サドカイ派
〔用語〕「サドカイ派」のギリシア語は「サドゥーカイオス」(単数)ですが、実際は七十人訳で「サドゥーカイオイ」として複数で用いられます。これの語源はヘブライ語の「ツェデェク」(義/公正)から派生したもので、「サドゥーカイオイ」は、「ツェデェク」の複数女性形名詞「ツェデゥーキーオート」(義の人々)からギリシア語になったと考えられます。このギリシア語は、新約聖書以外に、ヨセフスとラビの文献以外にはでてきません〔TDNT(7)35-36〕。
〔旧約聖書〕ダビデ王が、息子アブサロムの反逆に直面した時に、王の側について、エルサレムで神の契約の箱を守ったのがレビ族出身の祭司ツァドクです(サムエル記下15章27節)。またダビデの後を継いだソロモン王に油を注いだのもこの祭司です(列王記上1章34節)。このために、「ツァドクの子ら」は、イスラエルの正統な祭司の家系と見なされ、この伝統は捕囚期に入ったエゼキエルの時代でも変わりません(エゼキエル書44章15節以下)。このために、ツァドク家は、モーセと共にイスラエルを率いた祭司アロンにさかのぼるとされる大祭司の家系と見なされ、捕囚期以後も、ツァドクの家系は「大祭司の家系」として受け継がれます(歴代誌上5章29節/同34節/同40節の「ヨツァダク」は捕囚期以後の大祭司)。ただし、このような「大祭司」とその終身制度が成立したのは、前5世紀の捕囚期のバビロンにおいてです〔TDNT(7)37〕。
〔旧新約中間期〕アロンには4人の息子がいましたが、このため捕囚期間中に、大祭司の家系が、エルアザル→ピネハス系と、イタマル→アヒメレクの家系との二つに分けられたようです(歴代誌上5章29〜30節/同24章3〜4節参照)。捕囚期以後に大祭司職は、イスラエルの統治において最上位になりますが、二つの大祭司の家系がどのような関係にあったのかはよく分かりません。前2世紀のシラ書(45章23〜24節)では、エルアザルの子ピネハスが大祭司として崇められ、大祭司職がどれほど重要であったかは、「オニアスの子大祭司シモン」への賛美に詳しく語られています(シラ書50章1〜21節)。
 セレウコス朝のアンティオコス4世がエルサレムの大祭司職に介入することで、初めて非ツァドク系の大祭司が出ることになります(前175年)。しかし、これによって、ツァドク系の祭司が力を失ったと見なすのは大きな誤りでしょう。ツァドク系祭司の支持者は、以後も力を失うことがなく、ツァドク系祭司への信仰は、クムラン宗団などによって支えられていたのです(『ダマスコ文書』4章1〜5節)〔詳しくは共観福音書補遺「捕囚期以後のユダヤの大祭司職」を参照〕。
 「アロンの子」として正当性を主張した初めてのエルサレム神殿の大祭司職は、アルキモスに始まります。彼は王権と組んで反王権的なユダヤ人を弾圧しましたから、評判が悪く、大祭司職を維持するために、「ツァドク」と言われる人たちだけでなく、その周辺の人たちをも採り込みました。これが「サドカイ=ツァドク」派の始まりです。しかし、ツァドク系には、エジプトのレオント・ポリスの祭司職もあり、パレスチナには、クムランなど伝統的なツァドク系の人たちがいましたから、「サドカイ派」は、「ツァドク」系の正当性をめぐって、最初から矛盾を抱えていたことになります〔TDNT(7)43〕。マカバイ戦争以後のハスモン系の大祭司も、広義の「ツァドク系」であるサドカイ派と手を結びますから、サドカイ派の神学は、基本的にイスラエルにおけるダビデ王朝の復興を目指すものである言えます。
 なお、ここで「復活」信仰に関して言えば、ツァドク系の終末思想は、クムランの「義の教師」に観るように、セレウコス朝あるいはローマ帝国との「終末的な闘い」を意図する地上的なイスラエルの再興を目指すものでした。だから、紀元後1世紀以降のファリサイ派による「人間の死からの復活」は、前1世紀のツァドク系祭司に見出すことができません〔TDNT(7)40〕。サドカイ派には、人間に不滅の魂が宿るとするギリシア的発想は存在しなかったようです。ファリサイ派に比べると、サドカイ派は、神からの人間への介入を過小に評価し、人の運命もその善悪も人間の内在的な意志に基づくと見る傾向が強かったと言えます〔TDNT(7)46〕。
 さらにもう一つ、ツァドク系祭司たちには、「善と悪」「光と闇」の対立など、前10世紀頃からの古いカナン時代からの二元論が受け継がれていたことがあります。したがって、神殿制度の担い手であったイエスの頃(紀元後1世紀)の「サドカイ派」(この名称は「ツァドク」から)と、エルサレム神殿を敵視するクムラン宗団に見るツァドク系祭司信仰を同一視することができません〔前掲書41頁〕。
 ここで「復活」問題に触れることにします。言い伝えによれば、前2世紀に、ラビのアンティゴノスには、ツァドクとボエトスの二人の弟子がいました。師のラビは彼らに「弟子は師から、何らかの報いを受けることを期待して奉仕してはならない」と強く教えたと言われています。このツァドクの流れを汲むサドカイ派とボエトス派の弟子たちは、神への奉仕への見返りとして「死後の復活」を期待するのは誤りであると見なすようになり、このために、これら二つの流派は、復活による来世の報いを期待することなく、祭司の報いを地上の生活だけに求める道を選んだのです〔TDNT(7)41.Nb(44)〕。このあたりから、サドカイ派/ボエトス派は、終末においても、「死後の復活」を期待しないという見解が生じる結果になったのでしょう。
〔後1世紀のサドカイ派〕パレスチナがローマ帝国の支配下に入り、クイリニゥスが総督になると(後6/7年)、ファリサイ派を含むツァドク系は、ガリラヤの過激派と手を結んで、ユダによる反乱に荷担します。この際に、ツァドク派は、復活を期待するファリサイ派(主としてヒレル派の)から分かれて、地上におけるイスラエルの復興を目指す支配権力との闘いを志向するようになります。ところが、この段階で、エジプトに在住してきたツァドク系祭司から〔これについては共観福音書補遺「捕囚期以降のユダヤの大祭司職」を参照〕、支配権力と争う過激なゼロータイと手を切るようサドカイ派に対して強い働きかけがあり、このために、サドカイ派は、エルサレム神殿体制を維持するため、政治的に現実路線を採ることになります〔TDNT(7)42〕。
 ローマ帝国のエルサレム支配の下で、イドマヤ出身のヘロデが政権につくことになってからは、ハスモン系の祭司制は消滅し、以後、ヘロデが擁立する大祭司が続くことになります。ローマ帝国の支配に沿うヘロデ大王による変革は、ユダヤ人と異邦人との分離を主張するそれまでのハスモン系の勢力と真っ向から対立するものでしたから、ハスモン時代以降の古いサドカイ派(ツァドク系)にも敵対するものでした。ヘロデの体制は、ローマの支配の下で、ユダヤ人と非ユダヤ人との区別を付けない普遍主義に基づいていました。それゆえ、エルサレムは、聖地と言えども異邦人に開かれた地であり、たとえ非改宗者の異邦人でも、彼らをユダヤから追放すべきではないと見なしたのです。ヘロデ大王は大祭司職の終身制を廃して、最初のヘロデ系の大祭司にアナネスが任命されました。彼は、バビロニア出身ともエジプト出身とも言われています。もしも彼が、エジプトのレオント・ポリスからだとすれば、ハスモン系に代わって、ほんらいのツァドク系が復帰したことになりましょう。ヘロデ大王の下でボエトゥス系が台頭し、ボエトゥス系とサドカイ派とが両立することになります。ここにいたって、クムラン宗団のようなツァドク系から見れば、「サドカイ」は、半異教的な「背信」を意味することになります。こうして、ヘロデ系の制度の下で、サドカイ派はその歴史的な最終段階を迎えるのです〔TDNT(7)45〕。ただし、この段階でも、神殿制度において、古くからの「(ツァドク的)サドカイ主義」が完全に失われたわけではありません。70年のエルサレム滅亡がもたらしたのは、サドカイ派の貴族的祭司制度の消滅と言うよりも、むしろ、「エルサレム聖都思想」の崩壊だったのです〔前掲書〕。             共観福音書補遺へ