過越の食事と最後の晩餐

コイノニア京都集会(2023年11月26日)

  聖餐について大事なことが三つあります。旧約聖書の「過越の食事」と、イエスとその弟子たちの最後の晩餐と、その終わりにイエスが定めた「主の晩餐」(The Lord's Supper)これが「聖餐」(The Eucharist)す。

■過越の食事

 過越は、出エジプトの出来事と結びついています(出エジプト記12章21〜23節)。過越は、家族的な祭儀から、エルサレム神殿での中央聖所の(国家)祭儀へ移行します。その後、過越は除酵祭と一体化しますから、過越は、除酵祭を伴う8日に及ぶ祭りとなり、国を挙げての喜びの祭儀へと変容します(歴代誌下30章21節)。

【イエスの頃の過越】

 イエスの頃には、エルサレム神殿の聖所の東側の「祭壇の間」で、犠牲の羊が屠(ほふ)られ、犠牲の血は、金あるいは銀の器で、祭司たちの手で、南側の祭壇の上ではなく、その台座に注がれました。羊を初め、焼かれた犠牲の肉は、エルサレムの市中のいたる所へ運ばれて、家族ごとの「過越の食事」となりました。イエスの頃の過越は、出エジプトの民族的な出来事を祝うよりも、「イスラエルの貧しい人たちへの施(ほどこ)し」を尊び、そうすることで、「終末のメシアの到来を待ち望む」祭りとされていました。過越の食事には、焼かれた犠牲の肉があり、四つのワインの「杯」は、家の主人の手で祝福され、詩編118篇などの「賛美の歌」や、詩編148篇〜50篇の「ハレル」が唱われました。裕福な家では、体を横たえるギリシア・ローマ式の宴席が行なわれました。

【過越の「日」とは?】

 レビ記23章5節には、「ニサンの月(3月〜4月)の十四日の夕暮れが「主の過越」、その月の十五日から主の除酵祭」(聖書協会共同訳)とあります。「夕暮れに」は、十四日の過越から十五日の除酵祭へ移行する境目になります。過越の犠牲を屠る祭儀が始まるのは14日の午後からですから、過越の食事は、14日午後の「(小羊が屠られた後の)薄暗くなる夕暮れから、(14日が終わり15日が始まる)暗くなる夕刻まで」の期間のことだと理解できます。

 ところが、過越の「日」を「朝から始まり次の朝まで」と理解するなら、犠牲を14日の朝と14日の夕方に、二度に分けて屠ることもできます。このように、過越の祭儀の「日」(14日)と、過越・除酵祭の始まる「日」(15日)との「境い目」への記述が、受け取りようによって異なるために、新約聖書の記述が明確でありません。14日、15日という「日にち」がはっきりしているのに、その「日」の境い目、言い換えると「日」が始まる「起点」がはっきりしないのです。なお、クムラン宗団では、364日の太陽暦に準じています。しかし、この太陽暦による祭りと(太陰暦による)安息日規定との間の暦日の摩擦には触れていません。

■最後の晩餐

 弟子たちが「過越にちなむ」食事の準備をしてから、イエスの一行は、「最後の晩餐」(The Last Supper)を執り行ないます。イエスは、その席で、ユダによる裏切りを予告しますが、続いて、「主の晩餐」と呼ばれる大事な契約の制定を行ないます。現在のキリスト教会では、「主の晩餐」(The Lord's Supper)についての最大の問題は、いったい「最後の晩餐」は、何時どのように行なわれたのか? という疑問です。

 ヨハネ福音書では、最後の晩餐は、ニサンの月の13日の夕刻から14日の夕刻で、過越の犠牲として献げられる小羊がまだ屠られる前の夜のことになります。これに対して、共観福音書の記述では、晩餐は、「過越の食事そのもの」であって、過越の小羊がすでに屠られた後の夕刻から夜にかけてであるという印象を与えます。ヨハネ福音書が証しするとおり、最後の晩餐が、過越の小羊の奉献が始まる(14日の午後)以前のことであれば、主の晩餐は、「過越の食事」ではなく、したがって、晩餐の食事には、実際の犠牲の小羊の肉は、響(きょう)されていなかったことになります。ところが、共観福音書では、主の晩餐が、「過越の食事」そのものであったかのように読むこともできます。

 「除酵祭の第1日目、すなわち、過越の小羊を屠る日に、弟子たちは、イエスに『過越の食事をなさるのに、どこへ用意いたしましょうか』と言った」(マルコ14章12節)。このマルコの記述では、「主の晩餐」が、犠牲の小羊の肉を響(きょう)したユダヤ教の正式な「過越の食事」そのものであったようにも受け取ることもできます。ここで問題になるのは、マルコが言う「丸1日」が<始まる>その「起点」は、夕刻なのか、それとも朝なのか、という問いです。マルコが、1日の始まる起点を「朝」に置いているとすれば、14日の午後に、犠牲を奉納する時刻も、続く夜の過越の食事も、同じ日に含まれますから、彼の記述の矛盾は解消されます。この場合、マルコ福音書と、これを基準にする共観福音書は、ユダヤの伝統的な夕刻を起点とする「暦の日」ではなく、ローマ式の太陽暦に準じて、「朝を」起点とする暦日に基づいて書かれていることになります。

 ユダヤがローマの支配下に入ってから(前63年)、ユダヤもローマ暦の影響を受けていたと考えられますから、1世紀のユダヤでは、ローマ式に朝を起点とする暦日を採用していたと考えることもできます。ところが、マルコの記述は、この点について、それほど明白ではありません。なぜなら、ユダヤでは、安息日は、いぜんとして、夕刻から次の夕刻までの伝統的なしきたりに準じていたからです。このために、マルコ15章42節の「すでに夕方になったので・・・・・」は、1日の終わりが「夕刻」であったことを示唆しています〔Collins. Mark. Hermeneia. 777〕。マタイは、マルコの記事を言い換えて、マタイ28章1節では、「安息日が終わり、その週の初めの日の明け方に」とあります。安息日が終わるのは、日曜の朝(明け方)ではなく、土曜の夕刻です。「安息日が終わり」は、「安息日の後に/遅くに」の両方に読むことができます。「明け方に」の原語は「まだ暗いうちに」の意味をも含みますから、マタイは、女性たちが、土曜の安息日が夕刻に終わると、その直後に、週の初めの日(日曜)が夕刻から始まる「まだ暗いうちに」墓を訪れたと考えたのでしょうか? それとも、安息日が終わったのが「朝だ」と言いたいのでしょうか?〔Nolland. The Gospel of Matthew. NIGTC.1246.

 おそらく、夕刻に安息日(土曜)が終わり、週の初めの日(日曜)が、その夕刻から始まり、マグダラのマリアともう一人のマリアは、日曜の夜が明けるのを待って墓を訪れたとマタイは見ているのでしょう〔Davies and Allison. Matthew 19--28. ICC.663〕。 このように、共観福音書の記述は、その全体をローマ式の朝暦(あさごよみ?)で統一して割り切ることができるほど明瞭ではなく、とりわけ、日取りの「起点」については、「意図的なあいまいさ」が見受けられます。

 主の晩餐が、15日に始まる過越祭の初日であったとすれば、イエスの十字架刑もその埋葬も、祭りの当日に行なわれたことになります。安息日制度を厳格に守る当時のユダヤの社会で、罪人の裁判と十字架刑、その上、「汚れ」と見なされる遺体の埋葬などが、尊い祭りの当日に行なわれることなど、はたしてありえるでしょうか? こういう疑問がでてきます。このため、現在では、ヨハネ福音書の記述のほうが史実に近いと見るほうが有力です。近年では、主の晩餐についての共観福音書の記述をヨハネ福音書の記述と調和させようとする試みがなされています。

■イエスの最後の晩餐

 イエスは、弟子たちとの最後の晩餐を差し迫る過越の祭儀と重ね合わせることを意図しました。言い換えると、イエス様は、最後の晩餐を、(夕刻を起点にした場合の15日の)過越の食事と「同じ祭儀的な意義」を具えるものだと「見立てた」のです。イエスは、おそらく、ユダの裏切りと神殿祭司たちの陰謀を察知して、自分が、正規の過越の食事を弟子たちと共にすることが叶(かな)わないことを予知したのでしょう。このために、最後の晩餐が、過越の食事と同じ祭儀性を具えるよう取り計らったのです。ヨハネ福音書の晩餐の記事は、期日としては歴史的に正しいけれども、これが帯びる祭儀的な意義は、共観福音書が証しするとおりです。共観福音書には、晩餐の席に、実際の過越の小羊が響(きょう)されていたという記述は一切ありません。その代わりに、イエス自身の肉と血が、祭儀的な「記念として」、弟子たちに響(きょう)されます。これが史実に最も近い出来事だと考えることができましょう。

 共観福音書が書かれた頃のギリシア・ローマの世界では、朝を起点とする暦日が一般的に普及していたことを否定するものではありませんが、紀元70年の神殿喪失に前後する時期を中心に定められたユダヤ教の「ミシュナ」によれば、ラビたちは、現実に対応するために、伝統的な律法を柔軟に解釈しました。共観福音書の記者たちも、ユダヤ人、あるいはユダヤ主義を受け継ぐ人たちでしたから、主の晩餐と過越の伝承の奥に潜む史実を歴史の実態に即して柔軟に洞察することできたと思われます。共観福音書には、晩餐の席に「(犠牲として屠られた)小羊の肉」が置かれていたという記述はありません。だから、ヨハネ福音書と共観福音書は、晩餐の史実に関して、基本的に矛盾するものではありません。マルコは、晩餐の「日(時)」を祭りの最初の日と見ていますが、その祭儀の物理的な「時間」には、それほどこだわらなかったのです。晩餐の日の「起点」についても「朝夕一如」で、柔軟に対応したのではないでしょうか。

 ヨハネ福音書が証しするとおり、史実としての最後の晩餐は、過越の小羊が屠られるその前の夕から夜にかけて行なわれました。したがって、そこには、神殿で屠られた犠牲の羊の肉はありませんでした。その代わりに、イエスの肉と血が、弟子たちに響(きょう)されたのです。イエスは、この晩餐に、過越の食事と同じ祭儀的な意義を与えましたから、共観福音書は、晩餐へのイエス様による祭儀的な意図を証ししているのです。

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