「真珠の歌」
 ここに、グノーシスの思想的特徴を見事に表現していると言われる1編の歌がある。それは「真珠の歌」と呼ばれていて、『トマス行伝』(第9行伝108ー113)の中で、使徒トマスが囚人たちに歌うという形で採り入れられている。『トマス行伝』は、最初期のキリスト教とインドとの関わりを示唆している興味深い偽典である。『トマス行伝』には、『トマス福音書』やヨハネ福音書、それに共観福音書からの影響が読みとれるから、これは紀元250年頃の作ではないかと推定されている〔トマス行伝226。ただし、「真珠の歌」は、ここに採り入れられる以前から伝わる伝承と考えられている。歌のあらましは次のようである〔ヨナス161-64
 ハンス・ヨナスの解説〔ヨナス164-76を参照しながら、この歌に表われたグノーシスの特徴を以下にあげてみよう。まずこの歌には、グノーシスの象徴的な表現、より正確に言えば寓意的な手法が用いられていることに気が付く。「蛇」は、大地を取り巻く原初の混沌で、この世の支配者であり悪の原理を意味する。これの原型はバビロニア神話に出てくるティアマトであろう。この原初の竜は、欲情によって天使をも堕落させた。「大海」あるいは「海」は、死すべき多様な種族の人間が沈み込んだ闇の世界である。「エジプト」は、死者崇拝の地として、魂が沈み込んだ無知と物質の「この世」を表わす。「エジプトの衣服」は、「王子」すなわち救済者キリストが、この世の支配者に気づかれぬようにまとう肉体の衣である。それは、救済者自身が犠牲になり世界の苦悩を着ることをも意味している。「手紙」は、ソロモンの頌歌23篇に出てくる「手紙」と同じで、この世界に送られた主の御心であり、下界に眠る魂に向かって呼びかける声である。ここでは、呼びかける者と呼ばれる魂とが一体となる。すなわち、ほかならぬキリスト自身が、これによって救済されるから、キリストは「救済される救済者」ということになる。「蛇」に対する勝利は、闇に勝つ光であり、救済者自らが、怪物に飲まれて内側から闇を滅ぼす。これは、太陽神話と英雄神話の結合した形であり、キリストが冥府に降ってこれを滅ぼしたというのも、この主題に属する。「天の衣服」とは、「認識(グノーシス)の衣服」であり、これによって、人間はその原型的なイディアを回復する。それは、人間が下界にいる間でも、天上には、これの原型である「原人」がいぜんとして存在していることを示している。最後に「真珠」は、超自然の「魂」それ自体を指す。それは、王子の派遣に先立って闇の中に落ちていたのであり、すべての人間に内在する魂、すなわち「真の自己」の表象なのである。
 ここに描かれている諸表象は、それらの意味を少しずらせば、そのままキリスト教的な表象として用いることができる。例えば、「蛇」はそのままでサタンを意味するし、「海」は、混沌の世界であり、同時にモーセが渡った紅海の「海」ともなる。王子のエジプト降りはキリストの「受難」を意味し、天の衣服は、キリスト教徒がまとうキリストのみ霊の働きとも解釈できる。しかしながら、読者は、人間の本質を成す「魂」が、天から降る知的な認識によって自己の救いを達成するという図式が、新約聖書の救済論とかなり違ったものであることに気がつくのであろう。
 荒井献氏と柴田有氏によるトマス行伝の概説によれば〔トマス行伝 218、グノーシス主義は、次のような特徴をそなえている。
1)究極的存在と人間の本来的自己は本質において一つであるという救済認識。
2)その前提としての反宇宙的二元論(すなわちこの宇宙は不完全であり、したがってこれを創造した神自体も、究極の存在としての知・グノーシスから見れば不完全な神、デミウールゴスである)。
3)その結果として、人間に「真の自己」を啓示し、そうすることで人間の魂を救済する者が、人間救済のためにに要請される。
 両氏は、この基準に照らして、トマス行伝に表われるグノーシス思想をユダヤ的キリスト教の系列に置いているが、「真珠の歌」は、このようなグノーシス性をみごとに表現していると言うべきであろう。
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