イエス様の結婚観
■イエス様の結婚観と創造の御霊
 ここで、イエス様の結婚観について見ることにしましょう。ここでイエス様は、「創造主は初めから、人を男と女とにお造りになった。だから人は父母を離れて、ふたりは結ばれて一体となる」と言われています。その上で、「神様がひとつに結び合わせてくださったものを人が離してはいけない」と言われています。イエス様は、モーセ律法からではなく、創世記の最初の創造のところから始めておられるのです。すなわち、イエス様に言わせるならば、結婚は、神様の創造のみ業なのです。つまり神様が新しくふたりを夫婦一体として「創りだされた」のです。
 だから「夫婦」は、今まで存在しなかったものが、神様の御手によって「創造される」のです。例えて言えば、ふたりが結ばれた結果生まれた子供を「生まれなかったこと」にはできません。イエス様のお考えでは、結婚というのは、ふたりがたまたま「結婚しましょう」と言って一緒になるという、だたそれだけのものではないからです。ふたりの男女が「結び合わされる」というのは、神様の新しい「出来事」だからです。だから、ファリサイ派の人たちが、どんな場合に離婚したらいいですかと聞いたのに対して、そもそも神様がお造りになったふたりに「離縁」とか「離婚」などということは存在しない。こうお答えになったのです。
 ですから、たとえ、夫が妻に離縁状を渡して、離縁したとしても、そんなことで神様から与えられたふたりの関係が解消されるのではない。離縁というものが、そもそもありえないからです。だから、たとえ離縁状を渡しても、その女が他の男と結ばれるなら、これはその妻に姦淫の罪を犯させる結果になる。またその女と結婚する男も姦淫するのと同じであると言われるのです。
 マタイ5章の「心の中での姦淫」の場合と同じように、イエス様はここでも、結婚を法律的あるいは社会的な制度として見るのではなく、神による霊的な結びつきとして「内面的/霊的に」見ています。このような結婚観は、それまでこの問題に関して不利な立場に置かれていた女性への配慮から出たと考えられます。
■ふさわしい助け手
 しかし、イエス様のこの結婚観は、それ以上に重要な変革を含んでいます。それは、このような霊的な結びつきによる内面化によって、結婚が、従来のユダヤ教の伝統的な「子孫を残すこと」を目的とした結婚観から、夫婦の出会いそれ自体を目的とする方向へ道を開くことになるからです。同時に大切なのは、夫と妻とが、この問題に関して神の前に対等な立場に置かれる道を開いたことです。これは画期的なことであると言えましょう。創世記に「彼(男)にふさわしい助け手」(創世記2章18節)/「彼に合う助ける者」〔新共同訳〕とあるのがこれです。ただし、このような結婚・離婚思想は、御霊の働きですから、これを外面的な律法や戒めとして受け取るならば、かえって人間を束縛することになりますから、イエスの教えを制度化することは避けて、人それぞれに働く御霊の自由な導きに委ねられなければなりません。
 イエス様の結婚観には、このように、神の「創造の御霊」の働きを見ることができます。ここから見えてくるのは、御霊の働きにあって、女性は男性の人格的な「交わり」のための相手であり、また男性の「助け手」として、神によって与えられている、という女性観です。このような霊性は、律法や黙示思想からではなく、知恵(ソフィア)思想が、その背景にあると見ていいでしょう。
結婚/離婚については、共観福音書講話と注釈【御国のかたち】の「結婚/離婚」を、また、共観福音書講話の「巡回の旅と女性たち」をも参照してください。
                       戻る