神話とキリストについて
 神話の大切な働きの一つに、「世界観」の形成があります。わたしたちは、ずいぶんいろいろな知識を学校でも社会でも学びます。情報化社会と言われるように、厖大な情報がマスコミやメディアを通じて毎日わたしたちに向かって流されてきます。社会的なこと、経済的なこと、家庭的なこと、文化的なこと、宗教的なこと。わたしたちは、これらの情報の渦に巻き込まれそうになります。その中には、いい加減な情報や誤った情報も多く含まれています。しかし、それらを見分けて、正しい情報を、すなわち間違いのない「事実」を掴んだとしても、これらの事実を今度はどのように判断すればよいのかが分からなくなります。自分にとってなにが一番大切なのか。これに従って情報を選び出さなくてはなりません。そして、選んだ情報をどう判断して自分の必要に役立てるのか。これを決定しなければなりません。このような判断をする場合に、もっとも基本となるのが、その人の価値観です。これが決まらなければなにも決まりません。
 価値観は、はっきりとした信念や考え方を指す場合もあります。しかし、そういう明確な価値意識がなくても、その人の「住んでいる世界」がその人の価値観を決める場合がほとんどです。この「自分の世界」、これが、あなたが全ての判断を下す基本になります。この「自分の世界」(これを「視座」と言います)が、あなたの世界観の基礎です。もう少し広げて宇宙観(コスモロジー)と言ってもいいかもしれません。このような自分の世界観を形成する上でどうしても必要なこと、それは、出来事や人物や周囲の物事を「自分と結びつけて見る」ことです。もう一つは、それらの様々な現象や出来事を、バラバラではなく「総合する」ことです。人間はたくさんの「事実」を知るだけでは生きられない。それらを人間自身と結びつけて、ちょうど自分の身体をとらえるように、総合的に把握すること。これが、自分の世界を形成する人間の営みの基本なのです。
 わたしが人間の「神話的」な営みと言うとき、この二つの営みを指しています。事実を人間(自分)と結びつけること。様々な事実を人間(自分)との関連で総合すること。この二つです。神話の一番いい例が星座です。大熊、小熊、白鳥、カシオペア、双子、乙女など、星座の名前には、ギリシア神話が大きな働きをしています。これらは、客観的に天体を見ているのではなく、人間の世界と結びつけて名づけられています。こうすることで、バラバラで無意味に散在しているように見える星を全体として総合してとらえることができるからです。だから、誕生の時の星座が、その人の運命を決めたり、星座の動きが、人間の世界を支配すると信じられたのです。ここには、人間を中心にした宇宙観があります。わたしたちが、宇宙を卵型あるいは円形で思い描くことが多いのは、自分を中心にした宇宙を創り出そうとするからです。これは人間に具わった大切な能力です。
 このような宇宙観は、もうお分かりのとおり、いわゆる「科学的な」世界観とは違っています。なぜなら、科学的な考え方は、人間を出来事や現象から切り離したり、場合によっては対立させるところから始まるからです。また、科学的な見方は、様々な事実を限りなく細かく分類することから始めます。出来事と出来事を結びつける前に分けるのです。科学的な見方は、自分をとりまく一連の出来事を簡単に結びつけたりしません。それらは互いになんの因果関係もないように見えるか、あるいは、仮に因果関係があっても、それが直接に自分とは結びつかないように見えます。だから、科学的な見方は、自分の周りに起こっている「事実」が、どのような意味をもっているのかを教えてくれません。この場合「意味」とは、それが自分とどのような関わりがあるかということです。
 神話的な世界と科学的な見方は、このように見ると、正反対だと言えるかもしれません。しかし、現在では、占星術は時代遅れの世界観だと思われていても、16世紀頃までは、星座は天文学の基礎だったのです。どこまでが占星術で、どこからが天文学か判然としていませんでした。中世の錬金術も神話的な世界です。しかし、これも近代の化学が誕生する母胎となりました。魔術、占星術、錬金術、これらは、近代の機械技術、天文、化学を生み出す基となったのです。こう考えると、わたしたちは、人間の「科学的」な営みと「神話的」な営みとを簡単には切り離せなくなります。現代の進んだ物理学や化学にも、神話的な営みが入り込んでいると考えられるからです。
 自然科学の分野だけでなく、社会的にも神話は生きています。先の太平洋戦争の時には、日本は「神国」であると信じて、多くの人たちが死んだり殺されたりしました。とくに若い人たちが、「神風」特別攻撃隊として国家の犠牲になりました。最近では、旧ソ連で「共産主義」という神話が崩壊しました。これも70年ほどにわたって世界の歴史に大きな影響を及ぼしました。もっともこの神話はまだ終わっていません。
 人間は、このように、個人でも民族でも、神話を創り出しながらそれを崩壊させて、また新たな神話を造ることをしてきました。この場合、先の神話や宗教は滅んだのではなく、次の神話・宗教へと姿を変えて引き継がれているのです。神話の持つこのような連続と非連続を神話の「変容」 "transformation" と言います。また、人間のこのような営みを「造神話力」 "myth-making power" と言います。わたしたちは、過去の価値観を受け継ぎながら、常に新しい価値観を生み出し、創り出していかなければなりません。それは人間の内面の営みと深くつながっています。自分はなんのために生きているのか。自分とはいったいなんなのか。自分は、どうすれば正しく生きられるのか。これらは宗教的な問いかけです。その問いに対する「正解」はありません。なぜなら、それは「あなた」というひとりの人間に関係する問いだからです。だから「正解」は「ある」のではなく自分で創り出さなければならないのです。これらの問いを突き詰めていくと、そこには、言葉のもっとも深い意味での「神話的」な世界があります。だから、わたしたちが、この世に生きていくことの意味それ自体が造神話的な営みだと言ってもいいのです。
 新約聖書のキリスト神話は、歴史に実在したナザレのイエス様という一人のお方からはじまった「神話」です。だからこの神話は、通常の「神や神々<についての>話」ではなくて「神様<が話される>こと」、言い換えると「神様の御言葉」の神話です。イエス様というお方がその命をかけて開いてくださった「神様からの語りかけ」、この世界が開けてきます。
 では、人間の造神話は、いったいなにを創り出すのでしょう。それは「時」をつくるのです。ヨハネ福音書2章のカナの奇跡物語で、イエス様は「わたしの時はまだ来ていない」と言われました。ここでの「時」は、ただの「時間」のことではありません。自分がこの世に生じる様々な出来事と結びつくときに生まれる「時」のことです。「楽しいとき」「苦しいとき」「長いとき」「短いとき」、わたしたちにはいろいろな「時」があります。わたしたちが生きるということ、これは、個人の人生も、民族の歴史も、この「時」によって成り立っていると言えます。だから「時」は「時間」のことではありません。「その時、その場の出来事」だからです。日本には、まだ昭和、平成のように元号があります。これも、民族の「時」をつくる営み、したがって神話的な営みです。
 聖書が伝えるイエス・キリストの「語りかけ」には、このような「時」を創り出す力があります。それは、「神の語りかけ」(神が話すこと=神話)だからです。聖書の「時」(ギリシア語で「アイオーン」)をつくる力、すなわち聖書の造神話力は、ほかの宗教や神話とは比較にならないほど大きくて強いのです。聖書神話は「時」の形成については独特の力を持っています。なぜそうなのかをここで説明するのは控えます。ただ一つ、現在の世界の歴史が、イエス様の誕生を境にして、「紀元前」(BC)と「紀元後」(AD)とに分かれているということだけ指摘しておきましょう。
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