古代イスラエルの「神殿」とその「垂れ幕」
■会見の天幕
ヘブライの民による「主の家」では、先ず、犠牲を献げる祭壇とこれが置かれている「会見の天幕」"the tent of meeting" について見ることにします。ただし、この「天幕」は、後のダビデの頃には、「幕屋」"the tabernacle" と呼ばれます〔『旧約新約聖書大事典』教文館1110〜1111頁の図による〕。
「会見の天幕」の作り方は、出エジプト記36章8〜20節に記述されています。これによると、天幕は東西に長い長方形で、天幕の大きさは、長さ約14メートル、幅約5メートル半です。天幕が置かれている境内も長方形です。
境内全体は外幕で仕切られていて(出エジプト記38章9〜20節)、長さ45メートル、幅約18メートルの長方形です。この境内は、全体が真ん中で東西に区切られていますから、ちょうど二つの正方形をつないだ形になります。
会見の天幕は、この境内の西側の区切りに接してあります。会見の天幕の入り口が、区切り線のちょうど真ん中で接しています。会見の天幕は、美しい模様織りの10枚の幕でできていて(出エジプト記36章8〜13節)、それらは、ほぼ45センチ角の柱で支えられています(同30〜34節)(新共同訳には「壁板」とありますが、実際は角柱で、内部から幕の模様が見えるようになっています)。この天幕は、さらにその上から11枚の幕で覆われていて、さらにその上には、雨や砂塵よけのために、じゅごんの皮が屋根状に張られています(出エジプト記36章14〜19節)。
境内の東の入り口から入ると、東側半分の広い境内の真ん中に、四隅に大きな角(つの)がある青銅で覆われた祭壇があり(出エジプト記27章1〜8節)、ここが贖罪のために犠牲を献げる場所です(同38章1〜8節)。この祭壇は、上部が凹んでいて犠牲の肢体を容れることができるようになっています〔岩波訳『出エジプト記・レビ記』244頁図版〕。祭壇と天幕の入り口との間には、犠牲を洗う洗盤が置かれています。
会見の天幕は、全体がほぼ三分に二ほどの聖所と、三分の一ほどの至聖所とに、美しい垂れ幕で区切られています。東側の聖所には、左右にパンを置く机と七枝の燭台があり(出エジプト記37章10〜24節)、その奥には、至聖所の垂れ幕(同36章35〜36節)のちょうど前に、純金で覆われた香を焚く祭壇(これにも四つの角がある)があります(同37章25〜29節)〔岩波訳前掲書図版参照〕。
なお、この「会見の天幕」は、後にイスラエルがカナンに定着した時代の「幕屋」(ハ・ミシュカン)"the tabernacle"(出エジプト記25章9節)と区別する必要があります。「幕屋」"the tabernacle" が出てくるのは英訳聖書では出エジプト記38章21節の「契約の証の住居」辺りからですが〔NRSV〕、出エジプト記のこの部分は後代の加筆でしょう〔Childs. Exodus. OTL. 637.〕。契約の箱の上の二つのケルビム像は、ソロモンの神殿の時に作られたものですが(列王記上6章23〜28節)、それ以前に、すでに小型のケルビム像が櫃と贖いの座の上にあったのでしょうか。
■ソロモンの神殿
ソロモンの神殿も、天幕同様に、その本堂は、入り口近くのポーチと、聖所(外陣)と、至聖所(内陣)とから成り立っていました(列王記上6章/同7章13〜51節)。したがって、燔祭の祭壇は、本堂の入り口近くの境内にありました(列王記上8章64節)。この神殿では、聖所と至聖所は、垂れ幕ではなく純金で覆われたオリーブ材の開き扉で仕切られています(列王記上6章31〜32節)。
ただし、天幕にはでてこなかった「青銅の海」(直径4.5メートル/円周13.5メートル/高さ2.2メートル)と、10個の円形の「洗盤」とこれの「洗盤用台座」(1メートル80センチの正方形で高さ1メートル35センチ)がでてきます〔新共同訳『旧約聖書注解』(T)601頁図版〕。これら10組の洗盤と台座は「神殿の右側と左側に5個ずつ」あり、「海」は「神殿の南東の隅」に置かれていたとあります(列王記上7章38〜39節)。洗盤とその台が犠牲の肢体を洗うためであれば、その位置は、天幕の場合にならって、神殿本堂の外にある祭壇と神殿の入り口との間にあったはずです。ソロモンの神殿の記事には、不思議なことに、燔祭の祭壇についてほとんど書かれていません。捕囚期の編集者たちによって理念化されているからでしょうか。
■第二神殿の再建
捕囚期以後の第二神殿時代(前515年〜紀元後70年)での第二神殿の再建は、ペルシア帝国のキュロス2世の勅令(前539/8年))によって、イスラエルの民のエルサレム帰還と、同時にエルサレム神殿(主の宮)の再建が認められたことに端を発します。これによってゼルバベルと時の大祭司イエシュアの指導によって、民の帰還が始まりました。その際に、かつてネブカドネツァルの軍隊がエルサレム神殿から奪った神殿の聖具も共に持ち帰ったと記されています(エズラ記1章2〜11節)。
王命を受けたのはシェシュバツァル(歴代誌上3章18節のシェンアツァル=エズラ記3章2のシェアルティエルと同一人物)です。ゼルバベルは彼の息子とされていますが(エズラ記3章2節)、実際はシェシュバツァルの兄弟ペダヤの実子だったのかもしれません(歴代誌上3章19節参照)。帰還と同時に、朝夕の「焼き尽くす献げ物」が、以前の祭壇の場所で捧げられたとあります(エズラ記3章2〜3節)。しかし神殿の再建はキュロス2世の息子カンビュセス2世の時期に、周囲の異民族の妨害などのために中断され、ダレイオス1世の時代に再開されます(エズラ記4章6〜24節に「アルタクセルセス王」とあるのはカンビュセス王の時代と混同したためか)。ダレイオス1世の治世に、ゼルバベルと大祭司イエシュアの指導の下に、神殿の再建が行なわれました(前520〜516/5年)(エズラ記6章13〜18節)〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』11巻4章1〜7節〕。
神殿に続いてその境内を囲む回廊も造られました〔ヨセフス前掲書11巻4章7節108〕。ただし、ヨセフスは、祭司やレビ人たちや長老たちは、かつてのソロモンの壮麗な神殿を思い起こして、できあがった神殿が往事のものに見劣りすること、自分たちの現在の貧しさを思って、「すっかり気落ちして、悲嘆の涙にくれた」〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』11巻4章2節〕と伝えています。
神殿の詳細は分かっていませんが、ヨセフスの記事から判断すると、列王記上に記されているソロモンの神殿よりも規模が小さく、したがって、祭壇は本殿の入り口近くの外にあり、本殿は、ソロモンの神殿と同じように聖所と至聖所に分かれていたでしょう。ただし、至聖所には、契約の箱もケルビムが置かれた「贖いの座」もありませんでした。それでも、大祭司は年に一度、香炉を携えて至聖所で、香炉の煙の中で主の御臨在に与ることで、祭壇と民全体の贖罪による浄めに与ったのです。
■ヘロデの神殿
ヘロデ大王は、かつての第二神殿が、ペルシア帝国の意向に沿ったためにソロモンの神殿よりも低く慎ましい姿であることを取り上げ、大王の生涯の大事業として、これを壮大な神殿に造りかえる計画を立てました(前20/19年)〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』15巻11章1節〕。この神殿は大王の時代にはまだ完成せず、紀元64年頃にようやく最終的に完成しました〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』20巻9章219〕。これは神殿がローマ軍によって完全に破壊される6年ほど前のことになります。
ヘロデの神殿については復元図なども多く出ていますので、比較的よく知られています。神殿の境内を囲む城壁は、北側315メートル、南側273メートル、西側485メートル、東側468メートルです。城壁の東には、キドロンの谷を挟んでオリーブ山があります。したがって、東側の城壁は、そびえるように高く見えたでしょう。南側は旧ダビデの町で、シロアムの池に通じています。城壁の南側には、かなり長い階段があり、そこを上がって城壁の西に向かうと、西南の角にL字型の階段と通路(ロビンソンのアーチ)があって、境内に入ることができます。下の町の人たちは(おそらくイエスたちも)、ここを通って境内に入ったのでしょう。
城壁の西にも谷があり、その谷を渡るように、神殿本堂の西南からエルサレムの「上の町」へ通じる通路があります(ウイルソンのアーチ)。ここは上の町の貴族や上層部の人たちが多く出入りしたでしょう。
城壁の北側の西北部にはローマ軍が駐屯するアントニアの砦が隣接しています。ここでイエスが鞭打ちの刑を受けたという言い伝えがあり、現在の「嘆きの道」はここが出発点になりますが、確かなことは分かりません〔Leen and Kathaleen Ritmeyer. Jerusalem in the Year of 30 A.D. Jerusalem: Carta (2004) 7/9/15.〕。
ロビンソンのアーチを通って境内に入ると、そこは「異邦人の庭」です。両替の商人たちはここにいました。犠牲の動物もここで売られていたかどうかよく分かっていません。境内の東側はソロモンの回廊になっていて、そこを通って神殿の北側に出ると、そこには犠牲の動物たちとこれを連れた人たちが大勢いたことでしょう。
■ヘロデの神殿の構成概観
神殿の広大な境内は、回廊を具えた堅固な城壁によってほぼ正方形に囲まれています。境内の中央の西寄りには、城壁で囲まれ長方形の部分と、これに隣接して、その東側に、城壁に囲まれたほぼ正方形の区画とがあり、神殿は、これら二つの区画が合わさって、広い境内の真ん中に東西に広がり、境内全体を南北に分断しています。
神殿の外側の境内は、異邦人が入るための庭で、神殿の東側の正方形の区画は、イスラエルの女性が入るための庭です。西側の長方形の区画には、神殿の本堂と言うべき、ひときわ高い建物があります。そこへは、イスラエルの男性と祭司たちだけが入ることを許されます。女性の庭と、イスラエルの男性と祭司たちが入る庭との間に、半円形の階段があり、その上にニカノル門があります。ニカノル門をくぐると、イスラエルの男性用の回廊が、南北に伸びています。この回廊と本堂との間に、犠牲を献げる祭壇があります。その上では、祭司たちが犠牲を焼いています(2カ所で)。そこは祭司だけの場です。天井がないので煙は上までのぼります。祭壇の北側(向かって右側)に杭が並んでいて動物たちがつながれています。それらは神殿の北門から連れ込まれたものです〔Leen and Kathaleen Ritmeyer. The Ritual of the Temple in the Time of Christ. Jerusalem: Carta (2004)3/17/18.〕。
祭壇のある庭の奥に、数段の階段があり、そこを登ると、「ヘカル」と称される本堂があります。本堂の東側には、六本ほどの柱がそびえるように立っていて(?)、これが、聖所への入り口の前にあって、そびえる高いポーチを形成しているように見えます。聖所への入り口には、左右に二本ずつ、四本の立派な柱があり、その入り口に掛かるのが「外幕」です。外幕をくぐると聖所に出ます。その奥に「内幕」があり、その奥が至聖所です。だから、聖所の入り口にあるのが「外幕」で、聖所と至聖所とを分かつのが「内幕」です。(Leen & Kathaleen Ritmeyer. The Ritual of the Temple in the Time of Christ. Israel: Carta. 2004. 13頁のThe Temple Plan図、および英文ウィキペディアを参照)。
聖所の中には、かつての天幕と同じにパンを置く机と七枝の燭台と香の祭壇があります。その西側の垂れ幕の奥が至聖所です。至聖所には長方形の窪みがあって、そこは、かつて契約の箱と贖いの座が置かれていた場所です。これで分かるように、ヘロデの神殿は、ソロモンの神殿と異なっていて、異邦人の庭があり、そこから壁に囲まれて「女性の庭」と、さらに「男性の庭」とがあり、同じ場所に、燔祭の祭壇があります。ちなみに、ギリシア語では、「神殿」を表す原語が「ヒエロン」と「ナオス」の2語あり、「ヒエロン」(神聖な場所/神殿)は、神殿全体を指し、建物と庭をも含む広い意味で用いられ(70人訳ダニエル書1章/ヨセフスやフィロンなどの用語の「神殿」)、一方、「ナオス」(神殿/聖所)は、聖所を含む本堂を指します(ルカ1章9節/ヨハネ黙示禄11章1節)。
■二つの垂れ幕
ヘロデの神殿の本堂を入ると聖所があり、そこには、入り口に「外側の垂れ幕」,"the outer curtain"がかかり、聖所の奥で、至聖所と堺を区切る「内側の垂れ幕」"the inner curtain"or"the
Veil"と称される、二つの「垂れ幕」があります。ヨセフスが記すところでは、外側の幕は、聖所に入る黄金の扉の前(上)に垂れ下がるもので、この幕には、全宇宙を象徴するパノラマが(ただし十二星座はなく)織り込まれて描かれていたとあります。
古代イスラエルの神殿の聖所と至聖所とを仕切る「垂れ幕」は、出エジプト26章1節〜35節に語られています。この幕は、神と人間性とが「分かれている」ことを象徴するものですから、大祭司だけが、年に一度の贖罪の日(ヨーム・キップール)に、至聖所に入ることが許されます。マタイによる福音書27章51節では、イエス・キリストが十字架上で息絶えたその時に、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が割けた」とあります。縦の長さ約18メートル30センチ、幅が9メートル15センチだとあります。ある計算によれば、72枚もの四角の幕を縫い合わせたと言われます。
内側のほうは、神の御臨在と人間存在とを区別するという「宗教的な意義」を具えていましたから、聖所と至聖所とを分ける「内側の垂れ幕」のほうが、イエス様の十字架の死の功徳によって「真っ二つに裂ける」のにふさわしいという理由で、通常は、「内側の垂れ幕」のほうが裂けたと見なされています(A.Y. Collins. Mark. Hermeneia. 760.)。
■贖罪の献げ物
ここでは、「贖罪の献げ物」に限ることにします。「贖罪の献げ物」に関する一般的なヘブライ語は「ゼヴァ(単数)/ゼバーハ(複数)」で、この名詞は動詞「ザーバァハ」(屠る/犠牲に献げる)から来ています。これのギリシア語名詞は「スーシア」です。「贖罪の献げ物」の場合は、火で焼き尽くす「燔祭」と祭壇に血を注ぐ「罪祭/贖罪の献げ物」とが組み合わされます。また、「贖罪の献げ物」は、その性質上「賠償の献げ物」とも関連します。「贖罪の献げ物」に関する規定はレビ記4章1節〜5章13節にでています。「賠償の献げ物」はレビ記5章14〜26節にでています。「燔祭」の大まかな規定はレビ記6章1〜6節にでています。
「贖罪の献げ物」は、自由な献げ物ではなく、義務づけられた献げ物です。人が意図的に神の律法を破った場合には、これに対する赦しはありません。その者は必ず罰を受けなければなりません。しかし、故意ではなく、「気がつかずに」主が禁じられたことに違反した場合には、贖罪の犠牲によって赦されます。また、誤って神の聖なる所有物を汚したり、主から禁じられたことを破ったり、隣人を騙(だま)したり、物品を奪ったり、偽りの誓いをした場合などには「賠償の献げ物」をすることで赦されます。
「賠償の献げ物」は、その性質上、贖罪の献げ物に近いところがありますから、その方法にも共通点があります。贖罪のための犠牲は、一般的に、平日の朝夕二回ですが、安息日や月の新月には犠牲の動物の数が追加されます(民数記28章3〜8節/同9〜15節)。また祝祭日には犠牲獣の数が大幅に追加されます(民数記28章16節〜29章1〜39節)。犠牲は主として雄羊と雄山羊ですが、新月の日や祝祭日には雄牛が加わります。また、犠牲の動物は、犠牲の目的によって、特定の動物が要求される場合と(レビ記4章)、贖罪(浄め)のための犠牲のように、身分や財力に応じて違った動物が認められる場合があります(レビ記5章)。
レビ記4章によれば、「贖罪の献げ物」に関する規定は、大祭司自身のため、並びにイスラエルの民全体に関わる贖罪と、イスラエルの特定の部族あるいは民の指導者の贖罪と、それ以外の一般のイスラエルの民の場合に分かれていて、それぞれに応じて、犠牲の動物にも違いがあり、献げる場所も異なっています。
〔一般の民の贖罪〕一般の民の贖罪の犠牲は(レビ記4章27〜35節)、これを献げる人と、祭儀を行なう祭司によって行なわれます(レビ記1章3〜13節)。献げる動物は雌山羊ですが、貧しい者は鳩(同5章7節)か、さらに貧しければ小麦粉(同5章11節)を代用することができます。奉納者は次のように行ないます。
(1)犠牲の動物を天幕へ連れて来る。
(2)その動物の上に自分の手を押さえるように置く。
(3)動物の喉(頸動脈)をかき切って屠(ほふ)る。
(4)その血を容器で受ける。
(5)頭部を切り落とす。
(6)犠牲の皮を剥ぎ、内臓を抜く。
(7)肢体を切り分けて洗う。
こうして奉納者は、犠牲の肢体を内臓と共に厳かに祭司が待つ所(天幕の前にある境内の燔祭の祭壇)まで運び、そこで祭司に渡します。ただし動物の屠りとその肢体の処理などは、後にはレビ人など、専門の役職の人があたるようになりました。犠牲を受け取った祭司は、
(1)犠牲の血を受け取って、祭壇の四つ角と壇の側面に塗り、残りをその基に流す(レビ記1章5節/11節/同4章30節)。これで、祭壇全体が血で染まります。
(2)動物の肢体と内蔵を整えられた薪の上に並べる。
(3)肢体と内蔵を焼いて煙にする(レビ記1章9節/同13節/シラ書50章12〜19節参照)。
これで見ると分かるように、贖罪の場合は、犠牲の「血を祭壇に塗り注ぐ」行為と、その犠牲を「焼き尽くす」行為の二つが行なわれます。
〔部族あるいは指導者の贖罪〕この場合も一般民の場合とほぼ同じです。ただし、動物には雄山羊が用いられます(4章22〜26節)。
【民全体と大祭司・祭司の贖罪】
この場合(レビ記4章3〜21節)、贖罪を行なうのは、「油注がれた祭司」とあり、レビ記8章12節には「アロンの頭に油を注ぎ」とあるので、「アロン」に相当する祭司、すなわち最高位の祭司あるいは後の大祭司のことです。大祭司自身が罪を犯した結果イスラエルの民全体にわざわいが及ぶ場合もこれに相当します。
大祭司は次のように行ないます。
(1)傷のない雄牛1頭を会見の天幕の前に連れて来る。
(2)自分の片手をその牛の頭に押しつける。共同体の場合は、その長老たち全員が牛の頭に手を置く。
(3)牛を屠る。これは民の贖罪と同じ(3)〜(7)の手順で行なう(屠る作業は、大祭司あるいは長老たち自身の手で行なったのでしょうか)。
(4)大祭司は、天幕の入り口で犠牲の血の一部を受け取って、天幕に入る。
(5)聖所と至聖所を隔てる垂れ幕の前で、指先で血を空中に七度振りまく(レビ記4章6節)。これは聖所を汚れから浄めるためでしょう〔North. Leviticus. OTL.39〕。
(6)聖所の香炉の祭壇の角に血を塗る(レビ記4章7節)。
(7)天幕の外にある祭壇へ出ていって、そこで祭壇の基に血を流す。
(8)境内の燔祭用の祭壇の上で犠牲の肢体と内蔵を焼き尽くす(同7〜10節)。
■大贖罪日の献げ物
年に一度の「大贖罪日」、ヘブライ語で「ヨーム(日)・キップール(贖罪)」の場合は、至聖所で大祭司によって贖罪の犠牲がささげられます(レビ記16章3〜31節)。これにも長い歴史と変遷がありますが、「贖罪の日」は第七の月「ティシュリ」(9月末〜10月始め)の十日にあたります。
〔T〕大祭司自身と祭司全員のための贖罪の献げ物として雄牛1頭を、燔祭として雄羊1匹を用意する。
〔U〕イスラエル共同体の贖罪の献げ物として雄山羊2匹を、燔祭として雄羊1匹を用意する。
年に一度の大贖罪日では、大祭司は天幕の垂れ幕の奥の至聖所に入ります(同2節)。これは大祭司だけに許されることです。大祭司は、
(1)至聖所での贖罪の献げ物への雄牛1頭と、燔祭のための雄羊1匹を用意する(3節)。ただし、実際に屠る作業と犠牲の肢体の用意などは補助の祭司たちが行なうのでしょう。
(2)次にイスラエル全体の贖罪のために、2匹の雄山羊を至聖所の入り口へ引いてきて、籤で1匹を贖罪の献げ物に、もう1匹を荒れ野のアザゼルのためのものにする。