ファリサイ派
イエスの時代以前から、イエスの時代を経て、後70年の神殿の消滅から共観福音書の成立の頃(70年代~90年代)までのファリサイ派の歴史をたどるのは難しいです。ごくおっざっぱに概観すれば次のようになりましょう〔ルツ『マタイ福音書』(3)426~35頁を参照〕。
ギリシア系の王朝セレウコス4世フィロパトルが没した時に、その息子デメトリオスは、ローマから帰国して王位を継ごうとしますが成功せず、結果として、セレウコス4世の弟エピファネスが王位を継いで、アンティオコス4世エピファネスとなります(在位前174~164年)。この王が、エルサレム神殿にアポロンを祀り、ユダヤ人に対して律法に背く行為を強要するなどユダヤ教を激しく迫害したことが、マカバイ戦争(前169~164年頃)の発端になりました(第二マカバイ記6章)。マカバイ戦争を契機に、ユダ・マタティアによるハスモン家が台頭します。アンティオコス4世エピファネスが没すると、その息子がアンティオコス5世となりますが(在位前164~162年)、セレウコス4世の息子デメトリオスは、ローマを脱出して従兄弟のアンティオコス5世を殺害し(第一マカバイ記7章1~4節)、王位についてデメトリオス1世ソーテール(救い主)となります(在位前162年~150年)。この王が、ユダヤと和睦を申し入れることで、マカバイ戦争は終結を見ることになります(第一マカバイ記7章1~節。)
マカバイ戦争が終結すると、デメトリオス1世によってアルキモスが大祭司に任命されます(前162/3年)(第一マカバイ記7章5~9節)。それまでの大祭司がツァドク系であったのに対して、アルキモスはアロン系だとされています。大祭司アルキモスは、王とユダヤとの和解を装(よそお)って穏やかにユダヤ側と交渉を進めます。しかし彼は、デメトリオス1世と組んでハスモン家を中心とするマカバイ派と対立しこれを弾圧しました(第一マカバイ記7章10~11節)。これに対して、「ハシダイの人たち/ハシディーム」(第一マカバイ記2章42節)と呼ばれる者たちは、迫害に抗して闘い、異邦の地へ逃れました(第一マカバイ記2章29~44節)。この人たちの中から、後に「ファリサイ派」と呼ばれるグループが生まれることになります。ハシダイの中には、アルキモスを受け容れる者たちもいましたが、欺かれて虐殺に遭うことになります(第一マカバイ記7章12~25節参照)。これら「ハシダイの人たち」は、ほんらいツァドク系の支持者であったと考えられます〔TDNT(7)39〕。ユダヤ側を欺いた大祭司アルキモスは、その後もユダヤ支配の王権に批判的であったユダヤ人たちに対する迫害を続け、このため、エルサレムを中心とするユダヤ教は分裂を深める結果になりました。ただし、アロン系の台頭により、ツァドク系とその支持者たちが力を失ったと考えるのは大きな誤りでしょう〔TDNT(7)38〕。
その後非ツァドク系であるハスモン家のヨナタンが大祭司となり最高指導職を兼ねます(前152年)(第一マカバイ記10章18~21節)。ツァドク系のクムラン宗団の「義の教師」への弾圧が行なわれたのはこの頃でしょうか? ヨナタンの死後、その弟シモンが大祭司職と最高指導職を兼ねます(前143~34年)(第一マカバイ記14章24~49節)。次いで前134年に、シモンの子ヨハネ・ヒルカノス1世が大祭司と最高指導職を兼ねることになると、彼はサマリアのゲリジムにある神殿を完全に破壊しました。サドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派などが成立したのは、この頃であろうと考えられています。
当時のユダヤは、マカベア系の大祭司とエルサレム神殿を中心とする祭政一致の王国でしたから、ファリサイ派と呼ばれる人たちが、政治と宗教とをどの程度区別していたかを見分けるのは困難です。彼らが、クムラン宗団ほどではないまでも、当時の王権と貴族階級に批判的であったのは間違いないでしょう。ファリサイ派は宗教的にも政治的にも民衆から支持されていました。
ハスモン王朝の暴君と呼ばれたアレクサンドロスが没して(前49年)、その妻がアレクサンドラ女王となった時から、ファリサイ派は、女王と組んでユダヤを支配する実権を握るようになり、その勢力を拡大したとヨセフスは述べています〔ヨセフス『ユダヤ戦記』1巻5章2~3節/新見宏訳『ユダヤ戦記』(1)58~59頁〕。ハスモン家のマリアンメとユダヤの南部にあたるイドマヤ出身のヘロデ(後の大王)が結婚(前37年)した後も、この非ツァドクで、非ユダヤ的な政治体制に対するファリサイ派の批判的な傾向は抑制されていたと言えましょう。
イエスの頃のファリサイ派は、ユダヤ教の数ある諸グループの中でも最も重要なグループで、ユダヤの民衆に大きな影響力を及ぼしており、エルサレムの最高法院(サンヒドリン)にも多くのメンバーを送っていました。彼らは、文書(モーセ律法)と口伝(ハラハー)の両方を重んじますが、クムラン宗団のように、自分たちのことを民衆から区別された「イスラエルの選ばれた者」とは見なさず、イスラエルの民全体を「神の律法による清浄」へ導くことを目指したのです。このために、日常生活の儀式的な清浄を細かく定義して、これを民衆に守らせようと努めました。ファリサイ派は、食事における交わりの清浄を重視しましたから、彼らを「食卓共同体のセクト」と呼ぶ説さえあります〔ルツ前掲書427頁〕。だから、ファリサイ派の教えは、ユダヤ教の中でも比較的イエスが説く「神の国」に近く、このために、イエスおよびその弟子たちとファリサイ派とは、ある意味で「競合する」関係にあったと言えます。このことが、イエスと以後のキリスト教徒がファリサイ派と厳しく対立する原因の一つになったと思われます。
使徒時代のファリサイ派については、使徒言行録5章33~40節(同23章9節も参照)に出てくるガマリエル1世がいます。この人は、ヒレル学派の系統のタンナイームの一族に属しています。使徒言行録の記事から判断すると、ファリサイ派は、サドカイ派などに比べると、最初期のキリスト教徒、とりわけイエスの弟のユダに代表されるエルサレムのユダヤ人キリスト教徒たちには寛容であったようです。このガマリエル1世は、パウロのエルサレム時代の師でもありました。
ユダヤをローマ帝国との闘いへ向かわせたのは、ゼロータイ(熱心党)と呼ばれる過激な民族主義者たちでした。彼らは民衆を扇動すると同時に、ローマの支配に屈する者には死をもって報いると脅したのです〔ヨセフス前掲書2巻8章6節〕。ファリサイ派もこういう「ユダヤ人の反乱分子」の運動に次第に巻き込まれていったようですが、それがどの程度なのか確かでありません。ガリラヤのヨタパタに立て籠もってローマ軍と戦ったヨセフスは、ローマ軍の捕虜になりますが、後に許されてローマ皇帝によって厚遇されます。彼もファリサイ派に近かったと言われますが、確かでありません〔ルツ前掲書430頁〕。70年以後、ファリサイ派がユダヤ教の再建を図ろうとして、これがローマに認められたことから判断すると、ファリサイ派の反乱軍への参与はそれほど積極的でなかったのでしょうか。
紀元後70年のエルサレム神殿の喪失以後に、神殿の喪失によって崩壊の危機に瀕したユダヤ教の再建を図ったのがヨハナン・ベン・ザッカイです。彼もヒレル系のファリサイ派で、使徒やガマリエル1世と同時代の人です。彼は、ローマの許可を得て、エルサレムの西方にあるヤブネ(ヤムニア)に、ユダヤ教の宗教的な教義を裁定するための法廷(ベト・ディン)を作りました(70年頃)。これは、神殿時代のエルサレムの最高法院(サンヒドリン)に相当する権限を持つユダヤ教の宗教的な裁定機関で、サドカイ派や神殿中心の祭司制度が失われた後の70年以後のユダヤ教は、このヤブネの学院を中心に、ヘレニズム世界に広がるユダヤ教を復興することになります。律法学者であるガマリエル2世がヤブネの宗教学院と宗教議会の総主教になると(90~110年頃)、彼は、「ナザレ派の異端」(イエスを信じるキリスト教徒のこと)を含むユダヤ教の異端を厳しく取り締まるために、異端者を呪う十八祈祷文を会堂のユダヤ人に唱えさせるよう指令しました。このため、ユダヤ教ファリサイ派とキリスト教徒との間の緊張が一挙に高まったと言われています。
共観福音書が成立する70~90年代は、ちょうどファリサイ派によるユダヤ教再建の時期と重なりますから、ヘレニズム世界全体に広がろうとするキリスト教と、同じようにヘレニズム世界に広がるユダヤ教との間に、厳しい競合が生じる結果になりました。共観福音書には、ユダヤ教ファリサイ派と対立するこの時代のキリスト教徒によるこういう「反ファリサイ派」の傾向が反映しています。今回の記事のファリサイ派批判には、こういう「不幸な時代」の影響があることを知っておく必要があります。
共観福音書講話補遺