イエス様語録(Q)
■共観福音書とイエス様語録
 共観福音書とイエス様語録の関係はとても複雑ですから、詳しく説明するとかえって混乱を生じます。できるだけまとめて説明します。共観福音書の成立過程に関して、従来の通説では、先ずマルコ福音書が書かれ、その後でマタイ福音書とルカ福音書が書かれたことになっていました。さらに、マルコ福音書の90%がマタイ福音書に含まれていて、マルコ福音書の45%がルカ福音書にも含まれています。その上、マタイ福音書とルカ福音書の両方に共通するイエスの言葉で、マルコ福音書にはない部分が相当あります。これらのことから、マタイとルカとは、それぞれ別個にマルコ福音書を参照しながら、しかも、マルコとは別に、「イエス様語録」(Q)を参照している。こういう仮説が生まれました。だから、共観福音書は、マルコ福音書とイエス様語録(Q)、主としてこの二つの「資料」を基本にしていることになります。おおざっぱな言い方ですが、こういう仮説を「二資料説」と言います。
 上に述べたことで分かるように、「イエス様語録」とは、現在実在している文書のことではありません。マタイ福音書とルカ福音書を相互に照合しながら、文献的にイエス様語録を特定しようと、長い間試みられてきました。この研究の結果が、James M.Robinson, Paul Hoffmann and John S. Kloppenborg. The Critical Edition of Q. Hermeneia (2000)です。だからこれは、イエス様語録説といういわば仮説に基づいて「復元された文書」です。しかし「復元された」とは言え、事実はそれほど単純ではありません。なぜなら、マタイ福音書とルカ福音書では、イエス様語録を用いていても、その用語や言葉遣いが異なるからです。マタイのイエス様語録とルカのイエス様語録とは異なっています。さらに、イエス様語録それ自体も、始めから固定された文書ではなく、イエス様語録(1)とイエス様語録(2)のように、段階的に編集されている、このように見ることもできます。だから、提示されたイエス様語録も、必ずしも確定したものではなく、マタイ福音書とルカ福音書の二つの読みのどちらのほうを採るのか?常にこの二者択一が迫られることになります。それでもこのイエス様語録の復元は、20世紀の文献批評の一つの大きな成果を示すものだと言えましょう。
■イエス様語録の発見
 ロビンソンによるヘルメネイア版のQの「解説」によってイエス様語録の発見過程のあらましを紹介します〔ヘルメネイアQ xixff.〕。マタイ福音書とルカ福音書が、マルコ福音書に加えて、「イエスの託宣集」(ロギア)を資料として用いていると最初に提唱したのはドイツのライプチッヒの哲学者ヘルマン・ヴァイスです(1838年)。この説はハインリッヒ・J・ホルツマンに受け継がれ、彼がマタイ福音書とルカ福音書を詳細に比較することで、イエス様語録の存在が広く認められるようになりました(1863年)。この託宣集は「イエスの託宣(ロギア)」と呼ばれましたが、その後「イエスの言葉集(ロゴイ)」"Sayings of Jesus" と改められます(1904年)。これがドイツ語"Quelle"から"Q" と呼ばれたのは1899年のことです。なお日本語では「イエスの言葉集」と呼ぶべきですが、新約聖書関連の文書の中で、筆写私市はこれを「イエス様語録」と呼んでいます。「語録」とは偉大な師や先生の御言葉を記録すること、あるいは記録した書物のことです。
 第二次世界大戦の終わりと共に(1945年)、Q研究はブルトマンとその学派やギュンター・ボルンカム等に受け継がれます。ローマ・カトリックもQの存在を学問的に認めるようになり、Q研究に参与することになりました(1965年)。こうしてQ研究は、1950年代から70年代の初期まで、多くの学者が参与しましたが、中でもホフマンは、Q探求を続けることで、Qが、60年代後半のユダヤ戦争にいたるまでの間に、幾つかの編集の段階を経ていると見なされるようになりました。初期のQには見られない黙示的な「人の子」が後のQに現われるからです。このQ研究はドイツからアメリカへ移ることになり、ジョン・S・クロッペンボルグによる総合的なQ研究が提示されます(1984年)。やがてQ研究は国際的な組織としてthe Society of Biblical Literatureの年次大会において公式に発足しました(1983年)。The Critical Edition of Q.(2000)はこのQセミナーによって編集されたものです〔Robinson. The Critical Edition of Q. Lxvi-vii〕。
 イエス様語録はほんらいイエスがアラム語で語ったものが集められ、ギリシア語に訳されたと考えられ、しかもマタイ福音書が使用したイエス様語録とルカ福音書が使用したものと、ふた種類のイエス様語録が存在したのが、やがてギリシア語版だけがQ伝承として残った。このように想定されていました。しかしイエス様語録がほんらいアラム語で書かれ、それが別個のギリシア語版へ訳されたという仮説は、その後放棄されることになります。
 マタイ福音書とルカ福音書の共通部分で、マルコ福音書に含まれて<いない>部分について言えば、二つの福音書のこの部分で、用語の共通点が80%以上あるのは、共通部分全体の13%にすぎません。これに対して、両者に共通する部分の3分の1は、用語の共通点が40%以下です。このことは、イエス様語録が文書として成立した後に編集によって変えられたのではなく、イエス様語録は、ほんらい文書ではなく口頭伝承によるものであることを示しています〔James D. G. Dunn. A New Perspective on Jesus. Baker Academic (2005)110 〕。イエスの時代のガリラヤでの多言語環境から判断するなら、イエスがアラム語で語った言葉は、先ずアラム語で伝えられ、それが後にギリシア語へ訳されたというよりも、そもそもの初めから、バイリンガルの聴衆によってアラム語とほぼ時を同じくして、ギリシア語でも口頭で伝えられた。こう想定するほうが実際の状況により適切ではないかと考えられるようになりました。
 イエスの十字架(30年頃)からの15年間は「口頭伝承の時期」として文献的に近づくことができない「空白の15年」とされてきました。しかし、口頭伝承は十字架直後に始まり、それ以後も続き、マルコ福音書の成立(70年前後か)以後も口頭のネットワークは途絶えることなく広がり続けたと考えられますから、マタイ福音書とルカ福音書の著者には、文書としてのイエス様語録以外にも、口伝を通じて知りえた福音書の内容など、口伝と文書両方の多岐にわたる伝承が集められたと考えられます。したがって、共観福音書とイエス様語録は、文書だけでなく、より流動的で多様な口伝の影響も反映していると見なすべきでしょう〔Dunn. A New Perspective on Jesus.122〕。
■イエス様語録の成立
 実はQ資料が、口頭による言葉伝承ではなく、一つのまとまった文書であるかどうかについても、長らく確認することができませんでした。ところが、1945年に、エジプトのナグ・ハマディという所で大量のコプト語で書かれた写本が発掘されます。それらは主としてグノーシスに関係するものでしたが、その中に『トマス福音書』と呼ばれる文書があることが分かったのです(1952年)。『トマス福音書』は本来ギリシア語で書かれていたもので、これのコプト語訳が初めて1959年に出版されました。これは全部で114の「遺訓」から成るもので、それらのほとんどが、共観福音書に含まれるイエスの言葉と類似する内容だったのです。この「遺訓」は、グノーシス的な解釈を帯びていますが、明らかにQ資料から出たと思われるものが多く、この発見によって、Q資料が、単なる口頭の言葉伝承ではなく、文書としてまとまって編集されていたことがはっきりしたのです。しかも、その名の示すように、『トマス福音書』は、単なる「イエス様語録」ではなく、「語録福音書」として扱われていたことを示しています。
 いったい初期キリスト教のどの段階でこれが成立したのか?2世紀になって本格的に現われる「グノーシス思想」に関係していることから、比較的後の編集だという説もありますが〔『聖書大事典』830頁〕、バートン・マックによれば、それらの35%はQ資料と密接に関連していて、しかもそれが、Q2の段階で採り入れられたと思われます〔マックQ34頁/Appendix A〕。
■イエス様語録の編集過程
 以上述べただけでも、読者は、Q資料をめぐる複雑な過程の一端をうかがい知ることができましょう。したがって、文書としてのイエス様語録の成立と編集過程について、必ずしも一致があるわけではなく、特にその編集過程ついては現在でも諸説があります。アメリカのイエス・セミナーのメンバーであるバートン・マックの説のあらましを紹介すると、マックによれば、Q資料はほぼ次のように考えられています。イエスと弟子たちはアラム語で語った。これがアラム語から訳された段階で、イエスの御言葉伝承から「語録文書」へ編集されます。そこに受難物語はまだ含まれていません。Q資料は、少なくとも3段階(Q1〜Q3)を経て成立しました〔Anchor Bible Dic.(5) 567-68〕。Q1からQ2への推移の過程で、Q文書を保持していたいわゆる「Qの人たち」に大きな変革が起こります〔マックQ132〜35頁〕。その後(主としてエルサレム滅亡以後)誘惑の物語などを含む追加が行なわれてQ3が成立しました〔マックQ171〜73頁〕。
 すでに指摘したように、このようなQとQの人たちへの見方は、その後大きく変化することになります。最近では、Qは、イエスの復活信仰成立の<後になって>成立したのではなく、すでにイエスの生前に、イエスの口から直接聞いた弟子たちが語り広めた言葉がQの基になっているという見解が出されています〔James D.G.Dunn, A New Perspective on Jesus. B Baker Academic (2005).26-28.〕。筆者(私市)もこの見方に賛同します。この説によれば、Q、すなわちイエス様語録は、イエスの十字架以後の信仰共同体が作り出したものではなく、すでにイエスの生前にイエスを信じる人たちによる共同体が存在していて、イエス様語録は、そこでこれの原型が形成されていたことになります。だとすれば、イエス様語録はほんらいアラム語で伝えられたもので、それがどの段階かで、おそらくヘレニスト・ユダヤ人キリスト教徒によって、ギリシア語に訳されたことになりましょう。
 ところで二資料説にも様々な問題があります。まずマタイ福音書にもルカ福音書にも、マルコ福音書とイエス様語録以外に、これらのどちらにも属さない独自の記事が含まれていることです。これらは、「マタイの特殊資料」(M)あるいは「ルカの特殊資料」(L)と呼ばれています。だから、おおざっぱに言えば、マタイとルカは、マルコ福音書とイエス様語録とそれぞれの特殊資料を用いていたことになります。また、マルコ福音書からの引用にしても、マタイとルカが異なるだけでなく、引用された語句が現在のマルコ福音書とも異なりますから、マルコ福音書には、現在のマルコ福音書の以前に、「原」マルコ福音書があって、マタイの引用などはそこからではないかと言われています。さらにマルコ福音書には、原マルコ福音書のほかに、もうひとつ別の版のマルコ福音書(「第二マルコ福音書」「改訂マルコ福音書」などと呼ばれます)があったのではないかとも推定されています。
 そもそも二資料説は、マタイとルカとが、相互に知らないままでマルコ福音書を引用しているという前提に基づくものです。ところが、ルカは、マタイ福音書を直接参照してルカ福音書を書いたのではないか? という説さえ提唱されています。こうなりますと、イエス様語録の存在を前提とする必要がなくなりますから、イエス様語録の存在それ自体が疑われることにもなります。現在、このイエス様語録否定説をとる学者は少数で、ほとんどの説は、何らかの意味で、イエス様語録の存在を認めています。しかし、これらのことから、従来考えられてきた二資料説よりも、はるかに複雑な過程が、共観福音書の成立の過程で生じていたことが分かってきました。厳密に言えば、イエス様語録さえも一つではなく、Q1とQ2のようにいくつかの段階があったと見られています。以上で分かるように、現在では、共観福音書の相互関係は、これを図式化できるほど簡単ではなく、これらに共通する伝承それ自体も流動的で、それぞれの福音書も、流動的な形成過程を経ていると見られるようになっています。
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