大祭司による尋問からピラトまで
■どのような見方があるか
 ここは、大祭司と最高法院によるイエスの裁判と、これに続くピラトの裁判にあたります。イエスの受難物語は四福音書に共通しますので、この注釈では、受難の出来事それ自体について、四福音書の証言から起こった出来事に近づきたいと思います。
 共観福音書によれば、イエスは最高法院で尋問を受け、その後、ピラトのもとへ送られます(ルカ福音書によれば、さらにピラトからヘロデへ、再びヘロデからピラトへ送り返されます)。そして、ピラトによって最終的に十字架刑が言い渡されます。ただしヨハネ福音書では、最高法院での尋問がなく、大祭司カイアファとそのしゅうとアンナスによる尋問だけが語られます。イエスの尋問と裁判については、その宗教性と政治性について様々な説が提起されていますが、この問題は、いわゆるキリスト教によるユダヤ人への差別問題とも絡んで、現在でもなお議論が絶えません。細かな点は、該当する箇所の注釈で扱うことにしますが、ここでは、イエスの尋問とピラトの裁判について、そこに含まれる問題点を概観することにします。
 イエスが、最終的に「ユダヤ人の王」として処刑された点については、ユダヤ側もキリスト教側も当時のローマの資料も一致しています〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。問題の一つは、ユダヤの大祭司たちと最高法院(サンヒドリン)、これとローマ側が、それぞれイエスの処刑にどの程度まで関与していたのか?という点にあります。この点について新約聖書は、イエスが処刑されたのは、ユダヤ人側から処刑をピラトに要求し、その結果ピラトが「イエスをユダヤ人に引き渡した」と記しています(マタイ27章24~25節/マルコ15章15節/ルカ23章24~25節/ヨハネ19章15~16節/使徒言行録13章27~28節/第一テサロニケ2章15節)。この記事が根拠になって、それ以後のキリスト教社会で、ユダヤ人はイエスの「敵」であるという伝承が残ることになりました。
 ブラウンは、イエスの裁判に関する諸説を四つに大別しています〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。
(A)ユダヤの指導者たちが、イエスの逮捕、尋問、判決に終始深く関与した。サンヒドリンは、イエスが自分をメシアだと称したために、彼を冒涜の罪で処刑する判決を下した。しかし、当時は、ユダヤ側に死刑を執行する権限が与えられていなかったので、イエスを政治的な反逆罪のかどでピラトに訴え、ピラトは彼らの要求を入れて政治犯としてイエスを処刑した。したがって、ローマ側は、イエスの処刑に関して単なる執行機関の役割を果たしたにすぎない。
(B)サンヒドリンが、はたしてどこまで「正式の」裁定を下したのかについては疑問がある。したがって、ユダヤ側は、イエスを逮捕したが、サンヒドリンでは死刑の判決はなされなかった。ユダヤ側がイエスの処刑に関与していたのは事実であるが、正式の法的な手段は終始ローマ側によって執行された。だから死刑の判決は、ピラトによって最終的に下されたことになる。
(C)イエスの逮捕と処刑はローマ側からの働きかけによる。過越祭でイエスを首謀者とする暴動が生じるのを恐れたピラトは、ユダヤ側に働きかけてイエスの逮捕を命じた。これに応じたのは大祭司とサンヒドリンの比較的少数のグループである。当時は、宗教的な問題と政治的な問題とを扱うサンヒドリンの機関は別組織になっていたから、サンヒドリンが二つあったことになる。イエスの問題を扱ったのは、ローマ側の要請を受けて政治問題を担当するサンヒドリンのほうであったから、イエスの処刑に宗教的な問題は関わりがない。
(D)イエスの処刑にユダヤ側はいっさい関わりがない。それは終始、騒乱を恐れたローマ側によって行なわれた。したがって、新約聖書は、ローマに配慮した護教的な立場から、イエスの処刑の責任をユダヤ人の側に着せたことになる。
■最初期の伝承から
 イエスの十字架刑の直後から流布していた受難伝承は、イエスが大祭司とサンヒドリンのもとへ連行されたことを伝えていました。「あなたたち(ユダヤ人)は聖にして義なる方を否定して、人殺し(バラバ)を赦免するよう(ピラトに)求めた」(使徒言行録3章14~15節)は、そのアラム語の語法から最初期の伝承を伝えています〔Barrett, Acts. 196-97.〕。マルコ福音書以前の伝承資料もこの点では同様です。
 ヨセフスはその『ユダヤ古代誌』(18巻3章3節)で、「イエスという賢者」で「霊能の働きを有する」人物がいて、「ピラトは、われわれ(ユダヤ人)の主な者たちからの示唆を受けて、イエスを十字架刑に処した」と記しています。ヨセフスは続いて、「このイエスは、彼を愛する者たちに三日目に再び生きて現われた」とあり、「クリスチャンと呼ばれる人たちが現在でもいる」と述べています。この最初期の伝承から見ると(D)の説は認めることができません。ローマが法的にも実際の執行においてもイエスの処刑に関与したのは事実ですが、そこにはユダヤの指導者たちの関与があったのは確かだからです。しかも、最初期のイエスの信者たちが、イエスがローマに対する反逆を意図していたのではないこと、すなわち、イエスが政治的な革命家では<なかった>と見ている点にも注目しなければなりません。
 言うまでもありませんが、最初期の伝承が、イエスはローマに反逆する意図を持つ革命家ではなかったと証言していることと、ユダヤ教の指導者たち、あるいはピラト側が、イエスに反逆の意図があると判断したかどうかは、全く別の問題です。だから、イエスの意図と、その意図をユダヤの指導者たち、あるいはローマ側がどのように受けとめたのか、この二つを切り離して考えなければなりません。
 先の第二次大戦中でも、本人が政権に逆らう意図が全くないのに、なんの理由もなく逮捕されて、裁判にかけられ、自分が何をしたのかも分からないままに投獄されたり、処刑されたりした人たちが無数にいました。このようなことは、当時のナチスの占領下で、あるいはスターリンの統治下でのポーランドや東ドイツなどでごく普通に行なわれていました。現在でも北朝鮮では、20万人とも言われる人たちが投獄されていて、その大部分は、ごく些細なことが理由にされているか、または「なんの理由で投獄されたのかも分からない人たち」です。これが「政治的な理由」の意味していることです。
■四福音書の記述
 ここで、四つの福音書が共通して証言していることをまとめてみたいと思います。以下にあげるのは、四つのうち少なくとも三つの福音書が共通している部分だけを取り出して列挙してあります。
(1)祭司長たちに遣わされた者たちがイエスを逮捕しに来た(マタイ26章47節/マルコ14章43節/ヨハネ18章3節)。
(2)イエスと共に居合わせた人たちの一人が、逮捕に来た者の一人の耳を切り落とした(マタイ26章51節/マルコ14章47節/ルカ22章50節/ヨハネ18章10節)。
(3)彼らはイエスを大祭司のところへ連れて行った(マタイ26章57節/マルコ14章53節/ルカ22章54節)。ヨハネ福音書のみアンナスの邸へ(18章13節)。
(4)イエスは、エルサレムの最高法院(サンヒドリン)において尋問を受けた(マタイ26章57節/マルコ14章53節/ルカ22章66節)。
(5)ある人たちが、イエスは「神の神殿を倒し、三日あれば建てることができる」と言ったと証言した(マタイ26章61節/マルコ14章58節)。イエスも同じことを言った(ヨハネ2章19節)。
(6)大祭司(ルカでは「皆の者」)がイエスに「お前はメシアなのか?」と尋ねると、イエスは「人の子は全能の神の右に座る」と答えた。大祭司は「どうしてこれ以上の証人/証拠が要るだろう」と言った(マタイ26章63~65節/マルコ14章61~63節/ルカ22章67~71節)。
(7)ある者たちはイエスに唾をかけて彼を殴り「誰が殴ったか言い当てて見よ」と言った(マタイ26章67~68節/マルコ14章65節/ルカ22章63~64節)。
(8)夜が明けると祭司長たちはイエスをピラトに渡した(マタイ27章1節/マルコ15章1節/ヨハネ18章28節)。ルカのみ夜が明けてから祭司長たちがイエスを尋問した(ルカ22章66節)。
(9)ピラトはイエスに「お前がユダヤ人の王か」と尋ねた。イエスは「それは、あなたが言っていることだ」と答えた(マタイ27章11節/マルコ15章2節/ルカ23章3節/ヨハネ18章33節も参照)。
(10)ピラトは「あのユダヤ人の王を(あるいはイエスとバラバとどちらを)釈放してほしいか」と尋ねた。人々は「バラバを」と答えた。ピラトは「ではこの者(イエス)はどんな悪事を働いたのか」と言った。人々は叫んだ「十字架につけよ」(マタイ27章17~23節/マルコ15章9~14節/ヨハネ18章39~40節)。
(11)ピラトはイエスを十字架につけるために引き渡した(マタイ27章26節/マルコ15章15節/ルカ23章24節/ヨハネ19章16節)。
(12)ローマの兵士たちは茨の冠をイエスにかぶせて「ユダヤ人の王、万歳」と言った(マタイ27章29節/マルコ15章17~18節/ヨハネ19章2~3節)。
■聖書が語る史実
 以上がイエスの逮捕から十字架刑が決定されるまでの四福音書の最小限度の一致点です。わたしは、ここで証言されている共通項目が、ほぼ史実に即していると考えています。わたしがそう考える理由は、ただ福音書の記事が一致しているということだけではありません。その一致の背後には、長い口頭伝承の歴史があることを察知するからです。従来の文献批評では軽視されがちでしたが、口頭伝承の信憑性とその重要性が最近見直されています。福音書の記事の背景に潜む口頭伝承は、その複雑さと一致において、驚くべき正確さを保っているとわたしは考えています。逆に言えば、イエスの出来事が、単なる「事件」ではなく、<聖なる>出来事として、人々が命がけで正しく伝えたからでしょう。だから、少なくとも、それが史実では<ない>という確かな根拠が与えられない限り、これらの項目を否定することができません。また、ここにあげられて<いない>出来事が<なかった>ことにもなりませんから注意してください。なお、ここにあげてある諸項目は「出来事」としての史実であって、それぞれの項目の「解釈」を含むものではありません。これらの諸項目をどのように解釈するのか? この点では、それぞれの福音書によっても、これを解釈する人によっても違いが出てくるでしょう。
 例えば、大祭司が「どうしてこれ以上の証人が必要だろう」と言ったことをマルコ福音書は、イエスを死刑に処すべきだと「一同が決議した」(マルコ14章64節)と解釈しています。しかしサンヒドリンが、はたしてここで、ほんとうにイエスの死刑判決を下したのかどうか? これはマルコ福音書以外では確かでありません。
 したがって、これらの諸項目が語ることは、以下のようになるでしょうか。
(1)イエスの逮捕から処刑まで、大祭司を始めとするユダヤ側が関与していたことは確かです。
(2)ユダヤ側が、どのような形で「協議」したのか、あるいは「裁定」したのかは確かでありません。しかしその席で、イエスの神殿に対する態度が問題にされたのは確かです。
(3)イエスは、ローマ帝国への反逆を意図したとしてローマ側に訴えられました。
(4)ピラトはイエスを処刑する「理由」をユダヤ側に尋ねています。これに対してイエスを訴えた側は「十字架につけよ」と要求しています。
(5)イエスに十字架刑を宣告し、かつこれを執行したのはローマ側です。
 以上をまとめて見ますと、先にあげた(A)~(D)の諸説の内では(B)が最も史実に近いというのが、従来一般に認められてきた説のようです〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。しかし、最近の研究などから判断しますと、最高法院ではイエスに対して死刑を宣告する権限が与えられていて、これの「執行」だけが、ローマの代官の認可を必要としたというのが実状のようです。また、(B)説の言うように、正式の法的な手段は終始ローマ側によって執行されたから、死刑の判決はピラトによって最終的に下されたという点も若干の訂正が必要です。なぜなら、(A)説にあるように、イエスを政治的な反逆者としてローマに告発したのは大祭司を中心とする指導層であり、ピラトは、始めはイエスの処刑をためらったものの、最終的に彼らの要求を受け容れて、死刑の執行を認めたという見方のほうがより適切だと考えられるからです。ピラトについては、次回にピラトの裁判を扱う際に、詳しく説明することにします。したがって、私は、(A)説と(B)説との中間あたりが史実に近いと見ています。
■逮捕からピラトへ渡されるまで
 くどいと思われるかもしれませんが、イエスの逮捕からピラトに引き渡されるまでの経過をもう一度確認します。マタイ福音書とマルコ福音書では、イエスの逮捕のすぐ後で、大祭司カイアファの出席のもとでサンヒドリン(最高法院)の尋問が夜明け前から明け方にかけて行なわれ、最高法院の協議によって(イエスはいません)、イエスはピラトに引き渡されます。マルコ14章64節と同15章1節との間にペトロの否認が挟まり込んでいますから、夜間から明け方にかけて2度サンヒドリンが開かれたようにも思われますが〔E.P.Sanders; The Historical Figure of Jesus. Penguin(1993).296-71.〕、これは実際は一続きの会議だったとみるべきでしょう。
 ヨハネ福音書では、まずアンナスの尋問があり、続いて大祭司カイアファの尋問があり、そこからピラトに引き渡されます。ルカ福音書では、夜明け前に大祭司の尋問があり、「夜が明けてから」最高法院の尋問が行なわれて、そこからピラトに引き渡されます。
 したがって、マタイ福音書とマルコ福音書は一連の最高法院の尋問を伝え、ヨハネ福音書は2度の大祭司の尋問を伝え(ただしカイアファは最高法院の場で)、ルカは1度の大祭司の尋問と1度の最高法院の尋問を伝えていることになります。
 マタイ福音書とマルコ福音書では、最高法院の場でイエスに侮辱が加えられます。ヨハネ福音書ではアンナスの尋問の場で下役がイエスの頬を打ちます。ルカ福音書では始めの大祭司の尋問の際に見張りの下役たちから侮辱を受けます。
 マタイ福音書とマルコ福音書は最高法院の尋問の時にペトロの否認を置いています。ルカ福音書は大祭司カイアファの尋問の場にペトロの否認を置いています。ヨハネ福音書は、アンナスの尋問の場を挟むような構成で、ペトロの否認を、その前後二つに分けて語っています。
 以上の様々な要素を総合して見ると、イエスの逮捕からピラトのもとへ連行されるまでの経緯のあらましを次のように推定することができましょう。
〔イエスの逮捕〕イエス逮捕への直接の働きかけは、アンナスとカイアファの大祭司一族を中心に大土地所有者である少数の貴族たちから出たと思われます。彼らはイエスが神殿に対して「冒涜的な行為」をしたことを聞いて、ヘロデ・アグリッパが洗礼者ヨハネを処刑したように、イエスを処刑する意向を固めたと思われます。イエスの評判が広がっていること、彼がエルサレムに来ていること、イエスがエルサレムへ来た時の民衆の歓迎ぶり、イエスが神殿で行なった「不埒な」行為、過越祭の間に民衆がイエスを首謀者として暴動を起こす恐れがあることなどがその理由です。だから、彼らの動機は、宗教的と言うよりもむしろ政治的な思惑のほうが強かったと考えられます(ヨハネ11章49~50節)。なお、イエスが神殿で批判した両替商たちが大祭司の管理下に置かれていたことや、神殿での両替や犠牲の動物の売り上げが大祭司一族の収入源になっていたことをあげて、イエスの抗議行動が大祭司の収入を脅かしたからだという経済説もあります。ただし、これはうがちすぎかもしれません〔Anchor(1)258〕。
 イエスの逮捕から処刑にいたる実際の過程においては、大祭司たちと高位の貴族たち(サドカイ派)が主導的に動いていて、ファリサイ派やその他の議員たちがこれに追従したと見るのが事実に近いようです〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)〕〔Sanders; The Historical Figure of Jesus.267.〕。このことは、後にペトロとヨハネが、同じサンヒドリンで尋問される場合にも、大祭司の管轄下の神殿守衛長やサドカイ派が二人を逮捕し(使徒言行録4章1節)、「大祭司たちと大祭司一族」が審議に臨んでいたことからも推定されます(同6節)。
 大祭司たちは、イエスの逮捕を予めピラトの了承のもとに企てたのでしょう〔Sanders; The Historical Figure of Jesus.273.〕。しかしピラトは、イエスについては、祭りの際に騒動を起こす恐れのある人物くらいにしか知らされていなかったと思われます。したがって、実際に逮捕に向かったのは、ユダと共に大祭司たちが遣わした神殿警護の下役たちで、この段階でローマの兵士たちは関与していません。
〔逮捕後のイエスの足取り〕イエスは逮捕されてから「大祭司」(ヨハネ福音書ではアンナス、共観福音書ではカイアファ)の邸へ連行されます。問題は、この大祭司邸と、これに続いて出てくるピラトの官邸との位置関係です。現在の通説では、ヘロデ大王が建てた(前23年)ヘロデの宮殿がピラトの官邸にあてられていたことになっています。この宮殿は、高級住宅街(上の町)の西の部分にあって、エルサレムの西の城壁に沿って南北に延びる長方形の敷地に建てられていました。また、カイアファの邸宅は、ヘロデの宮殿の南東に位置していたことになっています〔例えばフルッサー『ユダヤ人イエス』教文館(原書は1998年)301頁の地図〕。現在エルサレムのイスラエル博物館に展示されている紀元66年のエルサレムの模型でも、カイアファの邸宅はヘロデの宮殿の南東に位置しています。しかしこの位置では、ゲツセマネからも、最高法院の会議場までも遠すぎるように思われます。〔イエスの頃のエルサレムの地図を参照〕
  ピラトの官邸が、以前のヘロデの宮殿にあったというのは現在の学者たちの想定であって、これを支える伝承は全く存在しません。これに対して、ピラトの官邸は、以前のハスモン家の宮殿にあったという教会の古い伝承が存在します〔Anchor(5)447-48."PRAETORIUM" by Bargil Pixner 〕。神殿の丘を囲む城壁の西の入り口からティロポエオンの谷を渡る橋が上の町へ通じていて、ハスモン家の宮殿は、城壁の入り口から橋を渡って100メートルほどの所にあり、そこからは、神殿の内部の庭が見えたとあります(ヨセフス『ユダヤ古代誌』2巻8章189節以下)。ここはヘロデの司令部でもあったのですが、その後ヘロデ大王は、安全のためにエルサレムの西の端に宮殿を移しました。紀元6年にユダヤの領主アルケラオスが追放されて、ユダヤがローマの属州になると、このハスモン家の宮殿が代官の官邸に転用されたのです〔Anchor(5)448.〕。だから、イエスの頃は、ハスモン家の宮殿がピラトの官邸であって、「知恵の人イエス」がここに立たされて判決を受けたという言い伝えがあり、ここにハギア・ソフィア(聖なる知恵)教会が建てられました(450年頃)〔Anchor(5)448.〕〔Dan Bahat: The Illustrated Atlas of Jerusalem. Carta (1989)69.〕。だから、現在では、ピラトの官邸は、ハスモン家の宮殿とヘロデの宮殿との、二つの説があります〔Dan Bahat: The Illustrated Atlas of Jerusalem. 55.参照〕。また、イエスの頃は、大祭司カイアファの邸宅もハスモン家の宮殿の南にあったという推定があります〔Ritmeyer, Jerusalem in the Year 30 A.D. 71.〕。大祭司の邸宅の跡が9世紀に現在のヘロデの宮殿の南東に移されたという記録があるからです〔Anchor(5)448.〕。
 こういうわけで、イエスが十字架を背負って歩いた「嘆きの道」"Via Dolorosa" では、その終点はゴルゴタ(現在の聖墳墓教会)に定まっていましたが、その出発点は定まりませんでした。最初期の巡礼は、オリーヴ山からゲツセマネへ降り、そこからキドロンの谷を南に降りて、ヘロデの宮殿の東南にあるカイアファの邸宅(尋問を偲んで)へ向かい、そこから上の町を斜めに横切るようにハスモン家の宮殿へ(裁判のために)向かい、そこから西の聖墳墓教会へ(十字架へ)向かいました。イスラムの時代に、ハスモン家の宮殿も大祭司の邸宅の跡も失われたために、十字軍時代には、イエスの裁判の場所を神殿北西に隣接するアントニアの砦だと認定して、そこを「嘆きの道」の出発点としました。これが現在に至っています。
 ピラトの官邸が旧ハスモン家の宮殿にあり、大祭司の邸宅がそのすぐ南にあったとすれば、カイアファの邸宅と最高法院の議場とピラトの官邸とが、神殿の南西の地域にまとまります。だから、イエスが連行された足取りとしては、ゲツセマネから大祭司宅へ、そこから、近くのティロポエオンの谷にあったとされる最高法院の議場へ、そしてピラトの官邸へいたるルートがごく自然に理解できます。
 Ritmeyerの説では、イエスは、キドロンの谷を北へ向かい、西へ折れてベテスダの貯水池の南側を通り、アントニアの砦の北側の城門から入り、西へ進んでから南へ折れて、第一城壁の門を通って、神殿の西南側にあたるハスモン家の宮殿や大祭司の邸宅があるアンナスやカイアファたちの邸宅街へ連行されたことになっています〔 Ritmeyer,
Jerusalem in the Year 30 A.D. 71.〕。ハスモン家の王宮が神殿のすぐ西にあたりますから、確かなことは分かりませんが、カイアファとアンナスの邸もその南にあった可能性があります。
 以上述べたように、イエスへの尋問とピラトによる裁判の場としては、ヘロデの宮殿とその南にある大祭司邸という見方と、ハスモン家の宮殿とその南の大祭司邸と、二通りの組み合わせが考えられます。ヘロデの宮殿説が現在では通説ですが、伝承の裏付けがありません。ハスモン家の宮殿説のほうには伝承があり、こちらが聖書の記事とよく合っています。ただし、ヘロデの宮殿がピラトの官邸であり、大祭司の邸宅は神殿の近く、ハスモン家の宮殿の南という<第三の組み合わせ>も提示されいます〔James Tabor, The Jesus Dynasty. Simon & Schuster (2007). Map2. Jerusalem in the Time of Jesus.〕。しかし、これ以上確かめることができません。
〔大祭司による尋問〕 夜間のことであり、祭りも近いので、おそらくアンナスが、先ずイエスに予備尋問を行なったのではないかと思われます。彼は当時も大祭司一族の長だったからです(注釈「アンナス」の項を参照)。彼がそこで、神殿の件を問いただしたかどうかは分かりませんが、イエスの教えとその直弟子たちのことを聞き出そうとしたようです。
 大祭司たちが、エルサレム市の「評議会」(最高法院のこと)の審議に先だって、このような予備尋問を行なうことは珍しいことではありませんでした。大祭司一族とその仲間の貴族たち、これとエルサレムの最高法院との関係は、それほど明確ではなかったようです。70年のエルサレム陥落以後にラビたちによって規定されたサンヒドリンは、ミシュナによる厳格な規定の下に運営されたようですが、サンヒドリンのこのような規定をイエスの時代に適用することはできません〔キーナー『福音書の史的イエス』314頁〕。イエス以後のラビたちのサンヒドリンでは、行政問題と宗教問題とを扱う二つのサンヒドリンがありました。このため、イエスの尋問に際してのサンヒドリンは、宗教問題ではなく政治問題をあつかうほうの議会であったという説もあります。しかし、このラビの時代の規定をイエスの頃にさかのぼって適用するのは無理があります〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)1076頁〕。
 イエスの頃には、大祭司たちと高位貴族たちの権限が強く、彼らがサンヒドリンの規定にとらわれることはあまりなかったと思われます。当時のサドカイ派の横暴ぶりとその横柄な口の効き方はよく知られています(ヨハネ11章49~50節/マルコ15章2節などにその一端がうかがわれます)。だから、彼らが「市の評議会」である最高法院の慣例を無視することもしばしばあったようです。最高法院は、この意味で、大祭司たちの「審議会」として利用される場合もあり、大祭司は、責任逃れのために意図的に欠席することさえあったようです。
〔最高法院での審議〕アンナスによる予備尋問が終わってから、イエスはカイアファのもとへ連行されたと思われます。ヨハネ福音書には「大祭司カイアファのもとへ送った」(18章24節)とありますが、これは実際には、共観福音書が伝えているとおり、カイアファが開いたサンヒドリンのことでしょう〔ブルトマン『ヨハネの福音書』510頁〕。
 ギリシア語の「シュネドゥリオン」は、ほんらい「集会/衆議」を意味するユダヤの自治組織のことで、通常「サンヒドリン」と訳されています。サンヒドリンは、捕囚の時に組織された「ゲルーシア」(祭司と長老たちによるユダヤ人の自治組織)に始まりますが、パレスチナの支配権力が変わるにつれて、ゲルーシアの構成員もその権限も機能も変化しました。パレスチナがローマの支配に入ってから(前57~55年)、「ゲルーシア」は「サンヒドリン」となり、通常は71人で構成されるようになりました。
 イエスの時代のサンヒドリンは、ユダヤの行政を司る議会として、また律法(トーラー)に従って裁判を行なう最高法院として、ローマの代官とその上にいる総督の支配の下に置かれていました。ただし法院は、エルサレムの最高法院以外に地方にも設けられていました。そもそもローマがパレスチナに「シュネドゥリオン」を導入した時には、パレスチナの5箇所に設けられていたのですが、次第にエルサレムのサンヒドリンにその権限が統一されたという経緯があります。したがって、エルサレムの最高法院以外に、地方にも「シュネドゥリオン」(地方法院)がありました。後のミシュナの規定では、男性120名以上の町では、23名で構成される「シュネドゥリオン」を置くように定められていて、重要な裁決/裁判では全員一致が必要でした。その権限は、その地方の行政と自治に及ぶものでしたが、中央のサンヒドリンと同様に、主としてトーラー(律法)に基づく裁判が、その重要な役目でした。
 こういうわけで、エルサレムのサンヒドリンは、ほんらいエルサレムに所属する決議機関です。しかし、ちょうどローマ帝国の元老院と同様に、事実上はユダヤ全体を統制する役目をも担っていたと考えられます。ただし、ローマの元老院も皇帝の横暴にしばしば悩まされています。
 イエスの時代のユダヤの最高法院は、大祭司が招集し、祭司長たちと長老たちと律法学者たち、さらに有力な市民のおよそ70名ほどで構成されていました。祭司長たちは最高位の祭司たちで、貴族階級に属する大地主たちです。彼らにはサドカイ派が多く、ファリサイ派は少数でした。ただし律法学者たちにはファリサイ派が多かったので、もしもイエスの逮捕の件が、構成する全員が揃った正式のサンヒドリンの審議にかけられたとすれば、ファリサイ派の意向なしにはイエスの逮捕は難しかったでことでしょう。
 最高法院は、正式には71名のメンバーとありますが、実際の運営は地方法院の場合と同じようにかなり融通性があり、よほどの重要問題以外は「全員が」集まることはありませんでした。したがって、イエスへの尋問のように過越を控えた夜明けの尋問には、全員が出席していたとは考えられません。審議は「切石(きりいし)の間」で行なわれましたが、これは神殿とエルサレム市街と間にかけられた橋の下にありました。しかし、カイアファが評議会(最高法院)の場所をキドロンの谷へ移したという言い伝えがありますから〔Chilton, The Temple of Jesus. 107-108.〕、イエスの頃に、最高法院がここで開かれていたのかは、必ずしも確かでありません。ちなみに、サンヒドリンが大祭司の邸宅で開かれたとは考えられません。
 通常は大祭司も会議に出席しました。しかし、大祭司と会議との関係には、行政上の責任問題がありましたから、場合によっては、大祭司が意図的に出席しないこともあったようです〔キーナー『ヨハネ福音書』(2)1075頁〕。福音書が伝えるように、大祭司(ヨハネ福音書ではアンナス)自らが予備尋問を行ない、その後で、エルサレムのサンヒドリンが招集されたというのは、イエスの逮捕がそれだけ重大な事件であったことを示すものでしょう。ちなみに、審議の後でイエスを「殴った」あるいは「たたいた」ことが語られています。マルコ=マタイ福音書では議員たちがこれに加わりますが、ルカ=ヨハネ福音書では(ヨハネでは事情が少し違います)、下役だけが行なったことになっています。どちらが事実かは確かめられません。
 問題は、マルコ福音書の伝えるカイアファによる夜明け前からのサンヒドリン、これとヨハネ福音書が伝えるアンナスの尋問と、どちらが史実に近いかです。夜明け前にサンヒドリンが開かれて、夜が明けてからイエス不在の状態でサンヒドリンでの協議が行なわれたと見るよりも、夜の間にまず大祭司(おそらくアンナス)による予備尋問があり、その後、アンナスからカイアファへ申し送りがあり、夜明け頃にカイアファがサンヒドリンを開いたと見るほうが、より自然な成り行きではないかと思われます。
 先に述べたように、アンナスたち大祭司一族と高位の貴族たちがイエスの逮捕を謀ったのは、主として政治的な理由が大きかったと思われます。しかし、サンヒドリンの審議では、むしろ、イエスの宗教的な行為と神学/信仰的な傾向のほうにも注意が向けられたと考えられます。とりわけ、イエスがエルサレムに入ってから行なった神殿での抗議行動が、イエスの処刑を意図するカイアファたちによって採りあげられ、彼は、イエスから「人の子」言葉を引き出すことで「冒涜」のかどで有罪決議へ持ち込んだ。このように見ることができます〔Sanders; The Historical Figure of Jesus.271.〕。ファリサイ派や律法学者たちがイエスに反感を抱いていたのは確かですから、カイアファは彼らの賛同を見越して終始会議を主導したと考えられます。いずれにせよ、大祭司側のイエス処刑の意向は、カイアファを通じてサンヒドリンに伝わっていたでしょう。だから、かりにサンヒドリンでイエスの処刑が「公式には」決議されなかったとしても、イエスを処刑する意図は確認されていたと見ることができます。
 このように、イエスの逮捕からピラトへの引き渡しまでは、大祭司の家族と高位の貴族たちの意向によって、かなり強引に、しかも略式で行なわれた形跡があります〔キーナー『福音書の史的イエス』315頁〕。このことが、後のユダヤ人キリスト教徒たちによる伝承の中で、イエスの逮捕と審議が、サンヒドリンによる公式の「裁判」を通じて行なわれたことに改められて、マルコ=マタイ福音書の伝える「サンヒドリン」の記述へつながったと見ることも可能でしょう。
 四福音書の伝承を総合するならば、イエスの逮捕直後に、先ずアンナスによる予備尋問が夜間に行なわれ、それからイエスの身柄はカイアファに引き渡され、明け方近く、カイアファがサンヒドリンを招集してイエスへの審問が行なわれ、その後、イエスがいない状態で処刑の意向が確認された。一応このように推定することができます。これを結果的に見れば、ピラトに渡されるまでの経緯については、ルカ福音書の伝える成り行きが、大筋では史実に近いと言えそうです〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)829頁〕。だとすれば、ルカは、マタイ福音書とマルコ福音書<以前の>資料によっていることになりましょう。また、マルコのもとには、最高法院が開かれたこととそこでの協議が、イエスへの尋問の内容とは別個に伝承されていたために、マルコはこれらをまとめて、イエスの最高法院での尋問を構成して記述し、マタイ福音書がこれを踏襲したとも考えられます。大祭司の尋問は、逮捕された人物が最高法院で裁かれる前の予備尋問として、夜間に大祭司の邸宅で行なわれても不自然ではありません。ルカ福音書とヨハネ福音書の記述はこの点で合致しています。
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