霊水と霊風:ニコデモとの対話
ある優秀な聖書学者は、ヨハネ3章の「プネウマは思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くのかを知らない。プネウマから生まれたものも皆<そのよう>で」ある」とある「そのように}(フゥトゥス)を解釈して、「そのように」とあるから、先の「プネウマ」は「風」のことであり、後の「プネウマ」は 「霊」を指すと言いました。この解釈は正しいので、新共同訳もフランシスコ会訳聖書もそのように訳しています。
けれどもヨハネ福音書は「わたしはあなたがたを愛してきた。<その通りに>(カトゥス)あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13章34節)とあります。ここでは「そのように」ではなく「その通りに」です。だから、イエス様の愛が<そのまま>弟子たちの互いの愛と同じになるようにしなさいという意味です。もしもここをイエス様の愛と弟子たちの愛し方は<違う>けれども、なるべくイエス様の愛に近くなる「そのように」愛し合いなさいと解釈するならば、この解釈はイエス様を信じる者たちの愛の<現実に>沿った解釈になりますが、それは正しい解釈とは言えません。聖書の御言葉を聴いて、その御言葉の語りかけを通じて働く御霊の働きに従おうとする時、わたしたちの内に御言葉から来る御霊が働きます。その働きは肉にあるわたしたちの中では不完全ですから<現実は>「その通りに」ではなく「そのように」のほうが適切です。だからと言って、ここを「なるべくイエス様の愛に近いように」と解釈してはいけません。それはわたしたち肉にある<人間の>都合には合致します。だが、 わたしたちは繰り返し繰り返し御言葉に戻って、<そこから>イエス様の愛そのままがわたしたちの内に貫徹されるように祈ることが求められているのです。だから、御言葉の語る意味をわたしたち人間の都合に合致させることは、御言葉の働きかけを弱める結果につながるのです。「肉は役に立たない/人間的な解釈に沿ってはいけない。わたしがあなたがたに語ったのは霊であり(永遠の)命である」(6章63節)とあるのはこの意味です。
ヨハネ3章の「プネウマ」に戻ります。「プネウマ」には「風」と「霊」の二つの意味がありますから、これを「霊風」と訳すこともできます。そうすると「霊風は思いのままに吹く。人はその声を聴くが、それがどこから来てどこへ行くのかを知らない。霊風によって生じるとはそういう事である」とも訳すことができます。これだと「プネウマ」を「風」と「霊」に訳し分ける必要がありません。
ここで見たように、「プネウマ」を「風」と「霊」の二つに分けて、「霊」と「風」とが別個のものであることを前提にした上で「風のようである」と比較することを直喩(simile)と言います。だから直喩では「喩(たと)える」ではなく、それとは<別のもの>に「例(たと)える」ことになります。霊を何かに例えるとすればそれは風に最も近い、という意味で用いる例えです。これに対して、「霊風」と訳すのは「霊}と「風」を分かちがたく一つのものとしてとらることです。このように一つにとらえることを暗喩(metaphor)と言います。だから、3章8節は「風」と「霊」を異なるものと考えて「例え」で結ぶ直喩と、「霊風」のように一体として把握する隠喩と、ふたとおりに解釈することができるのです。この事情はヨハネ3章5節の「水と霊」にもあてはまります。これを別個のものと直喩的に解釈すれば、人間には「水」と「霊」のふたとおりの生まれ方があることになります。しかし「水と霊」をひとつにして「霊水によって生まれる」と暗喩的に解釈すれば、一度の洗礼だけを指すことになります。
全く同じことがパンとぶどう酒の聖餐についても言えます。聖餐のパンをそのままイエス様の肉体と一つに結びつける暗喩的な解釈と、パンはイエス様の体の「例え」にすぎないと解釈する直喩的な解釈が可能ですから、ルターとツヴィングリーは、この二通りの解釈をめぐって激しく論争しました。現在では、カトリックでは聖餐を暗喩的に解釈し、プロテスタントは直喩的に解釈する傾向があります。
もう一度「風と霊」に戻ります。直喩的に考えて「風は霊でない」のなら「霊は風で<ない>」ことになります。ところが、ペンテコステの日に「激しい風が吹いてくるような音が起こった」とあります。これは聖霊降臨の出来事ですが、ここでも聖霊が「激しい風」に例えられていて、聖霊が「激しい風」として弟子たちに<体験されて>いることを証ししています。わたし自身もある聖霊的な集会で、宣教師と共に働く教役者の方に手を置いて祈ってもらうと、風にあてられたように倒れてしばらくじっと動けなかったことがあります。その時、風がそよそよと吹いているような不思議な体験をしたのを覚えています。東洋には「気」という言葉があって、「空気」「気合い」「気質」「気分」「天気」のように使いますから、「気」は風と霊の暗喩を表わすと言えます(「その場の空気を読む」のように)。わたしの体験もこれと同じで、「空気」と「霊気」の区別がつかない状態があることを知りました。
これで分かるように、直喩的な解釈と暗喩的な解釈は、ただの「解釈の違い」とか「言葉の違い」では済まされない問題を含んでいます。なぜなら、直喩的な思考によって「霊は風でない」と考える/信じる人には「霊風」体験は生じないであろうし、またそのような体験を求めようとも<しない>からです。こういう思考の人は、たとえ祈ってもらっても霊風を感じることがないでしょう。あるいは感じてもこれを拒否すると思われます。わたしは異言を語りますが、プロテスタントの信仰に近いので、聖餐のパンを受けても、これによって異言が出たりすることはありません。ところが、あるカトリックの信者さんは、ミサを頂いた時に異言が与えられたと聞いたことがあります。洗礼の場合でも、わたしは浸礼を受けましたが、その時に異言を語ることはありませんでした。しかし、滴礼にせよ浸礼にせよ、洗礼の水を受けた時に病気が治った、あるいは異言体験が与えられた人がいます。だから、「水と霊」は別ではなく、ひとつの「霊水」としてその人に働いたのです。
ここでは直喩か暗喩かの違いは<単なる>言葉の解釈の問題ではありません。それは現実に聖霊を体験するかしないか、言い換えると聖書の御言葉が語る霊的が出来事が<現実に>起こるかどうか、これを分ける大事な分岐点を含むからです。聖霊体験とは<霊的な出来事>です。ところが<この>出来事は、それが生じるか生じないかが、「その」出来事をどのように解釈するのか、言い換えるとその出来事をどのように「考える」のかによって決まるのです。ここでは<出来事>がそこに存在していて、客観的にだれが見てもどう考えても<全く同じ事>だという見方はあてはまら<ない>のです!
ヨハネ3章の「水と霊から生まれる」には三通りの異なる解釈があります〔ヨハネ福音書講話と注釈→(20)御霊の風→3章5節注釈参照〕。聖書解釈の注解などを見ますと、こういう場合、そのうちのどれが<正しい>解釈かが長々と論じられています。しかし、霊的な言葉が引き起こす出来事をこのように「どれか一つの視点」だけに限定するのは危険です。聖書のような霊的な言葉がもたらす<出来事>を判断する場合には、むしろ三通りの解釈が囲むその範囲の内に<正しい>解釈が潜んでいると見なすほうが適切です。ここでは人の思考と視点による解釈それ自体が<そこで実際に生じる事態そのもの>を決定するからです。
ある出来事が起こるか起こらないかが、その出来事に対する<人の解釈と思考>によって決まることは、言い換えると主観と客観との差が消えることを意味しますから、これは主客一如の出来事です。霊的な出来事は主客一如であり、これの解釈には直喩思考と暗喩思考が絡んでいます。ちなみに、暗喩に代わって直喩が盛んに用いられるようになったのは、ヨーロッパでは17世紀以降のことで、近代的な自然科学が台頭してきた時期にあたります。だから、ルネサンスのレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロなどは、『神曲』を書いたダンテと同じように、直喩よりも暗喩の世界に親しんでいました。
なお、出来事はこれを見たり考えたりする人間の思考様式によって、出来事の内容それ自体が生じるか生じないかが決まるというこの不思議は、近年の量子物理学でも認識されるようになりました。ニールス・ボア(1885〜1965年)やエルヴィン・シュレディンガー(1887〜1961年)やウェルナー・ハイゼンベルク(1901〜1976年)たちが唱える「不確定性原理」がアインシュタインの「相対性理論」に代わるのかどうか?現在これが量子物理学の分野で大きな問題になっています。科学と宗教は直接には結びつきませんが、この問題に関する限り、両方の間にある種の類比(analogy)が成り立つと思われます。
四福音書補遺へ