ポンテオ・ピラトについて
■ピラトの任期
 先の「ユダヤの統治とローマ帝国」で、「プラェフェクトゥス」について説明したのには理由があります。ピラトは、当時のユダヤの代官/長官(プラェフェクトゥス)であることが、カイサリアで発掘された石碑(1961年)によって確認されたからです。この石碑は現在、海辺のヘロデの宮殿(ピラトの官邸と隣接していた)の遺跡に近い場所に立っていますが、現地のユダヤ国籍の日本人のガイドさんによれば、これを最初に見つけたのは発掘に参加した日本人だったそうです。これには「ティベリウス(の在位?)/ユダヤのプラェフェクトゥス/ポンティウス・ピラトゥス」と3行で刻まれています。
 ユダヤがローマの皇帝属州に組み込まれてからは、皇帝から長官/代官が派遣されました。彼らの名をあげると、コポニウス"Coponius"(在位6〜10年)、アンビウィウス"Ambivius"(在位10〜13年)、ルフス"Rufus"(在位13〜15年)、グラトゥス"Gratus"(在位15?〜26年)です。グラトゥスの任期がそれまでの代官たちより長くなっているのは、ここからティベリウス帝の時代になったからかもしれません。第5代目の代官がポンティウス・ピラトゥス"Pontius Pilatus"(在位26〜36年)です。「ポンティウス・ピラトゥス」は彼のラテン名で、これのギリシア名は「ポンティオス・ピラトス」で、英語では「パンティェス・パイレット」(Pontius Pilate)です。日本語では通常、使徒信条に従って「ポンテオ・ピラト」です。
 ピラトは騎士階級の出身で、ユダヤの5代目の代官(プラェフェクトゥス)です。しかし、彼のことは、ヨセフスと〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』18巻2章2節35/同3章/同4章1〜2節〕福音書以外に、ユダヤを代表する思想家フィロンとローマの歴史家タキトゥスが少し触れているだけで、知る手がかりがあまり遺されていません。また彼がユダヤの代官に着任する以前と以後については、ほとんど何も分かっていません。
 ピラトのユダヤ代官の任命は26年とされています。ヨセフスによれば〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』18巻2章2節〕、ピラトの前任者であるユダヤの代官グラトゥスの任期中に、 大祭司セティの子アンナス(在位6〜15年)/ピハビの子イシマエル(15〜16年)/アンナスの子エレアザル(16〜17年)/カミトスの子シモン(17〜18年)/ヨセフの子カイアファ(18〜36年)と、4人の大祭司が更迭されています。ヨセフスの著作には「このような大祭司の異動劇を行なってからグラトゥスはローマへ帰った」とあり、続いてピラトの着任が語られます。
■ピラト在任中の事件
 ヨセフスの『ユダヤ古代誌』18巻では、2章のピラトの着任から、3章に跳んでピラトの引き起こした軍旗事件が語られています。
(1)それによれば、カイサリアから派遣された軍隊が、夜間密かにエルサレムの陣営(神殿の北側に隣接するアントニアの砦)に入ります。その時彼は、「ユダヤ人の掟に挑戦して」ティベリウス帝の胸像を付けた軍旗をエルサレム市内に持ち込ませたのです。それまで歴代の代官たちは、聖都に偶像を持ち込むことを禁じたユダヤの律法を尊重して、わざわざ像の飾りのない軍旗を持ち込ませていたのですが。夜が明けると、エルサレムの住民たちが、胸像を付けた軍旗を見て大騒ぎを起こし、人々はカイサリアに出向いて軍旗の持ち込みを取りやめるようピラトに懇願します。しかしピラトは、スタディアム(戦闘用の個人馬車の競技場)の奥に軍隊を配備してから、その場内で懇願に来た人たちと面会しました。ところが、集まった人々は突然兵士たちに囲まれて、騒ぎを止めなければ命を落とすと脅されたのです。しかし彼らは、自分たちの首を投げ出して「律法のためには喜んで死をも受ける」と宣言しました。驚いたピラトは、彼らに譲歩して胸像付きの軍旗を撤去させたとヨセフスは伝えています。
 この件は、エジプトのアレクサンドリアに住むユダヤ人の思想家フィロンが、カリグラ帝に宛てた弁明書(38章)にも述べられていますが、そこでは、「軍旗」ではなく「幾つかの飾りのついた楯がヘロデの王宮に掲げられた」となっていて、それらの楯には、これを掲げた者(ピラト)とこれが献げられた者(皇帝ティベリウス)の名が彫られていただけだとあります。ヨセフスの伝える事件とは、「軍旗」と「楯」の違いがあり、場所もアントニアの砦とヘロデの王宮(どちらもエルサレム市内)の違いがありますが、フィロンが述べているのは、おそらくヨセフスが伝える事件と同一の出来事でしょう(異説もありますが)。
(2)ヨセフスによれば、この軍旗事件の後で、ピラトは、エルサレムへ水道管を通して水を引くための工事費用に、「聖なる拠出金」(ユダヤ人が納める神殿税)を当てたのです。これに反対して何万という群衆が集まり、中には罵倒の言葉を浴びせる者たちもいました。ピラトは棍棒を兵士たちの外套の下に忍ばせて、群衆の中に紛れ込ませ、突然群衆を襲わせたので、多くの者たちが殴られて不具になったり命を落としたとあります。ルカ13章1節が触れているのは、おそらくこの事件のことでしょう。マルコ15章7節とルカ23章19節にでてくる「暴動を起こした」バラバもこれに関与していたのでしょうか。
(3)また、ヨセフスの同書18巻4章では、ピラトが更迭される原因となったサマリア人への虐殺事件が語られています(この件は後でとりあげます)。
■ピラトの人物像
 ヨセフスは『ユダヤ古代誌』18巻で、ピラトとユダヤ人との間に起こった騒動としてこの三つの事件をあげています。ちなみに同書18巻5章2節には洗礼者ヨハネについての記事があり、18巻3章3節には有名なイエス・キリストに関する記事がでていて、そこには「ピラトスは、彼(イエス)がわれわれ(ユダヤ人)の指導者たちによって告発されると、十字架刑の判決を下したが、最初に彼を愛するようになった者たち(イエスの弟子たち)は、彼を見棄てようとはしなかった」とあります。一方、福音書のほうでは、ルカ13章1節を除くと、ピラトについて語られているのはイエスの裁判と十字架刑に関わる部分だけです。
 以上のヨセフスとフィロンの証言から判断すると、ピラトは相当に冷酷な人物だという印象を受けます。フィロンに言わせれば「彼は融通のきかない性格で、とても頑固なばかりか無慈悲でもあった」〔フィロン「ガイウスへの弁明書」38章301節〕ことになり、このようなピラト観は現在でも続いています。
 ところが、この「冷酷無慈悲な」はずのピラトが、イエスの裁判に臨んだ際には、全く違った様子を見せるのです。ピラトはイエスを告発したユダヤ人たちに向かって「(イエスが)いったいどんな悪事を働いたというのか」と問いかけてイエスの釈放を進言しているように見えます(マタイ27章23節/マルコ15章14節)。特にルカ福音書では、ピラトが3度にわたってイエスの無罪を宣告しており(ルカ23章22節)、ヨハネ福音書では、彼は官邸の内と外とを幾度も出入りして、イエスと告発者たちとの間の調停に努めています。ここでのピラトは、「冷酷無慈悲」ではなく「公正で寛大」であるとさえ思わせます。
 四福音書とヨセフスやフィロンとの間に見られるピラト像のこの違いはなぜでしょうか? 従来これの説明として、福音書が描くピラト像は、ローマ帝国にキリスト教の無罪と無害性をアピールするための方策だと言われてきました。このように、キリスト教がローマ帝国に逆らったり帝国の秩序を乱す性質の宗教ではないことを訴えるやり方を「キリスト教護教論」と言います。福音書は、ピラトがローマ帝国の役人であることを意識して、ピラトの裁判をこのように護教的な立場から描いている、というのがこれまで大方の見方です。この見方は、とりようによっては、福音書で語られているイエスの裁判は「史実に反している」、あるいは実際の出来事を歪めて、イエス処刑の責任をローマ帝国からユダヤ人に転移させようともくろんでいる、という解釈につながります。
■代官の職権について
 しかしながら、わたしたちはここで、ピラトがイエスの裁判で見せた姿勢を、ピラトの性格が「冷酷で無慈悲」であるとか「公正で寛大」であるという人物論からではなく、また福音書が反ユダヤ的であるとか親ローマ的であるという戦略的なテキスト解釈に立って裁判の記述を扱うのでもなく、ピラトが置かれていた<彼自身の立場>に即して、この裁判でのピラトの姿勢を読み解く必要があります。フィロンがあげている「融通のきかない頑固で無慈悲な」印象も、被征服民を支配する征服国ローマ帝国の官吏/代官として見るならば、皇帝に忠実で私情に動かされず、自分が置かれた政治的な立場を冷徹に見通すことのできる有能な官吏であったことを裏付けるとも受けとることができます。
 ピラトはいったい、裁判に際して、自分の立場をどのように判断していたのでしょうか? 最初に確認しておきたいのは、彼はイエスに対しては、個人的な好意も反感も抱いてはいなかったことです。告発したユダヤ人たちについて言えば、彼らの告発の裏にあるのがイエスに対する「ねたみ」である(マタイ27章18節)ことを見抜いていたと言えましょう。裁判官に私情は禁物で、支配者が被支配者に「冷酷で無慈悲」なのは当然であって、そうでなければ相手に見くびられますから、騒乱の多いユダヤの歴代の代官たちと同様に、ピラトもそのよう振る舞ったと考えられます。
 先に指摘したように、彼の役職はシリア総督の下に置かれていて、しかも皇帝ティベリウスによって皇帝属州に派遣された代官です。皇帝と総督と代官、この三角関係の力学が、ローマ帝国の官僚としてのピラトを動かしている本当の動機ではなかったのか、このように見ることができるのです。当時のユダヤ地区は、シリア州の総督から独立した地区ではなく、どちらかと言えば、シリア総督の支配下に置かれていたと見ることができます。だからシリア総督は、その気になれば、ピラトを罷免することがいつでもできたのです〔Catherine Hezser, The Oxford Handbook of Jewish Daily Life in Roman Palestine. Oxford U.P.(2010) 75.〕。イエスとユダヤ人との双方に冷酷に接するのか、それとも寛容な態度で臨むのか、これも彼が置かれている「この立場」から計算され、意図的にそのように振る舞っている。このように判断することができます。以下に、ユダヤの代官としてのピラトの立場に類する幾つかの事例をあげてみます。
 ヘロデの孫に当たるヘロデ・アグリッパ1世(在位37〜44年)は、時の皇帝カリグラ(在位37〜41年)の信任を得て王冠を授かり、それまで皇帝属州であったユダヤ地域の支配を任されます。したがって彼の在位の間、ヘロデ大王の時と同じように、ユダヤはローマの「属州」ではなく「同盟王国」でした。にもかかわらず、カリグラ帝は、騎兵隊長マリルスをユダヤに派遣しています(38〜41年)。王国と言えども、カイサリアにはプラェフェクトゥスに相当する(?)ローマ軍の隊長がいたことが分かります〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』18巻6章11節〕。
 その上カリグラ帝は、シリア総督ペトロニウス(在位39〜42年)に命じて、こともあろうにエルサレムの神殿内に皇帝の像を建てさせようとしたのです(40年)。これがどのような騒動に発展するかを察したペトロニウスは、皇帝の命令の実行を先延ばししました。ヨセフスによれば、この間「何万というユダヤ人が」大挙してシリアのアンティオキアにいるペトロニウスの下に押しかけて、像の建立を止めるよう嘆願したとあります。ペトロニウスは、いざという時にはユダヤと戦争をするか、それとも自決するかを選ぶ覚悟を決めていたようです。しかし、カリグラが、建立の遅延の責任を負って自決を迫る書簡をペトロニウスに送りつけるのとほぼ同時に、近衛兵の隊長たちに暗殺されたので、ペトロニウスもユダヤも危うく事なきを得ました。一方、ユダヤの王であるアグリッパ1世は、この時(40年の秋)ローマにいてカリグラのご機嫌をとっていたのです!〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』18巻8章7節〕。この出来事は、シリア州の総督が、たとえ王国と言えどもユダヤ地域に対して強い支配権を有していたことを物語るほんの一例です。
 アグリッパ1世が亡くなると(44年)、ユダヤは皇帝属州に逆戻りします。時の皇帝クラウディウス(在位41〜54年)は、シリア総督にロンギヌス(在位45〜49年)を、ユダヤの代官にはファドゥス(在位44〜46年)を派遣します。ファドゥスは、大祭司たちを呼び出して、祭りの際などに大祭司が着用する式服をローマ側のアントニア砦で保管するように命じます。式服は、12部族を代表する12個の宝石をはめ込んだ胸当て、「ヤハウェの聖なる者」と刻まれた黄金の額飾り、紫の長い衣などで、ユダヤ教にとってきわめて貴重なものでした(出エジプト28章6〜38節参照)。ユダヤがローマに帰属して以来、この式服はローマが管理していましたが、アグリッパ1世の時に、カリグラの許可を得てユダヤ側の保管に移されていたのです。ファドゥスはおそらく再びローマの直接支配に入ったことを印象づけるために、この式服の返還を命じたのでしょう。一方、シリア総督ロンギヌスは、この命令が大きな騒ぎを引き起こすことを懸念したのでしょう。大部隊を率いてアンティオキアからエルサレムへ来ました。
 ユダヤの大祭司たちは、聖衣の保管を従来どおりユダヤ側に認めてもらうために、改めて皇帝に使節を派遣するので、皇帝からの返事が来るまで、聖衣の返還を待ってほしいと総督と代官とに願い出ました。二人は相談した上で、皇帝からの返事が来るまで、ユダヤ側から人質を出すように命じてひとまず願いを受け容れました。使節がクラウディウス帝の下に着くと、折良く、アグリッパ1世の息子アグリッパ2世がクラウディウス帝のそばに来ていました。アグリッパ2世も聖衣の保管を今まで通りにユダヤ側に認めて欲しいと皇帝に口添えしたようです。皇帝は、ユダヤ側に聖衣の保管を認めるが、それはひとえに、ローマと親交があったアグリッパ1世の息子2世と1世の兄でカルキス王であるヘロデ2世に免じた処置であることを書簡で通知したのです〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』20巻1章1〜2節〕。
 この「聖衣問題」は、ユダヤ問題の実際の裁決が、最後は皇帝の一存で決まること、その際に、請願者と皇帝との個人的な絆がいかに重要であったかを物語っています。「皇帝のお気に召すことが法」という言葉があったほどです。また、クラウディウス帝の時代には、代官(プラェフェクトゥス)が「プロクラトール」と呼ばれるようになり、その権限が幾分強まったとは言え、シリア総督が依然として代官の上にいて指示を与えていることも分かります。さらにこの事件は、ユダヤの大祭司を含む貴族たちとエルサレムの「市民評議会」(皇帝はエルサレムの「最高法院」を書簡でこのように呼んでいます)は、 皇帝代理の総督と代官との支配下に置かれていますが、代官に不満があれば総督に訴えることもできること、場合によっては直接皇帝に願い出る道もあることを示しています。だたし、よほど「運がよくなければ」皇帝への訴えはなかなか認めてもらえないのは、アレキサンドリアのフィロンがカリグラ帝に直訴してもよい結果が与えられなかったことで分かります。
■ピラトとセイヤヌス
 ピラトの政治的背景を考える際に、もう一つ見落とすことのできない事件があります。ちょうど30〜31年頃、ローマの中央政府ではセイヤヌスの勢力が絶頂に達していたからです。ピラトがユダヤの代官に任命されたのは、ティベリウス帝がカプリに隠遁したその年(26年)のことです。ピラトには、おそらくセイヤヌスの後ろ楯があったのでしょう。このために、騎士階級のピラトの代官職への登用は、皇帝の意向を受けているとは言え、背後にセイヤヌスの働きかけがあったと考えられます。この事実を確認できる「合理的な根拠がない」〔Anchor(5)398〕としてこれを否定する見方もあります。しかし、セイヤヌスのような術数(じゅっすう)の人が「確かな証拠」を残すはずもありません。同じことが、セイヤヌスが「ユダヤ人嫌い」であったという「確かな証拠がない」という見解にもあてはまります。
 ピラトがユダヤのプラェエフェクトゥスに任命された背景には、セイヤヌスの差し金があったのではないかと推定することができます〔Tabor, The Jesus Dynasty. Simon & Schuster (2007).216.〕。「かつては、堕落したセイヤヌスの後ろ楯を得ていたピラト」〔Keener, The Historical Jesus of the Gospels.318.〕という見方ができるのは、上に述べたローマ政府の歴史的な事情があるからです。セイヤヌスの「ユダヤ嫌い」については、フィロンが「ティベリウスの在位に、セイヤヌスが我が民(ユダヤ人)に対して企てを進めたためにイタリアにおいて大混乱が生じた」〔フィロン『ガイウスへの弁明書』26章159〕と述べており、また「ユダヤの民への憎悪と敵対的な企てをセイヤヌスから引き継いだフラクス」〔フィロン『フラクス』1章1節〕とあります。現代の歴史学者たちの中には、ヨセフスやフィロンの記述にはユダヤ的な偏見があるから額面通りには受け取れないと見ている向きもあるようですが〔Anchor(5)398〕、ヨセフスやフィロンのような優れた歴史家や思想家の洞察を過小評価してはならないと思います。
■ピラトとイエスの裁判
 ピラトによるイエスの裁判は、セイヤヌスの権勢が絶頂を迎えた頃(30〜31年)のことになります。このこととイエスの裁判におけるピラトの不思議な「ためらい方」とを直接結びつけることはできません。彼の「冷酷無慈悲」な性格と、彼がイエスの裁判で見せた「弱腰」とも受け取れるためらいと迷いとが、一致しないとして、福音書の証言それ自体を否定する解釈があることも先に指摘しました。
 しかしわたしたちはここで、ピラトの性格判断や、ユダヤ人やイエスに対するピラトの対応の仕方が「無慈悲」であるとか、逆に「寛大」であるという感情論的な目線でこの問題を観ることができません。冷酷無慈悲な野心家が比較的低い地位にいる場合には、自分の上に立つ権力者たちと、そこでの権力の動向に最も敏感に反応するのはきわめて自然だからです。だから、ピラトがイエスの裁判に臨んで先ず第一に考えたことは、イエスのことでもなく、告発したユダヤ人たちのことでもありません。彼が最も恐れるのは、シリアの総督と中央政府を支配するセイヤヌスと、最後にはピラトもセイヤヌスも恐れている皇帝の受け止め方です。セイヤヌスの失脚後は、ティベリウスもユダヤ人にたいして慎重な姿勢を取り始めていますから、中央政府の権力関係に敏感だったピラトが、セイヤヌスの過剰な権力に懸念を抱いていたことも考えられます〔栗原貞一「ポンティウス・ピラトゥス攷(こう)」『桃山学院大学キリスト教論集』桃山学院大学総合研究所:第12号(1976年)27頁〕。
 ピラトは異例とも言える10年という長期にわたってユダヤの代官を務めています。このことは、皇帝とセイヤヌスの後ろ楯もさることながら、ピラト自身が保身に長けた人物であったことを証しするものです。「統治者と被統治者との間に生じる避けられない小競り合いの連続」〔Anchor(5)399〕の10年間で任期を終えたのなら、彼はローマ政府から見れば有能な官吏であり立派な成功者です。おそらく彼は、ユダヤの代官をなんとか無事に勤め上げて、これを足がかりに元老院に入ることを期待していたのでしょう。元老院に入るためには、かなりの資産家であることが条件でしたから、このためにも、代官職を利用して密かに蓄財を心がけたのは言うまでもありません。
 権力を目指す人間であるほど、自分を取り巻く権力機構とその動向、また自分の支配下にある者たちの権力的な野心を鋭敏に見抜く能力を具えています。彼が「冷酷無慈悲」なのは当然で、そうでなければ己の野心と能力を活かすことも、他人の野心を見抜くこともできません。
 このようなピラトが、イエスの裁判に臨んで不思議とも思える「逡巡」(しゅんじゅん)を見せたのは、この事件が彼にとって「不可解」だったからです。もしも彼が直接イエスと面会しなかったとすれば、ある学者が言うように、「ガリラヤの一人の農民に関わる取るに足りない事件」として処理されたかもしれません。しかし、このような「傲慢無礼な権力者ピラト」像を描くだけでは、イエスの裁判の真相を見誤る恐れがあります。たとえ些細な出来事でも、とんでもない大事件に発展する恐れがあることを彼はユダヤ地域の過去の数々の例でよく知っていたからです。だから、騒乱の気配を感じ取った時には、先手を打って冷酷に対処したのです。
 福音書に描かれているピラトのためらいが、冷酷な人間として知られるピラトの通常の処し方と矛盾しているというのはその通りです。なぜなら、ここで起こっていることは、通常では考えられないような「不思議な」出来事だからです。歴史的な視点からそのような不思議が「なかった」と判断することと、そういう不思議が実際起こったことを前提にして、なぜそのような不思議が起こりえたのかを「歴史的に」考察することとは、意味が全く違います。ピラトはイエスの裁判では、不思議とも思えるほどの「ためらい」を見せています。それは、彼にとって、イエスという人物が不可解だったからにほかなりません。
 相手が権力の奪取を心に秘めた革命家なら、ピラトはこういう人物の野心を見抜く慧眼(けいがん)を具えていたでしょう。あるいは、己の心の王国を支配する訓練を積んだヘレニズムの哲人なら、彼にもそれなりに理解できたはずです。しかしイエスは、そのどちらでもなかったのです。だから、まかり間違えば大きな暴動にもつながりかねない。あるいは自己の失態を招きかねない。彼はこの点を見極めようと、慎重にイエスの裁判に臨んでいます。ピラトはわざわざイエスだけを呼んで、個人的に面会しています。当時の裁判は公開でしたから、騒ぎを鎮めるよりも、むしろ、裁判それ自体が騒ぎのもととなる場合があったからです〔Hezser, Jewish Daily Life in Roman Palestine. 89.〕。
 彼は、イエスが政治的な野心を抱くような人物では<ない>ことを、権力志向の強い人物に具わる鋭い洞察によって見抜いたのでしょう。このためにピラトは、イエスをわざと鞭打ちにしてから、これで釈放してはどうかと告発者たちに持ちかけています。これ以上この問題に関わらないほうが得策だと判断したからです。ところが、告発者たちの反応はピラトを驚かせるものでした。彼らは大声で極刑を求めたのです。しかも彼らは、単なる暴動や反乱の首謀者としてではなく、ローマの皇帝に反逆した「反逆罪」で訴えたのです。ピラトにとってイエスは、全く不可解な人物だったことは確かです。もしもこのようなイエスに対して不当な処置をとれば逆に告発されかねません。しかし、何らかの処置を執らなければ、今度は告発者たちが暴動を起こすか、彼らから訴えられる恐れがあります。肝要なのは騒ぎを鎮(しず)めることですから、ピラトはイエスの十字架刑を認めます。その上で、マタイ福音書(27章24節)によれば、わざわざ公衆の面前で「手を洗って」、この処刑はユダヤ側の要求を受け容れただけであるから、ローマ側はいっさい関知しないことをはっきり示したのです。これが彼にとって最も「賢明な」対処の仕方だからでしょう。もしもピラトが、ユダヤの指導者たちに譲歩することをせず、自分が体現しているローマの法を曲げなかったならば、イエスの十字架刑は実現しなかったでしょう〔塩野『ローマ人の物語』(18)177頁〕。
 この事件は、おそらくピラト自身にも、通常の騒乱あるいは暴動事件では処理できない「不可解な」出来事であり、イエスという人物も謎のままだったろうと思われます。その結果、異常とも思われる「ためらい」をみせることになったのです。だから、イエスの裁判は、福音書が伝えているとおり「不思議」で不可解な出来事です。このような不可解なピラトの逡巡が、イエスの信仰者たちからは、神の導きとして受けとめられたのは当然です。だから、福音書の記者たちがローマ帝国に対して「護教的」とも見える描き方をしているのは事実です。だがそのことは、ピラトの逡巡という不可解な出来事が「なかった」と判断する根拠にはなりません。むしろ、事実その通りの「不思議」が起こったと判断すべきであり、それが福音書に護教的な描き方をさせている。このように見るべきです。
■ピラトの辞任
 ピラトが更迭された事件については、ヨセフス『ユダヤ古代誌』18巻4章1〜2節にでています。それによれば、サマリアで、ある男が、サマリアの聖なるゲリジム山にはモーセの聖なる什器があるからそれを見せてやると言って人々を集めたのです。彼らは(どういうわけか)武器を手にしてある村へ集結しそこから山へ向かいました。ところが、ピラトが騎兵と歩兵を率いてその登山口を閉ざしたのです。ピラトはおそらく民衆が武器を持って集結していると聞いて、何らかの暴動が起こると判断したのでしょう。彼はそこで多くの人たちを捕らえ、その首謀者たちを処刑しました。
 ところがサマリアの評議会(サンヒドリン)は、シリア総督ウィテリウス(在位35〜39年)に、ピラトが不当に犠牲者を出したと告発したのです。彼らは、人々が集結したのはピラトの迫害から逃れるためだったとウィテリウスに訴えたのです。これを聞いた総督は、マルケルス(在位36〜38年)をユダヤの代官として派遣し、ピラトに対してローマへ赴いて告発されたわけを皇帝に釈明するよう命じたのです。総督の命を拒むことができず、ピラトは急遽ローマに出立しますが、旅の途中でティベリウス帝が死去した(37年3月)と伝えています。実はこの記事に続いてヨセフスは、ウィテリウスが「過越祭をエルサレムで過ごした」と記していて、これに付随して大祭司の聖衣がアントニア砦に保管されるにいたった経緯を語っていますが〔ヨセフス前掲書4章3節〕、彼のこのエルサレム滞在は36年のことだとも考えられます。このためにピラトの更迭が36年か37年かはっきりしませんが、ティベリウス帝の死去が37年なので、こちらが正しいようです。
■その後のピラト
 エウセビオスはその『教会史』(2巻7章)で、カリグラ帝の時(37〜41年)に、ピラトは「大きな災禍(さいか)をこうむって」自殺したことをオリンピックの競技を記録したギリシアの著作者たちが伝えていると記しています。自殺の原因が、イエス・キリストを処刑した己の罪への後悔だったという伝承もありますが、これは単なる憶測です。ただし、エウセビオスの記事を単なるキリスト教徒から出たうわさ話だと片付けるのは、歴史家として優れたエウセビオスに対する偏見ではないかと思います。「ピラトの自殺」が事実だとすれば、おそらくユダヤの代官以後の彼の経歴が思うようにいかなかったか、あるいはセイヤヌスとの関係を疑われたからではないかと推定されます(後の場合は半強制的な自決です)。
 ところで、キリスト教的な伝承は、これとは全く逆で、ピラトはイエスの無罪を認めて自らもイエス・キリストの信仰者へと回心したというものです。ピラトがイエスの処刑後に回心したというこの伝承は『ピラト行伝』(別名『ニコデモ福音書』)にでています。この『ニコデモ福音書』には、12章までがイエスとピラトのやりとりとイエスの埋葬までが記されていて、13〜17章でイエスの復活が語られ、18〜27章までがキリストの陰府降りです〔田川健三訳『ニコデモ福音書』聖書外典偽典(6)新約外典(T)教文館(1976年)161〜227頁〕。「その後のピラトが回心した」というこの伝承が史実に基づくかどうかはともかく、わたしは後述するように、その伝承自体には大事な意味が含まれていると考えています。
■「ピラトの報告書」
 エウセビオスの『教会史』(2巻2章)には、イエスが復活して救い主となったという不思議な出来事をピラトがティベリウス帝に報告したところ、皇帝は、この件を立法府へ持ち出して審議するよう命じたけれども、立法府はそのような審議は前例がないと拒否したと記されています〔エウセビオス『教会史』(1)秦剛平訳、山本書店(1986年)82〜83頁〕。これは、ピラトがイエスの処刑の出来事をローマ皇帝に報告したという「ピラトの報告書」に関わる伝承です。ここに言及されている「ピラトからの報告(書)」の記事の出所はテルトゥリアヌスの『キリスト教弁護論』(21)からだといわれています〔エウセビオス前掲書213頁注〕。ただしテルトゥリアヌスの記事は(200年頃)、「キリスト教宣教のために必要な方策」として書かれたもので、そのような「報告書」とは直接関連がないという見方もあります〔Anchor(5)399〕。
 この報告書は『ピラト行伝/ニコデモ福音書』(326〜75年)への付録として出されたとありますが〔『旧約新約聖書大事典』997頁〕、現在の日本語訳の『ピラト行伝/ニコデモ福音書』には見あたらないようです〔田川健三訳『ニコデモ福音書』161〜227頁〕。「ピラトの報告書」に関する記事は、殉教者ユスティヌス(100?〜165年)の『第一弁護論』(35章)(155年頃)に「これらのことは『ポンティウス・ピラテの行伝』で確かめることができる」とあり、同書48章には「これらのこと(キリストの奇跡)は『ポンティウス・ピラテの行伝』で知ることができる」とあります。殉教者ユスティヌスのこの記事は、ピラトが回心したという伝承を伝えるもので『ピラト行伝』のもととなる伝承のことかもしれません〔『旧約新約聖書大事典』859頁〕。
 ところが、エウセビオスの『教会史』には、ピラトに関する『覚え書き(ヒュポムネーマタ)』という文書のことが言及されていて〔ヨセフス前掲書1巻9章/同9巻5章〕、これによるとこの文書は、キリストへのあらゆる中傷で満ちており、しかも初等教育の教師たちは、この文書を学童たちに教えるよう布告が出されていたというのです(4世紀初め頃)〔エウセビオス『教会史』(3)132頁〕。したがってエウセビオスによれば、ピラトに関しては、キリスト教への回心者であるというキリスト教側からの伝承と、これとは正反対のピラト像(?)とが出回っていたことになります。ユスティノスの記事が正しければ、先に聖なる回心者ピラト像伝承がキリスト教の中から生まれ、これに対抗するために『覚え書き』が出てきたことになりましょう(どのようなピラト像なのか具体的に分かりませんが)。
 幸いにして、ピラトが皇帝に書き送ったと言われる「ピラトの報告書」のかなり詳しい抄訳が手に入りましたので、その内容を知ることができました〔栗原貞一「ポンティウス・ピラトゥス攷(こう)」33〜37頁〕。この『ピラティウスの書簡』は現在ヴァティカンの図書館に保存されています〔栗原:前掲書32〜33頁〕。これが入手された経緯は略しますが、以下にその抄訳をさらにまとめてみます。
 
 私は皇帝ティベリウス帝の命を受けて、エルサレムに着任しました。着任早々盛大な宴会を催しましたが、高位の者たちも祭司たちも参加せず、多大の侮辱を受けました。後日、ユダヤ人たちはローマ人と共に食事することが律法で禁じられていることを聞いて、この地がいかに治めにくい所かを知りました。
 この頃、一人のガリラヤの若者が、神から遣わされたと称して新しい律法を説いているという噂を耳にしたのです。私もある日、その男が静かに群衆に向かって語っている姿を見て、それがイエスであることを知ったのです。彼が天の人のような容貌を具えているので、さらに人を遣わして、彼の教えを探らせました。彼は「カエサルに税を納めるのは善いか、悪いか」と尋ねられた時に、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返すよう語っていたというのです。そこで私はイエスに書面で面会を要求したのです。
 私は賛美と畏敬の念をもって彼に接し、「あなたはソクラテスかプラトンの書を読んだかどうかは知らないが、あなたの教えは、かの哲学者の教えに優る。したがって、私はあなたを保護しよう」と申し出たのです。彼は首を振って「義人の隠れ場は天にある」と答えました。ところが妻が夢を見て、イエスには触れないで欲しいと私に言うのです。〔中略〕
 私は残忍な暴動者どもから彼を助けようと、鞭打ちの刑に処した後に、手を洗って、彼の死刑に賛成できないことを見せたのです。しかし、民の怒りを見て通常の暴動や一揆ではないことを悟りました。刑を宣告した日の夜、官邸の階段を上る時に、イエスの鮮血が階段に跡を残しているのです。やがて、老人と女たちが訪れてきて、老人はアリマタヤのヨセフと名乗り、イエスを葬ることを許しほしいと言うのです。私は彼に許可を与え、見張りの兵をイエスの墓に配備しました。ところが、二、三日後では、その墓が空になっていたのです。彼の弟子たちは、イエスがよみがえったと言い広めています。
 私はイエスが死んだ日に報告書を書き始めましたが、無実のイエスを殺して、大きな恨みをかうことも天の定めであろうと思う次第です。〔栗原:前掲書33〜37頁〕
 
 はなはだ不十分な要約であることをお許しいただきたい。言うまでもなくこれは後のキリスト教会が作り上げたもので、史実に基づくものではありません。しかし、ユスティノスやテルトゥリアヌス、さらにエウセビオスもこれに言及していることから判断すれば、このような「その後のピラト」伝承が、おそらくかなり早い時期から(2世紀?)、キリスト教の諸集会に伝えられていたと考えられます。先に述べた反キリスト教的な文書の出現から判断すると、「ピラトの報告書」を含むほんらいの『ピラト行伝』は、ローマ皇帝マクシミアヌスによって消滅させられたのではないかと考えられます〔栗原:前掲書37頁〕。現存する『ピラト行伝』は4世紀半ばから5世紀前半に書かれたものです。
 その『ピラト行伝』1章には、ユダヤ人たちがピラトにイエスを告発しに来たので、ピラトは人を遣わしてイエスを呼び出したとあります。イエスが官邸に入ってくると、兵隊の掲げる軍旗に付けられた皇帝の肖像が「身をかがめてイエスを礼拝した」というのです。これは明らかに、ヨセフスが伝えるピラトの軍旗事件に対するキリスト教側から見た「書き換え」です。だから、現在の学者たちからは、『ピラト行伝』も「ピラトの報告書」も、史実とは何の関係もない一種のパロディ(もじり)であって、根も葉もない作り話にすぎないと見なされています。
 わたしは、このような非現実的で、反歴史的な内容のピラト伝承は、後の時代よりも、むしろピラトが更迭された直後の比較的早い時期に成立したのではないか?と見ています。この伝承は、迫害者たちが、かつて自分たちが迫害したまさにその人によって救われるという「受難の僕」伝承の伝統が、イエスの復活信仰成立以後の教会にも受け継がれていたことを示唆しているからです。エチオピアの教会とコプトのキリスト教では、ピラトは「悔い改めた」聖人として列聖されています。このことと、受難の僕伝承を伝える『第一エノク書』(エチオピア語エノク書)が、これらの教会では正典とされていることと無関係ではないでしょう。この伝承は史実ではありません。しかし、ローマ帝国への反逆という罪名によって十字架された「ユダヤ人の王ナザレのイエス」が、ローマ帝国を「悔い改め」に導いて、イエスの前に跪かせたのは確かな史実です(392年にローマ帝国は、キリスト教だけを国教に指定しました)。「受難の僕」伝承はやはり生きていたのです。
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