ヘロデの宮殿 
           ピラトによるイエス裁判の場所 
  四福音書で、イエスがピラトの裁判を受けた場所として、ピラトの「総督官邸」が出てきます。「総督官邸」の原語は「プラエトーリオン」(司令部)です。平時のピラトの住居は、カイサリアにあって、海に面したヘロデの別邸にありました(使徒23章24節/33節参照)。しかし、有事の際や過越祭などの時には、ピラトもエルサレムに来ていました。神殿の北に接しているアントニアの砦にはローマ兵が駐屯していて、祭りの間は、神殿を囲む城壁の上から民衆を監視していました。しかし、ピラトはこの砦ではなく、エルサレム市内の「上の町」の西部にあって、街の西側の城壁に沿った長方形の広い敷地にある「ヘロデの宮殿」に居たと考えられます。マルコ15章16節では、ヨハネ福音書とは異なる原語「アウレー」(広い中庭のある邸宅/屋敷)が用いられているのもこのことを裏付けています。ただし、教会の古くからの伝承によれば、イエスの頃のピラトの官邸は、神殿に近いハスモン家の宮殿にあったという証言もあります。
 真夜中でのイエスの逮捕に続いて、「大祭司」と称されるアンナスの尋問が午前3時頃に終わったとすれば、続く最高法院(大祭司カイアファが担当)は「明け方」6時頃には終わったでしょう。ローマの長官/代官や総督たちは、早朝6時頃から仕事を始めて、午前中に仕事を終えるのが通例でした。ユダヤ人たちは、この習慣を知っていたので朝早くピラトを訪れたのです。イエスの件は、前もってピラトに報告されていたのでしょう。
  ヨハネ福音書では、マルコ15章25節と異なり、イエスの裁判が思いの外手間取って、ピラトが最終的な判決を下すのは正午頃になります(ヨハネ19章14節)。 イエスへのピラトによる尋問と裁判が、かつてのヘロデ大王の宮殿で行なわれたかどうか、これには異説があります。もしもヘロデの宮殿だったとすれば、宮殿はエルサレムの「上の町」の西の部分を占めていて、エルサレムの西側の城壁に沿っていました。宮殿それ自体も城壁に囲まれていて、この城壁の東の門を出るとそこは広場(市場)になっていました。ただし宮殿への門は邸宅を囲む城壁の南側にも、また北側にも(?)あったと思われます。 東側にある城門が言わば王宮の正面になり、そこを入ると、立派な柱廊に囲まれた王宮の広い中庭に出ます。王宮の各部屋は、天井が高く、金や大理石を用いた贅沢な造りで、「カエサルの間」とか「アグリッパスの間」などの名称がつけられていたとあります〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』15巻9章318節〕。
  ピラトによるイエスへの裁判がこのヘロデの宮殿だったとすれば、ピラトは官邸の外へ出たのですから、屋敷の東門を出た回廊か、あるいは南門の外の回廊へ出たことになります。立派な柱に支えられた回廊それ自体も、階段で上がる高い場所にありましたから、ピラトは、イエスとその告発者たちを回廊まで上がらせて、そこで尋問を行なったことになります。群衆のほうは、回廊の下にいて、様子を見上げていたのでしょう〔Connolly, Living in the Time of Jesus of Nazareth. 49.〕。
 ヨハネ福音書では、ピラトは、イエスを城門からさらに中庭に入れて群衆から隔離し、そこで個人的に尋問したことがはっきりします(共観福音書も同様。マルコ15章16節参照)。重要なのは、マタイ27章19節前半とヨハネ19章13節に、共通して、ピラトがイエスへの尋問の<途中から>「裁判の席」に着いたとあることです〔ルツ『ヨハネ福音書』(4)〕。そこには「敷石」(ヘブライ語「ガバタ」ヨハネ19章13節)と呼ばれる高座が設けられていました。だから裁判は、下にいる群衆からも見えるように、その「敷石」で行なわれたのでしょう。宮殿の南側にある門の外側に、門に向かって左側に、壁を背に石組みの高座が発掘されていて、そこが裁判の席であったと観られています〔Tabor, The Jesus Dynasty. Map2 "Jerusalem in the Time of Jesus." 214~215頁の写真と挿絵を参照〕。ただし、ピラトの実際の裁判席は、むしろ王宮の正面にあたる東側の回廊に設けられていて、民衆が集まる広場(市場)に面していたとは考えられないでしょうか?

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