聖書編集の継承と非継承性について
■ヨハネ福音書の聖書解釈をめぐって
 ここでヨハネ福音書の解釈の仕方をめぐって、ブルトマンとブラウンとの違いを比較対照する事にします。両者ともにヨハネ6章51~58節が、後の編集であることを認めています。だから問題は、テキストが真正なのか編集なのか、ということではありません。そうではなく、両者の違いは、「編集それ自体に対する解釈」の仕方にあるのです。ブルトマンは、編集が、ほんらいのヨハネ福音書には存在しないはずのサクラメント性を「導入する」ために行なわれたと見ています。これに対してブラウンは、ほんらいヨハネ福音書に具わっているサクラメント性をより明確に「引き出す」ために編集が行なわれたと見ているのです。
 ブルトマンは、編集者と伝えられた原作の作者との間には、継承によるつながりが存在しないだけでなく、逆に、先行する原作がほんらい伝えている内容と矛盾する、あるいは対立する方向で編集が行なわれたと見ています。したがって、原作に内在する霊的・信仰的な内容を継承しようとする意図は編集者に全く見られません。このように、先行する原作の作者とこれに向かう編集者との間に霊的・信仰的な継承関係が存在しないことを編集が原作に対して「非継承関係」にあると呼ぶことができましょう。これに対して、編集が原作にほんらい潜在している霊的・信仰的な内容を忠実かつ肯定的に受け継ぐことによって、その内容をより明確にすることで新しい事態に対処しようと意図する場合に、このような編集態度を原作に対して「継承関係」にあると言うことができます。
 ここでは、聖餐に関わる編集句が、ヨハネ福音書の原作の内容から見て、はたして「非継承関係」にあるのか? それとも「継承関係」にあるのか? まさにこのことが問われているのですから、問題になるのは、編集の文言と先行する原作との関係よりも、むしろ編集そのものをどのように「解釈する」のか? ということになります。編集による挿入句を「継承的に」解釈するのか、それとも「非継承的に」解釈するのか、このことがここで問われているのです。
 ブルトマンは、ここでの編集を「非継承的に」解釈しています。それはなぜでしょうか? 編集が「その時点の歴史的な視座」によって行なわれている。このように見るからです。編集は、その時々の社会的、宗教的、政治的、教会的な視点から行なわれるから、当然<それ以前の>作者の意図とは異なった状況の下で行なわれるはずです。その結果、編集は、それ以前の内容を否定したり、作者の意図と矛盾したり、時にはその文書に内在する解釈とは逆の方向を採るのは当然である、こう彼は考えるからです。
 これに対してブラウンは、編集者と原作との間には、一貫した「継承関係」が存在していると見ています。ヨハネ福音書の場合は、継承はヨハネ共同体の内部で行なわれています。しかし、共観福音書の場合でも、編集を巡る継承/非継承の関係は本質的に同じです。また、これらの編集に対して、継承的/非継承的な両用の「解釈」がありえることも同じです。一方では、福音書が伝えようとするイエスにまでさかのぼる一貫した「継承関係」が存在するという視点に立つ解釈があります。もう一方では、イエスの在世中と復活信仰成立以後とこれに続く教会の世代交代とによって、その時々で、イエスの原使信が変化したり、修正されたり、逆方向へ訂正されたりしていることを前提にして、福音書を「非継承的に」解釈しようとする立場があります。
 これで分かるように、ブルトマンの言う「編集」とは、それまでの本文を「訂正」あるは「修正」することです。ヨハネ3章5節の場合には、この福音書のサクラメント性を「否定する方向から肯定へと」逆方向に訂正することです。しかもその編集は、どこまでも編集者が置かれている「その時点での」歴史的な視座に左右されます。この場合の編集は、多くの場合、その時の歴史的な状況に左右されますから、それまでの本文とは違った方向に向かう可能性があります。したがって、編集によって、それまで明らかでなかった本文の内容が、これによってその真意が継承されると考えることはできません。言わば編集が従来の内容を確認する手だてとは<ならない>という意味で、編集と従来の本文とは「非継承性の原理」によって解釈されているのです。聖書本文への編集に向けられるこのようなの解釈は、編集が行なわれた「歴史的状況」を考察することによって初めて「客観的に」正当化されます。だから、このような解釈は、それが拠って立つ歴史的状況への考察の正当性が問われることになります。これが保証されて初めて、その解釈がだれにでも納得できる「学問的な客観性」を保持することができるからです。
 これに対して、ブラウンの解釈では、編集が行なわれたとしても、それは、ヨハネ福音書にほんらい含まれていたサクラメント性を「引き出す」ためであり、これによって、福音書に内在する意義をいっそう明らかにしようと意図することです。したがって、本文中のある語句が多重な意味を帯びていて、その意義が明らかでない場合には、これに何らかの編集が加えられていれば、その編集の意図を読み取ることによって、それまで必ずしも明確でなかった聖書本文の意味が、「後からの編集によって初めて明らかになる」場合があります。これは言わば新しい意味の発見であり、聖書本文に新たな意義が生まれたことになります。この場合、編集への解釈は、原作に対して「継承性の原理」によって行なわれていることになります。
 しかし、このような継承性の原理が拠って立つその根拠は何か? と尋ねられると、これを説明することが非常に難しくなります。これは、そもそも聖書が、霊的・信仰的な言語で書かれている宗教的な聖典であるという事情と深く関係してきます。継承関係による編集への解釈は、編集が行なわれた歴史的状況による史的な基準ではなく、聖書本文に内在する霊的・信仰的な意義を受け継ぎつつこれを発展させるための「継承原理」のことなのです。したがって、このような継承性は、ブルトマンのような歴史的な客観性と合理性とを持つものではありません。なぜなら、継承関係は、継承する者とされる者とが、相互に霊的あるいは信仰的な絆で結ばれていると「信頼する」以外には、外部から見える客観的な証拠や納得できる合理的な説明を持たないからです。
 ブラウンが、「教会の伝承」という時に、彼はこのような継承性への信頼を言い表わしていると考えられます。おそらくブラウンは、ヨハネ福音書のサクラメント性は、地上のイエスの霊性とこれの働き(共に食事すること)の中にすでに内在していたもので、聖餐はイエス自身の霊性の意義へさかのぼると言いたいのでしょう。カトリック教会なら継承性の原理は「教会の伝承である」と答えるでしょうが、それでは十分な説明になりません。だから、これは「イエスの御霊の導き」としか説明することができません。したがって、このような「継承性の原理」を外部からも確認できる客観的な基準によって「証明」することはできません。この原理が解明されて、これが説明できるようになるのは、またまだ先のことでしょう。
 カナダのトロント大学の英文学の教授であったノースロップ・フライは、広範囲な文学類型に及ぶ著作で知られていますが、彼は、聖書について2冊の著作を遺しています。その一つが『偉大な表象大系』です〔Northrop Frye, The Great Code: The Bible and Literature. Harcourt Brace Jovanovich (1982)〕。フライは、教室で学生に聖書を講義するためにこの著作を書きました。そこには、彼の広範な文学的視野によって、聖書で用いられている言語、神話、隠喩、タイポロジーなどが、旧約と新約を通じて体系化されています〔私市元宏「ノースロップ・フライの『偉大な表象大系』と聖書解釈」甲南女子大学『英文学研究』21号(1985年)参照〕。ノースロップ・フライは、聖書に対する批評の方法として、文献学的な批評には控えめながら否定的です。そもそも聖書の言語は、著者と編集者とを区別することに意味があるような言語で書かれてはいないからです。彼は、文献学的な聖書批評が、聖書の言語の本質的な特長を破壊する恐れがあることを指摘した上で、「聖書が霊感を受けていると言うのであれば、それは聖書が編集されたその全過程についてそう言われなければならない。そこには異本との融合、継ぎ合わせ、書き込みなどの編集の全過程が含まれてくる」と述べています〔Frye, The Great Code.203-204.〕。
 聖書の場合のように、一連の長い継承関係によって解釈することは、聖書本文の追加や削除や編集それ自体が、伝承の忠実な発展であり、編集の歴史それ自体も聖書本文と同等の価値と霊的な信憑性を持つことを意味します。ノースロップ・フライが、「聖書の霊感を信じることは、聖書の編集の歴史いっさいを含めて考えられなければならない」と言ったのはこの意味です。
 わたしたちは、ブラウンの聖書解釈を通じて、このような継承性の原理を学ぶことができます。現在日本で行なわれている聖書解釈とこれに基づく注解は、学問的に優れたものが多く、その内容も客観性をもつものです。しかし聖書本文の編集過程に対するこれらの解釈は、歴史的な客観性に基づく非継承性の原理に基づいていることを知っておく必要があります。ブラウンの聖書解釈のように、編集過程それ自体も聖書本文と継承関係にあることを重視する原理に立つ学問的な聖書注解は、日本ではまだまれなのです。
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