン』の物語の概述であったが、これだけでも、この文書が、並みの物語ではないことが分かるであろう。これは、グノーシス神話体系を物語る一大叙事詩と言うべきものである。もしもこれのギリシア語原本が残っていたとすれば、わたしたちは、さらに精緻で透徹した一貫性を持って、グノーシスの世界観が語られるのを聞くことができたであろう。それはホメーロスやウェルギリウスの叙事詩と並ぶ古代を代表する作品として後世に大きな影響を与えたに違いない。
 大貫氏の解説によれば、『ヨハネのアポクリュフォン』は、当時のストア哲学とネオプラトニズム、特にアルキノスの『プラトン哲学要綱』を踏まえているとある。しかし、この神話には、それだけでなく、宇宙論とそれに人間の知能と魂と人体全般に及ぶ人間論も含まれている。これがキリストの登場によってキリスト教化されたことが、この神話体系の不幸な運命を決定づけることになった。しかし、このような神話的叙事詩が生まれたのには、それなりの理由があったと見るべきであろう。ギリシア的な宇宙観と、おそらくは古代エジプトから伝わる人体論をも含む人間論と、旧約聖書で語られる悪の起源を織り込みながら、この神話の著者は、独自の救済史観を物語るという壮大な意図を抱いていたのではなかろうか。
 ヘレニズム思想を身につけたユダヤの思想家として、著者は、エルサレム陥落以後に失われた旧約聖書の救済史を逆転させることで、独自の救済史を再構築しようと意図したと考えられる。グノーシスは、時代に勝利した者、あるいは勝利しようと意図している者からは生まれ得ない思想であるというのが私なりの見解である。だから、彼の描く宇宙論にも人間論にも、その底流には暗いペシミズムがうかがわれる。わずかに終末論とこれによる真の人間精神の天への回帰のみが、希望の灯火となっている。
 エイレナエウスに限らず、当時のキリスト教正統教会の指導者たちが、こぞってヴァレンティノスとその学派を非難したのは、これらの初代教父たちには、ここに語られる神話体系が、よほど強力なライバルとして映っていたからであろう。ヨハネ福音書を生み出した宗団がそうであったように、旧約聖書を克服したはずのキリスト教は、エルサレム陥落以後において、再びユダヤの思想家との新たな対決を迫られることになった。それは、イエスの在世当時に生じたような、エルサレムの神殿宗教をめぐる戦いではなかった。神殿という空間的な場が、宗教的論争の焦点から姿を消すと、今度は救済史という時間的な論争が、ユダヤ滅亡以後の人類の歴史を舞台に広げられたのである。
 教会はこの戦いに勝利し、ためにグノーシス神話の叙事詩は、地中に埋められて忘却の中に眠り続けることになった。しかし教会は、グノーシスに対する勝利と引き替えに、大きな代価を支払わなければならなかった。教会が失ったもの、それは、『ヨハネのアポクリュフォン』が到達しようと目指したまさにそのこと、救済史を宇宙論及び人間論と融合させることであった。後代の教会史家たちは、正統教会が、グノーシスとの論争を通じて、その教義を一層明確にすることができたと指摘している。しかし教義の明確さは、そのまま排除の厳しさをも意味していたのである。その結果として、正統教会は、それ以後も、教会の歴史を軸とする自らの救済史と古代バビロニアやエジプト、さらに中国で発達したような宇宙論との統合を造り出すことができなかったし、古代エジプトや中国で発達した人体と精神の両方を含む人間論に匹敵する思想を生み出すこともできなかった。正統教会がグノーシスとの論争の中で失ったものを再び取り戻そうとしたのが、一四世紀のフィレンツェから興ったルネサンス運動であったと言えなくもない。ここでもユダヤの思想家たちによるカバラ思想が大きな役割を担っていた。『ヨハネのアポクリュフォン』は、結局敗北の憂き目にあったが、その敗北は、実はそれ以後のキリスト教の歴史の中で、姿を変えていくども繰り返されることになる。神学の呪縛を断ち切って、人間の理性が神をも超える絶対性を主張し始めた時、理性は、『ヨハネのアポクリュフォン』の敗北の中から、神への告発を新たに開始したと言えるのかもしれない。
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