ローマ帝国のユダヤ支配(1世紀頃)
■1世紀前後のユダヤとガリラヤの統治
 イエスとピラトとの出会いの意味、そこで何が起こったのかを知るためには、紀元1世紀前後のユダヤの政治的な状況とこれに対するローマ帝国の対応の仕方をある程度知っていることがとても重要です。ここで、イエスの時代のユダヤが置かれていた政治的な背景を簡単にまとめてみます。
 マカバイ戦争の後で、ギリシアのセレウコス朝の支配から独立を勝ち得たユダヤは、それまでのツァドク系の大祭司から、ハスモン家のヨナタンが大祭司になり(前153/2年)、ここから大祭司職がハスモン家に移ります。大祭司職は、王権を失ったユダヤにとって、祭司と王との両方を兼務する祭政一致の支配体制をもたらしますが、このハスモン家の祭司たちによって、ユダヤヘのレニズム化がいっそう進行することになります。
 これに対して、ツァドク系の祭司職の伝統を守ろうとしたのが、サドカイ派とファリサイ派です。さらに、この二つのユダヤ教の教派とは別に、『第一エノク書』に代表されるエノク系ユダヤ教がありました。この派もツァドク系を重視しましたが、特にエノク系ユダヤ教からは、さらに派生して「エッセネ」と呼ばれる人たちがでてきます。彼らは、エルサレムの神殿体制を遵守するハスモン家や、これに追従するサドカイ、ファリサイの両派とも異なっていて、水による浄めと聖なる生活を重視していました。このエッセネの中から、さらに分かれて、死海の北西クムランに拠点を置いて生活する人たち(200〜250人くらい?)がいました。このクムラン宗団は、エルサレムの神殿体制を憎み、ツァドク系の伝統を厳守していました。ちなみに、洗礼者ヨハネは、一時、このクムラン宗団に属していたと言われています。また洗礼者ヨハネの後を受けたイエスとその弟子たちによる神の国運動は、エッセネ派の影響を受けていると見られています。
 ところで、ハスモン王朝の支配も、9代目のアリストブロス2世(在位前67〜63年)の時代になると、その弟ヒルカノス2世(在位前67〜40年)との兄弟同士の継承争いによって揺らぎ始めます。気丈で猛々しい兄のアリストブロス2世に対して、温厚で柔軟な弟ヒルカノス2世は対照的な性格だったようです。ところがその頃、ユダヤの南部にあたるイドマヤ(現在のイスラエルのヘブロンの辺りから南はネゲブ砂漠の境まで)を支配していたイドマヤ人アンティパトロス2世が、大祭司職をめぐる兄弟の跡目争いの機に乗じて、弟ヒルカノス2世を支持しながら、しかも東方のナバタイ王国のアレタ王とも結んで、ユダヤの支配をもくろんでいたのです。ハスモン家の兄弟と、イドマヤのアンティパトロス2世との三つどもえの駆け引きは、時あたかもローマの将軍ポンペウスが、ギリシアのセレウコス朝の支配を破って東方にローマの勢力を拡大しつつあった時と重なります。当時ポンペウスは、小アジア(現在のトルコ)を席巻(せっけん)して、シリアのダマスコまで来ていました。
 このために、アリストブロス2世と、対するヒルカノス2世とアンティパトロス2世が、ローマの支持を得ようとして、双方ともにポンペウス将軍に援助を求めていたのです。ポンペウスは、どちらの側にも丁重な対応をしながら、両者を見比べていましたが、気丈なアリストブロス2世がローマの支配を受け容れるつもりがないことを見抜いて、ヒルカノス2世の支持に回りました。ヒルカノス2世のほうが御(ぎょ)しやすいという読みもあったのでしょう。ローマ軍の攻撃を受けたアリストブロス2世は、頑強な抵抗も空しく、敗退してエルサレムへ退きますが、ポンペウスの軍はすでにエルサレムの東のエリコに達していました。アリストブロス2世は、ローマへの降伏を望んだのですが、エルサレムにいる頑固なユダヤ人たちに押し切られて、やむを得ずエルサレムに立て籠もって闘う羽目になります。
 深い谷と頑丈な城壁に守られたエルサレムを陥落させることは至難の業でしたが、ローマ軍は、木材を組み合わせて土をその間に盛るという土木作戦で高い堤を築いて、その上に城壁を破壊する投石機などを載せて、ついにエルサレムの北の城壁と塔を破壊し、そこから一気に市内になだれ込み、神殿とエルサレムを占領しました(前63年)。これによってユダヤは独立を失い、以後ローマの支配下に置かれることになります。ちなみにこの戦いは、およそ100年後に起こったローマ軍によるエルサレムの陥落(後70年)を予想させるものでした。土手を築いて攻撃するやり方も、100年後にマサダの要塞を攻撃したローマ軍の作戦そのままです。
 こうしてユダヤを含むパレスチナは、ローマの将軍ポンペイウスによって占領され、ユダヤは独立を失ってローマ直属の州になり、パレスチナはシリア州に組み込まれました(前63年)。その頃のローマは共和制でしたが、ユリウス・カエサルが元老院で権力を握るのを境に、ローマは共和制から帝政へ移行し始めます。しかしカエサルは、元老院の共和制支持者たちによって刺殺されました(前44年)。その後ローマは三頭政治の時代に入りますが、カエサルの甥(正しくは妹の孫)のオクタヴィアヌスは、ライバルたちを倒して元老院から「アウグストゥス」の称号を受け、アウグストゥス・カエサルとしてローマ帝国の初代皇帝になります(在位前27〜後14年)。
 ユリウス・カエサルの暗殺に先立って、ユダヤの南部にあるイドマヤから、ヘロデ家のアンティパトロス2世が台頭してきます。彼は、徹底した親ローマ政策を採り、カエサルとその仲間たちに軍事的な支援と莫大な資金を貢いで取り入ることで、ユダヤや隣国パルティアのライバルたちとの争いを巧みに切り抜けました。こうしてカエサルの側について戦功をあげることで、アンティパトロス2世はユリウス・カエサルの信任を受けて、ローマの市民権を与えられ、カエサルによってユダヤの長官に任命されました(前47年)。この時から、ユダヤはヘロデ家の支配に移ります。アンティパトロス2世と大祭司ヒルカノス2世は、共にカエサルの信任が厚く、このためカエサルは、わざわざ小アジアのサルディス、エフェソ、ラオディキアなど、移住のユダヤ人が多く住む諸都市にユダヤ人の宗教的自由を認める布告を出したほどです〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』14巻10章〕。
 ローマの元老院内でカエサルが刺殺された(前44年)後で、アントニウスとオクタヴィアヌス(カエサルの甥)の同盟と、対するブルトゥスとカッシウスの同盟軍とが、マケドニアのフィリッピで闘い、オクタヴィアヌス側が勝利を収めます。ちょうどその頃、カッシウスの手の者であるマリコスによって、アンティパトロス2世が毒殺されます(前44年)。しかし、アンティパトロス2世の息子ヘロデは、若くして(15歳)ガリラヤの支配を任され、ユダヤにおける彼の反対者たちを次々と殺して頭角を現わしていました。アンティパトロス2世の息子ヘロデは、祭司ヒルカノス2世と共に、ブルトゥスとカッシウスを倒したアントニウスからユダヤの支配を任され、父の仇マリコスを討つことができました。その後ヘロデは、父の遺志を継いで、徹底した親ローマ政策を採り、軍事的にも財政的にもローマの指導者たちへの援助を惜しみませんでした。こうして彼は、アントニウスの信任を得ることに成功し、このために、アントニウスの意を受けたローマの元老院は、ヘロデが、ユダヤ地域の「王」と称することを認可したのです(前40年)。彼が「ヘロデ大王」と称されるのはこのためです。さらにアントニウスがオクタヴィアヌスに滅ぼされた後では、巧みにオクタヴィアヌス(ローマの初代皇帝アウグストゥス)に取り入ることに成功しました。
 このように巧みに立ち回るヘロデは、自己の支配権とユダヤの宗教的な自治権を勝ち得るために、莫大な金子をローマに貢がなければなりませんでした。このために彼の政策は支配下のパレスチナの住民に重い税負担を強いることになります。このヘロデ大王(統治は前37〜前4年)は、エルサレムを始めユダヤとガリラヤにローマ風の町を建設したり、エルサレムに劇場や競技場を建てて、ローマ風の文化や競技を採り入れました。ヘロデ大王はまた、地中海に面して壮麗な港町を建設して(現在のイスラエルのハイファとテルアビブの中間)、これをローマ皇帝カエサルにちなんで「カイサリア」と名づけました(前22年頃)。ここは、ローマからユダヤへ来る玄関口となり、港に面してヘロデの宮殿があり、後にここが、ローマから派遣されたユダヤの長官/代官の住まいにもなります。
 彼の最大の事業は、エルサレム神殿の再建築です。バビロンから帰還の後に再建された第二神殿は、ペルシア政府の制限の下に再建されたために、ソロモンの神殿よりも低く、全体に見劣りのするものでした。ヘロデ大王は、この神殿の再建を突然に言い出して人々を驚かせたとあります(前20/19年)〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』16巻11章1〜3節〕。この神殿の回廊と外壁を含む全体が完成したのは後64年のことです〔Barnavi, A History of Atlas of the Jewish People.49.〕。しかしこれは、ローマ軍によって破壊されるわずか6年ほど前のことです。
 大王の死後、ユダヤとガリラヤとガウラニティス一帯は、ヘロデ大王の3人の息子たちに三分割され、ユダヤはアルケラオスが、ガリラヤはアンティパスが、ガリラヤ湖の東方はフィリポスが支配することになります。この時にアルケラオスは、父の遺志を継いで王冠を戴くよう進言されますが、彼は、父の遺言をアウグストゥス(オクタヴィヤヌス)が認可するまでは王冠を受けることができないとその要請を断わっています。アルケラオスは、早速ローマへ出向いて、王権の認可を皇帝に申請しました。ところがこれを聞いたガリラヤの領主アンティパスも、直ちにローマへ駆けつけて、自分のほうこそ王冠を受けるにふさわしいと陳情したために、ユダヤとガリラヤとの領主二人がローマ皇帝の前で王冠の争奪を演じる結果になったのです。結局アルケラオスがアウグストゥスの好意を得ることに成功しましたが、彼には形式的な「統治者」の称号が認められたものの、「王」の称号は、以後の彼の能力を見た上で許可されることになります。この三分割案は、ヘロデ大王の遺言に基づいてローマの元老院によって許可されました〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』17巻11章4節〕。
 皇帝からユダヤの支配を任されたアルケラオスは、勝手に大祭司を更迭したり、灌漑用水を自分の棕櫚園に引いたり、兄弟の妻と結婚するなど、民の反感をかう行動を繰り返しました。このためユダヤとサマリアの指導者たちが、彼の暴政をローマの皇帝に訴え出たのです。アルケラオスもローマに出向いて自己弁護をしますが、告発者たちの訴えを聞いた皇帝は、民の取り扱いに注意せよという皇帝の命令に違反したかどで彼を流刑に処しました〔ヨセフス前掲書17巻13章1〜2節〕。このためユダヤは、住民たちの要請によって「ユダヤ王国」から再びローマ帝国の属州となり、シリア州に組み込まれることになります(後6年)。
 一方、ガリラヤの支配を任されたヘロデ・アンティパス(在位前4〜後39年)は、大王の遺志を継いで親ローマ政策を採り、2代目のローマ皇帝ティベリウス(在位後14〜37年)の「友人グループ」に加わることができました。彼はガリラヤ湖畔に町を建設し、これを皇帝の名にちなんで「ティベリアス」(ギリシア名)と名づけました。アンティパスは、死海の東方ナバテアの町ペトラの王アレタスの娘と結婚しましたが、アンティパスの異母兄弟ヘロデの妻ヘロディア(彼女もまたアンティパスの異母兄弟の娘)と恋に落ちて、アレタス王の娘を離別してヘロディアに求婚したのです。ヘロディアもまたこれに応じて夫を取り替えますが、この「不倫と近親結婚」は、洗礼者ヨハネの厳しい批判を受け、このために洗礼者は捕らえられ、ヘロディアの恨みをかって殉教することになります(後28/9年?)(マルコ6章14〜29節。マルコ福音書では、ヘロディアの前夫が「自分の兄弟フィリポ」とありますが、ヨセフスの言う「ヘロデ」というのは公称で、個人名が「フィリポ」だったのか、それともガリラヤの東方を支配したアンティパスの異母兄弟フィリポのことだと間違えたのか?)。ヨセフスによれば、アンティパスは、洗礼者ヨハネの周囲に集まる人たちが革命を起こす前に、「先手を打って」ヨハネを殺害するほうがいいと判断したようです。
 後に、この離婚騒動が尾を引いてか、アンティパスとアレタ王との間に紛争が起こります(後36年?)。この時アンティパスが皇帝ティベリウスに援助を乞うと、皇帝はアレタスに対して激怒して、シリアの総督ヴィテリウスに命じてアレタスを打つよう命じています。しかし間もなく皇帝が亡くなったので、命を受けてエルサレムに来ていたヴィテリウスは、そのままアンティオキアに帰ってしまいました。
 一方、ヘロデ・アンティパスは、ヘロデ家の親ローマ政策を引き継ぐことで、「狐のように」(ルカ13章32節)巧みに立ち回り、その支配を息子のアグリッパ1世(後37〜44年)に譲ることができました。アグリッパ1世は生来の遊び人でしたが、これがかえって幸いしたのか、悪名高い皇帝カリグラ(在位後37〜41年)との親交を深めて、その信任を得ることで領土の支配を拡大し、さらに、その息子アグリッパ2世(後44〜66年)の代になると、ヘロデ大王以来の徹底した親ローマ政策が功を奏して、再び、ユダヤを含むかつてのヘロデ大王の領土に匹敵する広範囲な地域を支配下に置くことが許されました。したがって、イエスが宣教活動をしていた28〜30年頃は、ユダヤとサマリアはローマ直属の地域であり、ガリラヤはヘロデ・アンティパスが支配していました。
■ローマ帝国の政変とユダヤ
 紀元1世紀前後のユダヤの状勢を概観したので、こんどはその状勢を当時のローマ側から見ることにします。紀元1世紀前後のローマは、共和制から帝政へ移行する時期にあたります。ローマの伝統的な共和制を支えてきた元老院の中から、自らを「終身独裁官」としたユリウス・カエサル(前100〜前44年)が出てきました。彼は名門の出でありながら、その独裁性を恐れる同僚の元老院たちによって刺殺されました。その後続いた一連の内戦の後に、最後に生き残ってローマに平和をもたらしたのが、カエサルの妹ユリアの孫であり、カエサルの後継者としてその養子になったオクタヴィアヌス(前63〜後14年)です。
 オクタヴィアヌスは、実父が平民の出でありながら、カエサルにその才覚を認められて養子に迎えられ、最後のライバルであるアントニウスとクレオパトラの連合軍を破ってローマに凱旋しました(前29年)。彼はローマの「初代皇帝」と称されていますが、養父カエサルとは異なり、先祖が貴族の出でもなく、戦略に巧みで勇敢な将軍でもなかったのですが、慎重にしかも巧みに元老院に取り入ってその支持を集め、共和制を護持すると宣言しながら、その実、実質的な権力を自分一人に集めてローマの「軍最高指揮官」(インペラートール"imperator")になりました。また、自らは元老院の一人にすぎないと称しながら、その実、元老院を取り仕切る「第1人者」(プリンケェプス"princeps")に指名され、身分は貴族に属しながら、平民代表の護民官特権を得ることによって、あらゆる法案に対する拒否権を獲得しました。その上彼は、全軍の最高司令官として軍隊を動かす実権を握ったのです。この実権が「インペリウム」(命令権)で、英語の"imperial"(帝国の/皇帝の)の語源です。また「アウグストゥス」(尊厳なる者)という称号を元老院から贈られて、自らの権威を高めました〔塩野七生著『ローマ人の物語:パクス・ロマーナ』(14)新潮文庫(2004年)33〜60頁〕。「インペラートール・ユリウス・カエサル・アウグストゥス」が、オクタヴィアヌスの正式の称号で、彼が初代の「皇帝」(インペラートール:英語"emperor"の語源)と称される所以(ゆえん)です。
 政治と軍事の実権を把握すると、彼は、それまでのローマの属州を「元老院属州」と「皇帝属州」とに分けました(皇帝私領地のエジプトを除く)。ただしこれ以外に、ローマと同盟を結んでいる諸王国があり、それらはトラキア(現在のギリシア北部)、ボスフォロス王国(黒海の北)、カッパドキア王国(黒海東部の南)、アルメニア王国(黒海の東からカスピ海まで)です。これらを併せると、皇帝アウグストゥスが亡くなる頃(後14年)までのローマは、西は現在のフランスとスペインとポルトガルまで、東は現在のイスラエルとヨルダンとシリアまで、北は現在のスイスとオーストリアからブルガリアなどドナウ河の南地域と、アルメニアとアゼルバイジャンまで、南は現在のアフリカ大陸の北辺の地域、エジプトとリビアからチュニジアまでになります。
 アウグストゥスは、ローマの東と西の辺境の地域、すなわち不安定で外敵に備える必要のある州を皇帝属州とし、比較的安定して支配しやすい州を元老院属州に割り当てました。その上で、皇帝属州には軍団を配備し、元老院属州にはほとんど軍隊を置きませんでした。これによって元老院は納得し、皇帝は軍事権を把握することができたのです〔Wikipedia:Ancient Roman Government〕
 ローマ帝国の東部について言えば、ガラテヤ、ルカオニア、アジア州など(現在のトルコの西半分)とアカイア州(現在のギリシア)とは元老院属州でした。ちなみにこれらはパウロの福音宣教の地域と重なります。その東には皇帝属州のガラテヤ州があり、この州は東のカパドキア王国(現在のトルコ東部)に隣接していました。さらにその東にはアルメニア王国があり、アルメニアの南にはシリア州(現在のシリア西部とレバノンとイスラエル)があって、ここはローマの皇帝属州です。シリア州の東側には同盟が定まらない(?)ナバテア王国があり、さらにその東には大国パルティア王国が広がっていて、ここはかつてアレクサンドロス大王の支配を受けたとは言え、ギリシア文明以前のアケメネス朝のペルシア帝国やメディア王国が支配した地域ですから、オリエントの伝統が根強く残っていました。
 ローマは、これら東部地域の安定を図るために、このパルティアを「同盟国」に引き入れようと軍隊による遠征を試みましたが、クラックス将軍は惨敗し、ユリウス・カエサル将軍もアントニウスの大軍もことごとく失敗しました。ローマにとってパルティアは、その南のアラビアと共に、東洋との交易には欠かせない地域で、ローマの経済にとってきわめて重要な交易の相手国でしたから、ローマは、対立しながらも敵対を避けて、パルティアとの交易を図ろうと考えました。
 このように見ると、ユダヤがその中に含まれるシリア州は、ローマの最東端の地域になり、シリア州の北と東には、ローマとパルティアとの狭間にあって同盟/非同盟の定まらないアルメニア王国やナバテア王国が控えていたことになります。こういう大事な所に、唯一神教を固く信じて独立心の強いユダヤが位置しているのは、ローマにとってみればやっかいな問題だったのは間違いありません。
 ヘロデ大王は、ナバテア王国と結婚によって同盟関係を図り(これは後に失敗します)、カッパドキア王国とは縁戚関係を結ぶことで同盟を保ち、ユダヤでは、自分の権力を脅かす者は息子たちと言えども処刑し、民に様々な楽しみを与えながら、反対する者を苛酷に処罰して政権の安定を図り、こうしてローマの庇護下にある「クリエンテス」(属国)として忠誠を尽くしましたから、ローマが彼を高く評価して「ユダヤの王」の称号を許したのです〔塩野:前掲書187〜189頁〕。だから、大王の後を受け継いでユダヤの領主になったアルケラオスが、ローマから王冠をなかなか授けてもらえなかったのも、彼の能力を見極めようとするローマ側の思惑があったと思われます。彼はその「テスト」に失敗して流刑になり、ユダヤは再び皇帝属州になったのです(後6年)〔ヨセフス前掲書17巻13章2〜4節〕。
■ローマ帝国の支配体制
ここでローマ帝国の初期の頃(1世紀前半)の中央の体制と地方総督/地方代官についてごく簡単に述べることにします。
〔皇帝〕先に述べたように、皇帝は元老院の仲間としてその権力を誇示しすぎないよう配慮する必要があったものの、実際には、皇帝の個人的な意志や采配によって法律が決められることが多かったようです。特に皇帝属州の総督(プラエトール)あるいは代官(プレフェクトス)の選任は皇帝の意のままでしたから、個人的な交友関係に左右される傾向が強かったようです。
〔元老院〕皇帝の下には共和制以来の伝統を持つ元老院(セナートゥス)がありました。共和制時代の元老院は名門の貴族たちが多く、2名の執行官(コンスル)を中心に、法律制定だけでなく司法も兼ねていましたが、アウグストゥスは、元老院のメンバーと執行官を含む自分の枢密院を作り(現在の内閣制度に似ています)、そこで政策を決定しましたから、元老院は政策実行の行政機能を果たすだけになりました。共和制末期の元老院は、地方の代表をも含めて1000人ほどいましたが、アウグストゥスはこれを600名に縮小しました。彼はまた、ほんらい騎士階級に属する若い「会計検査官」(クワエストール)たちから、毎年20名を元老院のメンバーに入れて、元老院の入れ替えを実施しました。
 騎士階級(エクイタス)の者たちは、若くして(25歳くらい)都市の行政官か、あるいは税務/財務を扱う会計検査官(クワエストール)に選ばれて元老院に入り、30歳くらいで司法を扱う法務官(プラエトール)に選ばれ、できれば40歳代で行政の最高責任者である執行官(コンスル)に選出され、それから元老院を退いて、執行官経験者(プロコンスル)あるいは法務官経験者(エクスプラエトール)として、地方総督に天下りするのが出世コースだったようです〔塩野:前掲書140頁〕。皇帝属州の総督は皇帝の選任事項で、任期も皇帝の意向によっていました。元老院属州は元老院の選出によって派遣先が決まりました。これは籤(くじ)による場合もありましたが、実際は話し合いによる場合が多かったようです。
〔騎士階級〕騎士階級(エクイタートゥス"equitatus")とは、ほんらい軍隊の騎士団のことで、このクラスは貴族ではなく元老院の下位に位置していましたが、彼らは軍事だけでなく幅広い分野を担当していました。元老院のメンバーは、大土地の農場所有者たちが多く、元老院のメンバーは直接商業活動に携わることが許されませんでした。だから、商業、財務、税務などは騎士階級の者たちが担当することになります。彼らは「プロクラトール」"procurator"と呼ばれ、様々な分野に関わっていましたが、特に財務関係が多かったようです。皇帝財務官(プロクラトール インペリアーレ)ともなれば、小さな皇帝属州の「知事」として、総督と同等の仕事に当たる場合もあり、またプロクラトールの中には、元老院から派遣されて、元老院属州の総督の下で、財務担当の主計官になりました〔Wikipedia: Ancient Roman Government.〕。騎士階級(エクイタートゥス)は様々な分野を担当し、かつそこから元老院に入り貴族になる道も開かれていましたから、アウグストゥスは、彼らを重用し、時には能力ある者を抜擢(ばってき)したようです。
〔プラェフェクトゥス〕騎士階級が担った役職の一つに「長官/代官」(プラェフェクトゥス"praefectus")があります。プラェフェクトゥスには、プラェフェクトゥス・プラエトリオ(皇帝の近衛師団長)、プラェフェクトゥス・ウルビ(首都ローマの治安を司る長官)、プラェフェクトゥス・アェギュプティス(皇帝の私領エジプト州の長官)など、いろいろな職種がありました。
 例えば、大プリニウス"Gaius Plinius Secundus "(23/4〜79年)は、ローマの軍人、政治家、学者として帝国内を旅して『自然史/博物誌』を著わした人物です。この人はユダヤのエッセネの人たちについて貴重な記録を遺しています。プリニウスの家もローマの騎士階級に属していました。彼は先ず、軍隊の将校を務め(44〜45年頃)、次に二つの皇帝属州の皇帝財務官(プロクラトール)になり(70〜77年)、次にヴェスパシアヌス帝の下で国務秘書を務めた後で、さらに79年にはナポリ湾での海軍提督/長官(プラェフェクトゥス)に任ぜられています〔Wikipedia: Ancient Roman Government: The Augustan equestrian order. Source from the British Museum.〕。
 これで見ると、「プラェフェクトゥス」は、元老院クラスの貴族ではないものの、将校、将軍/提督などの軍事面だけでなく、財務官、地方の州財務長官あるいは州の長官などの行政職をも担当していたことが分かります。元老院の家系の息子は、先ず騎士階級に属し、そこから元老院に入るのが常でしたから、騎士階級は元老院の下位に属すると見なされていました。元老院属州の総督は、元老院の出で、執行官経験者(プロコンスル)や法務官経験者(プロプラエトール)などでしたが、皇帝属州の場合は、その総督/知事は皇帝の選任事項でしたから、必ずしも元老院のしきたりには従わず、それぞれの州の状況に応じて騎士階級からも抜擢されたようです。皇帝属州は概して辺境に多かったので、軍隊を配備する必要があったからでしょう。だから、プリニウスの場合のように、エジプトの統治が騎士階級の長官であっても元老院は抗議しなかったのです〔塩野:『ローマ人の物語』(14)206頁〕。
 では、地方に派遣された総督あるいは代官(プラェフェクトゥス)の仕事はどのようなものだったのでしょうか。第一に、ローマ皇帝あるいは元老院の代理として、その州の徴税の任務を負わされたことです。地方総督ともなれば貨幣(ただし金貨や銀貨ではなく銅貨)を鋳造する権限を有し、その地の財閥や神殿と交渉するなど、その州の財務の総責任者でした。第二に総督あるいは長官は、その州の司法(裁判)の最高責任者として、死刑の権限を持ち、死刑は彼の裁判による判決によらなければなりませんでした。裁判については、そのほかに、直接ローマ市の長官(プラェフェクトゥス)や、ことによれば皇帝に直訴する道もありましたが、これは長旅と費用がかかる上に、直訴したとしても地方総督や代官の判定を覆すことは困難でした。騎士階級の活用はアウグストゥスに始まりますが、ティベリウス帝にもこの方針が受け継がれ、彼は軍団長にも騎士の出を抜擢したほどです〔塩野『ローマ人の物語』(17)102頁〕。
 第三の責務は治安維持で、特にユダヤのような辺境の地区では、これが最も重要な任務でした。ピラトがイエスの裁判に関わった当時、ティベリウス帝のローマは、帝国の北西部、特にゲルマニア(現在のドイツのライン川以東の地域)への遠征に多くの軍団を差し向けていました。対する帝国の東部には、東にパルテア王国を控えていたために、これに最も近いシリア州では、特に治安維持が最大の課題でした。ティベリウス帝は、父アウグストゥスとは異なって、どちらかと言えば守りの姿勢が強く、特にパルティア王国との関係は、政治的、軍事的、そして交易の面からも特別の配慮が必要でした。当時のローマ帝国にとって「東部問題」とはパルティア問題のことで、この意味でシリア州のユダヤ地区は重要な位置を占めていたのです〔塩野:『ローマ人の物語』(17)128頁〕。
 このように見ると、ローマから地方の州へ派遣された「支配者」(マルコ10章42節/ローマ13章3節)には、総督(プロコンスル)や財務長官(プラェフェクトゥス)や代官(プラェフェクトゥス)などがいましたが、それぞれの州の状況に応じて、異なる身分の者たちがあたったことが分かります。ただし、最終的には、彼らがローマ皇帝代理であることに変わりありません。皇帝属州の「支配者」たちの任期は通常1〜5年で、これは皇帝の一存で決まりました。
 軍事面だけで見ると、皇帝属州には比較的軍団の配備が多く、地方総督(プロコンスル)は、その州の幾つかの軍団の総指揮権を握っていました。紀元6年以降のローマの軍団配備を見ますと、ライン川沿いに七つ〜八つの軍団が配備されており、次に東部のシリア州に四つの軍団は置かれていて、それ以外はまばらに一個ずつ軍団が置かれていました〔塩野:『ローマ人の物語』(15)106頁〕。一軍団は約6000名で、正規の軍団はローマの市民権を持つ兵士たちで構成されていましたが、そのほかに現地の諸国民、諸部族からなる「補助軍団」がありました。小さな州には、通常一つの軍団のみが配備され、その軍団はその州の長官/代官(プラェフェクトゥス)が指揮する場合が多く、必要に応じてより大きな州からの「援軍」を要請することができました。また、プラェフェクトゥスの場合は、任期が5年を超えることもありました。言うまでもなくこのやり方は、アウグストゥス以後のことです。
〔シリアの総督とユダヤの代官〕
 州総督は、原則として、執行官(コンスル)を経験した者(プロコンスル)か、あるいは法務官(プラエトール)経験者(プロプラエトール)に限られていました。しかし、その下の地位にあるプロクラトールとプラェフェクトゥスとの関係は微妙です。プロクラトールは、制度的にはプラェフェクトゥスに入りますが、プロクラトールのほうが、より正式な「長官職」を意味していたようです。しかし、プロクラトールの地位がこのようにはっきりするのはクラウディウス帝(在位41〜54年)の在位以後のことで、その場合でも、独立した命令権を保持していたわけではなく、「上司」にあたる地方総督の認可が必要だったようです。したがって、クラウディウス帝の在位<以前>においては、皇帝属州の比較的小さな州では、騎士階級出身のプラェフェクトゥスが派遣され、しかも彼らには治安維持のために必要な比較的小さな軍隊しか与えられていませんでした。
 ちなみに、初代の皇帝アウグストゥス・カエサルからティベリウス帝とカリグラ帝を経てクラウディウス帝の頃までのシリアの総督は以下の通りです。グラトゥス・カエサル(前1〜後4年)/L・V・サトゥルニヌス(後4〜5年)/P・S・クィリニウス(クレニオ)(6〜11年)/Q・M・C・シラノス(12〜17年)/G・C・ピソ(17〜19年)/C・S・サトゥルニヌス(19〜20年)/A・ラミア(20〜?年)/L・P・フラックス(?〜35年)/L・ウィテリウス(35〜39年)/P・ペトロニウス(39〜42年)/G・V・マルスス(42〜45年)/G・C・ロンギヌス(45〜49年)/G・U・クァドラトゥス(51〜?)/〔『旧約新約聖書大事典』年表(教文館)1365〜71頁〕。シリアの総督名をあげたのは、彼らがユダヤの代官の直接の上司にあたるからです。したがって、ユダヤの長官/代官たちは、ローマの中央政府(特に皇帝)とシリア総督との三角関係の枠の中で、ユダヤの治安と徴税の責務にあたらなければならなかったのです。
 先に述べたように、ユダヤは、ヘロデ大王の時代には、ローマの庇護下にある「同盟王国」でしたが、後を継いだアルケラオスの失脚により再び皇帝属州になり(後6年)、その後ヘロデ大王の息子アリストブロス4世の息子(したがって大王の孫)であるヘロデ・アグリッパ1世(在位37〜44年)の時代に、彼は再びローマの信任を得て王の称号を許され、ユダヤは再度「同盟王国」になります(41〜44年)。使徒ヨハネの兄弟である使徒ヤコブを殺したのはこの王です(使徒言行録12章1節)。アグリッパ1世が亡くなると、ユダヤはまたまた皇帝属州になりシリア州に組み込まれます。ところが1世の息子アグリッパ2世もネロ皇帝からユダヤの支配を任されますから、ユダヤは、ヘロデ大王の在位まで(後4年)が同盟王国で、アルケラオスの失脚まで(6年)が同盟国で、その後皇帝属州になり、アグリッパ1世の在位41〜44年に再度王国になり、その後また皇帝属州になり、1世の息子アグリッパ2世の在位61年にまたも王国になり、70年に滅亡するというめまぐるしい変遷を経ることになります。
 しかし、属州になることで実際の自治権のどこがどう変わるのかを見極めることは必ずしも容易でありません。例えば、ヘロデ大王が亡くなった直後に、エルサレムの祭司たちは、ヘロデが任命した大祭司ヨアザルの更迭を要求し、さらに祭政一致の「王国」(?)の復活をアルケラオスに求めました。アルケラオスは大祭司の更迭を受け容れたものの、事が政治的革命に及ぶのを恐れて、シリア総督ウァルスに軍事援助を請い、その上で王位の継承を請願するために急いでローマへ赴いています。ところが総督ウァルスは、軍隊を出動させることを控えて逆にエルサレムの祭司たちと会い、この際、王政を廃止して祭司政にしてはどうかと勧めたのです。さっそく祭司の代表50名ほどがローマへその旨を陳情に出かけます。一方、ガウラニティスの領主ヘロデ・アンティパスも王位を望んでいましたから、なんとローマ皇帝の傍らで、アルケラオスとアンティパスと祭司団との三つどもえが演じられることになったのです。これには皇帝アウグストゥスも驚いたでしょう。結果は、三者共にその要求がかなえられないまま帰路につきました。
 ところが、アルケラオスがローマへ向けて出発し、ウァルスが安全のためにエルサレムに1軍団を残してアンティオキアへ帰ると、エルサレムに残っていた皇帝財務官サビヌスは、残された軍隊を利用してユダヤの民衆を苦しめ、己の蓄財を企んだのです。このためユダヤに暴動が生じることになりますが、ウァルスはシリアに戻るとすぐに軍団を率いてエルサレムへ向かい、砦にこもって包囲されていたサビヌスを救い出し、反抗を鎮圧します。この事件が尾を引いて、アルケラオスは流刑に処せられます〔ヨセフス前掲書17巻10章〕。
 その後シリアの総督はクィリニウスになります(在位6〜11年)。彼は有能な政治家で、カエサリアなどの港湾都市には幅広い自治権を認めることで、ユダヤの地方都市の穏健派に自治の自由を認可します。これによってエルサレムを中心とする政治運動の力を封じ込めようとしたのです。しかも、エルサレムの祭司たちを中心とする宗教勢力にも自治を認めて、モーセ律法を核にする祭司制度による司法権を容認しました。自由都市とエルサレムとの分割統治、これと祭司制度と政治勢力との分離を組み合わせた巧みな統治方法だと言えます〔塩野『ローマ人の物語』(18)176〜77頁〕。だから大祭司は、律法に従って死刑の判決を下すことまではできます。しかし、刑の執行にあたっては、皇帝代理としての代官の認可を必要としたのです。これがローマの皇帝属州となったユダヤの統治形態であって、皇帝ティベリウスの代になりシリア総督が代わっても、ユダヤの統治はそれ以後かなり安定したようです。
 したがってイエスの裁判の頃には(30年頃)、ユダヤはシリア州に組み込まれていて、ティベリゥス帝の直属の州であり、ユダヤの代官はピラトゥスです。ただし、シリア総督がラミア(20〜?年)なのかフラックス(?〜35年)なのかがはっきりしません。シリア総督の任免については、後で述べるように30〜31年頃は、ローマの中央政府はセイヤヌスが牛耳(ぎゅうじ)っていたので、このこととも関連するのかもしれません。ユダヤは東部の要であって、ティベリウス帝の頃にはローマとパルティアとの緊張が幾分緩和したとは言え、少なくとも二つ〔Wikipedia: Roman Province Index.〕、あるいは三つの軍団がシリア総督の指揮下に置かれていたようです。これに対してユダヤ地区は、後6年にローマの属州になってからはシリア州に組み込まれていて、騎士階級の代官(プラェフェクトゥス。ただしクラウディウス帝以後ではプロクラトール)の支配の下に置かれましたから、配備の軍隊も1個軍団の半分にあたる3000人くらいで、それもローマの正規軍ではなく、現地を中心に募集した「補助部隊」でした。彼らはおそらくギリシア系かギリシア語を話すシリア人でしたから、ユダヤ人との接触に向いていたからです〔塩野:『ローマ人の物語』(18)173〜174頁〕。だから、治安が「手に負えない」場合には、シリア総督の援助を仰がなければならなかったのです〔Anchor(5)805〕
 このように、ユダヤは言わば「小さな」地区でありながら、戦略上重要な位置を占めていて、ここの民は一神教を信じて独立心が旺盛でした。にもかかわらず、騎士階級の代官(プラェフェクトゥス)が置かれていて、彼には治安維持のために必要な部隊だけが配備されていたのです。騒乱の多い割には軍隊の配備が少ないこの状況では、代官は、騒ぎが大きくならないように「先手を打って」苛酷な手段に訴える必要がありました。これが、イエスの当時のピラトの置かれた状況だったのです。
 ちなみに、キリスト教徒たちは、ローマ帝国の方々に散在していましたが、彼ら自身は騒ぎを起こしませんでした。しかし、イエス・キリストを宣教したために、キリスト教徒たち以外の「周囲の人たち」が騒ぎを起こしたのです。このために、ローマの「支配者」たちは、治安維持のためにキリスト教徒たちをも取り締まりました。これがパウロたちに起こったことです。なお、ローマの法の適用は、現在のように一律に平等ではなく、原則として、「個人に対して」適用される性質のものでした。だから、市民権を有する者と、そうでない者とでは、法の適用が全く異なっていたのです。パウロがエルサレムで起こした「騒動」の際に、彼がローマ当局から受けた扱いもこのような理由からです。
〔皇帝ティベリウスとセイヤヌス〕
 ティベリウス(前42年〜後37年。在位14〜37年)は、先帝アウグストゥス・カエサルの娘ユリアと結婚して彼の娘婿になりましたが、アウグストゥス・カエサルの養子にもなった(後4年)ので、ユリウス家の姓に変わり、「ティベリウス・ユリウス・カエサル」になりました。なお、ティベリウスの母リウィアは、彼の実父クラウディウスと離婚してアウグストゥス・カエサルと再婚していますから、ティベリウスの継父であり義父(岳父)でもあるアウグストゥスとの関係は複雑です。ティベリウスには、ユリアと結婚する前に先妻のウィプサニアがいて、二人の間には息子ドゥルーススがいました。
 名門クラウディウス家に生まれながら、こういう複雑な縁戚関係にあったためか、ティベリウスは、実直ではあっても性格的に暗く、人付き合いを好まなかったようで、劇場や競技場を好まず、「最も陰気な人」と呼ばれています。しかし、将軍として優れていて、ゲルマニアやその他の地域の征服を成し遂げました。息子ドゥルーススが26歳の時に、ティベリウスは彼をパンノニア(現在のマケドニア)の反乱鎮圧に派遣し、その際、近衛軍団長セイヤヌスに命じて、2000人の近衛部隊を率いて息子に同伴させています。ティベリウスは、正式にアウグストゥス・カエサルの養子であったことから、アウグストゥスの死後、直ちに皇帝を継承しています(14年)。ところが実の息子ドゥルースス(ティベリウスには同名の兄がいるので区別してください)を亡くしてからは(23年)、後妻のユリアとの間に3男2女を恵まれていたにもかかわらず、引きこもりがちになり、ついにイタリア半島のナポリ湾の南にあるカプリ島に隠遁してしまいます(26年)。
 しかし、彼は皇帝の実権を放棄したわけではなく、その後も書簡や使節を通じて元老院を支配し帝国の統治を継続しています〔塩野『ローマ人の物語』(18)16〜17頁〕。しかしこの頃から、ローマにいるセイヤヌスの台頭が始まります。アウグストゥスもティベリウスも、行政の管理職として、騎士階級からの人材登用に積極的でしたが、これの代表例がセイヤヌスです〔塩野『ローマ人の物語』(17)100〜102頁〕。セイヤヌスは近衛軍団(必ずしも皇帝の身辺警護の役目ではありません)の司令官でしたが、彼はこの「プラェフェクトゥス」の権限を財政と行政へも拡大して、元老院に入り、さらに元老院の「第1人者」の称号まで授与されました。言うまでもなくティベリウス帝の後ろ楯があったからです。
 彼は権力を拡大すると同時に、ティベリウスの手足となって、彼らの政敵を次々と粛正していきました。その多くはアウグストゥスによって改訂された「ユリウス国家反逆罪法」に基づく処刑でしたが、セイヤヌスはあらゆる陰険な手段を用いて、政敵を反逆罪に陥れる「証拠」を作りだして処刑へ持ち込んだのです〔塩野『ローマ人の物語』(18)36頁〕。このために彼の「秘密警察」の手法は、元老院を始めローマの市民たちをも恐怖に陥れることになります。ティベリウス帝は、属州総督の職権乱用や不正に対して、特に厳しかったようで、セイヤヌスは、ティベリウス帝のこの意図を汲んでか、元老院経験者で有力な属州総督(プロコンスル)の一人を反逆罪のかどで告発したのです(通常この種の告発は在任中ではなく、役職を退いた後になされる)。ところが、彼の権力が絶頂に達したと思われるこの時に(31年)、全く突然に、ティベリウス帝は元老院に書簡を送り、セイヤヌスを「国家反逆罪」で告発したのです。不意を突かれたセイヤヌスは茫然自失したと言われています。彼は直ちに処刑されました。これ以後のティベリウス帝は、まるでセイヤヌスの亡霊に取り憑かれたかのように、議員たちを告発し続け、その家族までも巻き添えにして「恐ろしいティベリウス」と呼ばれるにいたったと伝えられています〔塩野:前掲書(18)62〜69頁〕。
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