【補遺】イエスと祭司長たちとの溝
 イエスをローマの支配者に訴えて、イエスを十字架刑へ持ち込んだユダヤの支配者たちとイエスとの間に横たわる深い溝の底には、いったい何が潜んでいたのだろう。これを考察するために、G・タイセンの『ガリラヤ人イエスの人影』(題名は私訳)を参照しながら考察してみよう。タイセンがこの問題について語るところを要約すれば、およそ次のようになろう。
 イエスが教える「神の国」では、祭司長たちが嫌う取税人や娼婦たちでも、と言うより、彼らのほうこそ、先に御国に招かれるとイエスは言う。ユダヤ人たちが警戒する異邦人や不信心者が、ユダヤ教の父祖アブラハムと「食事を共にする」ようになると教える。イスラエル人が尊ぶ「家族同士の関係」について語る時には、「死人のことは死人に任せよ」と言う。イエスを通じて働く霊力は、政治権力に刃向かって直接反乱を起こす過激なものではない。しかし、神は、この世の支配者たちに対して、その不正ゆえに、民衆による大きな暴動を生じさせるとイエスは警告する〔G・タイセン『イエスの影を追って』南吉衛訳(ヨルダン社)248~249頁〕。
 イエスは、神話や詩を語る者ではないが、譬えを巧みに用いながら「神」について語る。しかも、その神は、人を実際に「作り変える力」を発揮する神であるから、この神の力は、人間や生物の自然環境だけでなく、人類の「歴史を創造する」業(わざ)を行う。神のお働きは、人が身近な日常で体感できる「この世に起こる出来事」にほかならない〔『イエスの影を追って』251頁〕。
 このような独特の仕方で「神を語る」のは、ヘブライの預言者たちの特徴でもあった。彼らは、こともあろうに、「自国の滅亡を警告する」人たちであった〔『イエスの影を追って』255頁〕。だから、政治と宗教を支配し指導するイスラエルの祭司長たちは、「神から遣わされた」預言者たちを殺そうとするが、それは「神を殺す罪」にほかならない。ヘブライの預言者たちに具わるこういう独自性こそ、「イエスを理解する重要な鍵である」〔『イエスの影を追って』255頁〕。
 さらに、イエスは、独特の預言者であった。神からの裁きを語るよりも、弱い者、貧しい者、罪深い者、異邦人など、ユダヤ人一般が差別し、排除し、否定する人たちへの「思いやりと赦し」をイエスは説いた。それどころか、ユダヤ人が最も忌み嫌い怖れる「悪霊に憑かれた者」にも、イエスはその癒やす力を発揮して、その悪霊憑きを、もとの社会に復帰させた〔『イエスの影を追って』258~59頁〕。だから、イエスは、自分を通じて働く神の業に、伝統的な預言者に優る神の力を見ていた。
 もう一つ、イエスに働く「神の業」について注目すべきは、エルサレム神殿を中心とする「安息日」を含む神殿制度への批判がある。イエスは、境内の机を「転倒させ」、神殿の祭儀に欠かせない犠牲の動物を売る商人たちを、神殿の境内から「追い出した」。指導層は、イエスのこの行為を神殿冒涜罪と神殿の祭儀への侮辱罪に相当する赦しがたい犯罪だと見なした〔『イエスの影を追って』272~274頁〕。何よりも大きな問題は、こういうイエスの言動には、「神から与えられる並々ならぬ霊能の働き」が顕著に伴っていたことである。それは、バプテスマのヨハネにも優る力であり、未だかつてヘブライの宗教的な伝統に見ることがなかったほど、超国家的で、超民族性を具える超人的な霊能活動であった。しかも、その行為には、「神ご自身の権威」が具(そな)わっていたから、イエスの霊能活動は、ヘブライの民衆を突き動かし、「メシア・イエス」と称される事態をもたらした。イエスの力は、イスラエルをエジプトの奴隷状態から救い出したモーセの反権力的な霊能の力に匹敵するだけでなく、イエスに具(そな)わる霊能は、モーセをもしのぐほどの「神秘」な権威を提示した。これらが、当時のユダヤの指導層をして、「人の子」と称し「神の子」と称されるイエスを殺すように仕向けた謎のほんとうの理由である。イエスを十字架刑へ駆り立てた祭司長たちを動かした「妬(ねた)み」の潜む本質の動機である。
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