イスラエルの神殿とイエス
 
■イスラエルの幕屋と神殿
 以下に、イスラエルの幕屋と神殿の経過をごく簡単に紹介します。旧約聖書のイスラエルの神殿は、カナンへの侵入以前に、民がエジプトからモーセに率いられて旅をした当時(前1280年頃)の「会見の天幕」"The Tent of Meeting"にさかのぼります(出エジプト記33章7〜11節)。この天幕は、民の宿営地の<外に>設けられていました。そこで主はモーセと顔と顔を合わせて出会い、また、民はだれでもそこで主にお伺いを立てることができましたから、これは「臨在の天幕」と呼ばれました。
 イスラエルの民が土地を取得した後では(前1220年頃)、「会見の天幕」から「幕屋」"the Tabernacle"に移行しました(出エジプト記25章〜27章)。ただし、ここに描かれている幕屋は、南王国ユダの時代から捕囚期までの後の時代に記されたものですから、実際の幕屋よりも理念化されています。幕屋には、中央に犠牲の祭壇が置かれた広い前庭があり(周囲が幕で仕切られている)、その西側に聖所と至聖所から成る幕屋本体がありました。取り壊しのできる数多くの枠木(45センチ角)で組み立てられていて(板ではありません)、これに立派な刺繍が施された幕が張られ(したがって内側から刺繍がよく見えました)、その上に大きな幕が屋根状に張られ、さらにその外側には、ジュゴンの皮でできた大幕が雨よけのために張られていました。
 この幕屋は、イスラエルの民のカナン定住後には、12部族連合の中央聖所とされたシロ(エルサレムの北方でイエスの頃のサマリアの中心地)に置かれていましたが、やがてギブオンへ移され(エルサレム近くの北)、それからダビデによってユダ部族の地域の南部のヘブロンに置かれました。ダビデはエブス人からシオンの丘を奪い、幕屋を主の箱と共にダビデの町(現在のエルサレム神殿の南側にある丘)へ移しました(サムエル記下6章)。彼は宮殿を建てて、その宮殿の側に幕屋を安置しました(前992年頃)。彼は部族連合から帝国へと支配権を強めるためにエルサレムを中央聖所として礼拝の中心に据えようとしましたが、伝統的な幕屋の信仰グループによって妨げられたようです。
 ダビデの幕屋を受け継いで、シオンの丘に神殿を建設したのは、ダビデの後を継いだソロモン王(治世前961〜922年)です(列王記上6章〜7章)。ソロモンの神殿は石造りで、横23メートル、縦45メートルの東西を向いた長方形の台座の上に建てられていました。神殿本体は当時のカナンの神殿にならって長方形で、東に入り口があり、前室と広い聖所と至聖所から成り立っていました。ただし、このソロモンの神殿が記されたのも捕囚期でのことですから、実際の神殿を理念化したものだとも言われています。この神殿は、新バビロニアによってエルサレムが破壊された時に崩壊しました(前586年)。
 なお捕囚期の時代に、預言者エゼキエル(預言活動は前597〜67年)による新たな神殿のヴィジョンが記されました(エゼキエル書40〜48章)。彼は祭司でもありました。エゼキエル書の描く神殿ではツァドク系の祭司のみが仕えることが許され、王は第二次的です。このヴィジョンは、イスラエルの民の定住の土地相続の中心となるべく理想化されたイスラエルの神殿です。神殿は聖と俗の二元的な場であり、至聖所はあるもののシオンの山全体が聖域になっています。神殿は聖都エルサレムの中心として、権威と権力の二重性を帯び、完全な神の支配領域に属しています。しかも、王権ではなくイスラエルの民に神殿が委ねられるのです。ツァドク系以外のレビも無割礼な者も聖域から排除されます。聖所の中心には神の栄光の臨在があり、祭壇の中心は「清さ」そのものであり、「清い」ものが犠牲とされて献げられることで「聖」になります。この「聖」は「穢れたもの」には危険となります。王は、「清い」存在ですが、「聖」ではありません。神殿のこの「清さ」と「穢れ」は、イスラエルが神の土地を相続するための鍵です。聖と俗/清さと穢れ/神の権威と王の権力の二元性が見られますが、これらは相互に動的に関連し合っていますから、単なる二元論ではありません。
 捕囚期が終わり、ユダの民がエルサレムへ帰還してから、第二神殿が再建されました(前515年頃)(エズラ記3章〜6章)。ただし、この神殿の詳細は分かっていません。その後、ユダヤがギリシア系のセレウコス王朝の支配下に置かれた時に、アンティオコス4世によってユダヤ教が弾圧を受け(前167年〜164年)、エルサレム神殿は「ゼウス・オリンポスの神殿」と呼ばれて、異教の祭儀によって汚されました。しかし、マカベアスたちの反抗が成功して、再びエルサレム神殿が取り戻され、マカベアスによって神殿が清められました(前164年)。これが神殿奉献祭のいわれです(第二マカバイ記5章15節〜10章8節)。
 第二神殿は、今回のヨハネ福音書2章にあるように、前19年からヘロデ大王によって壮麗な神殿に造り変えられました。この神殿は、ひとまず前9年に奉献されましたが、まだ未完成でした。しかし、64年に最終的に完成してから間もなく、紀元70年にローマ軍によって破壊されました。
 ヘロデの神殿の外観は「ヘロデの神殿」としてネット上で見ることができます〔ウィキペディア〕。なおエルサレムにあるエルサレム博物館には、紀元60年代のエルサレム全体の模型が展示されていて、神殿の外観がよく分かります。神殿の丘全体が立派な柱廊で囲まれていて、そこは異邦人の庭と呼ばれています。神殿の本体には、ユダヤ教徒だけが許されていて、その東の部分には広い女性の庭があり、女性はそこまでしか入れません。女性の庭の西側の中央に半円形の階段があり、大きな扉の門があります。そこを入ると男性の庭があり、中央に犠牲を献げる祭壇が設けられています。祭壇の北側にはその時に犠牲として献げられる動物がつながれています。女性の庭にも男性の庭にも屋根はありません。
 男性の庭の西側中央に階段があり、そこを登る南北に長いポーチがあり、コリント風の柱頭の白い柱が左右に2本ずつ立っていて、大きな黄金の扉で仕切られています。柱には黄金のぶどうの蔦が巻き付いていて、壮麗な輝きを放っています。そこは祭司だけが許される聖所です。その奥は、大祭司だけが許される至聖所です。
 聖所へ入ると南側に、メノラーと呼ばれる黄金の半円形の7本足の燭台が置かれていて、反対側にはパンを置く台があり、これも黄金で覆われています。その奥に聖所と至聖所を仕切る大きな垂れ幕があり、垂れ幕近くの中央に、香炉とその台座があります。大祭司が至聖所に入るには、屋根からつるされた箱に乗って降ります。ほんらいソロモンの神殿では、ここに契約の筺(はこ)が置かれていて、その上にセラフィームが翼を広げていたのですが、第二神殿以降、至聖所には何も置かれていませんでした。大祭司はそこで、執り成しの祈りを捧げる香炉を振ります〔『聖書大事典』636頁以下〕〔Leen and Kathleen Ritmeyer, The Ritual of the Temple in the Time of Christ. Jerusalem: Carta (2002) 〕。
 以上が、ごくおおざっぱなイスラエルの天幕・幕屋・神殿の経過です。なお、第二神殿の建設からヘロデの神殿の崩壊までの期間は「第二神殿時代」と呼ばれています。
■イエスとエルサレム神殿
【イエスの時代の犠牲制度】
 まずイエスの頃の神殿における犠牲を献げる制度について、主としてチルトンの『イエスの神殿』(6章と7章)を参照しながら見ていくことにします〔Bruce Chilton. The Temple of Jesus: His Sacrificial Program within a Cultural History of Sacrifice. The Pennsylvania State University Press (1992).91-136.〕。
 ほんらいは、過越祭などでイスラエルの民が神殿へ動物の犠牲を献げる際には、神殿の東側にあるオリーブ山(の山頂あるいは中腹?)で、(羊など)自分の罪を浄めるために犠牲として献げる動物を買い求めて、これを引いてキドロンの谷を降り、谷で隔てられた神殿にいたる坂道を引いて登り、神殿の境内にいたり、そこで犠牲の動物の上に自分の手を置いて祈りを捧げることが求められていました。これは犠牲と自分とを同一視することで、自分の罪をその犠牲に「負わせる」ためです。その上で犠牲は、男性の庭に設けられている祭壇で焼かれて献げられました。
 ただし、このやり方は、イエスの頃になると、パレスチナだけでなく離散のユダヤ人たちの巡礼をも含む厖大な人数になるために、事実上難しくなっていたようです。オリーブ山を降り、谷を登って神殿までかなりの長い道程(みちのり)になることもその理由の一つでした。このために、大祭司カイアファの時に、動物が売り買いされる場所を神殿の境内へ移すよう改められたのです(紀元30年頃)〔チルトン前掲書107〜8頁〕。
 この結果、本殿を囲む境内の北側には、予め「清い」とされている犠牲の動物をつなぐ場所が設けられ、民のほうは、本殿の南側の庭に集められることになりました。したがって、犠牲の売り買いもその際の両替も、本殿の南側の境内で行なわれていました。神殿の城壁の南側の斜面には、現在でも大きな水槽の跡が遺っていますから、民は神殿の城壁の南側にある斜面の階段を上がり、そこにある水で身を浄めてから、南側の城壁に沿って西へ進み、そこからまっすぐ階段を上がって通路に出ます。通路は北側に向きを変えていて、そこを行くと今度は東側に折れて、本殿の南の庭に入ることになります(だからこの橋は逆向きの「コ」字型に近い)。だとすれば、民は、まず神殿の城壁の南側から境内に入り、そこで自分に相当する犠牲の動物を贖い求めてから、境内の東側の柱廊(ソロモンの柱廊)を通って本殿の北側に出で犠牲の動物を献げる、という流れが想定されます。本殿の南側にある広い庭の柱廊には、両替人たちがいて、異国の通貨は、神殿で許される貨幣に両替されて、そこで動物の売り買いが行なわれており、また半シェケルの神殿税もそこで支払われていたと推定されます。だから、かつては神殿の<外の>オリーブ山で行なわれていた売り買いや両替が、神殿の境内の<中で>行なわれることになったのです。このやり方だと、献げる人の按手の祈りも行なわれず、人と献げられる動物との直接の関係が、完全に断ち切られてしまうことになります。
 これに反対したのがファリサイ派です。罪を犯した者が、律法の規定に沿った「清い」捧げものを神に献げることによって、その捧げものが「聖なるもの」、すなわち「神のもの」とされ、「神に受け容れられる」こと、これが犠牲のほんらいの意義です。なぜなら、人と犠牲とがひとつにされることを通して初めて、人が犠牲を通じてその罪から「浄められ」、その人が「神に受け容れられる」こと、すなわちその人の罪が「赦され贖われる」からです。これが、犠牲の祭儀ほんらいの意義です。この祭儀は、罪人が罪赦されて神に受け容れられ「聖なるもの」とされる祈りと深く結びいていなければなりません。このように、罪ある人の現実が「清い」犠牲と一つになることで初めて、犠牲の祭儀と通じて、人はその罪の現実から<赦され浄められて聖なるものとされる>のです。だからこの祭儀は、人と犠牲、この二つをつなぐ祈りと一つでなければならないのです。祭儀とは、人の現実と人の祈りを結ぶ行為にほかならないからです。「清い」犠牲だけが「聖なるもの」にされるというこの神学は、先のエゼキエル書の神殿観にも出てきた思想です。
 当時のファリサイ派を含むラビの学派は、ヒレル派とシャンマイ派に分かれていましたが、この制度に異を唱えたのはヒレルのほうです。なぜならヒレル派のファリサイ神学では、犠牲の際に人が自分の身代わりになる犠牲の上に直接手を置くことで、自分と犠牲とが同一視されるよう祈り求めることがきわめて重要だったからです。ヒレルのハラカー(規定)では、犠牲を捧げる者が、犠牲の祭儀それ自体に参与するという意味で、世界的に見ても、民族学的な基準に合致しています。犠牲獣それ自体が傷のない<清い>ものかどうかも大切ですが、ヒレル派によれば、人間の<清め>は、献げる人それ自体が<神殿の犠牲を食べる資格>があるかどうかが、犠牲の行為に深く関係していたのです。だからこの神学では、<清い>犠牲とはなんであるか? ということだけでなく、それをどのような手続きで献げるのか?ということもまた、犠牲の<清さ>と関連することになるのです。ファリサイのヒレル派が、当時の神殿での犠牲制度を構造的に問題だとした理由がここにあります〔チルトン前掲書108〜9頁〕。
 ただし、チルトンのこの説には疑問があります。犠牲の動物とこれを買い求める人とが本殿の北と南に分かれると、人と売り買いされる動物とが、本殿を挟んで南と北の反対側になりますから、人と動物とは、いったいどのようにして出合うのでしょうか?この関係がよく分かりません。売り買いする人のほうは、実際に動物を見ていなくても、自分の罪の贖いに相当する犠牲の「札」でも買い求めて、北側へ回ったのでしょうか? それとも買い求めたその段階で、事実上その人による犠牲だと認められるなんらかのシステムができていたのでしょうか? この辺の事情がはっきりしません。共観福音書では鳩を売る者が神殿の南側に居たとあり、ヨハネ福音書では、羊や牛も神殿の南側にいたことになりますから、いったい犠牲の動物はどこにつながれていたのか? これが現在でもよく分からないのです〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)136頁〕。
 このようにチルトンの説には、不確かな点がありますが、それでも、イエスの頃の神殿における犠牲制度の有り様に重要な示唆を与えてくれます。大事なのは、
(1)それまで神殿の外部で行なわれていた犠牲の売り買いとその際の両替とが、神殿の境内の内部に移されたことです。そこは、「異邦人の庭」と呼ばれていましたが、それでも「聖域」であることに変わりがなく、城壁の上で祭りの監視に立っていたローマ兵のひとりが、この庭に向いて「おならをした」というだけで、騒動が持ち上がったことがあるほどです。カイアファの計らいは、実際的な事情から生じた効率の良さを求める処置だったのでしょうが、犠牲の売買と両替と神殿税の徴収が、聖域の内部で行なわれることになったことが、神殿制度とこれを支える財政が一体化していることを強く印象づける結果になったと考えられます。
(2)それまでは、人が犠牲の上に手を置いて祈ることで、人と犠牲の一体化が確かめられていたのですが、この両者の関係が断ち切られて、犠牲それ自体の売り買いが、言わば人の内面的な祈りから切り離されて、「贖罪の祭儀」として認められるようになったことです。
【イエスの意図したこと】
 いったいイエスは、どのような意図のもとに、どのような行為に及んだのでしょうか? これについても様々な説が提示されています。
 チルトンは、イエスが意図したことも、ファリサイ的なヒレル派が問題にしていたことと同じではなかったかと見ています〔チルトン前掲書109頁〕。すなわち神殿の犠牲制度において、人と犠牲との直接的なつながりが断たれることで、犠牲制度そのものが売り買いの対象にされてしまったことです。さらに、神殿の聖域が「商売の場」とされることで、「祈りの場」が「売り買いの場」に変えられたことに対しても、強い憤りを覚えたと思われます。チルトンのこの見解は、イエスの「神殿浄め」の意図への深い洞察を含むと考えられますが、彼の説には、賛同すべき点と、賛同できない点とがあります。賛同すべき点は以下の通りです。
【A】チルトンの説は、イエスが神殿と祭儀そのものに反対していたという見方を否定するものです。なぜならイエスは、神殿制度を「浄めよう」としたのあって、神殿の廃止を求めていたのではないからです。神殿の犠牲のほんらいの有り様を取り戻そうとすることと、神殿の制度そのものを否定したり、廃止しようとすることとは全く別だからです。一方は神殿の意義をこよなく尊ぶことであり、他方は神殿の存在意義を否定することですから、この二つは、ちょうど正反対の動機から出ていることになります。
 これに対して、賛同できない点は以下の通りです。
【B】チルトンは、イエスの意図が、神殿の有り様を批判する単なる象徴的な行為ではなく、神殿の制度を根本的に変革するために、事実上これを「占拠する」ことにあったと見ています。当時のユダヤの神殿制度は、宗教的であると同時に政治的な制度と不可分でしたから、このような意図と行為は、神殿制度を維持する大祭司たち指導層と、これと結託していたピラトに代表されるローマの権力と、この両方に敵対し抵抗する行為です。この点でイエスの行為は、当時の急進的なユダヤ主義の革命路線とそれほど変わらないことになりましょう。
 しかし、チルトンのこの見解には無理があります。なぜなら、神殿の北側はそのままローマ兵が駐屯するアントニアの砦になっていましたから、過越祭では、ローマ兵による特に厳重な警戒体制が敷かれていたからです。もしもイエスが「神殿占拠」を意図したのならば、事はローマとユダヤ人との衝突に発展する大騒動になったでしょう。しかし、四福音書の証言にそのような形跡は見られませんから、イエスの意図に関するチルトンの見解は不適切です。この点で福音書が、ローマ側への配慮から事実を隠蔽したとする説も納得できません〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)137頁〕。マタイ福音書もヨハネ福音書も決して「親ローマ的」ではありません。
 むしろイエスの言動は、イスラエルの預言者たちのそれを受け継いでいると見るべきです。ホセア書(9章1〜6節)でもミカ書(3章)でもエレミヤ書(7章)でもエゼキエル書(8章/11章)でも、さらに『第一エノク書』(90章)でも、祭司の腐敗は神殿の汚れと結びついて、預言者たちの神殿批判の理由とされてきました。イエスの場合でも、ローマ兵ではなく、祭司たちがイエスの行為の根拠を問い質していることから見て、イエスは、かつての預言者たちの精神を受け継いで、神殿浄めの行為に及んだと考えることができます。事はイエスと大祭司たち指導層との間に生じた「騒動」だったのです。
 ただし、イエスの場合は、単なる神殿とそこで行なわれる犠牲制度の「改革」に留まることなく、エッセネ派の神殿観に見るような「新たな霊の神殿」の出現が終末に顕現することを預言するものであったと見ることができます。現在の地上での神殿がその機能を失っても、イスラエルの民による霊の神殿は失われることなく臨在し続けて、終末においてメシアの顕現と共に全く新しい神殿が顕われるというのが、エッセネ派の神殿観だったからです。したがって、イエスによる神殿の出来事には、次の四つの場合を考える必要があります。
〔イエスによる神殿浄化の意義について〕  
(1)神殿の浄化:これは聖職の売買、両替の収入、犠牲制度の形骸化など、エルサレム神殿体制の腐敗と堕落を清める/浄化することを目指すものです。この場合神殿それ自体は現在の状態を維持し続けることを意味します。したがって、もしもこの神殿が失われたら復元が求められます。
(2)神殿の霊的内面化:これは神殿礼拝の建物とこれに属する制度よりも、礼拝する人間の内面性を重んじて、神殿礼拝を霊的にとらえることで、礼拝する者の心に内面化することを目指すものです。したがって、神殿とそこで行なわれる祭儀は新たに霊的な意義を与えられますから、建物もこれに基づく祭儀も改革はされますが廃止されることはありません。クムラン宗団が祈り求めていたのがこの種の神殿です。これはヘロデが目指した神殿の「復元」ではなく、神殿の霊的な新生につながるものです。
(3)神殿の終末化:地上の神殿に対応する天上の神殿を指します。これは天から降って終末に実現する神殿のことですから、地上の神殿は消えてなくなります。ヨハネ黙示録21章〜22章5節の新しいエルサレムの「神殿」がこれに当たります。
(4)神殿の破壊/崩壊:神殿とそこで礼拝されている神を完全に否定し神殿制度を廃止することです。北王国のゲリジム神殿と南王国のエルサレム神殿が、それぞれアッシリアと新バビロニアによって破壊された場合がこれです。また、アンティオコス4世によるエルサレム神殿制度の廃止と異教化もこれに属し、後に行なわれるローマによるエルサレム神殿の破壊もこれに属します。
 イエスに先立つクムラン宗団は、当時のエルサレムの神殿制度に反対して、(2)を実践しつつ(3)の到来を待ち臨んでいました。共観福音書でイエスが行なったのは(1)の場合を含むと思われますが、「祈りの家」として(2)を意図していたと考えられます。しかし、イエスはすでに(4)を予測していますから、イエスが具体的にどのような「神殿」の有り様を思い描いていたのか、確かなことは分かりません。
 
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