第二神殿時代のユダヤの墓
■捕囚期以前
 紀元前8世紀(捕囚期前)のユダヤでは、墓の入り口を降りると比較的小さな前室(1メートル四方もない)があり、その奥にさらに広い部屋(長さ2メートル幅1メートル)があって、二部屋が続いている。奥の広い部屋は、入り口を除く三つの壁に、腰の高さの辺りにベンチ型に壁が掘られていて、遺体をその上に置くようになっている。さらに骨だけを収める蔵骨場所が、それぞれのベンチの下やその部屋の入り口の両横に掘ってあり、そこへ骨を収める。したがってベンチは次ぎの遺体の安置に用いられる。ある墓には、15人の個人の蔵骨場所があって、どれも骨でいっぱいであった。この型は後のアルコソリゥム型の墓へと移行することになる〔Connally 60を参照せよ〕。前10〜8世紀には、洞穴型のベンチ様式が、北イスラエルと南ユダヤで用いられた。しかし、捕囚期以後には、「浴槽タイプ」や「壺タイプ」の臓骨器?も用いられた。だがユダヤでは、先のベンチ型が圧倒的に多い。しかし前6世紀頃になると、フェニキアの影響か?墓室の下に、さらに縦穴式の部屋ができるようになった〔Connally 61〕〔Anchor(1): 787〜88. Elizabeth Bloch=Smith〕
■第二神殿時代
 第二神殿時代の墓の典型は、エルサレムとエリコの二箇所で代表される。エルサレムでは、城壁の西側を除いて3面を囲むように墓が並ぶ(ヒンノムの谷/キドロンの谷/第2城壁の北側で後のダマスコ門の北)。墓は至る所に掘られ、樹木やその他の植物が周囲に植えられている。埋葬にはコヒム型とアルコソリゥム型との二つのタイプがある。エリコでは、街の外、すなわち街の西にある丘陵地に掘られている。エリコでは、第一次の木棺型の埋葬か、もしくは第二次の蔵骨器型の埋葬が発掘された(必ずしも木棺→蔵骨器という二度方式ではなかった?)〔Anchor (1) 789~93: Rachel Hachlili〕。
  以下の記述は、『聖書考古学大事典M・アヴィ・ヨナ他編集/小川英雄他訳 講談社(1984年):274〜88頁を参照したものである。
 第二神殿時代のエルサレムの墓地は、町の周辺のどの方向にもかなり広い地域に散在している。町の西側では今まで発見されている墓はわずかである。埋葬は主に北、東、南の中心地に集中している。北方では、埋葬地域はスコボスの谷(ワディ・ウム・エル・アメド)のサンへドリア地区の北にはじまり、南に向ってエルサレムの第三城壁近くのヘレナ妃の墓にまで広がっている。東ではオリーヴ山、スコボス山の斜面全域に散在し、南方面ではキドロンの谷やそれから分岐する小さな谷沿いの斜面岩肌を掘削して墓が設けられている。
 埋葬様式については、庶民は地表を掘った簡単な墓に埋葬されたと推測することができる。これらは消滅してしまい、何の痕跡も残さない。現在まで残り、しかも日の目を見ることになった墓はいずれも岩を掘削して設けた地下墓室をもつ家族墓である。家族墓のありふれた形式は、きまって壁に棚(ときにはアルコソリゥム)を掘り込んだ方形の部屋(1辺3−4m)である。この部屋には小さな通路(約0.5m幅)を通って入る。部屋は人間の背丈よりも低いので、埋葬者や墓参者が真直ぐに立てるように入ロのところで深さ約0.9mの細長い溝を床に掘り込んでいる。おなじ要領で部屋の3面に棚を設けている。人が直立できる高さの墓ではこのような溝は不要で、ただ低い棚−あるいはまったく無い場合もある−が掘られている。
 死者の遺体は遺体安置棚に安置され、後に肉質が剥離したところで骨を収集して蔵骨器(オシュアリ)におさめる。このようにして家族の他の成員のために墓室を確保する。蔵骨器は通常墓室内の棚、あるいは特別な小室に置かれるが、ときには壁に掘られた棚に発見されることもよくある例である。
 骨を集めて改葬するという慣習は第二神殿末期、さらにその後数世紀のユダヤ人の中に広くゆきわたっていた。「ミシュナ」や「タルムード」に含まれる多数の規定は、埋葬の様式、墓の形体と規模などを取りあつかっている。骨を集める慣習について「まず最初に彼らはアルコソリゥムに葬るのが通例であった。肉体が亡びた後、骨を集め、これらを糸杉の中に改葬する」(『ミシュナ』「モエード・カタン」1章5〜6節)。「死に臨んで父は語った。畑に私をまず葬りなさい。後に私の骨を集め、糸杉の骨箱の中に納めなさい」。改葬をしない埋葬の慣習もある。一部の人びとは遺体がそのまま納められる石棺(サルコフアグス)を用いる。地位の高い大家族は、コヒムをもつ数墓室からなる洞穴墓を所有していた。この一連の墓室は縦にも横にも数レベルに枝わかれしたつくりとなっている。外からはこれらの洞穴墓の正面だけを目にすることができる。一般に正面は飾りがすくなく、小さな入口がついている。洞穴の入口にポーチがある場合には入口は大きく、かつ幅も広い。ある洞穴墓では入口に破風があり、ぶどうの葉と房、アカンサスの葉などが彫られていた。これは典型的なユダヤ人の装飾芸術である。中には壁柱の間の広い入口に2本の円柱をもつ建築様式(二柱式)のファサードがあり、ドーリア式装飾フリーズを支えている。
 全構造が岩からくりぬかれ、地上に独立して建っているという独特の一群がある。岩を掘って墓を構築する技術は、この一群において、完成度と壮麗の点で頂点に達している。第二神殿時代のものでは、ただ2基の重要遺物、いわゆる「アブサロムの墓」と「ゼカリヤの墓」が現在残っている。第二神殿の墓は何百とエルサレムで発見されている。〔前掲書274−75頁〕
【サンヒドリンの墓】
 サンヒドリア地区にあるこの洞穴墓がこの名で一般に知られているのは、埋葬されている多数の遺体の数がサンヒドリンの議員数にほぼ匹敵するからである。洞穴の前には広い庭がある。ポーチへの入口にはアクロテリアをもつ破風で飾られている。これは墓の破風としてはエルサレムでもっとも美しいものである。様式化したアカンサスの葉が破風の全面をみたし、その隙間にざくろの実その他の果実が埋まっている。様式と手法は第二神殿末期のユダヤ芸術の特徴を示すものである。アカンサスの葉をあしらったもう一つの小さな破風状の飾りが、洞穴への直接の入り口上部につけられていた。
 中央の大きな部屋(6×5.5m)は上下2層に並んだコヒムを有する独特の構造である。コヒムをもつ別の2部屋への出入口が設けられている。部屋の隅2ヵ所に他の墓室へ降る階段がある。この種の部屋の一つはまだ完成しておらず、このような墓を掘削していく方法がこの場所ではっきりとうかがうことができる〔前掲書278頁〕。
【シロアム村の南】
イェベル・カレット・エトゥリで1955年に発見された墳墓。これはコヒムをもつ2墓室からなる。部屋の一つでありふれた三つの型(ヘロデ以前の時代、ヘロデ時代)のランプを含む土器の一群とともに30個の蔵骨器を発見した。これには多様な装飾がほどこされていた。そのいくつかには短い刻銘があり、一つの蓋にはアラム語で「この骨箱の中で見つけ出す宝物は、それが何であれこの中に納められている者から神への捧げ物である」という呪いの言葉が書かれていた。この呪詛は「開けてはならない」という短い警告がふつうに見られる第2神殿時代の墓のものとしてはユニークなものである。ドミヌス・フレヴィットの墳墓。約6000平方メートルの地域に広がっているローマ時代の大規模な共同墓地が、オリーヴ山のドミヌス・フレヴィットとして知られる地で1950年代の早い時期に発見された。エルサレムにおいてはこの種の最大の発見である。アルコソリゥム式の洞穴墓20基ほどと、ピット式の約38基の墓が調査された。これらは3〜4世紀のもので、ビザンティン時代にもひき続いて使用された。第二神殿時代のコヒムを有する墳墓は、どれも壁にコヒムを掘りこんだ一つないし二つの墓室からなる通常の型式のものである。主室の床面には中央にピットが掘られている。入口は小さい。小部屋のあるものは蔵骨器を格納するためのものであった。この種の墓では蔵骨器、石棺、土器など多数発見された。硬質の石灰岩で製作された7個の石棺が出土したが、なかにはロゼット、花環、葉、ぶどう蔓などの精巧な浮彫りで飾られたものがある。
 この古墳群では122個の通常の蔵骨器を得た。大部分はふつうのロゼット文か、その変形で飾られているが、なかには極端に変形したものも混っている。蔵骨器にはアラム語、ヘブライ語、ギリシア語による43の刻銘が発見された。そのあるものは命名学や古文字学の観点からかなり興味深いものがある。よくみられる名前はゼカリヤ、イェシュア、マリア、アザリヤ、シェロムツイオン、シメオン、シャビラである。刻銘には、我らの母マルタ、サロメとその子、シャピル(シャビラの男性形)、職人イェホ二、祭司ヤヒン家のメナヘム、(ゼナス〔の子〕改宗者ディオゲネス)どである。蔵骨器の一つにはXPの組合せ文字が認められる。発掘者はこれをユダヤ人キリスト教徒の納骨に帰しているが、この主張は疑問である。1967〜74年の間に、第二神殿時代とそれにつづく時代の洞穴墓がさらに発掘された。墳墓はエルサレムの2地区、すなわちギヴアト・ハミヴタールとスコボス山で建設工事中に発見されたものである〔前掲書280−83頁〕。
【蔵骨器】
 タルムードでは肉体が腐食したのち骨を集めて収める小箱をグルスカマオト(ギリシア語から)と呼んでいる。これは大部分やわらかい石灰岩でつくられ、その長さは人間の最長骨−大腿骨を収納しうるに充分なものであった。その規模は長さ45−75cm、幅25−30cm、高さ25−40cmとさまざまである。蓋は板石、かまぼこ型、切妻型などである。何の飾りもない蔵骨器もあるが、通常は長い側面の片側、あるいは一側面に限らず装飾がほどこされている。もっともよく見うけられる装飾は、波線の枠の中にコンパスで図案化した花弁6枚の2個のロゼットという図柄である。多数のロゼット、あるいは花弁の多いロゼット、他の植物(アカンサスや綜相の葉)の図案、幾何学文様、ロゼットに挟まれたアンフォラ、様式化された葉による仕切りなど、さまざまな変形がある。建築に用いられる装飾つき円柱、門、石組みなども図案として採りあげられていた。蔵骨器は、飾りが彫刻される前に赤や黄に彩色されているものがある。木彫りから援用した技術で彫刻するときに広幅ののみが用いられた。硬質石灰岩の蔵骨器では装飾は浮彫りされている。
【土器】
 埋葬用洞穴で出土する土器は通常あるきまった型のもので、種類も限られている。もっともよくあるものはランプ、瓶、小型の水差し形土器、煮炊用の土器である。ときには鉢、貯蔵用の壷形土器が出土することもある。土器はおおむね墓室に散在しており、遺骨と一緒に置かれているわけではない〔前掲書287頁〕。
■コヒム型とアルコソリゥム型
 上に述べた二種類の墓に関わりなく、埋葬には基本として二つの型(タイプ)があり、実際は、これら二つが様々な形で組み合わされている。(1)コヒム型「壁内横穴型」“loculi”(Heb. kokhim) で岩に横のシャフト型に掘られている。(2)アルコソリゥム型「アーチ天上のベンチの型」“arcosolia”である。分かりやすく言えば、「壁に掘った横穴型」と「壁に掘った寝台(棚)型」で、英語で言えば“bench”と“shaft”である。
  寝台型では、入ると壁内に広い前室があり、そこから3面の壁に入り口があり、それぞれの入り口の奥にさらに部屋があり、その部屋の壁にアーチ型の天上を持つベットが掘られている(ミシュナの規定では3尺と9尺〔PillarNT. Edwards:490.〕。彼は誤ってこれを“kokhim”と呼んでいる)。高貴の身分の場合は、奥室の壁にコヒムが掘られていたり、奥室のさらに下に向かう縦穴があり、そこにもアルコソリゥムを備えた部屋がある〔Connolly,60~61〕。コヒム型はハスモン朝の頃からで、エジプトに起源を持つ(比較的後の時代で第二神殿時代の始め頃からか?)。エルサレムではコヒム型とアルコソリゥム型のどちらも発掘されているが、エリコでは丘の中腹に掘られたコヒム型が多い(すなわちベンチ型がない)。
 墓は、外観の違いにもかかわらず、内部は似ていて、狭い正方形の入り口は、円形の石を転がして塞ぐように溝が掘られている。そこから入ると正方形の4〜5メートル四方の部屋があり、人が立てるように床が深く掘られている。入り口の壁を除いて、3面には、それぞれの壁に3つくらいずつ、1メートル四方で奥行きが2メートルほどの小墓室(コヒム)がある。コヒム型は、ほんらい遺体を木棺(kokh)に入れてそのまま最終埋葬とするものである。もしも、このコヒム型が、初めから第二次埋葬の蔵骨器“ossuary”を収める場所として用いられたとするならば、70センチほどの蔵骨器に2メートルもの奥行きは必要がない。
  コヒム型とアルコソリゥム型のふたつのうちで、コヒム型のほうは、さらにふたつに分類される(したがって全部で3タイプある)。すなわち、エリコに見られるように、最古の形で木棺“sarcophagus”のままで恒久的に埋葬される場合と、第二神殿時代の木棺から骨だけ集められて、個人あるいは家族でごとに別に埋葬される場合である。蔵骨器型は、紀元前30/20年〜紀元70年頃にエルサレムで始まり、徐々に広がったが、この埋葬は135年から3世紀の始め?まで続いた。ただしエリコでは木棺式が紀元10世紀まで続き、その後に蔵骨器が用いられた。大人は平均して60*35*30くらいであるが、大きさは多様であり、様々な文様が彫り込まれている。ほとんどが肌色の石灰岩でできているが、中には陶器のものもある。遺体は先ず家族のコヒムの場所で1年間安置され、その後、骨だけが集められた。コヒムは次の遺体のために空けておかれた。蔵骨器には数人分の骨が入っている場合もある。
 またエルサレムの墓では、数は多くないが、石棺が発掘されている。文様は蔵骨器と似ているが、そこには巧みさや精巧さの違いも認めることができる。これは裕福な人たちあるいは身分の高い人たちのためであった。埋葬品については省略するが、エジプト時代もヘレニズム時代にも、死者の供養に様々な埋葬品が埋められたが、ユダヤでは、死者のための献げ物はそれほど多くない。
■クムラン型
 エッセネの多いクムラン地帯では、異なる埋葬様式がとられた。クムラン宗団の東側に1100体ほどの遺体が南北を向いて埋葬されている。中には木棺で埋葬された者もある。この墓地の外側に、比較的少ないが、女性と子供たちの埋葬地がある。この優劣は、おそらく独身を重視したためであろう。木棺の埋葬はエリコの様式と共通する。個人を重視するこの埋葬は、クムランがユダヤ教の主流とは分離した信仰の流れにあったことを示している。
■結論として
 第二神殿時代に、ユダヤの埋葬は大きく変化した。紀元前1世紀頃には、個人の木棺による恒久的な埋葬が多かった。ところが蔵骨器が導入されることによって、個人だけでなく家族全体を一つにまとめることも可能になった。ただしエルサレムでも、地位にかかわらず全体として個人の蔵骨埋葬が多い。これはヘレニズム時代の個人主義の影響と復活信仰の影響から出ていると思われる〔Yad Ben=Zvi (1) 78--79も参照〕。第一次から第二次の蔵骨器の2段方式への移行は(ただし蔵骨器埋葬それ自体は第一神殿時代から行なわれていた)、紀元1世紀に起こったが、おそらくこれはローマ支配によるユダヤの社会の変化であろう。この原因ははっきりしないが、肉体の罪を消滅させるためという信仰があったからではないか。比較的短期間にユダヤの埋葬にこのような変化が生じたのは驚くべきである。










 

初期青銅器時代(前32−前23世紀)
中期青銅器時代(前22−前16世紀)
後期青銅器時代(前16−前13世紀)
第1神殿時代(前10一前6世紀)
第2神殿時代(前6世紀一西暦70年)
ヘレニズム時代(前4世紀末一前37年)
へロデ時代(前37年一西暦70年)
ビザンティン時代(324年−638年)
(年代は概略を示す)
 
 
■イエスの埋葬
 イエスの処刑地は、プロテスタント学者によって、第二城壁の北の突端の北のほうに位置する「園の墓」が処刑の場所で、したがって、埋葬もその近くだと主張されていた(ペトロ福音書の証言に基づく?)。しかし、最近の発掘で、この園の墓は、イエスの時代より後の者であることが判明した〔Yad Ben=Zvi (1) 163~64〕〔Edwards 490〕。したがって、現在の聖墳墓教会がイエスの墓の場所である。
 イエスの遺体は、アリマタヤ出身の議員ヨセフの「誰も入っていない新しい墓」に、おそらく洗いが行なわれた程度で、香料による処理は後回しにして安置された。安息日の夕方が迫っていたために、それまでに埋葬しなければならなかった(ただしヨハネ福音書の記述は異なる)。女性たちが、香料を携えて再度墓を訪れたのは、このためである。埋葬はヨセフ自身が行なったのではなく、彼の僕たちの手によって行なわれたと思われる。大きな家族用の墓であったために、女性たちは「イエスの遺体が置かれた場所」を確認しておかなければならなかった。(マルコ14章節)。
 イエスの遺体が安置された墓とは、どのような型であったのか? アルコソリゥム型で前室が一つの比較的簡単な様式であったのかもしれない〔Connally 60〕〔Dan Bahat 57〕。ノーランドは、「コヒム型あるいはアルコソリゥム型」“shelf or tunnel”として、どちらか断定を避けている〔Nolland 669〕。聖墳墓教会のイエスの墓は、アルコソリゥム型の最も簡単なものである。これだと、コヒム型とは異なって、女性たちは立ったまま、イエスの遺体に香料を施すことができる。どちらにせよ、イエスの遺体は、後に蔵骨器に収めるはずであった。ちょうどこの頃、ユダヤでは、2段階の埋葬様式へ移行する最中であった。
 第二神殿時代の後期(紀元1世紀の初頭から70年まで)には、それまでのアルコソリゥム型とコヒム型とが混在しており、また、個人の遺体から個人の蔵骨器への2段階の改葬へと移行する時期に当たるから両方の可能性がある。しかし、女性たちが後から香料を施しに来るためには、「アルコソリゥム型(棚型)」のほうが自然であろう。また、アルコソリゥム型は、1年後に蔵骨器に収めることを前提としていたことになる。
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