最後の晩餐と聖餐
■パレスチナの食事
 イエスの最後の晩餐から、イエス復活以後の最初期の教会にかけて行なわれた「聖餐」(ユーカリスト)と「愛餐」(アガペー)について、主として、J・エレミアス著『イエスの聖餐のことば』田辺明子訳(日本基督教団出版局:1974年/原書の初版1935年)を参照しながら、その要旨を紹介したいと思います。
 イエスの時代では、1日に3度の食事を採ることができたのは、ギリシア・ローマの比較的裕福な人たちであって、パレスチナでは宮廷人たちか、貴族と上流階級に限られていました。パレスチナでは通常、朝食に塩とパンと水(それに野菜?)を採り、午後遅く、夕方ちかくに食事を採りました。肉類や上等の魚などは、輸送と保存のために価格が高くなりますから、人々は自分の家の近くの家庭菜園で野菜をつくったり、ガリラヤ湖沿岸でとれた魚を食べたり、雀なども食料になりました。しかし、それさえ手に入れることができない人たちがいました。「<今日一日の>糧をお与えください」という主の祈りは、このような「その日の食べ物」が保証されていない人たちを含んでいるという説もあります。したがって、ぶどう酒は貴重で、通常は医療や薬用に用いられました(ルカ10章34節)。
■過越の食事
 しかし、安息日や祭日、特に過越祭の時には、家族が集まってぶどう酒を飲むことが義務づけられていました。過越については出エジプト記12章で語られています。過越の食事は、ニサン(4月)の月の14日午後に過越の羊が捧げられて屠られ、それから、通常は15日が始まる18時から家族揃って苦菜などの過越の食事と共に食べるという形で行なわれました。通常食事は食卓で椅子に座って食べますが、過越の食事は、ヘレニズム世界の自由人(奴隷身分でない人)が宴会の席で行なうように、からだを横にする形で採るのが慣わしでした。これは、神がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から「自由に」してくださったことを記念するためです。過越の食事は、大きく四つの段階を経て、家族の家長の司式によって行なわれました〔エレミアス前掲書128〜29頁〕。
【前菜】
(1)家長による第一のぶどう酒の杯。これはキドゥシュ(聖別)の杯と呼ばれ、安息日あるいは祭日に夕方午後6時以後に行なわれます。ぶどう酒は一つの杯を家族でまわし飲みしました(後には各自の杯で飲みました)。家長は座ったままで、杯を片手で捧げるように持ち上げて、「この日を聖別された方はほめたたえられよ」のような簡単な祝福の言葉を告げ、それから杯を飲み干します。すると全員これにならいます。
(3)前菜:これは緑の野菜と苦菜にジャムで作った粘土状のソースが添えられています。
(4)食事の主要部分である過越の小羊が運ばれます(まだ手を付けない)。
(5)各人に第二の杯がだされます(まだ手を付けない)。
【過越の儀式】
(1)家長による過越祭の解説があり、種のないパンと苦菜の由来などが説き明かされます。これは「ハッガダー」と呼ばれアラム語で行なわれます。
(2)過越の賛美の歌「ハレル」の第一部が歌われます。ヒレル派の場合は詩編113篇〜114篇でヘブライ語の聖書からです。
(3)第二の杯(ハッガダーの杯)を飲みます。
【食事の主要部分】
(1)過越の小羊の肉と「マッツァー」と苦菜で、これにジャムが添えてあります。
(2)家長が種を入れていないパンについて祈祷を捧げます。それからパンを取り上げて「裂いて」各自に与えます。このパンを「マッツァー」(苦しみのパン)と呼びます(申命記16章3節)。祈祷の後で、パンと過越の小羊の肉を全員が食べます。
(3)第三の杯(「祝福の杯」と呼ばれる)が注がれます。
(4)祝福の杯についての祈祷。一同で飲みます。
【結末部】
(1)第四の杯が注がれます。
(2)過越のハレルの第二部が歌われます(詩編114/115篇〜118篇)。
(3)第四の杯(ハレルの杯)への感謝の言葉(頌詞)が語られ、その後で一同で飲みます。
 以上が過越の食事の一つの範例ですが、筆者(私市)の知見が正しければ、食事は小鉢に取り分けられて各自に与えられます。この場合、始めから各自の前に出されていて、食事は、各自の前に左から右へ時計回りに半円形に置かれています。ただし、エレミアスによれば、ぶどう酒は一つの杯をまわし飲みするのがイエスの頃の<古い>しきたりでした〔エレミアス前掲書102頁〕。
 ここで「過越の食事の主要部分」(2)に触れますと、ここでの家長の仕草は三つあります。(1)彼は、横たえていた体を起こして、種のないパンを「取り上げる」。(2)「感謝の言葉」(頌詞)を語る(例えば「主、我らの主、世界の王、パンを地から生ぜしめる者である汝はほめたたえられよ」)。(3)パンをオリーブの大きさほどに「裂く」。これら三つです。それから、裂かれたパンを臨席する人たちに配るのですが、離れて腰掛けている人には手で回され届けられます。最後に家長は、自分のためにもパンを裂き、これを口に入れると、全員が家長に従ってパンを口に入れます。この際に、家長はいっさい言葉を出すことがありませんから、この点に注意してください〔エレミアス前掲書168頁〕。
 次に食事の「結末」(3)に就いて触れると、ここで家長は再び身を起こして立ち上がり、薄められたぶどう酒を満たした杯を給仕から受けとり、腰を下ろして、祝福の言葉を唱え、それから祝福の杯を右手で取り上げて、それを食卓から手幅ほど高く持ち上げて、「全員のために」祝福の祈祷を唱えます。すると全員が「アーメン」を唱えます〔この際の祝福の祈祷とその言葉はエレミアス前掲書169頁を参照〕。
 以上は言わば典型的な過越の食事の例であって、すべての過越において、ここに述べられた形が厳守されたいたわけではありません。イエスの頃のパレスチナでは、ユダヤとガリラヤの地域によって、あるいはファリサイ派やサドカイ派やエッセネ派などの宗派の違いによって、あるいは貧富の差や社会的身分の違いによって、過越の食事にも様々な変形があったと考えられます。
■過越と最後の晩餐の共通点
〔晩餐の日と場所〕最後の晩餐は、共観福音書ではニサンの月の14日(木曜)が始まる午後6時から始まったことになり、イエスの十字架は15日(金曜)の午前から午後にかけてのことなります。しかし、ヨハネ福音書では、この晩餐が13日(水曜)の午後6時以後のことになり、イエスの十字架は、14日(金曜)の午後になります。天文学的な計算によれば、ヨハネ福音書にあるように14日が金曜の年は30年4月7日/33年4月3日になります。また共観福音書にあるように15日が金曜の年は、31年4月27日か、場合によっては、上記の30年4月7日もまた15日の金曜であった可能性があります〔エレミアス前掲書52〜53頁〕。これで見ると、30年4月7日(金曜)が両方に共通しているのが分かります。なお、伝承によれば、その場所は、当時のエルサレムの南西部分のエッセネ地区であったとされていますが、神殿の南側に近い下の町であったという説もあります。
〔晩餐と過越〕イエスが弟子たちと行なった最後の晩餐は、過越の食事であると見ることができます。ヨハネ福音書では13日になりますから、正しくは過越の食事にあたりません。しかし、たとえそうであったとしても、イエスは、その晩餐を過越の慣わしに準じて行なったと考えられています。理由は以下の通りです。
(1)最後の晩餐が通常の午後の夕食ではなく、午後6時以降の夜間に行なわれていることが過越と同じです(マルコ14章30節参照)〔エレミアス前掲書61頁〕。
(2)12〜13人という参加者の数も、過越際の食事に定められた人数と一致しています〔エレミアス前掲書65頁〕。
(3)しかも、からだを横にして食卓についていることも過越祭の場合と同じです(ヨハネ13章25節はこのような姿勢を意味する)〔エレミアス前掲書67頁〕。
(4)パンを裂く行為は、食事の最初に行なわれるのが通常の食事ですが、最後の晩餐では、イエスの頃の過越の慣わし通りに<食事の最中に>行なわれています(マルコ14章22節)〔エレミアス前掲書70〜73頁〕。また、ぶどう酒が、各自の杯ではなく、一つの杯を全員が分け合っているのもイエスの頃の「古い」慣習でした。過越では、日常の食事とは異なって、<最初に>パン裂きが行なわれたという反論もありますが、これは事実ではありません〔エレミアス前掲書101〜102頁〕。
(5)「赤い」ぶどう酒を飲むことも、これが通常の食事ではなく、特別な祝祭日の食事であることを意味します〔エレミアス前掲書71頁/75頁〕。
(6)食事の後でユダが買い物に出かけたとされていることも(ヨハネ13章29節)、この時刻に買い物に出るのは過越祭(15日金曜)と安息日(16日土曜)がつながる「大祭日」であることを意味します〔エレミアス前掲書76〜77頁〕。ただし、このことは、15日が金曜であることを意味しますから、ヨハネ福音書の14日(金曜)の食事と矛盾することになります。
(7)晩餐の終わりに賛美の歌を歌っていることも(マルコ14章26節)、これが過越であることを意味します〔エレミアス前掲書79頁〕。
 また最後の晩餐には、エッセネ派がその宗教的な行事として行なっていた「メシアの聖なる宴会」を予兆する食事が反映されているという見方があります。これは、終末にイスラエルを訪れるメシアを待望するもので、メシアが訪れたときには、選ばれた共同体が、メシアの宴に与ることができると信じられていたからです。
(8)マルコ14章12節に「過越の食事」とありますから、過越の小羊の肉と苦菜が晩餐に含まれていました。ルカ22章15節にも「過越の食事」と明記されていますから、晩餐に小羊の肉があったことを意味しています。さらにマルコ14章20節には「十二弟子の一人で、わたしと一緒に<鉢に食べた物を浸している>者」とあり、これは晩餐の席に苦菜も置かれていたことを示唆しています→過越の食事の主要部分(1)参照。だから、最後の晩餐の席には、小羊の肉も苦菜もでていたと推定することができます。
 共観福音書の最後の晩餐で小羊の肉が明記されていないのは、共観福音書の時代には、最後の晩餐の記憶がすでに<礼典化>されていたからでしょう。この礼典化には、イエス復活直後の原初教会で、イエス・キリストの霊的な臨在を求めて弟子たちが行なっていた「会食」(後の愛餐の起源)が影響していたと考えられます。最後の晩餐が過越であったという歴史的事実が、イエスの臨在にある会食と重なることで礼典化したために、肉も苦菜も明記されなくなったのです。ちなみに、神殿崩壊(70年)以降では、ユダヤ教の過越でも、もはや小羊の肉は過越に含まれていませんでした〔エレミアス前掲書99〜100頁44頁〕。
 エレミアスのこの推論が正しいとすれば、ヨハネ福音書において(90年代に成立)、イエス自身が「過越の小羊」と同一視されていることが、とても重要な意味を帯びてきます。ヨハネ福音書では、イエス自身が犠牲の小羊であり、彼がその「からだ」(小羊の肉)と「血」(注がれた小羊の血)を弟子たちに与えるからです(ヨハネ6章53〜58節)。このことと、ヨハネ福音書で、イエスの十字架がニサンの月の14日の午後、すなわちちょうど過越の小羊が屠られる時と同じであることと関連しているのかもしれません(第一コリント5章7節参照)。もしもこの推論が正しいならば、ヨハネ福音書の十字架が「14日」なのは(後述するようにエレミアスはこれに否定的です)、歴史的な事実ではなく、最後の晩餐での<イエスの言葉>に基づいて、イエスを過越の小羊と同一視していることにもなりましょう〔エレミアス前掲書111頁〕。
■過越と最後の晩餐との違い
 イエスはユダヤ教の伝統の過越の食事を変容させました。
(1)イエスは、最後の晩餐で、過越の食事における「家長」としてではなく、ちょうどエッセネ派の「義の教師」がその弟子たちとメシアの到来を表わす予兆として行なった「聖なる宴会」と同様に、イエスもまた弟子たちの「師」として神の国の到来を待ち望んで食事を行なっていたと思われます(ルカ22章16節)〔エレミアス前掲書42〜43頁〕。ただし、最後の晩餐とエッセネ派の聖なる宴会とは、区別しなければなりません〔エレミアス前掲書44頁〕。
(2)エレミアスによれば、過越と最後の晩餐の大きな違いは、過越は家長自身もこれに与るのに対して、最後の晩餐では、イエス自身は、その食事も飲物も<口にしていない>ことです。ルカ24章16節で、イエスは晩餐の始めに、「わたしは決してこの過越を食べない」と告げています。ただし、この部分と並行するマルコ14章25節では、食事の終わりにこの言葉が置かれていますから、マルコ福音書では、イエス自身も過越を食べてから、食事の終わりに「神の国が成就するまでは、過越を<再び口にしない>」と告げていることになります。したがって、エレミアスは、マルコ福音書よりもルカ福音書のほうを重視していると言えます。ただし、エレミアスは、後述するように、マルコ福音書のほうがセム語に忠実であると見ています。
(3)最も重要なことは、過越で家長が食事(とりわけぶどう酒)の意味について解説するように、イエスがパンとぶどう酒について特別の言葉を語っていることです〔エレミアス前掲書81頁/85頁〕。ここで、過越の「食事の主要な部分」(2)で、家長がパンを裂く場面を思い出してほしいのですが、パンをまわして全員がこれを口に入れる間、家長は言葉を出すことがありません。ところがイエスは、<パンがまわされて口にするまでの間に>、「これはわたしのからだ」と「主の言葉」を語ったと思われます〔エレミアス前掲書168頁〕。だから、「パンについての主の言葉」は、主な食事が始まる食卓での祈祷の<直ぐ後で>語られたと思われます。
 またぶどう酒の場合は、過越の食事の結末(3)での祈祷の後で、杯がまわされている間に「これはわたしの血」が語られたと思われます。だから、過越と最後の晩餐とは、パンとぶどう酒へのイエスの言葉という二つの点で異なっています。なおこの際に、イエスは福音書に記録されていない言葉も添えて語ったと考えられます。ただし、イエスの解釈は、「過去」と「現在」を救済史的に根拠づけて(ルカ22章15〜16節)、「未来/終末」へつながる点で、イエスの頃のユダヤ教の過越の食事と同様です〔エレミアス前掲書85頁〕。
(4)最後の晩餐と過越の食事の最大の違いは、ヨハネ福音書の最後の晩餐記事です。エレミアスによれば、ヨハネ13章1節「過越の祭りの前に」は、過越祭の<前日>を指す言葉ではなく、イエスが「過越祭の以前から」自分の死の近いことを知っていたという意味です。また、ヨハネ19章14節には「過越祭の準備の日」とありますが、「準備の日」(アラム語「アルーバト」)は、ほんらいのアラム語では「金曜日」(アルーブッター)ではなかったかという説があります。だとすればここは「過越の週の金曜日」のことになりますから、共観福音書との矛盾はなくなります。さらにヨハネ19章31節に「翌日は<特別の安息日>であった」とあるのは、初穂の束を揺り動かす「揺祭日」を指しますから(レビ記23章10〜11節)、これはニサンの月の16日にあたります。だから十字架の日は15日になります。その他に、全員がからだを横にして食事をしていたこと(ヨハネ13章25節)、イエスが「パン切れを浸して」ユダに与えたことも、その食事が共観福音書同様の過越の食事であったことを示すものです。したがって、ヨハネ福音書でも十字架の日が過越祭の日であったことの「痕跡をとどめている」と見ることができます〔エレミアス前掲書120〜123頁〕。
■原初キリスト教会の過越祭と聖餐
 ここで原初のユダヤ人キリスト教徒たちによって行なわれた過越祭における断食と聖餐について触れておく必要があります〔エレミアス前掲書190〜93頁〕。従来、キリスト教会での過越祭は、「14日教徒」と呼ばれるユダヤ人キリスト教徒によって行なわれ、それはニサンの月の14日の午後3時に断食を終えるものでした。それは、過越の小羊が屠られるちょうど同じ時刻にイエスの受難を想起するために行なわれたと考えられていました。この日付はヨハネ福音書のそれに従っています。
 しかし、エレミアスによれば、この想定は完全な誤りです。原初のユダヤ人キリスト教徒たちは、次のような仕方で過越祭を過ごしました。
(1)ニサンの月の14日から15日にかけて(14日12時〜18時/15日18時〜0時〜3時)、断食しました。これは、ユダヤ教徒が過越の小羊を屠り、これを食べて過越を祝っていた間のことになります。
(2)15日午前3時に出エジプト記12章が朗読され、これについての説明が行なわれます。
(3)午前3時に断食を終えて、「主の晩餐」(愛餐と聖餐が共に)が始まります。
(4)したがって、これは、イエスの受難を想起するためではなく、イエスの再臨を待望するために行なわれたものです。なぜなら、ユダヤ教では、メシアが過越祭の夜に訪れるとされていたからです。これに従って原初のキリスト教会は、主の再臨を待ち望んで真夜中すぎまで断食をしたのです。だから、鶏が鳴く頃に待望の時刻が終わると、断食を終えて、食卓での交わりにおいて「主と一つになる」愛餐と聖餐に入ったのです。
 ルカ22章15〜20節では、過越の食事に先立って、イエスが食事を断つと告げています。これはイエスが、神の国が成就するまで断食を守ることだと理解されて、原初のユダヤ人キリスト教徒たちも、過越の食事の間断食を守り、主の再臨に備えたことを伝承していると考えられます。したがって、断食の後での過越の食事(愛餐と聖餐)は、過越の小羊の代わりであったことを証ししています。エレミアスのこの判断からすれば、イエスは過越の食事を口にすることがなかったことになりましょう。
 ただし、エレミアスによれば、ルカ22章15〜20節のイエスの断食宣言が、過越の食事に<先立って>おかれていることは、ほかならぬ原初ユダヤ人キリスト教徒が、<断食の後で>過越の食事に与ったことを反映しています。しかも、原初ユダヤ人キリスト教徒のこの行為が、最後の晩餐で語られた「イエス自身の言葉」から由来しているのであれば、最後の晩餐でのイエスの断食の言葉は、イエスが過越の食事を弟子たちと分かち合った後で語られたのか(マルコ福音書)、それとも、過越の食事の前に語られたのか(ルカ福音書)、この点はいぜん不明のまま残ることになりましょう。
■イエスは最後の晩餐において断食したか?
 「イエスは最後の晩餐を弟子たちと分かち合うことをしなかったのか?」ここで、この問題に触れることにします。過越と最後の晩餐の「違い」の項目(2)で述べたように、マルコ福音書に従うなら、イエスは過越の食事の後で断食を告げたことになり、ルカ福音書に従うなら、晩餐の冒頭で断食を告げて、イエス自身は、過越の食事にも、パンにもぶどう酒にも与らなかったことになります。エレミアスは、ルカ福音書のほうを重視して、イエスは過越の初日(ニサンの月の15日)には、晩餐からゲツセマネ、最高法院とピラトの二度の裁判、続く鞭打ちと十字架を背負って刑場へ赴き、最期を迎えるまで断食を通したことになります。彼がその理由としてあげているのは主として次の5点です。
(1)イエスは、神の国が間近な終末に臨んで、自らを神への犠牲として献げられる過越の小羊と同一視しました〔エレミアス前掲書358〜59頁〕。イエスはこの際に、パンとぶどう酒が自分の肉であり血であるという言葉を添えて弟子たちに与えることで、聖餐を制定しました。聖餐とは、イエスのからだとイエスの血を弟子たちに授与することですから、イエス自身はこれを食べなかったことになります〔エレミアス前掲書338頁/341頁〕。
(2)ルカ福音書のほうがマルコ福音書よりも概して資料に忠実であり、特に伝えられた資料の順番を変えることには慎重です〔エレミアス前掲書254頁〕。さらに最後の晩餐では、ルカはマルコではなくルカ独自の資料によっています。だから、断食宣言は、マルコ福音書にあるように晩餐を終えた後のことではなく、晩餐の冒頭にあたって断食が告げられたとエレミアスは見るのです〔エレミアス前掲書149〜150頁/〕。
(3)原初のキリスト教会では、年に一度の過越祭には、ユダヤ教に従って過越を食べることをせず、15日の夕方から夜半過ぎまで断食を守って主イエスの再臨を待ち望み、明け方近くにようやく聖餐を行ないました。これは最後の晩餐を含めて過越に、イエスが断食を守ったことを受け継いでいます〔エレミアス前掲書191〜93頁〕。
(4)ルカ福音書に伝えられた資料それ自体が、イエスの断食宣言を受け継いだ原初教会での断食から出ていると見なすことができます〔エレミアス前掲書193頁〕。
(5)ルカ22章18節の「今後決してあるまい」は、単なる未来への預言ではなく、ヘブライ語/アラム語の語法から見て、それは「願望/目的」あるいは「決意/意向」をしめすものであり、この言い方は誓約の宣言に用いられます。したがって、ここでのイエスの言葉は「飲むつもりが全くない」と食事の冒頭で断食の意向を告げています〔エレミアス前掲書340〜41頁〕。
 これに対して、イエスもまた最後の晩餐に「参与した/与った」と見る理由として、次のような理由が考えられます。
(1)過越の食事では、家長も家族と共にパンとぶどう酒を口にしなければなりません。
(2)生前のイエス自身も、家々で人々と会食を共にしながら、その交わりを通して神の国を伝えています。これが、後の聖餐制定へと結びついたと考えられます。
(3)イエスが弟子たちと共に食事に与っていたのは、共観福音書に共通して「わたしと共に手で鉢に食べ物を浸している/食卓に手を置いている」とあることに示されています(マタイ26章23節/マルコ14章20節/ルカ22章21節)〔ルツ『マタイ福音書』(4)147頁〕。
(5)ここでイエスが告げているのは、断食の宣言ではなく、彼の死への予告であり、神の国が成就するまでは、今後はイエスが弟子たちと共に食事をすることができないことを告げています〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)477頁〕。
(6)復活後に弟子たちに顕われた際には、イエスも弟子たちとパン(と魚)を共にしていると見ることができます。したがって、最後の晩餐においてのみ弟子たちと食事を共にしなかったと見るのはいささか特異な見解と言えます。
(7)ルカ福音書の過越の記述よりも、マルコ福音書のほうが史実であって、イエス自身も食事に与った<その後で>、将来のこととして断食の宣言を行なったという説もあります。この場合「(ぶどうの実からつくったものを)決して口にしない」ではなく、「これ以後はもう口にしない」という意味になります〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1396〜97頁〕〔Keener.The Historical Jesus of the Gospels.300〕
 以上の点を考慮して、フィッツマイヤは、最後の晩餐が聖餐制定の場であるというエレミアスの説に賛同しつつも、断食を含む細部については疑義を呈して、イエスも過越のパンとぶどう酒に与ったと見ています。キーナーもまた、イエスが自分を過越の小羊と同一視した点では、エレミアスの説を受け容れていますが、イエス自身も弟子たちと食事の「交わり」を持ったと見て、イエスは最後の晩餐に「与った」と見ています。
 これらのことから判断するなら、最後の晩餐についてのエレミアスの説は、その解釈を含めて大筋では正しいと認められますが、イエスが過越にあたって断食したかどうかは断定できません。
 この問題は重要です。なぜなら、四福音書で6回も繰り返されている五千人への供食の奇跡において、もしもこの記事が聖餐を<反映>しているのなら、イエス自身はパンも魚も<食べなかった>とも解釈できるからです。五千人への「供食」なのか?それとも「共食」なのか? この違いが確かでないことになります。
 また、エレミアスによれば、ルカ24章30節で、復活のイエスがエマオ途上で弟子たちと食事を共にした記事では、イエスは食事を分かち合ったことになります。同様のことが、ヨハネ福音書21章12節で、復活したイエスがティベリアス湖畔で弟子たちと朝食をとった際にも言えるとエレミアスは見ています〔エレミアス前掲書334頁(注)3〕。イエスが弟子たちと食事を共にしたのならば、それは「交わり」を意味します。これこそ、イエスがその在世中に絶やすことがなかった会食/共食の重要な意義です。
■イエスのほんらいの言葉は何か?
 以上見たように、「イエスが語った言葉」こそが、過越と最後の晩餐とを区別する最大の要因であったことが分かります。では、そこで語られたイエスの言葉とは、ほんらいどのようなものだったのでしょうか? 次にこの点を考察することにします〔エレミアス前掲書216頁以下〕。
 聖餐に関する聖書の箇所は、(1)第一コリント11章23〜25節/(2)マルコ14章22〜23節/(3)マタイ26章26〜29節/(4)ルカ22章15〜20節/(5)ヨハネ6章51節の5箇所です。
〔ルカ福音書の聖餐の言葉〕
 聖餐の言葉の原型にたどりつくためには、まず、ルカ福音書22章15〜20節について触れなければなりません。順序から見れば、これの並行部分は他の福音書にありません。
 
ルカ22章
15イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。
16言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」
17そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。
18言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
19それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた『これは、あなたがたのために与えるわたしのからである。わたしの記念としてこのように行ないなさい。』
20食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。』
 
 ここの聖餐の言葉でまず注意すべきは17〜20節です。この部分は、【A】現在のままの「長い言葉」。【B】19節前半「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた『これはわたしのからである』」だけを残して、19節後半〜20節が抜けている「短い言葉」(「あなたがたのために与える」も抜けている)。これら二つの異なる版に分かれています。短いほうは、「D」と呼ばれる西方教会に伝えられるテキストです。さらに【A】と【B】の中間を取った4種類の別のテキスト(itbe/syrc/syrs/syrp)が存在します。
 ここで問題となるのは、主として、「長い言葉」と「短い言葉」のどちらがほんらいのルカ福音書の本文だったのか?ということです。なぜなら、【A】と【B】については、長いほうが、後から短いほうに加えて挿入されたのか、それとも、短いほうが、ほんらいの長いほうから後になって削除されたのか、このどちらかに変更されたと見ることができるからです。長い現行のテキストのほうが、ほんらいの形だとする見方は、主として次の四つの理由からです。
(1)「短い言葉」は、伝えられている西方教会の諸テキストの中の一部にすぎません。他の西方教会のテキストは「長い言葉」を採用しています。西方教会のテキストの一部だけに削除が行なわれたと考えるのは無理があります。
(2)長いほうは、「杯」(17節)→「パン」(19節)→「杯」(20節)とあって「杯」が二重になっていますから聖餐の順序として不自然です。このために〔D〕の短いほうは、19節後半から20節の「杯」の部分を削除したと考えられます。
(3)しかし、この削除のために、聖餐の順序が「杯」→「パン」の順序になります。その結果、「パン」→「杯」のほんらいの聖餐の順序が逆になったのです。「長い言葉」の編集者のほうは、第一コリント人への手紙でパウロが伝えた最古の伝承、「パン」→「杯」を取り込んでいます。ただし、その際に、17節の杯についてのイエスの言葉を削除することをせずに、そのまま残したのです。結果、「杯」が二重になりました。
(4)「短い言葉」は、おそらく聖餐の言葉が外部から誤解されて、冒涜を受けることを防ぐために、19節後半以下を削除したと考えられます。
 これに対して、「短い言葉」のほうを擁護する説は以下の通りです。
(1)新約聖書のテキスト批評の場合は、原則として短いほうがほんらいの形だと考えられています。
(2)19節後半から20節の言葉が、パウロの言葉と似ていることから、この部分は後からの挿入だと考えられます。
(3)19節後半以下には、ルカ福音書とは異なる語法が見受けられます。
 現在では、「短い言葉」を擁護する説は比較的少数で、「長い言葉」のほうが原型だと見る説が多いようです。第一コリント人への手紙とルカ22章19節後半以下の類似は、パウロの伝えた言葉が礼典化されていたために、ルカ福音書の作者もすでにパウロの伝承を熟知していたからだと考えられます〔新約原典テキスト批評173〜77頁〕。
 これらの問題点をさらにエレミアスによって詳細に考察すれば、およそ次のようになります。まず資料伝承から見れば、「長い言葉」のほうが圧倒的に多数であり、こちらが古いことを証拠立てています。ところが【A】と【B】の仲介に位置するシリア語訳〔syrc〕のテキストでは、19節「パン」→17節「杯」→18節(20節なし)となっていて、その上、「長い言葉」の19節「あなたがたのために<与える>」の「与える」が抜けています。この省筆は「短い言葉」〔D〕と一致するものですから、シリア語訳は「短い言葉」に基づいてこれを敷衍/変更していると見ることができます。シリア語訳から見れば「短い言葉」がほんらいの形のように見えますが、西方教会にはそのごく一部しか伝わらなかったのでしょう〔エレミアス前掲書221〜23頁〕。さらに、エレミアス前掲書は、マルキオンとタティアノスに見られるルカ福音書が、どちらも「短い言葉」のほうを採っているのは、二人が準拠した当時のローマの西方教会で、ルカ福音書をマルコ=マタイ福音書に一致させようとする版が、すでに150年以前から150年頃にかけて存在していたためであると見ています〔エレミアス前掲書228頁/235頁〕。エレミアス前掲書の訳者(田辺明子)は、その訳註で、Dのほうに属するルカ福音書には、現行のルカ福音書から見て比較的長い脱文が見られる例を17箇所にわたって例証しています〔エレミアス前掲書228〜35頁〕。
〔ルカ福音書での最古の伝承〕
 エレミアスは、イエスが最後の晩餐で語った言葉を次のように推定しています〔エレミアス前掲書253頁以下〕。
(1)マルコ福音書もルカ福音書も、当該箇所にセム語的特徴を見ることができます(「ぶどうの実」や「成就する」、また断食と過越の小羊を食べることなど)。
(2)しかしルカ22章16節は、マルコ14章25節から来ているのではなく、ルカの特殊資料から出ていると見なします。例えば、「アーメン、あなたがたに言う」「決して〜ない」「(特定の時間が尽きるその)時まで」「今から後に」などにルカの特殊資料の特徴を見ています。
(3)それらの特徴とは、
(i)ルカ福音書では16節と18節に並行した言い方が見られます。
(ii)15節の「過越を食べる」はヘブライ語と対応します。
(iii)16節「成し遂げられる/満たされる」の受動態はルカ福音書だけで、神の名を避けるための言い方です。
(iv)17節「杯を取り、感謝(エウカリスト)を唱える」は、ユダヤ教での定型句であり、「取る」とは家長が食卓で給仕する者から受け取ることを指す用語です。
(v)「決して〜ない」に「もはや」が欠けているのもセム語的です。
(vi)「ぶどうの木から生じたもの」(=ぶどう酒)という言い方もセム語的です。
(vii)「神の国が来る」という能動態は、「神御自身が来る」ことを指すセム語的な言い方です。
(4)ところがルカ福音書では、セム語的な語法が、ギリシア語の語法に言い換えられています。だからマルコ福音書の「アーメンわたしは言う」「もう決して飲むことをしない」「(神の国)においてこれを新たに飲む」などのセム語的な言い方がルカ福音書にはでてきません。
(i)15節の「過越<を>食べる」という目的語はヘブライ語では前置詞を要します。
(ii)15節の「受難する(パセオー)」という動詞は、ヘブライ語でこれにあたる動詞がありません。
(iii)16節の「<神の>国」のように直接「神」を出す言い方は、ヘブライ語では通常別の言い方で表わされます。
(iv)17節の「感謝する(エウカリストー)」もギリシア語的です。
 以上のことから、エレミアスは、マルコ福音書よりもルカ福音書の言い方のほうが、その<ほんらいの>伝承においては、<より古い>と判断しています〔エレミアス前掲書257頁〕。
 これらから分かることは、イエスの言葉伝承について、次の三つの解釈があることです。
(1)ルカ福音書では、パウロの伝承とマルコ福音書以前からの伝承が融合されている。
(2)ルカ福音書には、非常に古い伝承が受け継がれていて、その伝承からルカ福音書とマルコ福音書とに分かれた。
(3)パウロの伝承が最古のものであり、次いでルカ福音書の伝承がマルコ福音書よりも古い〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)466頁〕。
〔イエスの言葉の伝承構造〕
 最後の晩餐でのイエスの言葉へさかのぼろうとする作業において、エレミアスは、まずルカ福音書の冒頭のイエスの言葉から始めて、次にその言葉伝承の資料分析に入り、ここからは、さらに、その言葉資料の「構造と形式」に入ります。伝えられている資料は五つ、第一コリント11章24節/ルカ22章19節/ヨハネ6章51節/マルコ14章22節/マタイ26章26節です。
 そこでまず、パンのほうから始めます。エレミアスによれば、パンに関して五つに共通する構造は、「これはわたしのからだ(ソーマ)/肉(サルクス)である」"This is my body/my flesh."です〔エレミアス前掲書264頁〕。
(i)これ<以外の>用語では、「取れ」と「食べよ」があります。「食べよ」はマタイ福音書だけで、これは礼典として用いられた用語です。「取れ」のほうは、マルコ福音書とマタイ福音書だけですが、杯のほうでは、「取れ」がルカ22章17節にあります。「取れ」は必ずしも礼典的とは言えません。
(ii)「あなたがたの<ための>もの」は、第一コリント人への手紙とルカ福音書だけにでてきます。どちらもアラム語の語法からではなく、ギリシア語的な用法です。これに対してマルコ=マタイ福音書では「多くの人のために」がでてきます。「多くのため」という言い方はセム語的です。マルコ福音書の場合、「多くのため」がぶどう酒のほうにあってパンのほう欠けています。もともとパンについて言われていたのが、ぶどう酒のほうに移されたようにも見えますが、必ずしもそうとは言えません〔エレミアス前掲書266頁〕。
(iii)第一コリント11章23〜26節では「わたしの記念としてこのように行ないなさい」が繰り返されており、ルカ福音書22章17〜20節では「これを取り、互いに回して飲みなさい」と「わたしの記念としてこのように行ないなさい」のように、どちらの場合も命令が繰り返されています。この繰り返しも後からの追加であって、ほんらいの形ではないと思われます。ただしエレミアスは、「繰り返し命令」が後代の編集だという有力な論証に対して、これがイエスほんらいの言葉形式にさかのぼる可能性があることを否定していません〔エレミアス前掲書427頁(訳者による注)8〕。
(iv)「(からだ)<である>」は、五つの全部にでてきますが、これも後からの追加です。ルカ22章20節の杯の場面にだけ「である」が抜けていますが、これが最古の形です。
 以上から、パンに関する最古の形式は「(とれ)、これはわたしのからだ(ソーマ)/肉(サルクス)」となります。
 では次に、ぶどう酒に関する言葉伝承の構成に入ります〔エレミアス前掲書267頁以下〕。ぶどう酒に関する伝承は第一コリント11章25節/ルカ22章20節/マルコ14章24節/マタイ26章27〜28節の四つです。
「これはわたしの血、契約の(血)である」(マタイ福音書)
「これはわたしの血である。契約の(血)」(マルコ福音書)
「この杯は新しい契約、わたしの血による」(ルカ福音書)
「この杯は新しい契約である、わたしの血による」(第一コリント人への手紙)
 パウロとルカの「この杯」は中身のぶどう酒のことですから、四つとも同じ内容を指していて、共通する構造は「これ(このぶどう酒)はわたしの契約の(流される)血(である)」となります〔エレミアス前掲書267〜69頁〕。
 マルコ=マタイ伝承とパウロ=ルカ伝承のどちらが古いか?という点です。パンに関する言葉とぶどう酒に関する言葉とは、パウロ=ルカ伝承では非対称的な構成になっているのに対して、マルコ=マタイ伝承では対称構造を採っています。このため、非対照的なパウロ=ルカ伝承のほうがより古いという結論が導き出されるかもしれません。ただし、パウロ=ルカ伝承では、「新しい契約」=「杯」という構成になっています。この「奇異な」伝承は、後からのものだと見なす理由になりましょう。また、マルコ=マタイ伝承では、「これはわたしの血である」とあって、あたかも「血を飲む」かのような誤解を与える可能性があります(特にユダヤ人にとって)。このためにパウロ=ルカ伝承のほうが、このような誤解を避けることができますから、この点からも、後から成立した構成だという印象を受けます。ただし、両者の違いは、その背後に複数の伝承が存在していたことをうかがわせますから、伝承の過程それ自体を結論づけることはまだできません。
 そのほかに、「皆、この杯から飲みなさい」(マタイ26章27節)の勧めの言葉、同28節の「<なぜなら>これは・・・・・」と理由を示す言葉が「杯」よりも「飲む」ほうに重点を移していること、「<この>杯」という付加、「<新しい>契約」という付加、「である」の挿入などは後代の編集です。さらに「多くの<ために>流すもの」(マルコ福音書)「多くに<ついて>流すもの」(マタイ福音書)「<あなたがたの>ために流すもの」(ルカ福音書)では、ルカ福音書の「あなたがた」は、礼典参加者のための後からの追加ですから、この点では、マルコ福音書が最古の伝承に近いでしょう〔エレミアス前掲書273頁〕。
 以上をまとめると、最古のイエスの言葉伝承は次のようになります〔エレミアス前掲書274頁〕。
 
取れ)。これはわたしのからだ/わたしの肉。
これはわたしの契約の血/わたしの血による契約。
多くのために・・・・・もの。
 
■聖餐用語とセム語的語法
 以上のように、エレミアスは、聖餐に関するイエスの言葉の最古の形を確認した上で、さらに主としてマルコ福音書の伝承と、これにルカ福音書とパウロの伝承を加えて、諸伝承の用語を文献的に詳細に分析しています。これによって諸伝承がどのような特徴を帯びており、相互にどのように関係するのかを追求するためです〔エレミアス前掲書278〜330頁〕。ここでは、これらの詳細を省いて、その大要だけを紹介します。
〔マルコ福音書14章22〜25節〕 
 マルコ福音書の聖餐伝承に見られるセム語的要素は以下の通りです。
(1)冒頭22節の「そして」は、旧約聖書とパレスチナの歴史記述の特徴です(ヘブライ語の「そして」は一文字の「ワウ」で表わされ、複雑な意味を帯びて連続して用いられます)。ギリシア語では「そして」(カイ)が段落の冒頭に用いられる場合は限られています。
(2)同様に「そして」「そして裂いた」「そして言った」「そして与えた」のように連続して用いられるのもセム語的です。
(3)22節の「パンをとり祝福して」は、家長が過越の食事に際してパンを取り上げ食前の祈りに入る動作を表わします。
(4)22節の「祝福して」(エウロゲオー)は、ユダヤで食卓での祈祷を語る場合のセム語的用法(ヘブライ語/アラム語)です。
(5)22節の「裂いたそして与えた」には主語がありません。イエスの神性を意識して主語を省いたのでしょうか?マタイ福音書には「イエスは」とあり、パウロは「主イエス・キリストは」とあります。マタイはマルコ福音書を補ったのでしょうが、パウロは、マルコ福音書から独立した伝承によった可能性があります。
(6)22節の「裂いた」は、ユダヤの食卓で、祈祷の後でパンを裂く際の習慣を表わしています。
(7)「そして彼らに与えた」には直接目的語がありません(「彼らに」は与格で目的格ではないから)。これもセム語的です。
(8)23節「杯を取り感謝して」の「取る」も、これを祝福する<前に>家長が杯を「持ち上げる」仕草です。これに対してルカ福音書22章17節の「そして杯を<受けとって>感謝して」は、給仕から「受け取る」仕草です。
(9)23節の「感謝して」(「エウカリストー」の分詞形)は、ギリシア語では「エウロゲオー」が通常で、これは、食事の前と後の両方の祈祷を表わすヘブライ語とアラム語に相当します。したがって、「エウカリストー」が、<食前>の祈祷に用いられる場合はありえますが、第一コリント11章24節やルカ22章17節のように<食後>の祈祷に用いられるのはセム語の用法とは異なると言えます。
(11)22節の「わたしのからだ(ソーマ)」は、ヨハネ福音書6章51節では「サルクス」(肉/からだ)です。この「からだ(ソーマ/サルクス)と血」の結びつきはセム語的です。
(12)24節の「流される/注ぎ出される」は、イザヤ書53章12節の「彼は彼自身を死に向かって<注ぎだして>、罪人のひとりに数えられた」とあるのに相当するヘブライ的な言い方です。
(13)24節の「多くの<ために>」の「ために」+属格というギリシア語の形は、セム語の用法から出たギリシア語的な翻訳です。
(14)24節の「多くの」は、「すべての」を意味するヘブライ語の語法からでた言い方です。
(15)25節の「アーメン、あなたがたに言う」は、マタイ福音書では「ところであなたがたに言う」(29節)であり、ルカ福音書では「だからあなたがたに言う」(18節)ですから、ギリシア風に書き直されています。
(16)25節の「もはや決して〜しない」という不自然な二重の言い方は、ヘブライ語の否定の言葉を訳したために生じたものです。
(17)マルコ14章25節の異本には、「<わたしたちは>もはや決して飲むことをしない」と主語が複数になっています。「わたし」を「わたしたち」と言うのは、ガリラヤでのアラム語の特徴です。
(18)25節の「わたしは決してぶどうの実(の杯)から飲まない」の「から」は、ギリシア語では<の杯>を入れないと語法に合いません。ヘブライ語/アラム語なら「ぶどうの実<から>飲む」は自然な用法です。
(19)25節の「ぶどうの実から生じたもの(=ぶどう酒)」という言い方は、ユダヤの食前と食後での祈祷で用いられる定型句です。
(20)25節の「神の国(支配)において」は、ギリシア人には「神の国」が空間的な広がりとして受けとめられますが、ヘブライ語では、「国」=「支配すること」ですから、空間的よりもむしろ時間的に「支配し<続ける>」ことを意味します。
 以上で分かるように、マルコ福音書の語法は、ギリシア語的な語法とは異なっています。
〔ルカ福音書22章15〜18節〕
 ルカ福音書は、マルコ福音書に見られるセム語的な語法をほぼ受け継いでいます。しかし、ルカ特有のギリシア語的な書き換えも見受けられます〔エレミアス前掲書298〜99頁〕。
(1)15節の「そして彼らに<向かって>言った"said <to>"」のように、前置詞が用いられているのはルカによるギリシア語風の書き換えです。
(2)20節の「この杯は、わたしの血にある新しい契約」には「である」が抜けています。これはギリシア語ではなくセム語の語法です(ヘブライ語では「である」"is"が省かれることが多い)。ただし、19節では「これはわたしのからだ<である>」。
(3)20節「わたしの血<にある>」もセム語的で、ヘブライ語の「ブ/ヴ」=「にある/による」から来ています。
(4)20節の「<あなたがたの>ために」はマルコ福音書の「多くのために」をギリシア風に言い換えたものです。
(5)マルコ福音書からルカ福音書へのその他のギリシア語的な書き換えを幾つかあげます。
・アーメン、わたしは言う→だからわたしは言う
・もはや決して飲むことをしない→今からは飲むことをしない
・かの日にいたるまで→いたるまで
 ただしこのようなギリシア語的な言い換えは、全部がルカによる書き換えではなく、一部はルカ福音書<以前から>の伝承資料において生じていたと考えられます。
〔第一コリント11章23〜26節〕
 パウロが伝える聖餐の言葉の特徴を幾つかあげると以下の通りです〔エレミアス前掲書299〜300頁〕。
(1)パウロは、マルコ福音書14章25節に表われたセム語的な語法を変えています。
(2)マルコ福音書のセム語的な言い方の中で、(3)と(6)と(14)だけがパウロに表われています。
(3)24節の「感謝して(パンを)裂いた」では、「祝福する」(エウロゲオー)の代わりに「感謝する」(エウカリストー)を用いてギリシア語の読者に分かりやすくしています(この言葉は現在のギリシア語でも「有り難う」の意味で用いられています)。
(3)24節の「あなたがたのために」も「多くのために」をギリシア語的にしたものです。
(4)24節の「これはわたしのからだである」"This is the body of mine "が"This mine is the body"となっています。強調のために「わたしの」を前に出したのです。
(5)パウロの伝える語法は荘重で、礼典的な文体になっています。これは、コリントの教会など、ヘレニズムの異邦人キリスト教徒のためにセム語的な言い方を言い換えることで生じたものです。
 以上をまとめると、マルコ福音書には、セム語的な語法が最も強く表われています。ルカ福音書では、それがかなりギリシア的に言い換えられています。パウロの聖餐用語は時期的に最古のものですが、逆に典化のために、ギリシア語的な語法が最も進んでいます〔エレミアス前掲書300頁〕。
■聖餐用語の伝承過程
〔諸伝承の相互関係〕
(1)マルコ福音書とパウロの伝承とは、共通するギリシア語の資料にさかのぼるものではありませんが、その主要な点では一致しています。したがって、両方の伝承の背後には、共通する聖餐伝承が存在していたと見ることができます。その原伝承は、アラム語かあるいはヘブライ語です。
(2)パウロの伝承は、時期的には最古の伝承ですが、その内容は、ヘレニズムの異邦人キリスト教会に適合するために礼的に変容しています。だから、パンについての言葉とぶどう酒についての言葉とが、対句になる構成を採っています。ただし、この変容はパウロによるものではなく、それ以前の教会によって形成されたものです。
(3)パウロは、自分もこの伝承を「受け継いだ」と述べていますから、おそらくこの聖餐伝承は、彼が北シリアのアンティオキア教会にいた頃に受け継いだと思われます(45年〜46年の冬)。
(4)ルカ福音書の聖餐伝承には、語法的にも内容的にも、パウロよりもさらに古い箇所が2箇所ほどあります。だから、ルカ福音書の伝承は、パウロのそれよりもさらに古い段階(40年代)にさかのぼるものです。
(5)しかし、最も古いものは、マルコ福音書に保持されている伝承ですから、聖餐制定の言葉は、イエスの死後の30年〜40年の間に定型化されたと見ることができます。
(6)最古と思われるマルコ福音書の伝承と比較すると、パウロの伝承では「食事の後」、ルカ福音書においては「終末的内容」と共に「である」の欠如、ヨハネ福音書では「肉」などが、マルコ福音書の伝承よりもさらに以前の段階を示しています。
(7)ルカ福音書の「長い言葉」伝承では、ギリシア語化した言い方が見られます。これは、ルカ福音書(90年代)以前からのものと言うよりも、パウロの伝承(53年〜54年)以前のものです。
 以上のことから、マルコ福音書とパウロ=ルカ福音書とヨハネ福音書6章の三つの伝承が、それぞれ別個に伝えられたと考えられます。したがって、セム語で伝えられたほんらいの聖餐伝承は、ギリシア語で定型化する以前においては、さらに多様な形であったと推定されます。だから直接イエスによる原伝承へさかのぼることは、これ以上はできません。
礼化以前の歴史的記述へ〕
(8)ただし、パンについては、「裂いた」が共通します。また杯については、「食事の後」は、パンの言葉との対句の形式を破る形ですから、この句は最古の痕跡をとどめています。
(9)内容的に見るならば、伝承の終末宣言に注意しなければなりません。この点から見ると、マルコ福音書14章24節の杯の言葉に続いて25節に断食の宣言が最期に来ています。マルコ福音書とルカ福音書とは、この点が決定的に異なっています。エレミアスはここで、マルコ福音書14章25節は、これに先立つ24節と<うまくつながっていない>と見ています。もしも断食宣言がなされたのであるのなら、ルカ福音書22章17節に見るように、断食宣言へ入るための何らかの導入の言葉が先に来なければならないからです。おそらくそのような導入の言葉が、マルコ福音書14章25節にも<ほんらい存在した>と考えられますが、同23節の杯の言葉を24節の契約の言葉に続けるために、導入の言葉が失われたのでしょう。
(10)ルカ22章15節「そこで彼らに言われた」同17節「そしてイエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた」マルコ14章22節「一同が食事をしている時、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた」|第一コリント11章25節「杯も同じようにして」、などは、聖餐制定の言葉の「枠組み」を構成していて、これらは最古の伝承に最も近づいていると言えます。
(11)聖餐制定の言葉全体への導入の仕方において見るならば、パウロは「主イエスが渡される夜」であり、ルカ福音書では「そして」であり、マルコ=マタイ福音書では「一同が食事をしている時」とあります。マルコ=マタイ福音書のこの句は、ルカ福音書の「そして」を敷衍していると考えられます。
(12)パウロの伝承(第一コリント11章23節)の「主(イエス)」は、パレスチナ以外の地域の言い方です(セム語では、例えば「<わたしたちの>主」のように言うから)。しかし、同24節では「そして」が繰り返されていて、これはセム語の用法で、しかも「そして」は、歴史的な記述の際に連続して用いられます。
 以上のことから、聖餐伝承の最初期の段階は、礼的な言い方ではなく、歴史的な記述であったと見なすべきです〔エレミアス前掲書306〜11頁〕。
 筆者(私市)の見るところでは、ここでエレミアスが指摘している(10)〜(12)の推論は、マルコ福音書とルカ福音書と、そのどちらの記述を優先させるべきかという点においても重要です。ここは、イエスによる終末的な断食宣言が、はたして食事の前なのか? それとも食事の後なのか? という点においても鍵となる推論だと言えます。ここでのエレミアスの論法は、終末的内容と、マルコ福音書の記述への文献的考察と、セム語的な語法から見た歴史的記述とを組み合わせることで立論の一貫性を保っています。
 けれども、これらの立論は、いくつかの前提、例えばマルコ福音書25節に断食宣言への導入部が欠如しているのは、後からの編集によって最期におかれたからだと見ていることなどが、はたして適切なのかが問われることになりましょう(マルコ14章25節の「アーメン、わたしは言う」は、断食宣言への適切な導入と見なすことがなぜできないのか?)。エレミアスの立論は、その言語的かつ内容的な解釈において、概ね正確で正しいという評価を受けています。しかし、例えばフィッツマイヤ他は、エレミアスの聖餐制定に関する説を概ね認めているものの、ほかならぬエレミアス自身の精緻が分析に基づいて、エレミアス自身の結論とは異なる結論を、すなわちイエスが最後の晩餐を食べなかったというエレミアスの見解を否定するのです〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)(1983年)1389〜90頁〕〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)468頁/477頁〕〔ルツ『マタイ福音書』(4)147頁〕。フィッツマイヤやキーナーの『史的イエスと福音書』(2009年)に見るように、エレミアスの断食宣言については、現在(2012年)でも必ずしも一般的な同意を得るにいたっていないのは、筆者の見るところ、その一つの理由としてこの部分にも関連していると思われます。
〔イエスの言葉そのものへ〕
 先にあげた結論では、諸伝承の相互関係からは、イエスの言葉それ自体に近づくことができないという結論でした。しかし、エレミアスは、諸伝承が比較的一致していることを手がかりに、さらに考察を深めて、イエスに直接さかのぼることができる点を諸伝承から二箇所指摘しています〔エレミアス前掲書312〜15頁〕。
(1)そのうちの一つが<「血」+「わたしの」+「契約の」>とあるギリシア語からの推定です。このギリシア語をセム語に訳し戻すことはできません。なぜなら、セム語では、この場合<「血」+「契約」+「わたしの」>と言う形を採るからです。セム語でこれは、<「わたしの契約の」+「血」>のことでも、<「わたしの血」+「契約の」>でもありません。これは<「わたしの」+「契約の血」>を意味します。このような例は、ヘブライ5章7節の<「日々」+「肉(体)の」+「彼(キリスト)の」>にも見られます。これは<「彼の肉(体)の」+「日々」>ではなくて、<「彼の」+「肉(体)の日々」>のことです。
 <「血」+「わたしの」+「契約の」>という語順が、「契約のわたしの血」を表わすためにギリシア語化した形であることが分かれば、逆にこのことから、元のセム語へさかのぼることが<できない>と判断する理由がなくなります。旧約聖書では、契約と過越とが直接結びついていませんが、「新しい契約」という考え方は、エッセネ派の『ダマスコ文書』にはっきりと表われていますから〔『ダマスコ文書』15章3節/8〜9節/16章1節〕、これがイエスの頃に受け継がれていたと考えられます。ただし、エレミアスのエッセネ派への見解について、フィッツマイヤは難色を示しています。
(2)もう一つの箇所は、「あなたがたの<ために>流されるもの」(ルカ22章20節)と「多くの<ために>流されるもの」(マルコ14章24節)で、この「ために」は、元々は杯に関して用いられていたと考えられます(パウロとヨハネは「パン」に、マルコとマタイは「杯」に、ルカはその両方に用いていますが)。「あなたがたの」+「ために」は、七十人訳のギリシア語では「彼はわたしたち<について>苦められた」(イザヤ書53章4節)のように「について」あるいは「のゆえに」が用いられます。だから、ルカ福音書とマルコ福音書の「ために」はセム語の原伝承を指していると見ることができます〔エレミアス前掲書315頁〕。
 したがって、聖餐用語は、後の創出ではなく、イエスに直接さかのぼると判断することが可能です。
〔アラム語か、ヘブライ語か〕
(1)イエスにさかのぼる聖餐用語がアラム語か?ヘブライ語か?については、マタイ6章15節にある主の祈りの中の「負債」と「罪」〔新共同訳ではどちらも「負い目」〕との同一視は、アラム語でしか理解できません(ルカ11章4節では「罪」と「負い目」)。だからイエスがアラム語で語ったのは間違いありません。またマルコ14章25節の異読には「<わたしたちは>決してもはや飲むことをしない」とあって、これは1人称単数を複数で表わすガリラヤのアラム語の用法です。
 ではヘブライ語のほうはと言えば、ルカ22章15節の「望みを望んだ」、同16節「満たされる/成就される」、マルコ14章24節の「多くの」、同25節の「ぶどうの樹の実」と「アーメン」などのヘブライ語が見られます。ヘブライ語は、特に宗教的な用語として用いられましたから、聖餐用語がヘブライ語で語られた可能性がありますが、確認はできません〔エレミアス前掲書318〜19頁〕。
(2)イエスの言葉「わたしの<からだ>」の「からだ」(ギリシア語「ソーマ」)にあたるヘブライ語は何か?という点で言えば、これをヘブライ語の「グーフ」とする説がありました。しかし、「グーフ」は、「死体/遺体」のことであり、ヘレニズム化したパレスチナでは「魂」に対する「肉体」の意味で用いられています。ヘブライ語で「過越を構成するからだ」とは、「過越祭のからだ」の意味ではなく「過越の食事の中の小羊(の肉)そのもの」のことです。だから、「ソーマ」にあたるヘブライ語は「バーサール」/アラム語「ビスラー」(肉/からだ/人)が正しいと考えられます。「血」と「肉」(サルクス)の組み合わせ(ヨハネ6章51節)、これと「血」と「からだ」(ソーマ)の組み合わせ(第一コリント11章24節 )は、どちらもヘブライ語「バーサール」(肉/からだ)にさかのぼるものです。ただし、異邦人キリスト教徒の間では「サルクス」(肉)は誤解を生じる可能性がありますから、パウロは「ソーマ」(からだ)を用いたのでしょう。
 したがって、イエスの語ったヘブライ語はマルコ福音書では、「ゼー(これは)・ブサリー(わたしのからだ)」「ゼー(これは)・ダミー(わたしの血)」です。アラム語では「デーン(これは)・ビスリー(わたしのからだ)」「デーン(これは)・イドゥミー(わたしの血)」です〔エレミアス前掲書325頁〕。
■最後の晩餐の意義
 ここで、エレミアスに従って最後の晩餐の意義を探るとおよそ次のようになります〔エレミアス前掲書331〜41頁〕。
(1)イエスと弟子たちの食事は「交わり」を意味しています。それは、弟子たちだけでなく、卑しい者、貧しい者たちをも共に食事の交わりに加えることで、罪人さえも義人と同等に扱うことを意味しました。ファリサイ派の人が、イエスのこのような食事を批判したのはこのためです(マルコ2章15〜16節)。
(2)しかし、フィリポ・カイザリアで、ペトロがイエスを「神の子メシア(キリスト)」だと告白した時から(マルコ8章27〜30節)、イエスと弟子たちとの日々の食事の交わりは、違った意味を帯び始めます。それは、イエスが神の国を成就した時に初めて可能になる「交わり」を予め「先取り」するものとなり、神の国が成就したことを象徴する「メシアの婚宴の食卓の交わり」としての意義が与えられるようになったからです。この交わりは、卑しい罪人たちをも招く救いの共同体が救い主と共にする食卓の交わりであり、後に教会が行なった愛餐(アガペー)は、ここに起源を持つと考えられます〔エレミアス前掲書332頁〕。
(3)最後の晩餐もまた同様の意義を帯びる食卓です。この過越の食事は、共観福音書によれば木曜日に洗足と共に行なわれました。エレミアスはここで「洗足の木曜日」と言っていますから、彼によれば、過越の食事は、14日(共観福音書によれば木曜日)の午後に、過越の小羊が屠られた直後に始められて、しかもその最初にイエスによる弟子たちへの洗足が行なわれたことになります(洗足はヨハネ福音書13章にだけ記されています)。
 しかし、この過越の食事には、それまでになかった新しい意義が与えられます。これに、かつてイスラエルの民がエジプトを脱出したことを記念するだけでなく、「来たるべき神の国での救済を展望する」意義も与えられたからです。ユダヤ人の言い伝えでは、「メシアは過越の夜に来る」からです。ニサンの月の14日から15日の夜にかけて祝われるこの祭は、創造の夜、アブラハムの契約の夜、解放の夜だけでなく、「神がメシアの来臨を保証されるしるし」の夜でもあったのです。
(4)しかもこの食事は、イエスの受難の日の夜のことですから、それは「告別の会食」であり、このことを表わすためにイエスは、過越の食事において、弟子たちが驚くような仕方で過越の慣例を破り、過越の食事を口にしないと断食を宣言しました。
 エレミアスはここで、「決して〜ない」という否定辞は、マルコ福音書では「誓約」を表わす用語であり、マルコ14章25節でも、単なる未来についての否定ではなく、「飲むことを決してするまい」という決意を表明していると解釈しています。だから、イエスは、最後の晩餐において、過越の小羊を食べることも、ぶどう酒も飲むこともせず、完全に断食したと判断しています〔エレミアス前掲書340〜41頁〕。
 ただし、ここでエレミアスが言う告別と断食との関係については、これが十分に説得力があるとは言えないという異論が提示されています。マルコ福音書に従って、イエスは、弟子たちと食事を共にしたその後で、自分の死を覚悟して告別を表明しており、このことを言い表わすために「神の国が成就するまで、もうぶどうの実からできたものを飲むことが決してない」と告げたと見ることができるからです〔例えばデイヴィス『マタイ福音書』(3)477頁(注)159〕。
(5)エレミアスは、ここでイエスが告げた断食説が「非常に奇異」な説であることを認めつつも、イエスの断食は、宗教的な意味を持つ「強い祈願」を表わすためのものであり、「苦い杯を飲む」ためのゲツセマネでの祈りの格闘と、彼の死によって、来たるべき神の王国へ道を開くためであり、このことを弟子たちに確信させるために行なわれたと見ています〔エレミアス前掲書343〜44頁〕。
(6)イエスが最後の晩餐において断食したことを示す証左として、古代のキリスト教徒が、年に一度の過越祭の日に、ユダヤ教徒たちが過越を食べている間、夜を徹して断食していたことをあげています。これは、イエスを殺し、彼らを迫害するユダヤ人たちの罪を執り成すための断食であり、神の国の到来が間近であることを待ち望むためであり、弟子たちが、終末に変容したからだで、変容した地上で、メシア(キリスト)と共に祝宴を開くことを待ち望むための断食でした。彼らクリスチャンたちは、15日の過越の夜の明け方に、キリストの再臨がまだであることを確認してから初めて、過越を食べたのです〔エレミアス前掲書345〜47頁〕。
(7)ここで、最後の晩餐とキリスト教会の聖餐との関係に触れます。エレミアスは、マルコ福音書とルカ福音書との晩餐記事の相違点に注目します。なぜなら、ルカ福音書は通常マルコ福音書を採り入れる場合に、マルコ福音書の記事の順序を忠実に守るからです(ルカは語録集を採り込む場合も同様に伝承された資料に忠実です)。
 ルカは、神の国で過越が成し遂げられるまで、過越の食事とぶどう酒を口にしないというイエスの言葉を(22章16〜18節)聖餐の言葉(同19〜20節)の<直前に>置いています。これに対してマルコは、聖餐の言葉(マルコ14章22〜24節)のほうを「神の国で新たに飲む日までぶどう酒を飲まない」(同25節)の直前に置いています。だから、ルカ福音書とマルコ福音書では、聖餐の言葉と御国の終末の言葉とが逆の順序になります。エレミアスによれば、これは、ルカ福音書の記事が、マルコ福音書を踏まえたものではなく、ルカ独自の資料によっていることを意味します。さらにエレミアスは、マルコ福音書もルカ福音書も、イエスの聖餐の言葉が厳かに礼典化された文体で語られており、この部分だけが、前後の文体と異なっていると指摘しています〔エレミアス前掲書150頁〕。このことから彼は、イエスの聖餐の言葉(マルコ14章22〜24節)が、最後の晩餐の記事の中でも、最も古い層に属すると見るのです。そのほかの部分では、マルコ14章25節の終末の言葉も、これとは異なるルカ22章15〜20節の終末の言辞も古い伝承から出ていますが、過越の準備に関するマルコ14章12〜16節などは、後から物語を敷衍(ふえん)して加えられたと見ています〔エレミアス前掲書147〜51頁〕。最後の晩餐でのイエスの聖餐の言葉が、礼典として定型化したことは、パウロの場合でも同様です。
(8)最後の晩餐の聖餐の言葉と関連して注目されるのが、パウロが伝えている聖餐の言葉です(第一コリント11章23〜25節)。パウロはこの言葉を「わたし自身主から受けた」と言っていますが、「受けた」「伝える」などはユダヤ教のラビ伝承で用いられる専門用語です。また、「渡される」「記念」「食事」などパウロがあまり用いない用語がでていることから、パウロの聖餐の言葉も独立して定型化した「言葉」として伝えられたものです。特に「キリストのからだ」は、パウロでは、通常「イエスの地上のからだ」のことではなく、「キリストのからだ」としてのエクレシアのことです(パウロ書簡でこのような定型文は第一コリント15章3〜5節にも見られます)〔エレミアス前掲書159頁〕。エレミアスがこのようにパウロの伝える言葉にこだわるのは、これが聖餐の言葉として新約聖書中、最初期のものだからでしょう。
■聖餐の言葉が礼典化する過程
 では、聖餐の言葉がそれ自体で独立し礼典化されるにいたるまでに、どのような過程をたどったのでしょうか?
〔原初の段階〕イエス復活直後の原初教会は(30年代)、イエスの在世中に、イエスが弟子たちや人々と共にした会食の思い出を受け継いでいました。このために、イエスを思い出して交わりを持つ「会食の交わり(コイノーニア)」が持たれ、これと並行して最後の晩餐での「主の言葉」の朗唱が同時に行なわれていたと推定することができます(使徒言行録2章42節)。だからこの段階では、会食(後の愛餐)と最後の晩餐の主の言葉(後の聖餐)とが、まだ明確に区別されていなかったと考えられます。使徒言行録2章42節では、使徒たちの教え→相互の交わりの会食→パン裂き→祈りの順番になっています。ただし、同46〜27節には、神殿に参り→家ごとにパンを裂き→共に食事をし→神を賛美したとありますから、パン裂きと食事の順番が、42節を46節では入れ替わっています。おそらく47節の「神への賛美の歌」は、ユダヤ教の慣わしどおり食事全体の後で行なう祈祷と賛美を指しています。だとすれば、「パン裂き」もユダヤ教の慣わしどおり、単にパンを裂いて食事をすることを意味するのでしょうか〔エレミアス前掲書182〜83頁〕。それとも、パン裂きと会食のふたとおりの順番のどちらかに、ルカの時代の教会のやり方が反映しているのでしょうか。
 どちらにせよ、この段階では、イエスの言葉を覚えるパン裂きと交わり(コイノーニア)の食事は、はっきりとは区別されていませんでした。ただし、使徒言行録の作者ルカ自身は、聖餐を指すパン裂きと会食(後の愛餐)とを区別していたことを念頭に置いておくべきでしょう。
 この最初期段階では、使徒言行録2章42節に「パンを裂き」とあるだけで、ぶどう酒について言及されていませんから、「パン」だけの「聖餐」であったと推定されます。原初のキリスト教会は、自らを「貧しい者」と呼んだように、高価なぶどう酒を用いることができなかったのです。第一コリント11章25節で、ぶどう酒だけに「これを飲む度に」とあるのも、ぶどう酒が常に用いられてはいなかったからでしょう。ルカ22章20節でも、ぶどう酒の後には、パンの場合と異なり、「わたしの記念としてこのように行ないなさい」という命令が欠けているのも、同様の事情が反映していると思われます〔エレミアス前掲書178〜79頁〕。
〔パウロの頃〕パウロがコリントの教会に宛てた書簡の頃(50年代)には、まだ会食と聖餐とが、後の段階ほどには切り離され個別化されいませんでした。第一コリント11章25節に「<食事の後で>杯も同じようにして」とあるのは、パン裂きとぶどう酒が、会食を挟んでその前のパンと後のぶどう酒に分かれていて、言わば会食と聖餐とが一つの流れで行なわれていたことを示すものです〔エレミアス前掲書179頁〕。
 それでもパウロの伝える「主の言葉」(第一コリント11章23〜26節)は、この部分全体が儀式的な響きを帯びていることから、最後の晩餐の「主の言葉」がすでに礼典化されつつあるその過程を読み取ることができます。このことは、以下の用語でも裏付けることができます〔エレミアス前掲書174頁〕。
(1)冠詞付きの「主イエス」(同23節)"the Lord Jesus"という言い方は四福音書には見あたりません。これは礼典で用いられる信仰告白の文体にふさわしい言い方で、そこには明らかに復活のイエスの御霊の臨在が前提されています(第一コリント12章3節参照)。
(2)「引き渡される夜」の「引き渡される」(同23節)は、神による行為を表わす「神的な受動態」(divine passive)で、神がイエスを「引き渡した」ことを指しています。このような神的な受動態は、イザヤ書53章3〜5節で用いられている受動態と同じように、神がその行為者であることを示す祭儀的な言い方です。
(3)「パンをとり、感謝して、裂いた」は、過越の食事の祈祷の形式によっています。ここでは、通常の食卓での賛美/感謝を示す「エウロゲオー」(賛美する/祝福する)ではなく、動詞「エウカリストー」(感謝する)が用いられています。聖餐が後に「ユウカリスティア」と呼ばれる起源をここに見ることができます。
(4)「杯をも同じようにして」とある「杯」には定冠詞がついていて(「パン」は無冠詞)、この定冠詞は、過越の食事での「祝福の杯」を念頭に置いています。ただしパウロは、この杯を「キリストの血に与る」杯として礼典化しています(第一コリント10章16節参照)。
 続いてパウロは、「このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせる」と教えています。だからコリントの教会では、会食の度毎に「主の死が告知された」ことを確認することができます〔エレミアス前掲書163頁〕。ここでの「告げ知らせる」は、申命記26章5〜9節で命じられている信仰告白にさかのぼります。申命記の信仰告白は、イスラエルの信仰告白の最も古い伝承から出ていると見なされています。それは、かつての出エジプトの出来事を想起して、これを今のイスラエルへ結ぶための告白です。パウロが「主の死を告げ知らせる」と言う時にも、これと同じく、イエスの最後の晩餐とその十字架の死を「想起して告知する」ことを意味します。だから、コリントの教会では、集まって会食をする度毎に、最後の晩餐の主の言葉が朗唱されて、「主の死を告げ知らせる」解釈が行なわれていたと考えられます。したがって、コリントの教会では、愛餐と聖餐とが分離する「最初の兆し」がすでに現われていたと見ることができます〔エレミアス前掲書184頁〕。パウロは、コリント教会の混乱を避けるために、「空腹の人は家で食事を済ませなさい」と指示していますから、すでにこの頃から、後の聖餐と愛餐との区別が始まっていたとも考えられます。
 ちなみに、このような会食の席で行なわれた「主の死を告げ知らせる」ための主の言葉は、ヨハネ6章51〜58節にも保存されています。ヨハネ福音書のこの部分が重要なのは、そこに最後の晩餐で語られた「パンについてのイエスの言葉」が含まれているだけでなく、その言葉がどのように説明されたのかをもそこから読み取ることができるからです〔エレミアス前掲書164〜66頁〕。 
〔福音書の時代〕四福音書は70〜90年代に成立したと見られています。
(1)マルコ14章22〜23節は、「一同が食事をしている時」というマルコの編集句で始まります。この句は主の言葉を直前のユダの裏切りへの予告と結びつけることで、「主の言葉」を受難物語に組み込む働きをしています。マルコ福音書でも、パウロ同様に、「パンをとる」「賛美の祈りを唱える」「(パンを)裂く」の三つの動詞が用いられています。ただしマルコ福音書では、パウロ以前に用いられていた「エウロゲオー」(祝福する/賛美する)がでています(パウロ以前からの伝承から出ているのか?)。さらにマルコ福音書には、「そして彼ら(弟子たち)に与えた」が加えられていて、ここに礼典としての聖餐授与を読み取ることができます。続く杯の授与は、パンの授与の形式に準じていますが、祭儀的な文体で詳しく語られています。24節は、「わたしの契約の血」と「多くの人のために流す(血)」が対句になって「これ(杯)」を規定する祭儀的文体です。
(2)マタイ福音書(80年代)では、「(パンを)取る」「賛美する(エウロゲオー)」「裂く」の三語に続いて、「彼らに与えた」と「受け取って食べなさい」が加えられています。杯のほうでは「賛美する」ではなく「感謝する(エウカリストー)」が用いられているのが注目され、また「罪の赦しのために(流す)」が加えられています。これらの特徴は、礼典化がマルコ福音書よりも進んでいることを示すものです。「エウカリストー」を食卓の祈祷に用いるのはヘレニズムのユダヤ教にも見あたらない用法で、キリスト教固有の用法だと考えられます〔エレミアス前掲書175頁/280頁〕。
(3)ルカ福音書(90年代と見られますが、これの最終的な成立を120年頃と見る説もあります)では、聖餐の言葉(22章19〜20節)は、用語の点でパウロとマルコ福音書とマタイ福音書のそれを受け継いでいて、ルカ福音書の段階で、聖餐の礼典的用語がほぼ固定化していることをうかがわせます。
〔愛餐と聖餐との分離〕先のパウロのコリント書簡では、愛餐と聖餐とは、聖餐が愛餐を囲む形で一つながりになっていました。ところが、1世紀末頃から、パン裂きとぶどう酒とが<一つに結びついて>、愛餐から分離する傾向をとるようになります。その結果、聖餐と愛餐は区別されながらも、両方が並行するようになります。ユダの手紙(100年前後)の12節には「親ぼくの食事」とあって、これは特に「愛餐」を指しています〔エレミアス前掲書180頁〕。ユダの手紙とほぼ同時期の『ディダケー』(『十二使徒の教訓』)(1世紀末〜2世紀初頭)では、愛餐→聖餐の順で行なわれていました〔エレミアス前掲書182頁〕。なお、『ディダケー』(9章〜10章)では、「主の名によって洗礼を受けた者以外は」聖餐を受けてはならないとあります。愛餐→聖餐の順序は、おそらくその起源を原初教会で「パンを裂き、祈りをする」(使徒言行録2章42節)とあることから来ているのでしょう。イエスの十字架での贖いの「からだ」を想起して「パンを裂き」、これに伴う復活のイエスの御霊の臨在にあって祈ることが行なわれていたからです。
 このことから判断すれば、分離した愛餐と聖餐が、愛餐→聖餐へと続くのか、聖餐→愛餐となるのか、文献ではふたとおりの例を見ることができますが、愛餐→聖餐から聖餐→愛餐を経て、聖餐だけが日曜の朝に行なわれる、という段階を経ていると推定できます〔エレミアス前掲書180頁〕。
■隠蔽された聖餐の言葉
 ヨハネ福音書13章では、最後の晩餐に際して過越の食事に関する記事が欠如しています。このために、ヨハネ共同体は聖餐を拒否したとか、聖餐の必要性を無視したと言われていますが、この見方は誤りです。むしろ、90年代に成立したヨハネ福音書においては、聖餐にかかわる言葉を外部の人たちから隠すために、意図的にその言葉を隠蔽したと見なすほうが適切です。
 ヨハネ福音書に見られるこのような隠蔽は、イエスに先立つエッセネ派のクムラン宗団において、宗団内部の掟や規定を宗団の外部の人たちに漏らしてはならないという厳しい定めにさかのぼるものです。これは黙示文学において、「あなたは終わりの時まで、この言葉を秘密にして、この書を封じておきなさい」(ダニエル書12章4節)とあるのに起源しています。
 このような隠蔽の伝承は、福音書でのペトロのメシア告白し際して(マタイ16章20節)、またこれに続くイエスの山上での変貌において(同17章9節)、イエスが3名の弟子たちに彼らが見聞きしたことを固く秘密にするよう指示していることにも受け継がれています。これらはどれも、<イエスの受難予告>と関係していることにも留意すべきでしょう。パウロもまた第一コリント2章6〜7節で、信仰(霊的)に成熟した人たちの間だけで語ることのできる「知恵」について、それが、「隠されてきた神の神秘(奥義)」であると述べています。この隠蔽は、終末において神の奥義が開示されて初めて、人々の目に明らかにされるからです(ヨハネ黙示録22章10節)。
 イエスの聖餐の言葉「これはわたしのからだ」も同じように隠蔽の特徴を帯びていると見なすことができます。なぜなら、このような言葉は、外部の人たちには理解しがたい言葉であり、場合によっては誤解を生じる危険性があったからです〔エレミアス前掲書195〜202頁〕。
 おそらくパウロの時代のコリントでも、愛餐(会食)の際には、いまだ教会に所属していない外部の人たち(未信者)も参加していたでしょう。会食は、未信者をも含むもので、その人たちを排除することは、古代のもてなしの慣習に反することだったからです。したがって、聖餐は、後で受洗したエクレシアの人たちだけの間で、食事の後に行なわれたと考えられます。100年前後の『十二使徒の教訓』(『ディダケー』)では、受洗していない者は、食事そのものから排除されています〔エレミアス前掲書208〜209頁〕。
 このことは、ヒュッポリュトス(170年頃〜235年頃)の『使徒伝承』では、いっそう明確に定められています。そこでは、まず洗礼について語られます。洗礼を授ける者は、まず受洗者に「いっさいの悪霊があなたから離れ去りますように」と祈り、浸礼の受洗に入ります。受洗者は、使徒信条に従って「全能の神を信じる」こと、「聖霊によって乙女マリアから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで十字架につけられ、三日目に死者のうちから復活し・・・・・イエス・キリストを信じる」こと、「聖なる教会における聖霊を信じる」ことを告白し、その度毎に三度、水の中へと浸されます。この受洗の後で初めて信者と共に祈ることが許されます。
 エウカリスティア(聖餐)は、受洗した者だけに限定されています。聖餐は、次の項で紹介する祈祷で始まり、御子の死と復活を記念してパンと杯に与り、聖なる教会のこの捧げもの(聖餐)の上に聖霊が注がれるよう祈りで終わります〔『原典古代キリスト教思想史』(1)155〜58頁〕。
 聖餐の言葉は、このように、外部からの冒涜を防ぐために、より一般的な会食から切り離されて、受洗者だけに限定されることになったのです〔エレミアス前掲書210頁〕。
■聖餐の意義について
 ここでヒュッポリュトス(170年頃〜235年頃)の『使徒伝承/教会規則』から聖餐の意義を探ることにします〔エレミアス前掲書180頁〕〔小高毅編『原典古代キリスト教思想史』(1)135〜36頁/「エウカリスティア」157〜58頁〕。
 
〔司式者〕キリストが汝等と共にいまし、
  〔会衆〕そして汝の霊と共にいますように。
〔司式者〕汝等の心をあげよ。
  〔会衆〕我等は主に心を向ける(主と一つ心になる)
〔司式者〕いざ主に感謝を献げよう。
  〔会衆〕それは(我等に)ふさわしく正しい。
〔司式者〕神よ、我等は汝に感謝します         
  汝の愛する御子イエス・キリストによって。
 
 この祈祷の後にパンとぶどう酒についての解説が続いています。5行目に「いざ主に感謝を献げよう」とありますが、これはキリスト教会の早い時代に固定された言い方です。この言い方は、ユダヤ教の食後の祈祷の冒頭にさかのぼる言い方で、「主に感謝を献げよう」は、7行目の「我等は汝に感謝します」と対応します。「感謝を献げよう」(エウカリストーメン)とあるのは、ユダヤ教の祈祷では、「バーラック」(ほめたたえる)のカル/パアル態「バールーク」(ヘブライ語動詞普通能動態)の「ほめたたえよう」にあたり、「(汝に)感謝します」(エウカリストーメン)は、ユダヤ教の「ニブラーク」、すなわちニファル態(ヘブライ語動詞受動態)の「(汝は)ほめたたえられよ」にあたります〔エレミアス前掲書181頁/168頁〕。
 上記の祈祷では、冒頭の「キリストが汝等と共にいます」ことと、「汝(キリスト)の霊が(会衆と)共にいますように」とが呼応しています。ここでは、キリストが会衆の間に臨在することが、御霊の臨在を呼び求めることとひとつになって行なわれています。2行目の「そして汝(主)の霊と共にいますように」とあるのは「また、あなた(キリスト)の霊が(会衆と)共にいますように」という意味です〔『原典古代キリスト教思想史』(1)157頁参照〕。
 これに続く祈祷が、エレミアスの言うようにユダヤ教の祈祷と対応しているとすれば、「主/神をほめたたえよう」とある人間からの神への能動的な行為と、「主/神はほめたたえられる」とある神の側の受動との対応関係は、霊的にとても重要な意味を持つと考えられます。なぜなら、ユダヤ教での「我等は主をほめたたえよう」とある能動態は、キリスト教会では「キリストが汝等と共にいます」とある<キリストの側からの>能動態になっているのに対して、「我等は汝(キリスト)に感謝します」という能動態は、ユダヤ教の「主はほめたたられよ」とある受動態と対応するからです。
 だから、後の「(我等は)感謝する」は、ユダヤ教の受動態との対応関係から見るならば、「主は感謝される」という受動態の響きを帯びることになりましょう。これは、キリストの御霊の臨在に応えて、会衆が自ずから感謝することを指していますが、同時にように「仕向けられる」という受動関係をそこに読み取ることができます。キリストの臨在を「呼び求める」人間の能動的な行為が、キリストの御霊の臨在にあって「感謝へと<うながされる>」という受動的な行為となって対応しているのです。
 この「能動と受動」の関係は、キリストにある聖霊の臨在がもたらす人間の側からの応答であり、キリストの聖霊によるエクレシアの側からの応答姿勢が、「御霊の臨在に<導かれて従う>」という「受動的能動」であることを洞察させてくれます。わたしたちは、キリストの御霊にある臨在と「聖餐」との関連と、これに対するエクレシアの側からの応答の意義を改めてこの視点から見直す必要があります。
■愛餐について
 イエス復活以後の教会では、「会食」すなわち「愛餐」(アガペー)が持たれました。これは聖餐と並行して行なわれました。愛餐はイエス在世中に、イエスが弟子たちや人々と共に行なった会食に起源を持つものです〔エレミアス前掲書40頁〕。だから、愛餐の起源は、聖餐の起源である最後の晩餐と区別しなければなりません〔エレミアス前掲書98頁〕。初代教会では、聖餐は朝に行なわれ、愛餐は夕方にに行なわれまし。しかし、同時に行なわれることもあり、その際は愛餐→聖餐の順序であったと推定されます(後に聖餐→愛餐へ変わる)。聖餐は貧しい人たちにはパン(聖体)だけの場合もありました(聖餐を「パン裂き」とも呼ぶのはこのため)。愛餐は4世紀末には廃れたと考えられます。
■エレミアスの見解への修正
 以上でエレミアスの『聖餐のことば』の要約を終えることにします。エレミアスの最後の晩餐への主な解釈の特徴は、(1)文献的には、マルコ福音書よりもルカ福音書のほうを重視していること、(2)最後の晩餐は、ユダヤ教の過越の食事にならってはいるものの、そこには「聖餐制定のことば」を含むイエス独自の重要な変容が行なわれていること、(3)その変容とイエスの言葉によって、最後の晩餐には、終末的な意義づけが強く表われされていることなどです。
 エレミアスは、これらの諸点をセム語の語法にさかのぼる精緻な文献批評によって裏付けようとしています。1935年に出された彼のこの労作は、それ以後の最後の晩餐と聖餐制定に関する論議において、見逃すことのできない文献として注目され、賛否両論を招いてきました。これからも、この方面に関する重要な文献と見なされるでしょう。
 ただし、最近の傾向としては、最後の晩餐と過越の食事との関係、及びその解釈において、エレミアスの提示する解釈を修正する動きを見ることができます。一例としてコリンズの『マルコ福音書』〔Adela Yarbo Collins. Mark.Hermeneia. Fortress Press (2007).〕をあげます。コリンズのマルコ福音書注解は、マルコ福音書14章22〜25節の解釈において、以下のような特徴を見出しています。
(1)イエスによる聖餐制定の言辞は、弟子たち全員がぶどう酒を飲んだ<その後で>語られています(24節)。
(2)25節の「ウーケティ・ウー・メー」という強い否定辞はを「決して<再び>飲まない」"surely not drink again"と訳されていて("never again drink"[NRSV])、イエスも弟子たちと共に過越の食事に与った後で行なわれた宣言だと解釈されています。
(3)したがって、最後の晩餐は、イエスが弟子たちとそれまで行なってきた「交わりの食事」の延長にあると解釈されています〔コリンズ『マルコ福音書』654頁〕。
(4)このことは、最後の晩餐が、それまでのユダヤ教の過越の食事と異なる特徴を持つものではなく、ユダヤ教の過越祭の犠牲の小羊を記念する伝統に準拠した形で行なわれたことを示しています〔コリンズ前掲書656頁〕。
(5)このことは、イエスが、自分をイザヤ書53章の受難の主の僕と同一視して、「犠牲」を献げる用語で聖餐制定の言葉を語ったことを意味します〔コリンズ前掲書657頁〕。イエスは自分を「罪の贖いのための身代わりの犠牲」と見なしているのです〔コリンズ前掲書656頁〕。
(6)したがって、最後の晩餐でのイエスの言葉は、間近に迫った「イエスの死」を告げ知らせるものです。
(7)だから、25節の厳かな預言は、イエス自身の死を預言するものであり、断食を告げるためというよりは、それ以後のイエスの不在、イエスの復活、あるいは人の子の再臨までの期間を表わすと解釈されています〔コリンズ前掲書657頁(注)90〕。
 以上で分かるように、コリンズは、ルカ福音書よりもむしろマルコ福音書のほうを重視していて、その際彼女は、最後の晩餐をできるだけ当時のユダヤ教の過越の食事に近づけて見ています。その上で彼女は、イエスの聖餐制定の言葉を「過越の小羊の犠牲の死」と重ねているのが分かります。

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