神の御名
■「ヤハウェ」の御名の由来
 そもそも聖書の神は、アブラハム以来、その御名を呼ぶことによって臨在する神です(創世記12章8節)。旧約聖書で「主」と呼ばれる「ヤハウェ」の御名については、モーセに啓示された「主なる神の御名」があります(出エジプト3章14〜15節)。この神はほんらいモーセの妻ツィポラの父エテロの先祖の神であったと考えられます。モーセの義理の父エテロは、ミディアン(現在のアカバ湾の東方)の祭司であり、「ヤハウェ」は、エテロの部族の神の名であったと思われます(出エジプト2章15節〜3章10節)〔TDOT(5)517〜18〕。モーセは、彼に顕われた神に向かって、「エジプトにいるイスラエルの民から『その(神の)名はいったい何か?』と問われたら、なんと答えましょうか」と尋ねます。すると、神(エロヒーム)はモーセにこう言います。「わたしはある。わたしはあるという者だ。」「イスラエルの人々にこう言うがよい『わたしはある』という方がわたしをあなたがたに遣わされたのだ」(出エジプト3章14節)。神は続けてモーセに告げます。「イスラエルの人々にこう言うがよい。『あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主(ヤハウェ)がわたしをあなたたちのもとに遣わされた』」(出エジプト3章15節)。
 出エジプト記のこの部分には「神」(エロヒーム)と「主」(ヤハウェ)と両方がでてきますから、J(ヤハウェ資料)とE(エロヒーム資料/祭司資料)の両方が組み合わされています。出エジプト3章14節では、「神」(エロヒーム)の御名の由来が「わたしはある」と告げられてから、15節で、「あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主(ヤハウェ)がわたしをあなたたちのもとに遣わされた」とあって、その神(エロヒーム)の御名が「ヤハウェ」だと同定されていますが、この同定はおそらくエロヒーム資料に基づくものです〔Brevard S. Childs, Exodus. Old Testament Library. SCM(1974) 70.〕。
 ここに、「わたしはある。わたしはあるという者」"I am who I am."という不思議な言い方がでてきます。ヘブライ語の原文では、主語「わたし」が抜けていますから「エヒェ・アシェル・エヒェ」"AM WHO AM"の3語です。ここにでてくる「ある」は、ヘブライ語の動詞「ハーヤー」で、これには「ある」「成る」「居る」「生起する」などの意味が含まれていますから、日本語にも英語にも訳すことができません。この「ある」は通常1人称単数未完了形で、「わたしはある/あり続ける」の意味に理解されています。しかし、出エジプト記3章14節の「エヒェ」は、動詞であると同時に「ヤハウェ」すなわち「神」を指す名詞的な働きをも含むと考えられています。ホセア書1章9節では「エヒェ」は「ヤハウェ」と同じ意味ですが新共同訳では「神」と訳されています〔TDOT(5)513〕。ホセア書と同じように、出エジプト記3章14節の「エヒェ」も「ヤハウェ」を表わすと見なすことができます。
 ところが、「ヤハウェ」は動詞「ハーヤー」から出ていますが、神である「ヤハウェ」の場合は、その語根である「ハーヤー」が、普通能動態「ある」の意味なのか、それとも能動使役態「あらしめる」の意味なのかが問題にされています。現在では、神名を表わす場合は使役態の「あらしめる」の意味だという説のほうが多数です。これにはイスラエル民族がカナンに定住するはるか以前から住んでいたアモリ人(この名は申命記7章1〜6節の中の1部族としてでてくるが、実際はパレスチナの先住民の総称)のアムル語の発音の影響が考えられています〔TDOT(5)513〕。したがって、「エヒェ」=ヤハウェでは、語根の動詞「ハーヤー」はほんらい使役(ヒフィル)態の「ヘィヘヤー」の意味だと見なされているようです〔TDOT(5)514〕。
 この使役の意味は、ユダヤ教の後期になるほど明確にされてきて、「ヤハウェ」は、常に生成して止むことがなく「創造する/創り出す」"I create whatever I create. "という意味になります〔TDOT(5)513/516〕。動詞を2度繰り返すことで、現実に働く力強さを表わすのでしょう。これを太陽にたとえて、自ら存在することによって地上の万物を存在せしめるという意味で、「我はありてあらしむる者」〔小池辰雄訳〕と訳すこともできましょう。「ヤハウェ」とう名前は、出エジプト記3章14節にでてきますが、ここで語られているのは、神の名前そのものよりも、むしろその名前の由来であり、名前の意味の説明です。このために「『わたしはある』がわたしをあなたがたに遣わした」のように、動詞をそのまま主語にするという不思議な構文になっています。
■「ヤハウェ」と「エル」
 このように動詞「ハーヤー」(生起する/創造する)が、「ヤハウェ」という固有名詞へ移行したと見ていいでしょう。しかしながら、イスラエル民族のカナン定住以後は、カナンのバアル~が「エール」(「エール」は「力/神」の意味)とも呼ばれていたために、その影響を受けて、「ヤハウェ」もまた「エール/神」と呼ばれます(バアルもヤハウェも「主」と呼ばれました)。「雲に乗る神(エール)」「永遠の神(エール)」などは、もとはバアル~の形容辞ですが、これらが「ヤハウェ」を意味する「神」(エロヒーム)の形容に転用されるようになりました。ただし、「岩なる神」「知識の神」「栄光の神」などは、旧約聖書特有の「神」の形容辞です〔TDOT(5)518〕。なお、モーセの頃の初期の「ヤハウェ」は一神教ですが、「唯」一神教(世界には、これ以外に神は存在しないという意味)ではありませんから注意してください。
 このために、紀元前11世紀頃には、「ヤハウェ」が「エール」(神/力)と同一視されて、「エール・シャダイ/全能の神」(創世記17章1節)、「エール・エリヨーン/いと高き神」(創世記14章18節)などと呼ばれるようになりました。この傾向は前10〜9世紀の王朝時代にさらに進行します。しかし、後期になると再び動詞的な意味が強く表われるようになります〔TDOT(5)515〕。「ヤハウェ・シャローム/平和を創造する方」(士師記6章24節)、「ヤハウェ・ツァバオート/万軍を創り出す方」(サムエル上4章4節)、「ヤハウェ・ニッシー/我が旗・我がしるし・我が避け所を造る方」(出エジプト17章15節)、「ヤハウェ・カナー」(熱情を産み出す方)(出エジプト34章14節)、「ヤハウェ・イルェ/見守る・顕われる・備えてくださる方」(創世記22章14節)などです。また、「エール・エロヘ・イスラエル」は「エール・ヤハウェ・イスラエル」と同じで、「イスラエルを創り出す神」のことです(創世記33章20節)〔TDOT(5)515〕。なお、紀元1世紀のパレスチナでは、ヘブライ語で「ヤハウェ」と書いて、アラム語で「マーレー」(「メレク」=「王」から)、あるいはヘブライ語で「アードーン」(主)と読んだという説もあります。七十人訳では、「ヤハウェ」は常に「キュリオス」(主)"Lord"というギリシア語に訳されています〔TDOT(5)521〕。
■旧新約中間期の御名
 ヘブライ語で「ヤハウェ」を表わす4文字は(英語のアルファベットではYHWH)、「神聖四文字」 "the Tetragrammaton"と称されて、第一神殿の頃までは「ヤハウェ」と読まれれていました。しかし、第二神殿時代のギリシア時代には、この読みが畏れ多いと考えられるようになって、公式の場では「主」を意味する「アドーナーイ」と発音されました。これは、この時代に、「ヤハウェ」の名前が神秘化されて、魔術的に用いられるようになったからでもありましょう。この形がYH「ヤー」に縮められて「ハレルヤー」の「ヤー」とも呼ばれたという説もありますが確かでありません。捕囚期以後では、神聖文字は、YHW(英字では)として記され、これのギリシア語訳から逆にヘブライ語/アラム語の読み方を判断すると、「ヤハェーウー/ヤヘーウー」、あるいは縮められて「ヤホー」とも読まれたようです〔TDOT(5)505/511〕。新旧約中間期のギリシア時代には、ギリシア文字で「イアオー」(英字では"Iaoh")と書かれていることから判断すると「イアオー・アドーナイ・ツァバオート」(万軍の主なるヤハウェ)などと呼ばれて、魔術性を帯びた名前として用いられたようです〔TDOT(5)509〕。このように、「ヤハウェ」の御名は、「神聖(四)文字」(YHWH)として神秘化されるようになり、これに伴って文字そのものが神格化されて崇められるようになり、イエスの時代には、このような御名の神秘化がすでに行なわれていたと思われます。ちなみに、後代のユダヤのカバラ思想では、美しく彩られた「神聖四文字」が、ヤハウェの神格体として崇められて現在にいたっています。
 イエス以後の神の御名の用法になりますと、イエスが十字架の上で叫んだ「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(詩編22篇2節)という神への呼びかけがあります。信仰者の苦難の叫びを言い表わす詩編22篇では、その後半において、詩編の作者の祈りが応えられて、「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します」(22篇23節)という言葉が突然表われ、「主に栄光を帰せよ」と賛美の言葉が続きます〔22篇は二つの詩が編集されていると言われています〕。このように「神の御名を啓示する」ことは、神を賛美し、神に栄光を帰することへつながります。
 さらに詩編9篇3節にも「いと高き神よ、わたしは喜び、誇り/御名をほめ歌おう」とあり、これに続いて「主よ、御名を知る人はあなたにより頼む。/あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない」(同11節)とあり、さらに御名を「知る」人は、主である神に全き信頼を寄せるとあります。御名を「知る」ことについては、「それゆえわたしの民はわたしの名を知るであろう」(イザヤ52章6節)があります。特にヨハネ黙示録19章12〜13節では白い馬に乗り王冠を頂く方(裁きのメシア・イエス)が「自分のほかはだれも知らない名」を帯びていて、その衣には「神の言葉」と記されています。なお、新旧約中間期のイスラエルの知恵文学では、「ヤハウェ」という固有名詞はほとんど表われません。おそらくヘブライ語の「ホクマー」(動詞「ハーカム=賢明である/思慮深い」から)あるいはギリシア語の「ソフィア」(知恵)が、ヘレニズム世界だけでなく、オリエント地域の普遍的な「神の知恵」を反映していたからでしょう。
 さらに、第二イザヤの七十人訳には「主はその御名となり、とこしえのしるしとなり、けっして絶えることがない」(イザヤ55章13節)とあります。このような「御名を信じる者」については、「わたしの僕は新たな名で呼ばれる」(七十人訳イザヤ65章15節)とありますが、この「新しい名」は、ヨハネ黙示録の白い小石の表象で「その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている」(ヨハネ黙示録2章17節)とあるのに通じると思われます。特に旧約聖書の用法で注意すべきは、「あなたたちの神、主がその名を置くために全部族の中から選ばれる場所、すなわち主の住まい」(申命記12章5節)とあって、主の御名が、神の臨在する幕屋あるいは神殿それ自体を表わすことです。
 ヨハネ福音書17章6節に「わたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を顕わしました」とあるのも、以上のような御名の伝統に立つ用法であると考えられます。ただし、ここでは、「イエスの父なる神」の「御名」が、イエスを信じる者たちに啓示されるのです。御名が、神の臨在そのものを意味し、しかも、その臨在が、地上の神殿に代わる働きと力を有していて、それが、イエスという人格(ペルソナ)を通じて啓示されていること、さらにそのように啓示された人格~が、「ヤハウェ」にほんらい含まれていた「創造する」働きを有すること、これらが、ここでの「御名を啓示する」に表わされていると言えましょう。特にここでの御名が、これもイスラエルの神特有の「栄光」と結びついていることもヨハネ福音書の特長として注目すべきでしょう。
〔注記〕ヘブライ語の発音の仮名書きは、ミルトス・ヘブライ文化研究所編「ヘブライ語聖書対訳シリーズ」に準拠しています。このシリーズは、現在のイスラエルで旧約聖書が実際に朗読されている発音をそのまま仮名書き移し替えていますので、ヘブライ語の辞書に表記されている発音とは異なる場合があります。例えば、「エール」→「エル」/「イスラーエール」→「イスラエル」。
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