マルコ=ヨハネ
 二つの名前を持つこの人物は、使徒12章12節に「マルコと呼ばれるヨハネ」としてでてきます。名前が二つあるのは、ヘブライ名「ヨーハーナーン」(主は恵みを示された)とラテン名「マールクス」(ギリシア名「マルコス」)の二つで呼ばれたからです。ヘレニズム時代のユダヤ人、特にパウロ=サウロのようにパレスチナ以外のに住むユダヤ人は、このようにヘブライ名とラテン(ギリシア)名の二つを持つのが慣わしでした(これは現在のユダヤ人でも同様です)。
【使徒言行録】使徒言行録12章12節では、彼の母マリアの家がエルサレムにあって、牢獄から奇跡的に救助されたペトロが、その後すぐにここを尋ねています。門番がいるところを見るとかなり大きな家で、イエス復活直後にエルサレムにいたイエスの弟子たちは、ここに集まって祈りと交わりを持っていたと思われます。使徒12章25節では、バルナバとサウロは、彼を連れてアンティオキアへ戻っています。彼は、バルナバとサウロの伝道旅行に同伴しますが(使徒13章5節)、途中で二人と別れてエルサレムの母の家に帰っています(同13節)。その後再びバルナバとパウロが伝道旅行に出るに際して、バルナバは彼を連れて行こうとしましたがパウロは反対しました(同15章37節)。そこで、バルナバはパウロと別れてマルコ=ヨハネを連れて自分の故郷であるキプロスへ渡ります。これで見ると、彼はエルサレムに住む裕福なユダヤ人キリスト教徒の家族の息子だったようです〔Anchor(4)557-58.〕。ただし、マルコ=ヨハネの父の名前は全くわかりません。
【書簡】しかし、このマルコ=ヨハネは、後にパウロと再び伝道を共にして、パウロと共に(おそらくエフェソの牢獄に)捕らわれています(コロサイ4章10節)。ここでは、彼は「バルナバの従兄弟/甥?」と呼ばれています。フィレモン24節では、パウロの「協力者」としてマルコがあげられており、第二テモテへの手紙4章11節で、パウロは「マルコを連れてきてほしい」とテモテに頼んでいます。また第一ペトロの手紙5章13節では「わたしの子マルコ」とありますが〔Barrett, Acts (1), 581.〕、この「マルコ」がマルコ=ヨハネなのか確かな同定はできません。
【伝承】伝承において、このマルコ=ヨハネは、
(1)エルサレムの彼の母マリアの家が、最後の晩餐の場所であったと伝えられています。
(2)マルコ福音書14章51節にでてくる「亜麻布をまとった若者」で、「裸で逃げ去った」人物と同定されています。ゲツセマネの祈りの場が、マルコ=ヨハネの家族の所有地だったという説もあります。
(3)エウセビオスは、パピアスの証言を伝えていて、その中で「マルコはペトロの通訳であり、主(イエス)の言行を順序通りではないが、正確に書き記した」〔エウセビオス『教会史』3巻39章15節〕とあります。このことから、マルコ=ヨハネは、ペトロの通訳で、マルコ福音書の著者/編集者であると伝えられています。
(4)初期のキリスト教の伝承では、マルコ=ヨハネはエジプトのアレクサンドリアのキリスト教共同体と交わりがあって、彼はローマからエジプトへ旅をしたと伝えられています。マルコ福音書がローマで書かれたという説はこの辺りからでているのかもしれません。
(5)マルコ=ヨハネは、ヨハネ福音書の著者であるという伝承がありますが、これは、ゼベダイの子である使徒ヨハネとマルコ=ヨハネとの混同から来ていると思われます。このために、5世紀以降になって、マルコ=ヨハネは、ヨハネ福音書の中のイエスの愛弟子やヨハネ5章でベテスダの池で癒やされた男と同一視されたりします。しかし、彼は、マルコ福音書の著者の可能性はあったとしても、ヨハネ福音書の著者ではありません〔ブラウン『ヨハネ福音書』(1)xc〕。
                    戻る