イエスの出来事はほんとうか?
■ナインでのやもめの息子の生き返り
ルカ福音書7章11節以下で、ナインのやもめの息子が死から生き返ったというのは、ほんとうの「出来事」として現実に起こったことなのでしょうか? これは一つの例ですが、こういうことが、共観福音書全体を読む上で、最も大事な問題点なのです。この問題について、最近のルカ福音書の注解者フランソワ・ボヴォンは次のように述べています。「言うまでもなく、歴史の学問的研究は、この〔ナインの〕出来事の真正性について判定をくだすことはできない。しかしながら、この話の伝達者たちが〔その真正性を〕確信していたことは歴史的な事実である。彼らはイエスを終末的な預言者であり全能の主だと認識して、肉身の体から新しい命へ移行する希望をこのような物語で表わしたのである」〔ボヴォン『ルカ福音書』(T)270頁〕。
この言い方は、ここで語られている出来事が、ほんとうに起こったと示唆しているようにも聞こえますが、逆に、全くの創りごとだと言っているようにもとれます。なぜなら著者は言います。「この話の真正性を伝達者たちが確信していたのは事実である」と。これは、「この話が事実である」と言っているのではありません。そうではなく、伝達者たちが「確信していた」ことが事実だと言っているのです。学問的な研究をどこまで進めても、「この出来事の真正性」に、これ以上の判定を下すことは「できない」とボヴォンは言うのです。これはちょうど、イエスの復活が事実であるかどうかは、学問的には判定できない。学問的に判定できるのは、イエスの死後、その弟子たちの間で、復活「信仰」が起こったと言えることだけであるのと同じです。現在の歴史学に基づく聖書学では、これ以上の判定を下すことは、学問的な領域を超えることになります。イエスの復活は、「現在の段階での」学問的領域を超えて、信仰の世界、わたしの言い方に従うなら、「霊的な」領域に属するのです。
■信仰が疑いを招くという逆説
注解者たちは、このやもめの息子の生き返りの話が、旧約聖書のエリシャの話やギリシア神話の物語と語り方が似ていると指摘します。しかし、このこと、ルカの語り方が、それ以前の旧約の話やギリシア神話や伝説の語り方と似ていることを「学問的に」立証すればするほど、ルカの伝える話も彼の特殊資料も、こういう物語を真似た「こしらえごと」であり、したがってルカ福音書も資料も、偽りの作り話にすぎないという印象を与える結果になるのです。「学問的には」、架空の作り話で「ない」とも「ある」とも言うことができません。けれども、いくら学問的な判定を控えても、伝説や物語や神話との類似性を学問的に立証すればするほど、話それ自体は、神話や伝説と同じような作り事であって、実際の出来事では「ない」という意味に聞こえてくるのです。
やもめの息子の話を伝承としてルカに伝えた人たちも、これを用いて福音書を書いたルカ自身も、イエスが「終末的な預言者」であると「認識していた」、こう注解者ボヴァンは述べています。これも、受け取りようによっては、実際の出来事では「なかった」理由になります。なぜなら、「終末的な預言者」とは、終末に現われる奇跡を行なうメシアを意味するからです。洗礼者ヨハネから遣わされた彼の弟子の問いに対するイエスの答えには、病気の癒やしや死人のよみがえりなど、まさにこういうメシアのイメージが表わされています。だとすれば、イエスがメシアだと「認識していた」人ならば、ナインでの話が事実であると「認識する」のは当然だと考えるのです。だから、ナインのやもめの話は、「学問的に見れば」、そのような「認識」が生み出した「作り話」である。こういう結論になりかねないのです。ここでは、語る人の「確信」や「認識」が強ければ強いほど、「学問的には」、それが事実かどうか、これが逆に疑わしくなる。こういう結果になります。現にこういう考え方に沿って判断することが、聖書の「学問的な研究」の成果だと「信じている」人たちが大勢います。これが、聖書の「学問的な研究」がもたらしかねない誤解であり誤りです。なぜなら、ルカ福音書の注解者ボヴォンの言うとおり、聖書の話の真正性は、学問的には「判定できない」からです。現在の学問は、ここで立ち止まるしかないのです。これ以上は、学問的に踏み込むことができないのです。
■真の学問とその限界
言うまでもなく、現代の医学の一般的な常識から見れば、一度死んだ人間が生き返ることは考えられません。しかし、「棺桶から生き返った」話は、決して皆無ではなく、過去から現在に至るまで、世界中で、同様のことが起こったと証言されている例があります。とすれば、現代の「医学の一般常識」も、やはり、真の学問的な領域では、事の真偽を「判定できない」ことになりましょう。
はたして死者がほんとうに生き返ったかどうか? これは現代の聖書学、特に文献批評が立ち入るべき問題ではないのです。なぜなら文献批評を含む現在の聖書学は、まだそれを判定する立場にはないからです。それはちょうど、神癒によって癒された病人を医者が「そんなことはありえない」と一蹴するのと同じです。現在の医学では、祈りによって病気が治ることを学問的に判定する段階にはないのです。なぜならそのような宗教的領域は、医学が扱うことのできる領域<外>の出来事であって、医者はこれに正しい判定を下すことが「できない」からです。こういう「霊的な」出来事を科学的に扱うためには、宗教現象学、心霊学、宗教心理学、精神医学、生物学、脳科学などの発達によらなければならないでしょう。
将来このような現象をも医学的な視点から判定したり判断を下したりできる時代が来るかもしれません。しかし、現在の医学では、そのような判定を下すことはできません。それは、まだ医学の領域外の出来事なのです。このことを見誤ると、ほんとうに学問的な判断と疑似学問の判断との区別がつかなくなります。これが、霊的な現象を判断する場合の学問的な方法論が陥りやすい欠陥です。聖書の出来事は、霊的な性質を帯びていますから、政治や経済や医学など、人間に関わる諸分野の中でも、最も不可解で困難な分野です。脳の機能や働きでも、まだまだ解明されないところが多いと聞いています。まして、いわゆる「心霊現象」をも含めて心身の霊的な現象は、それ以上に難しい神秘な領域に属するのです。聖書の文献批評は、聖書の学問的な研究に大きな貢献をしてきました。しかし、今ここで提起されている問題は、文献批評の限界を示しています。文献批評以後の新しい学問的な探求が待ち望まれるところです。
■イエスの出来事と復活
イエスが「終末の預言者」あるいはメシアであると信じる人たちの手になることが、その出来事の真正性をいっそう疑わしいものにするというこのこと、これが聖書解釈において、重大な問題なのです。同じことが、イエスの「復活」の場合にも当てはまります。福音書は、イエスの復活を信じた人たちによって書かれたことは間違いありません。ところが、まさにこのことが、福音書の記述をいっそう疑わしいものにするのです。すなわち、イエスは「復活した神の子」なのだから、こういう奇跡が起こったに違いない。あるいは起こらなければならない。福音書の記者たちは、このように考えたに「違いない」。だから、そのような福音書記者たちの伝えることは、信憑性に欠ける。このように「判断」したり、「推論」したり、「結論」したりするのです。復活したイエスを信じる人たちは、「その視点から」見るから、生前のイエスの出来事を実際に起こったとおりに語ることができない。これが、福音書は「生前のイエスの出来事」を正しく伝えていないと考える人たちの前提なのです。
はたしてこの前提と結論は正しいのでしょうか? 繰り返しますが、学問的には、生前のイエスの出来事を正しく伝えて「いない」とも「いる」とも言うことができません。確かに福音書記者たちは、イエスの復活信仰の「後で」書いていますから、十字架の出来事「以前の」イエスの出来事を語る場合にも、彼らの復活信仰がそこに反映しています。しかし、そのことが、福音書に書かれてあることが、イエスの出来事として現実に起こったことを否定する根拠には「ならない」のです。それはちょうど、復活信仰に基づいて書かれているというまさにその理由で、書かれてあることが現実に「起こった」と考えることが誤りであるのと同じです。どちらの基準も事実認定の基準にはなりません。なぜなら、学問的には、事柄の真正性を判定することが「できない」からです。これがほんとうの意味で学問的な正しい結論です。十字架以前のイエスの出来事の記事を事実として肯定するにせよ、否定するにせよ、往々にして「学問的」の名のもとに、このようにして誤った結論に走る傾向が生じるのです。
■福音書の記者たち
では、福音書の記者たち自身は、この問題をどのようにとらえているのでしょうか? 彼らは、生前に行なわれたイエスの出来事が真正であったからこそ、イエスの復活が起こった、こう考えて福音書を書いているのです。だから、福音書記者たちの考え方は、上に述べた真正性の否定論者とは、ちょうど逆の論理になります。復活の信仰から聖書の証言が生まれた。だから、その証言は、復活信仰に彩られているがゆえに信憑性がない。これが否定論の根拠です。これに対して聖書は証言します。イエスの神的な出来事は真正であった。だからこそイエスは神の子として復活したのだと。ルカ福音書の注解者ボヴォンは言います。復活信仰が福音書の生前のイエスの記事に反映しているのはそのとおりである。しかし、その事が、真正性を「否定する根拠」にはならない。なぜなら、事柄の真正性は、「学問的には」判定できないからであると。ちなみにわたしは、「生前のイエスに」、言い換えると「ナザレのイエス」に宿った神の聖霊の働きとイエスの霊性を最も深く洞察し、そこに含まれる「霊的な意義」に迫ろうとしているのは、ヨハネ福音書であると見ています。
■ペトロやパウロの場合
使徒言行録には、死者を生き返らせた話が、ペトロにもパウロにも出て来ます(使徒9章36〜43節/同20章7〜12節)。ペトロもパウロも、ナザレのイエスが実際に行なった出来事にならって、「ナザレのイエスの名によって」これらの奇跡的な出来事を行なっています。もしも、語られた「ナザレのイエスの出来事」が、偽りの作り事なら、使徒言行録のこれらの話も同様の理由で、全くの作り事になります。ルカは、ルカ福音書でも使徒言行録でも、事実に基づかない「こしらえごと」を語っているにすぎないのであって、それらは、ルカの創作(フィクション)にすぎない。こういうルカ像がここからでてくることになります。現に、こういうルカ像を「学問的なルカ」だと思っている人たちがいます。
しかしながら、パウロは、自分がキリストの使徒とされたのは、彼に「力ある業」が現われされたことによって証しできると述べています(ガラテヤ2章8節「働きかける」とあるのは「力ある業」のこと)。少なくともパウロに「力ある業」すなわち癒しやその他のキリストの御霊のしるしが現われたことは、彼自身の手紙によって確証できます。したがって、使徒言行録の記述もそれなりの信憑性があり、同様にペトロの「力ある業」にも信憑性があると認めるべきです。ペトロやパウロが、復活のイエスの力とみ名を信じることによって、このような神の業のしるしが、「現実の出来事」として起こったのであれば、その源となった「生前のイエス」にも、同様な神の御霊の力が働いて、現実にイエスの出来事が起こった。こう考える十分な理由があります。生前のイエスには、そのような力が無く、したがって、福音書の出来事は、イエスの復活信仰が人々にイメージさせた架空の出来事にすぎなかったとすれば、そのイエスの名を信じたペトロやパウロに、どうしてそのような御霊の出来事が現実のこととして生じるでしょうか? 「学問的に」考えるなら、わたしには、そのような「架空説」のほうが、よほど信憑性が乏しいと思われます。
事実はそうではなく、「生前のイエス」に、神の御霊の力が働いて、「イエスの出来事」が現実のこととして起こったからこそ、イエスの復活以後において、これに続くペトロやパウロにも、同様なことが可能であった。こう考えるほうが、よほど確かな推論だとわたしは思います。百人隊長の話を読んで、ブルトマンは、離れた人の病気を言葉だけで癒すことはありえない。だから、このような「遠隔神癒」は、後の教会が作り出した架空の物語に違いない。こう結論づけました。ブルトマンは、これが「学問的に」正しい推論だと信じたのです。ところが、オーラル・ロバートは、聖書に書かれているまさに同じ百人隊長の話を信じて、テレビを通じて、離れた人の病気を癒す祈りをするという「遠隔神癒」を行なって、実際に病気が癒される例が出たのです。このことは、ブルトマンのような優れた学者でも、その「学問的な」推論が「誤り」であったことを立証しています。お断わりしておきますが、わたしはブルトマンが、イエスの出来事を全部が全部作り話と見なしていたと言っているのではありません。確かに彼は、文献批評によって、福音書を過激なほどに「非神話化」しました。しかし彼は、地上でのイエスの出来事が現実のことであって、そのすべてが、復活信仰やキリスト神話から出た架空のことだとは考えませんでした。
■聖書学の限界
わたしも、福音書に書かれているすべての記事が、そのままの姿で現実に起こったイエスの出来事であるという見方、いわゆる逐語霊感説に基づくファンダメンタリズム的な解釈を採りません。聖書の記事の中には、明らかに神話的要素や旧約聖書の預言に影響された考え方やイエスの復活以後に派生した伝承も含まれています。さらにイエスの復活それ自体を証しする目的で語られたものもあります。だから、どの記事がどの程度、出来事として現実に起こったことなのか、言い換えると、どの程度、神話的な要素や伝説的な部分が取りこまれているのか、これを見分けるのは容易ではありません。現代の聖書学の知識では、まだまだこれを的確に判断する段階にいたっていません。現代の聖書学では、どれがほんらいのイエスの言葉なのか、これをなんとか見分けるところまでは漕ぎ着けていますが、それ以上のことは判断できないのです。ボヴォンの指摘するとおり、出来事が真正かどうかは、まだまだ「学問的には判定できない」からです。ただし、たとえ神話や伝説や旧約預言の反映があったとしても、そのような要素が、なぜどのようにして入りこんだのか、そこに含まれている宗教的、あるいは霊的な意味内容を調べることがとても大事で、これらは宗教学や文化人類学や神話学などの解明に待たなければならなりません。
■カリスマ伝道の意義
現代でも、オーラル・ロバートやT・L・オズボンやベニー・ヒンのようなカリスマ伝道者によって、死者の生き返り、あるいはそれに近いしるしを含めて、癒しやその他の「奇跡」が、彼らの手を通して、「現実に起こっている」のを知ることができます。このことからも、わたしたちは、イエスの出来事の現実性が、いっそう納得できます。わたしは、いわゆるカリスマ伝道の価値を「この意味で」高く評価すべきだと信じています。なぜなら、これによって、聖書が伝える「イエスの出来事」が、架空のこしらえごとでは「ない」ことが、はっきりと実証できるからです。はたして聖書全体が、こしらえごとであるのかないのか? これが、現在の段階での学問的な研究方法では「判定できない」以上、異言や預言、癒しやその他の「しるし」が、現在これらの伝道者たちを通して、イエス・キリストのみ名によって起こっていることは、聖書の信憑性を証しする大事な働きだと考えるべきです。
言うまでもなく、カリスマ伝道には、これにつきまとう様々な危険や弊害があります。霊的な出来事の真偽の判断が難しいだけに、それだけ「偽りの霊能」の危険も大きくなります(マタイ7章21〜23節)。正しい判断は「神のみぞ知る」という場合も少なくありません。しかし、それらの弊害を理由にして、神の御霊が働いておられる現実の出来事が示す霊的な意義を見逃すのは、これもまた大きな誤りであると思います。
ノーランドというイギリスの聖書学者は、最新のマタイ福音書の注解の解説において、福音書の記者たちが、まだイエスと同時代の人たちと接触できる範囲の時期にいたことを指摘した上で、次のように述べています。