言の働きと理性
■私の救いの体験と聖霊
〔救いの体験〕私がイエス様への信仰に導かれたのは、1952年(昭和27年)の3月、大学の食堂からの帰りに、吉田山の神楽坂の近くで、フィンランド宣教師アンナ・マキネン先生から一枚のトラクトを受け取って、その近くで開かれていた天幕集会に出たことがきっかけでした。その集会でもらったものか、それ以前にどこかで手に入れたのか忘れましたが、小さな豆英単語帳ほどの新約聖書のポケット版を集会から帰って下宿で開いたとたん、「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき」とヨハネ伝1章1節が目に飛び込んできて、電撃的な衝撃を受けました。今思えば、この時の御言葉の衝撃が私の生涯を決めてしまったようなもので、それ以後82歳の現在までヨハネ福音書を読み続けています。
 自分がどうしてキリスト教に惹かれたのか? その理由を自分なりに考えてみますと、一つには、幼くして(三歳)母と死に別れたことがあると思います。子供心に人生の不幸について感じさせられていたのでしょう。しかし、直接の動機は、なんと言っても中学(旧制)1年の時の敗戦の記憶です。夏休み前まで信じていた国史(日本史)の教科書を、休みが明けたその秋だったと思いますが、それらは間違いでしたと、教科書のいたるところを墨で塗りつぶさせられたのを覚えています。北海道の片田舎で、アメリカ映画と敗戦の悲惨な映画を見比べ、ラジオの英会話を聞きながら、受験勉強をして京都の大学へ入ってからも、この時期の価値観の崩壊が残した心の傷は癒えることがありませんでした。
 私にとって、それまでの武士道的軍国主義の教育から、キリストの福音への転換は、切腹の死を尊ぶ武士道から復活のキリストへの大転換ですから、とても大変でした。私が通っていたフィンランドの宣教師さんたちの教会は、アメリカの聖霊運動が北欧に広まった結果できたミッションでしたから、ファンダメンタリズムに近い聖書信仰と異言や癒やしの霊能を信じる教会でした。ただし、フィンランドを含む北欧の宣教師さんたちは、あまり激しさを感じさせない抑制のきいた聖霊信仰で、信者一人一人を大事にする民主的な雰囲気でした。今思えば、これはとても有り難いことでした。
 教会へ通いながら、私はバルトの『ロマ書』やキエルケゴールの著作などを読みました。戦時中、英米のキリスト教関係の本は禁じられていましたが、同盟国ドイツの神学書はある程度認められていましたから、戦後の日本で、バルトやブルトマンなどの神学が盛んに採り入れられたのは、この遺産があったからでしょう。だから私は、敗戦国ドイツの神学書を読みながら、戦勝国アメリカの聖霊運動に加わっていたのです。
 ヨハネ伝を読んでイエス・キリストを信じる決心をしたので、教会の先生に促されてその年の6月に水のバプテスマ(浸礼で)を受けました。大学の2回生の時です。しかし、信仰には導かれましたが、「救いの喜び」までは行きませんでした。いろいろな疑問や自己の罪への悩みのほうが大きかったからです。この時に私に決定的な影響を与えてくれたのが、ルターの『大ガラテヤ書注解』です。これはルターがラテン語で書いたものの英訳でした(1575年版の復刻)。バニヤンが愛読したというこの本を通して、私はイエス・キリストによる十字架の罪の赦しと、信仰によって与えられる贖いの義認を知ったのです。これは神の恩寵を教えてくれる福音の基本です。
 こういう次第ですから、私には、ある日突然に「生まれ変わった」というリヴァイヴァル体験はありません。先祖からの過去のキリスト教信仰が「復興する」などというアメリカの「新生体験」は、そもそも私には無縁だったのです。私の「信仰による救い」は、ヨハネ伝と、ルターが説くガラテヤ書の十字架の贖いの言葉から来たものです。しかもそういう体験は、自分から求めたように見えても、実はそうでなく、徹頭徹尾神から与えられた恩寵であることを私はバルトから学んだのです。
〔聖霊について〕だから私に言わせるなら、「聖霊」とは、入信と救いに導いてくれた聖書の御言葉と、これを説いてくれた教会の先生たちや著作かる来るものです。「聖霊を受けたいのですがどうすればいいでしょうか?」クリスチャンからこういう質問をされることがよくあるのですが、その度に私は不思議に思うのです。なぜなら、その人はイエス様を信じて教会に通い、何年も前に洗礼を受けたクリスチャンだからです。いったいこの人は、今まで自分がイエス様を信じて教会生活をしてきたことが、全部<自分の力で>やってきたことだと思っているのだろうか? そもそも「聖霊」とは、<自分の霊>のことではなく、ナザレのイエス様に宿った三位一体御霊であることを知らないのだろうか? この人は「聖霊の導きを受けたことが<ない>クリスチャン」がいると思っているのだろうか? こう思うのです。私に言わせると、<このこと>がしっかりと分からない人は、せっかく聖霊体験を受けても、ほんとうにイエス様の御霊を信じる正しい霊的な成長を遂げることができないのではないか? そういう危惧を覚えるのです。
■聖霊のバプテスマ(異言と預言)
〔私の異言体験〕私は、洗礼を受けた翌年(1953年)の正月に、フィンランドのヘイモネン先生に連れられて、教会のもう一人の姉妹とともに、当時生駒山にあった聖書学院で開かれたデイヴィッド・クート先生の新年聖会に出席しました。午前の集会が終わり、一人の学院の兄弟とともに山に行って祈りました。しばらくすると何か分からない大きな力に圧倒されそうになり胸が苦しくなりました。しかしその場で異言は出ませんでした。午後の集会の終わりに、祈りが行なわれると、再び先ほどの苦しい思いに襲われました。それでもじっと耐えて祈っていると、口から声とも言葉ともつかない叫びのようなものが出てきて、それがしばらく続きました。先ほどの兄弟が側に付き添っていてくれましたが、そんなことも気づきませんでした。一時間かそれ以上経って、気がつくと、「君は20分くらい前から、きれいな異言で祈ったよ」と言われたのを覚えています。
 私が今でも有り難いと思うのは、私が異言を与えられる際に、その兄弟が、彼独自の判断で助けて<くれなかった>ことです。だから私は、自分がその異言体験をほかならないイエス様から直(じか)に与えられたのだ、ということをはっきり自覚することができたのです。もしもその際に、兄弟が私に、自分の真似をしなさいとか、ああしなさい、こうしなさいとおせっかいをしたとすれば、私はおそらく後になって、いったいあの体験は、私が一人で受けたのだろうか? それともあの時、ただ言われるままにしたからだろうか? あれは、いったい異言なのか、それとも自分のほうで異言の真似をしただけなのか、区別がつかなかったと思います。黙って共に祈ってくれたその兄弟に、私は今でも感謝しています。
〔異言を続ける〕だから私は、自分が信じたイエス様からイエス様の御名によって直接異言が与えられた。こう信じることができたのです。これがとても大事なことだということが、後になって分かるようになりました。なぜなら、私は、異言体験のそもそもの初めから、<異言を求めた>と言うよりも(異言がどんなものか知らなかったのですから)、イエス様を信じ、そのイエス様を求めたところが、異言が与えられたからです。後で知ったことですが、せっかく異言体験を与えられながら、これを途中で止めてしまったり、人に言われて止めさせられたりする人たちが、けっこういるのです。中には、異言を語る自分の姿が「かっこう悪い」という理由で、自分からこれを続けるのを止めた人さえいます。もったいないと言うべきか、残念と言うべきか、実に愚かだと思います。
 今さら言うのも愚かですが、異言は、イエス様の御名によって父なる神から授与される霊の賜の一つです(第一コリント12章10節/使徒言行録19章1〜6節)。ですから異言は聖霊の賜です。ヨハネ福音書は聖霊のことを「パラクレートス」(助け主)と呼んでいます(ヨハネ15章26節)。だから、異言を与えられた人は、イエス様からこれを受けたのですから、他人の言うことよりもイエス様を信じて、語り続けることを<絶対に止めない>ようお勧めします。
〔異言の意義〕なぜわたしがこのように言うのか、そのわけをこれからお話しします。もしイエス様の聖霊が異言を与えてくださるという私の判断に誤りがなければ、異言を語ることは次の四つを意味します。
(1)異言は復活した御霊のイエス様から来るだけでなく、異言体験は、そのイエス様の御霊が「あなたに」語ってくださることがはっきりとあなたに分かるからです。これはものすごく大事なことです。イエス様は、「あなたには」黙っていないで語っておられるのです。
(2)異言体験は、「今の時その場の」あなたに向かってイエス様が語ってくださることを証しするからです。辛いとき、苦しいとき、罪に打ちひしがれたとき、絶望したとき、だれにも言えない悲しみのとき、こういうときにそういうあなたに、イエス様の御霊が、<その時の>あなたに語りかけていてくださることが分かるのです。これがとても大事なのです。
(3)異言体験は、御霊があなたの<体に語りかけている>ことが分かるからです。救いは人間の想いをはるかに超えた神に属することである。救いはこの地上のものではなく、天上のものである。救いは身体的なものではなく、魂だけのものである。救いはこの世を去ってあの世で与えられるものである。こういうことを言ったり教えたりする人がいます。けれども、異言を体験をする人には、この地上にいる今のあるがままのあなたに、イエス様の御霊が、<全存在的に>働いてくださって、イエス様が「今あなたと共に居てくださるんだよ」とはっきり分かるのです。からだで分かるのです。
(4)もう一つ加えるなら、そのような聖霊のお働きは、あなたが偉いからではなく、あなたが立派だからではない。あなたが熱心だからでもない。自分はどうにもならないだめな者だと、力尽きて分かったときに、ただ<絶対の恵み>として降るものです。異言の賜は、すべての悩み苦しむ者に降る絶対無条件の恩寵なのだと悟るのです。
 このことが分かれば、自分はだめな者だから異言を語ることができないとか、自分の異言などあまり意味がないとか、もっと悪い場合には、自分には異言が与えられたから自分は偉くなったのだ、語らない人たちよりも上の霊能者だ、こういうとんでもない誤りを犯すことがなくなります。
〔異言から預言へ〕異言を語るうちに、それが日本語に変わるときがあります。そういう場合、あなたは、いったい今語っているのはイエス様の御霊なのか、自分なのかが分からなくなります。私は今、特別の預言の賜が授与されている人のことではなく、私のような普通のクリスチャンに起こる異言と預言のことを指しています。
 手短かに言いますと、この場合、十中八九は「自分の想い」が混じり込んでいると考えていいと思います。だから、預言が与えられたなら、以下のことに注意してください。
(1)預言は<その人に>与えられるものですから、他人のことに一般化しないで、始めのうちは、自己の身辺の「ちょっとしたこと」に限定して判断してください。預言が未来に関することなら、その預言が自己の身辺のことであれば、結果が正しかったかどうか、自分で的確に判断できます。たとえその預言が誤っていたとしても、だれの迷惑にもなりません。
(2)他人に対する預言、それも非難や批判を含む預言は避けてください。
(3)自分が望んでいないこと、一見自分に都合の悪いと思われる預言は、おおむね主の御霊の導きだと判断することができます。
 預言は、幾度も与えられるうちに、自己の選択や未来への指針として大きな助けになります。この場合、それは「預言の賜」になります。パウロは、異言を語るよりも預言を語ることを求めなさいと勧めています(第一コリント14章1〜5節/同27〜32節)。ここで預言の一般的な信憑性に触れるのは控えます。それよりも、なぜパウロは、異言よりも預言のほうを勧めているのでしょうか? その理由を彼は、預言のほうが「エクレシア(教会)の徳を高める」からだと説明しています。預言は聞いている人たちに分かりますから、聞く人たちの霊的な成長を助けるからです。
〔霊能より霊性を〕パウロが「エクレシアの人たちに分かる」ことが預言の大事な働きだと言うのは、あなた自身も思いがけない預言が賜として与えられる場合を指しますが、それだけでなく、彼は、御霊に示され、御霊に導かれた<あなた自身の想い>が、教会の人たちを助けるようになりなさいとも言っているのです。パウロは、「霊の賜」が、なんであれそれらが、何の目的で授与されているのかを悟って、「霊の人」に成長するよう勧めています(第一コリント2章12〜16節/12章3〜7節/13章1〜3節)。共観福音書でイエス様は、霊能を求めよとは命じておられません。むしろ「善い実を結びなさい」(マタイ7章15〜20節)「大自然の慈愛に学びなさい」(同13章43〜45節)と教えておられます。ヨハネ福音書では、「あなたがたは互い愛し合いなさい」(ヨハネ13章34〜35節)というのが、この福音書のほとんど唯一の戒めです。ほんとうに大事なのは、人の「霊能」のほうではなく、人の「霊性」のほうだからです。イエス様を偉大な霊能者としてしか見ていなかった人たちは、結局イエス様から離れていきました(ヨハネ2章23〜25節)。特殊な霊能の人たちがいるのは、私たちが彼らのようになるためではなく、そのしるしを見て、ほんとうに実を結ぶ「霊性の人」になるためなのです(ガラテヤ5章22節)。茶道や華道に、「型より入りて、型より出(いで)よ」という言葉がありますが、「異言より入りて、異言より出よ」です。
■聖霊の知識と知恵
〔比率の理性〕「理性の働き」などと言うと、私たちはすぐ「計算」を想い出します。私たちは何事でも自分の得になるか損になるかを素早く計算しますから、人間は確かに「カンジョウの?!」の動物です。しかし理性は、こういう損得の足し引きよりもさらに高い学問的な営みも可能にします。論理を用いて理論を組み立て、その理論を用いてさらに推論を重ねることで、高度な学問的な営みをすることができます。学問には、洞察も要求されますから、理性と知性の両方を含む「理知」の働きが大事です。
 しかし、私たちの理性は、計算や学問的な探求だけでない働きもします。医学的に危険でも、うまくいけば病気が治る手術を受けるのか、それとも受けずにそのままにするか?これは、学問的な理性だけで判断できることではありません。現在私は、2年前に受けた腎臓と膀胱癌の後で受けるCTによる放射能検診を年に二度受けています。癌の再発を発見するためにこれは欠かせませんが、CTで浴びる放射能は癌を<再発させる>危険をも含むのです。癌の再発を防止するための検診が、癌を再発させる危険を含むというこの矛盾の前で、私は「受ける危険」と「受けない危険」を秤にかけて、具体的にどうすれば善いのか決めなければなりません。これは、医学の問題を超えています。
 だからバランスをとればいいと言いますが、「バランス」とは通常足して二で割ることを意味します。CTの放射線を弱くすれば「バランス」がとれますが、それでは写真写りが悪くて再発防止に役立ちません。熱い湯と冷たい水をバランスを取って混ぜ合わせるとぬるま湯になりますが、これではお湯にも水にも使えません。絵の具の色をいろいろ混ぜると汚く濁って役立ちません。だから画家は、どの色とどの色をどのような「割合/比率」で混ぜるとどのような色が出るのかを熟知しています。どういう危険性がどの程度あるのかを知った上で、危険と危険の「割合/比率」を考慮して初めて、どうするのかを決めることができるのです。
 私たちはこのように、相互に矛盾する出来事や事態に出遭うことが多々あります。この場合、私たちの理性は、論理や理論ではなく、物事の相互に対立する様々側面を推し量って、それら危険性の割合/比率を読み取る必要があります。これが理性の大事な働きです。英語の「理性」"reason"は、ラテン語の「ラティオー」"ratio"(比率/割合/理性)から出ています。私たちの理性とは、このように普段に「比率する理性」なのです。
〔御霊と理性〕「比率する理性」は、霊的な事柄を判断する場合に、特に重要です。なぜなら、霊的な事柄は、ほとんどの場合、相互に矛盾する要素を含むからです。洗礼を受けるか受けないか、その預言を信じるか信じないか、自分に対立する人の信仰を認めるか認めないか、異言を語る集会に出るか出ないか、信仰が大事か行ないが大事か、未信者の家族に信仰を伝えるか控えるか、どう「する」かを選ぶ危険性、逆に「しない」危険性、私たちの信仰生活は、こういう相反する問題を孕む出来事の連続です。
 この場合私たちに求められるのは、様々な危険性の正確を知った上で、危険性と危険性の「割合/比率」を見極めて、どちらをどうするかを決めること、そしてこれを実行することです。物事の問題点の比率を考え、選択を決意して実行する。「理性による判断」と「決意による選択」と「これに基づく行動」、この三つが組み合わさって私たちは初めて信仰を「歩み始める」のです。
 このような一連の行為を「正しく」実践するために、私たちには注意しなければならないことがあります。一つは、事態に直面して「怖がらない」ことです。人は怖がると、見えるものも見えなくなり判断を誤るからです。もう一つは、「うぬぼれない」ことです。うぬぼれの強い傲慢な人は、危険を見落として大きな失敗をします。ところが大事な事態に直面すると、人はだれでも「恐れ」か「うぬぼれ」に陥りやすいから困ったものです。
 私たちが正しい判断を下すためには、謙虚な姿勢と平安な心、そして判断し実行するまでの一連の営みを支えてくれる「信じる力」です。これこそ、私たちの祈りを通じて、イエス様が私たち一人一人に与えてくださる御霊のお働きです。これに助けられて初めて、物事を「正しく」処理することができます。ここでは人の理性と御霊の働きは、相互に助け合い、理性は御霊に導かれて正しく判断することができるのです。中世のヨーロッパの教会から伝わる「理性を照らす御霊の光」という言葉は、この意味です。「主は我が光」(オックスフォード大学の紋章の中の言葉)です。
〔個人の霊性〕私たちは理性による選択と決意、これに基づく行動を御霊に導かれる一連の信仰による営みとして見てきました。このことは、イエス様の御霊が、私たちにもう一つ大事な働きをしてくださることを意味します。それは、私たちは、これらの行為を通じて初めて、「ほんとうの自分自身になる」ということです。理知的な判断と意志決定と行動力は、人間を「個人」として決定づける三位一体の働きです。私たちは、ここまで来て初めて、私たち一人一人の個人としての霊性、すなわち、言葉のほんとうの意味で、私たちの「個性」を見出すことができます。逆に言えば、「個人」も「個性」も、イエス様から与えられる聖霊のお働きなしには生じえないコンセプトです。若い人たちがよくやる「自分探し」への答えがここにあります。新約聖書は、個人個人のそれぞれに与えられる「生き方」とその歩みを、この世だけに終わらない「永遠の命」にいたる歩みと位置づけています(ローマ6章22〜23節/ヨハネ5章24節)。
 これからの人類の宗教は、宗団の組織力とか、宗教的な権威とこれが及ぼす影響とか、集合体の総人数とか、そういうものを基準にしてその価値が量られるのではなく、その宗団や集会が、参加する一人一人の個性をどれだけ活かし、霊的に成長させることができるかという、この点に価値基準が置かれることになりましょう(エフェソ3章16〜19節)。イエス様の御霊の福音が、他の諸宗教やもろもろの思想よりも優れているとすれば、それは、イエス様の聖霊が、家族、会社、民族、国家、その他地上に存在するあらゆる人間集団よりも、一人一人の人間の人格的な霊性こそ、何にも優る永遠性を有することを教えてくれるからです。
〔御霊のネットワーク〕このように言うと、イエス様の御霊がそのようなものなら、個人個人がばらばらにされて、キリスト教も教会も成り立たなくなるのではないか?という危惧を抱く人たちがいると思います。この疑念に対する答えは「ナザレのイエス様」にあります。新約聖書の聖霊とは、ナザレのイエス様に宿った御霊のことです。イエス様の父が、イエス様を通して、信じる一人一人にお与えになる真理の御霊こそ新約聖書が証しする「聖霊」であり(ヨハネ15章26節)、それゆえに、父と子と聖霊は三位一体です。
 現在この地上には20億とも言われるクリスチャンがいると言われています。新約聖書のイエス様の御霊から見るなら、これら一人一人が、それぞれかけがえのない個人の霊性を具えています。その霊性がイエス様の御霊から来るのであれば、そこには、イエス様を頭(かしら)とする壮大なエクレシアの存在が浮かび上がってきます(エフェソ1章7〜10節)。イエス様の御霊は、そのエクレシアの一人一人をありとあらゆる方法で、相互に結びつけておられます。世界中のクリスチャンたちが、まるでインターネットのように相互に情報を交換し合っている。現在この地上で起こっていることがこれです。個人と個人が、網の目のように交わりを構成するなら、そこには東方教会、カトリック、プロテスタントの聖霊派、リベラル、福音主義、無教会など、宗派的集団的な区別は事実上意味を失うことになります。それだけでなく、個人個人の周辺には、これまた無数のキリスト教以外の諸宗教の人たちがいますから(特にアジアではその多様性が顕著です)、人と人が、宗教的な違いや隔たりを越えて結びつくことになります。
 ちょうど人間の脳細胞が行なっているように、イエス様のエクレシアにおいても、無数の回路を通じて情報が相互に行き交っているのです。こういう御霊にあるネットワークの中から、これから何千年何万年と生き残るほんとうのキリスト教のエクレシアが生まれてくるでしょう。今ある諸宗団、諸教会を否定したり批判したりするつもりはありません。長い長い生物の進化の過程に照らしてみれば、これらのキリスト教の様々な形態がどのような形で生き残るのか、私には全く予測がつきません。ただ一つ、キリスト教が人類を導く宗教であるのならば、それはこういう価値観を抜きにしてありえないということだけは確かです。
〔無色無限色〕太陽の光は無色透明です。しかし、その光を受けて輝く地上の諸物も諸現象も、無数の色合いを帯びています。よほど人工的に造られたものでなければ、どれ一つとして完全に同じ色のものはありません。だから太陽の光は「無色無限色」です。イエス様は、すべてを神に完全に委ねきっておられたから(ヨハネ5章19節)、神はイエス様にすべてを与えたとあります(ヨハネ3章35節/コロサイ1章15〜20節)。だから、あのナザレのイエス様に宿った聖霊も、私たちの目には、おそらく無色透明ではないでしょうか。このイエス様の無色透明な光に照らされるなら、地上の何十億という主の民のひとりひとりが、だれ一人同じ色ではなく、それぞれに異なる色合いを帯びて輝くのです。イエス様の聖霊が絶対性を帯びているのであれば、その絶対性は、これに照らされる一人一人の相対性の中にしか、その部分的な色彩を見せません。永遠は時間の中にしか、絶対は相対の中にしか啓示されないからです。
 ルネサンスの人たちは、人の姿形をミクロコスモスと呼び、宇宙全体をマクロコスモスと呼んで、そこに共通する構造を読み取って、ミクロとマクロを相互に対応させました。イエス様を頭とするエクレシアの御霊にある構成も、人体と宇宙に類似する「霊的な世界」(プネウマコスモス)を構成しているのかもしれません。大事なのは、ナザレのイエス様の御名によって、信じる一人一人に与えられる御霊の御臨在です。それらの個人が造り出す小さな交わり、無数の小さな群れの相互発信から生じる大きな働き、全世界の主にある無数の個性が相互に発信し合う中で創り出されるエクレシアの霊性こそ、地球上に起こるいかなる事態にも対処できる人類の知恵を生み出す源なのです。
■聖霊と人の働き
〔比喩する知性〕私が太陽の光という「比喩を用いて」語っているのに注意してください。これは現在の私たち人間(ホモ・サピエンス)だけに許されている驚くべき才能なのです。人類に最も近いと言われるチンパンジーにも、比喩で考えたり語ったりする能力がありません。実は、100万年ともそれ以上とも言われるヒト(ホモ)の進化の過程において、20以上の様々なヒト科に属する人類が誕生して絶滅しました。中でも現在の私たちに最も近いネアンデルタール人は、私たちと同じように考えたり宗教することができました。体力では、現在の私たちよりもずっと強かったのです。それにもかかわらず、互いに深いところで理解し合い助け合うことで、様々な危機に対応する臨機応変の能力では、私たちホモ・サピエンスに劣っていました。このためほとんどのネアンデルタール人が絶滅したと考えられます。20万年ほど前に、寒冷化した地球に、ほんの一握りしかいなかった私たちホモ・サピエンスは、その弱さ、その無力さ、その無防備にもかかわらず、創意工夫と互いの洞察力による助け合いによって、かろうじて生き延び、現在の繁栄を築くことができました。このような相互理解は、深い洞察力なしには不可能です。そういう洞察を可能にし、これによって互いの理解を深め合う能力こそ私たちの知性です。私たちの知性は、ただ物事を認知したり見分けたりするだけでなく(そういう能力ならゴリラやチンパンジーのほうが優れている点があります)、言語や動作によって互いに複雑な想いを伝えることができるのです。
 中でも大切なのは、象徴や表象を用いて様々な「合図」を送ることができることです。身近な例では青や赤の交通信号(シグナル/合図)がそれです。私たちはそれが何を意味するかを知っているから、複雑な交通ができるのです。青や赤の信号が私たちに伝えるのは、色そのものではなく、そこに含まれる<比喩的な意義>のほうです。これはごく単純な例ですが、私たちは、それよりもっともっと複雑で奥深い比喩を用いることができます。音楽が伝える霊的な意義、美術が表わす意義、中でも、イエス様が語られた「たとえ話」は、神の国の奥深い「霊的な」秘義を私たちに伝えてくれます。こういうホモ・サピエンスの知性は、数字の計算や論理的な推理推論だけでなく、様々な比喩(たとえ)を用いて互いの深い「心の想い」を伝えることを可能にしてくれます。これこそ「英知の人」(ホモ・サピエンス)だけに具わる知力です。
 推理推論する「理性」の働きは、物事を細かく「分類し分析する」ことでこれを考察しようとします。「分ける」は「分かる」の始まりだからです。ところが、比喩する霊知はそうではありません。分類し分けた物事を一つに総合するのです。様々が楽器の演奏家を一つにまとめるオーケストラの指揮者の知性がこれです。大企業の経営者、アメリカのNASAでの宇宙開発ロケット打ち上げの総指揮者の知性も同様です。
〔御霊の世界〕主イエス様の御霊にある語りかけもまた、こういう比喩性を帯びています。洗礼は、水という表象を用いて、私たち一人一人に生じるイエス様の受難の死と復活を伝えてくれます。聖餐もまた、パンとぶどう酒という表象を通して、ナザレのイエス様の御臨在を霊現させてくれます。聖餐は、かつてのイエス様(過去)を今の私たち(現在)に結び、イエス様の再臨を待ち望む終末(未来)をも顕わします。それだけでなく、共に聖餐をいただくことによって、私たち個人個人を他者との御霊にある交わりに導き入れます。だから聖餐は、過去・現在・未来へつながる時間と、世界につながる私たちの空間とが一つになった「時空一如」の御霊の御臨在の世界を体感させます。それはまた、イエス様への信仰と祝されたパンを食する行為がひとつなるという「信行一如」の世界です。さらに、感謝していただくパンとぶどう酒をカトリックの人たちは「御聖体」と呼んで、イエス様のおからだにたとえますから、そこに現じるのは、いただく主体と食べる客体が一つになる「主客一如」の世界なのです。
 こういう「比喩のことば」を通して、今から2千年ほど前に、神は人類にナザレのイエス様という「新しい人間」を啓示してくださいました。人の知性には総合する働きがあると言いましたが、新約聖書が伝えるのは、イエス様に関する「知識」だけではありません。その模範となる「行ない」だけでもありません。教訓やたとえ話だけでもありません。イエス様という一人のお方をそっくりそのまま<全人格的に総合して>私たちに伝えるのです。新約聖書が、私たちにそういうことができるのは、それがイエス様の御霊によって書かれたからであり、イエス様の御霊が私たち一人一人に与えてくださる霊知は、伝えられた知識の断片を<自分という個人>の中で、一つの人格として総合することを可能にしてくれるからです。
 人は人に、知識や論理や経験を断片的に伝えることができます。けれども人は、それよりももっとすごいことができるのです。あなたは、「あなた自身」をそのまま伝えることができるのです。そのためには、全人格的な霊知の働きが必要です。人が人を通じて人に人を伝える。このようなものすごいことを可能にするのが、人の霊知の働きです。困難と危機の中で、人と人が伝え合うことで平和を創り出し、人類が生き延びることを可能にさせてくれるものこそ、ナザレのイエス様の御人格を通じて神が私たちに啓示してくださった「霊知」、すなわち復活したイエス様の「御霊が与える知恵」なのです(第一コリント2章6〜7節)。
〔エクスタシーについて〕ここで一つ付け加えたいことがあります。それは祈り込むうちに我を忘れてエクスタシーの状態に入ることです。今までお話しした理性と霊知のことをギリシア語で「ヌース」(理知/分別/思考/心構え)と言いますが、異言で祈ることをパウロは次のように言っています。「私が舌(異言)で祈っていても、私の知性には中身が与えられません。どうなっているのでしょう。だから私は、御霊に動かされるままに舌でも祈りながら、同時に知性でも祈るのです」(第一コリント14章14〜15節)。このことは、パウロが、異言で祈りながら、同時に祈る自分の状態を知性によって見ていることを意味します。だから、聖霊にある異言の祈りがどんなに深く、場合によって激しくても、自分の知性は常に<目覚めている>と言うのです。これが、日本でよく言われる、忘我状態で自分を見失う「神がかり」と、イエス様の御霊のお働きとの大事な違いです。なぜでしょうか? それは私たちの受ける霊が、あのナザレのイエス様という「全くの他者から」来る霊だからです。ここには、他者との「交わり」"communion"と、霊に「所有される状態」"possessed"との違いがあります。私が、「ナザレのイエス様の御名によって与えられる霊性」のことを繰り返すのはこのためです。逆に言えば、御霊にある祈りはその気になればいつでも止められます。しかしパウロはそうはしませんでした。彼は「霊でも祈り、自分の知性でも祈り、霊でも賛美し、自分の知性でも賛美する」のです。彼は、御霊に促されるがままに、自己の思い、自己の知性、自己の全存在を、御霊と共に、あえて御霊のお働きに合わせて祈りつつ賛美する」のです。神からの御霊に促され、迫られて、自ら進んでこれに従うこと、このように「られる」ことで「する」こと、これを「受動的能動」と言います。真の霊能者ならよく知っていますが、御霊に動かされるままに従うとは、ただの「受け身」状態ではなく、ものすごい積極性を帯びるのです。だからといって、霊能を追い求めよというのではありません。パウロが「御霊の実」と呼ぶように、大事なのは霊能ではなく霊性だからです。
 御霊のお働きが、たとえ一時はどんなに激しくても、御霊にあるエクスタシーをどこまでも続けるなら、やがて、静かな霊境へ到達するのが分かります。あえて言わせていただくなら、それは無色透明な不思議な霊境です。「我もなく人もなく、ただ主のみ居ます」と賛美歌にある状態です。イエス様が、空の鳥を観なさい、野の花を観なさい。父の神の御意志に全託して、ただあるがままそのままで、何の心配もしないで生きている」と言われたのは、こういう姿なんだと分かります。霊風無心の世界です。 
■聖書解釈と聖霊
〔マザー・テレサを知ること〕聖書解釈と聖霊との関係は、学問的な文献批評と聖書の霊感という問題と関連します。分かりやすくするために、一つの例えを用いて説明します。マザー・テレサは、20世紀の聖者だと思いますが、この人を知るためには、マザーの語ったこと、あるいは書いたものを読むのが最も手近です。ところが、これでマザーが分かるかと言えば、逆に、いったいこの人はどういう人なんだろう?と謎が深まるだけです。そこで、マザーに関するレポートを読んでみますと、これもまたいろいろあって、おおむね好意的な見方が多いのですが、中には批判的なものもあります。新聞や雑誌のジャーナリストのレポートは客観的ですから、それなりに「正確に」彼女の人柄や、彼女の言動、中でも彼女のミッション活動を伝えています。しかし、それらを読めばマザーの「ほんとうの人柄」が分かるのか、と言えば、そうとは言えません。
 マザーが「ほんとうは」どういう人で、彼女はいったい「何を」しているのか? これを本格的に知りたいと思うなら、マザーの弟子になり、そのミッションに加わって、彼女と共に寝起きし、彼女と共に働き、彼女のすることを自分でやってみることです。ジャーナリストの客観的で、それゆえに「正確な」レポートよりも、マザーのミッションで働く彼女の弟子に彼女のことを尋ね、その人柄、その活動の意味をその人たちから聞くほうが、よりほんとうのマザーの精神に迫ることができると私は考えます。なぜなら、彼女たちは、マザーを信じて彼女に「従い」、マザーの生き方を自分でも生きているからです。マザーはもうこの世にいませんが、彼女たちは、今もなお「マザーを生き続けて」いるのです。
 マザーはしばしば「来て見なさい」"Come and see."と言いました。だから、彼女に興味を抱いた一人のカメラマンのことを考えてみます。彼はマザーとその活動に密着して、その一部始終をカメラに写し撮って、それを雑誌などで報告することができます。そこには、だれが見ても納得できるマザーの姿が「客観的に」描かれています。しかし、彼がカメラを構えて彼女を写し撮っている間は、彼はマザーの弟子になり、マザーに「従う」ことはできません。弟子になるためには、彼はカメラを捨てて、マザーに「従う」必要があるからです。だから、彼がカメラでマザーに近づけば近づくほど、彼はマザーには「なれない」のです。外から彼女を見て、客観的に「正確に」描こうとすればするほど、ほんとうのマザーの姿に「なる」ことができないのです。
 学問的な方法は、このカメラマンに似たところがあります。書かれた聖書を基にして、そこからイエスの言葉を採りだし、歴史のイエス(これを「史的イエス」と言います)をできるだけ客観的に「正確に」再現しようとすればするほど、そのやり方では、イエスに「従った」ペトロやヨハネ、その弟子たちの伝承を受け継いで、復活したイエスをキリストだと「信じてイエスに従った」パウロには「なれない」のです。
〔祈りと学び〕では私たちはどうすればいいのでしょうか? 学問か入門か、どちらか一方だけを選ばなければならないのでしょうか。ここでバルトの言葉を借りるなら、「もし私がどちらかを選ばなければならないとすれば、断固として<弟子になる>ほうを選ぶ」でしょう。しかしこれもバルト流に言えば、「幸いにして私たちはそういう二者択一をする必要がない」のです。私たちは、御霊にある知性が、一見対立し合う両方のやり方のどちらをどのように採用するのか、その割合/比率を見定めることができると言いましたが、まさにこの場合にそれがあてはまります。
 新約聖書は、イエス様を信じ、イエス様が復活して今もなお御霊として御臨在くださることを信じる人たちが書いたものです。彼らの言葉は、イエス様に従った人たちが、イエス様に従う人たちのために書き記した言葉ですから、イエス様の御霊に霊感された御言葉です。だから、例えばヨハネ福音書を読む人は、あのナザレのイエス様がペトロや弟子たちにお語りになった、ちょうどそのように、聖書を通して「今のあなたにも」お語りくださっていること、<そのことを>あなたに語るのです。御言葉の中身は、あなたがイエス様に祈り、イエス様から直接その中身を体験し再現していただいて初めて、あなたにその意味が分かるのです。イエス様の御臨在への祈りなしに、聖書の御言葉が<何を>あなたに語っているのかを悟ることができません。客観的な歴史のイエスを「外側から」どんなに観察しても、論語の言葉を借りるなら、「学んで祈らざればすなわち罔(くら)し」です。
 しかし、祈って与えられたお言葉の意味が、実際の歴史の中ではどういう働きをしていたのか?それはほんらいどこから出た言葉で、イエス様を始め弟子たちは、どういう状況の中でそれらの御言葉を語ったのかを客観的に知ることもまた、自分に与えられた意味をより深く知る上でとても大事です。そうでないと、ユダヤ人はイエス様を十字架につけたと聖書にあるから、ユダヤ人はイエス様の敵だという、とんでもない思い違いする恐れがあるのです。孔子の言葉で言えば、「祈りて学ばざればすなわち殆(あや)うし」です。
〔道具を使い込む〕聖書を学ぶには、注解書や辞典類など参考書が必要です。幸い日本には、国の内外の優れた聖書注解や辞書や事典が多く出版されていますから、日本語だけで十分聖書を学ぶことができます。ただし、熟練した職人さんは、使い慣れた道具を大切にして、新しいものに取り替えることを滅多にしません。同じように、聖書の注解書も、自分にふさわしいと思う物を選んだら、それを使い込むことをお勧めします。使い慣れると、その注解の特徴も逆にその欠点や限界も見えてきます。このことは、その注解を正しく用いるためにとても大事だからです。使い慣れた参考書があれば、新しいものに出合ったときに、その注解のどこがどう新しいのか、今までのとどう違うのかが見えてきますから、今までの物と比較して、その新しさの問題点も察しがつきます。だから、少数でも、ほんとうになじみのある物を選んで使い込んでください。聖書解釈と言えども、10〜20年単位で、その学問的傾向が変わりますから、今は大勢を占める見解も、20年も経てば別の見方に取って代わることがあります。だから、それくらいのつもりで、「新しいもの」にも目を向けるようにしてください。
■日本の聖霊運動
〔霊知と霊性〕日本の聖霊運動とは、「日本人の」エクレシアの聖霊運動のことです。それは、すでにお話ししたように、個人個人が、その霊知を通してそれぞれの霊的な個性を発揮すること、これに尽きます。これが、戦前戦後を通じて、日本人のエクレシアが目指してきた特徴だからです。国家権力や会社組織に束縛されない自由で独立した有り様が、日本人のエクレシアの特徴です。この特徴こそ、様々な形で、創造的な働きを可能にすることができます。多様な創造性を秘めた日本人のエクレシアの長所を見失ってはなりません。
〔ひとつのからだ〕もう一つ日本人のエクレシアに求められている大事なことがあります。それは、ナザレのイエス様の御霊にある日本人のエクレシアは、過去2千年に及ぶキリスト教の伝統に根ざしていることです。具体的にいえば、使徒信条状の信仰、すなわち「ナザレのイエス様」、これを使徒信条状は「聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られた主」と言い表わしています。この主は、「三日目に死人の中から復活し、天に昇られた」とあります。その上に三位一体のニカイア・コンスタンティノポリス信条(381年)があります(付記参照)。
 私はこれからのキリスト教は、カトリック、プロテスタント、東方正教の区別なく、一つにならなければならないと思っています。エクレシアが「ひとつからだ」になること、これこそ、イエス様の御霊がそのエクレシアに最も切に求めておられることだからです(エフェソ4章2〜6節)。このためには、「小異を捨てて大同につく」広さ、他宗派、他教団の信仰をも受け入れる霊的な寛容性、「霊愛」が必要です。残念ながら、このような信仰に立つエクレシアは、現在世界のどこにも存在しません。私が「日本人の」エクレシアというのは「この意味」です。日本人のエクレシアは、このことを実現することができる霊知と霊性を具えているからです。日本人のキリスト教は、そのまま世界のキリスト教になれるのです。
〔アジアのキリスト教〕終わりにここで、政治的とも言われかねないことを思い切って言わせていただきます。アジアは今、中国の経済力と軍事力の拡大に大きな脅威を抱いています。2015年5月の現在、日本は中国の新たな経済圏構想に参加するかどうかで迷っています。日本はアメリカと組んで、これには加わらないという方針を固めているようです。これは一つの例ですが、日本とアメリカは、太平洋とその周辺の覇権をめぐって、中国と対抗する姿勢を採ろうとしています。こういう情勢の中で、イエス・キリストのエクレシアは、日中のそれぞれの国の政治的、民族的な動きに左右されることなく、「平和を創り出す」御霊のお働きに委ねて歩むことが求められています。これからの日本人のエクレシアは、日本の置かれた国際的な状況の中で、日本の平和を守り抜く大事な役目を担(にな)うことになるでしょう。
 ここで私は、日本のエクレシアだけでなく、韓国のエクレシアにも注目しています。なぜなら、韓国は、今後、中国の支配と日米の対抗との狭間に立たされて、どちら側につくのか、その選択を迫られるからです。特に、韓国のエクレシアは、日本のエクレシア以上に難しい立場に置かれるでしょう。おそらく現在も、韓国の心あるキリスト教徒たちは危機感を抱いていると思います。こういう状況の中で、私たち日本人のエクレシアは韓国のエクレシアと手を握り合って、日韓の平和を守ることがとても重要になります。日韓のエクレシアが手に握るならば、今度は、中国のエクレシアへも働きかけて、日韓中の平和を守るために働くことができるようになります。そうすれば、従来の欧米プロテスタントやカトリックや東方正教会とは異なる文化的土壌の上に、東アジアキリスト教圏が形成されることになります。これこそ、これからの日本のエクレシアに求められる大事な役目であり、イエス様の御霊が、今の日本人のエクレシアに求めておられることです。どうかこのことを忘れないでください。
〔田ごとの月〕畝で区切られた稲田は、雨が降り注ぐと、それぞれの田の水面に月の姿が映ります。数多くあるかに見える月々も、田に雨が降り注ぎ、御霊の雨に満たされると、田と田の区切りが消えて、一つの池になるなら、そこに映るのは、いつの間にか、一つの月なのです。もろもろの諸教会が一つになるとは、そういうことです。人が相談し、それぞれの慮(おもんぱか)りを寄せ集めてできるものではありません。信者一人一人が、イエス様を求めイエス様を信じ続けるとは、そういうことです。だから私たちは、確信を持ってイエス様の御霊を歩み続けることができます。
 
【付記】ニカイア信条から「(私たちは信じる)唯一の主、イエス・キリスト、神の子、御父から生まれた独り子なる御子、すなわち、父の本体から(生まれた方)、神からの神、光からの光、真の神からの真の神、生まれた者であり創られた者ではない方、御父と同一本体の方、天と地にあるすべての者がこの方を通して作られた方、私たち人間のため、私たちの救いのために降り、受肉し、人間となり、苦しみ、三日目に復活し、天に昇られた方、また生ける者と死せる者とを裁くために来られるであろう方を。また、聖霊を。」
*この記事は、『船の右側』編集長、谷口和一郎氏からのインタビュー (2015年5月9日)のための原稿です。インタビューは『船の右側』2015年6月号「ペンテコステ」の特集号に掲載されました。  
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