共観福音書補遺
                  人の子
■「人の子」の用語
 ヘブライ語には「人」を意味する語が三つあります。
(1)「イーシ」(人/男)は、獣や妻や神に対応する「人/男」で、複数形は「アナ(ー)シーム」です。これの女性形は「イッシャー」(女/妻)で、複数形は「ナシーム」です。
(2)「エノーシ」は、男性名詞の「人/民族/人類」 です(ほんらいの意味は「弱い者」)。集合的な意味で、単数=複数形です。これのアラム語は「エナ(ー)シァ/エナシ」です。
(3)「アーダーム」は「人/人々/ある人」の意味です(創世記2章7節参照)。
 (2)の「エノーシ」は、詩編8篇5節と同9篇20節、ヨブ記5章17節に出てきます。「エノーシ」のアラム語「エナ(−)シ」は、イスラエルの捕囚期以後のアケメネス朝ペルシア帝国の時代からで、ダニエル書に出てきます(ダニエル書4章22節/同29節「王国の人間/民」など)〔Gerhard Friedrich ed. Theological Dictionary of the New Testament. English translation Vol. 8. Eerdmans(1972)400--477. → 略して、TDNT(8)〕。
 「人の子」のヘブライ語は「ベン・イーシ」「ベン・ェノーシ」(人間の子)/「ベン・アーダーム」(アダムの子)/冠詞付きの複数では「ブネ・<ハ>アーダーム」(アダムの子たち)です。
 ヘブライ語の「人の子」(ベン・アーダーム)は、エゼキエル書に90回以上でてきて、「気高い人/個人」を意味します。ペルシア帝国のアラム語で「人の子」(バル・アナ/ノシ)は、ダニエル書7章13節に出てきます。このアラム語の複数形「人の子ら」はダニエル書2章38節/同5章21節前半にでています。
 イエスの時代では、「人の子」のアラム語「バル・(ア)ノシ/バル・(ア)ノシァ)は、ユダヤでもガリラヤでも、話し言葉として一般に用いられていました〔TDNT(8)403〕。「人の子」が、特に「自分」を指すは言えませんが、一般的に自分をも含めて自他共通の意味で「人の子」が用いられました(日本語で「俺もお前も<人の子>だから」と言うのに共通する?)。以上で分かるとおり、ヘブライ語「バル・エノシ」(人の子)は、人間一般を指しますが、その内容は漠然として定義しがたいところがあり、これのアラム語も、この点では変わりません。
 ヘブライ語とアラム語の「人の子」は、紀元1世紀の新約聖書のギリシア語では、「ホ・ヒュイオス(子)・アンソロープー(人の)」と、冠詞付の「人の子」になり、「メシア的な性格を帯びる者」という独特の意味を持つようになります。この独自性は、ダニエル書7章13節の「人の子」に由来するのでしょう〔TDNT(8)404頁/同脚注(22)を参照〕。ちなみに、ギリシア語複数名詞の「人の子たち」は、新約聖書で、マルコ3章28節「人の子らの犯す罪」だけで、ここはヘブライ語の「人の子ら」と同じ意味です。
■「人の子」の主な出典
 イザヤ書51章12節では「死ぬべき人」(人間一般)が「草に等しい人の子」と言われ、同56章2節では、「(主の正義を固く守る)人の子(=人)」とあり、どちらも「ベン・アーダーム」が用いられています。また、同52章14節の「その姿、人の子ら(人間)とは見えないほど」には、複数形の「ブネ・アーダーム」が出てきます。
 エゼキエル書では、回数が最も多く、94回ほどです。その多くは、「人の子よ」とエゼキエルに呼びかける「ベン・アーダーム」です(2章1節/同3節/同6節/同8節など)。ここでは、「優れた個人」への呼びかけになっています。
 ダニエル書では2回で、7章13節「人の子のような」の「バル・エナシ」(アラム語)と(これについては後述します)、同8章17節の「人の子よ」とダニエルに呼びかける「ベン・アーダーム」(ヘブライ語)です。ヨブ記25章6節の「人の子(=人間)は虫けら」では、「ベン・アーダーム」です。
 詩編では 28回ほどです。詩編4篇3節「人の子ら(=不特定の人たち)よ。いつまで私を・・・・」に「ブネ・イーシ」が、同8篇5節の「人の子(=人)とは、何者なのか」に「ベン・アーダーム」とあり、同11篇4節の「主の目は人の子らを見透す」は「ブネ・アーダーム」です。詩編では、「ブネ・アーダーム」(人の子たち)と複数の場合が多く、人間一般を指します(詩編12篇2節/同31篇20節など)。「人の子ら」は、エレミヤ哀歌(1回)、ミカ書(1回)、箴言(2回)、コヘレト(2回)にも。
 『エチオピア語エノク書』は、エチオピア語で書かれています。これの原典は、ヘブライ語かアラム語か確かでなく、原点は「セム系の言語」で、そこからギリシア語に訳されたものが、さらにエチオピア語に訳されたと考えられてきました(19世紀まで)。20世紀に、パレスチナの死海の西岸にあるクムランの洞窟で、 アラム語の『エチオピア語エノク書』の断片パピルスが発見されて、アラム語が、『エチオピア語エノク書』の原典であると考えられるようになりました。ただし、『エチオピア語エノク書』の72章〜107章には、ヘブライ語の資料からも引用されていると見られています〔George W.E.Nickelsburg. 1 Enoch 1. Hermeneia. English translation. Augsburg Fortress(2001).9]。
 『エチオピア語エノク書』でも、「人の子ら」は、人間一般を指します(6章/10章/11章/12章/15章/69章)。単数の「およそ人の子」も、「およそ人間」と同じです(93章)。注意したいのは、『エチオピア語エノク書』では、「人の子ら」が、「天の子ら」(14章/101章)あるいは「聖なる子ら」(39章)(どちらも天使たち)と対照されていることです〔村岡崇光訳『エチオピア語エノク書』『聖書外典偽典』(4)旧約偽典(U)教文館(1986年)161〜292頁参照〕。
 注目したいのは『エチオピア語エノク書』の「たとえの書」(37章〜71章)です。この書は、エノク系の諸文書でも、比較的後期のもので(前50年〜前1年頃?)、ここには、ダビデ王の伝承とダニエル書7章を受け継いで、終末的な裁きを行なう者として、「義なる者」「選ばれた者」「油注がれた者」「人の子」が出てきます。これらは、新約聖書の「人の子」の原型となるものです〔George W.E.Nickelsburg. 1 Enoch 1. Hermeneia. English translation. Augsburg Fortress(2001).7]。
 イエス語録(Q)での「人の子」は、全部で五カ所です(ルカ9章58節/マタイ11章19節/マタイ24章27節/同37節/同39節)。
 新約聖書では、「人の子」は、四福音書に圧倒的に多く、マタイ福音書に28回ほど、マルコ福音書に20回ほど、ルカ福音書に29回ほど、ヨハネ福音書に15回ほどです。パウロの文書には見当たらなく、使徒言行録7章56節「人の子が神の右に立つ」/エフェソ3章5節「人の子ら」/ヘブライ2章6節「人の子とは?」(詩編からの引用)/ヨハネの黙示録1章13節「人の子のような方」/同14章14節「人の子のような方が雲の上に」。
■ダニエル書の「人の子」
  ダニエル書7章13節に出てくる「人の子」は、アラム語で「バル・(ェ)ノシ」で、これの強勢形は「バル・(ア)ナシャー」です(紀元後2世紀以降の新約の時代では「エ/ア」が抜ける場合が多い)。「人の子」という言い方は、ペルシア帝国時代の公用のアラム語では用いられなかったようです。旧約聖書のアラム語で、「エナシ」は、不特定の「(ある)人」を意味します(ダニエル書2章10節/同5章5節/同6章8節)〔TDOT(2)161頁〕。
 ダニエル書7章で、「人の子」に「〜のような/〜に見える」が付いているのは、それが「幻」(ヴィジョン)であることを言い表わそうとするからで、「人(の姿)に見える」ことを意味します。「人」あるいは「人の子(のような)」が用いられている例として、天使ガブリエルが「人の姿(ガベル)に<似て>」もあります(ダニエル書8章15節)。このガブリエルが、ダニエルに向かって、「人の子よ」(ベン・アーダーム)と呼びかけます(同8章17節)。天使ガブリエルについては、「先にわたし(ダニエル)が幻で見た人(イシ)」とあり(同9章21節)、川の両岸に立って、世の終末を予告する天使たちも「人(イシ)」と言われています(同12章6〜7節)。 なお、ダニエル書の「人の子に見える者」と関連させて、エゼキエル書8章2節の「人の姿のようなもの」(原語の「エシ=燃えている火」を「イシ=人」と読む)の用法も注目されています〔コリンズ前掲書306頁〕。
 ダニエル10章5〜6節には、「顔は稲妻、目は燃える松明」で畏怖を与える「亜麻布を着た一人の人(イシ)」が出てきます。これは「天使」のことではなく、天上の神自身の聖性を具えた「ある人物」を意味します。
 ダニエル書7章13節について言えば、ダニエル書の「人の子」も、エゼキエル書の「人の子」を受け継いでいますが、ダニエル書7章13節では、「人の子」が、黙示思想特有のヴィジョンを表わします。ここでの「人の子」が「(天の)雲に乗って」とあるのは、カナンのバアル神話にも出てくる言い方で、この雲は、(人を)天に「上げる」でもなく、天から「降ろす」でもなく、天地に「通じる」働きをします。「〜のような」も「雲」も、特定の地域や民を避ける言い方で、その「人の子」が、天使であれ、神性を具えた者であれ、天に坐す至高の神から特別の権能を授けられて、地上に「終末的な支配」を及ぼすことを意味します。このため、ダニエル書7章13節「人の子のような者」は、「メシア的な性格」を具えていると言えます〔TDNT(8)421頁〕。
 しかも、ダニエル書7章13節のこの「人の子」は、ある特定の「共同体」を代表すると見なすこともできますから、ユダヤでは、ダニエル書のこの箇所の「人の子」は、「敬虔なイスラエルの民」を指すと解釈され〔TDOT(2)165頁〕、とりわけ、マカバイ時代にユダ・マカバイに率いられてアンティオコス四世に勝利した「ユダヤの民」を指すと見なされました〔TDNT(8)422頁〕〔コリンズ前掲書308頁〕。彼は「メシア」(救済者)として、特に「ユダ・マカバイ」個人を指すという解釈もあります。このように、ダニエル書7章の「人の子に見える者」については、その解釈に諸説がありますが、現在では、これを集合的に解釈するよりも、ある特定の「個人」を指すと解釈する場合が「圧倒的に多い」ようです〔コリンズ前掲書308頁〕。
 ダニエル書7章の「人の子」は、イエス以後のキリスト教徒の間では、とりわけ、「イエスその人」を指す預言であると解釈されました。また、キリスト教徒は、ダニエル書7章13節の「人の子」に代表される共同体とは、「キリストの民」として成就される以前の「ユダヤ人共同体」のことであると解釈しました。
■『エチオピア語エノク書』の「人の子」
 『エチオピア語エノク書』46章1〜2節には、「高齢の頭をもった者」〔村岡訳〕"one who had a head of days"[Nickelsburg 1 Enoch]がでてきます。この「日々の頭の者」と共に「もうひとり、人間のような顔をした者」〔村岡訳〕がいて、彼が「人の子」と呼ばれています。この1〜2節は、ダニエル書7章9節/同13節にそのまま対応しています[Nickelsburg 1 Enoch(2)155/157]。『エチオピア語エノク書』では、これに先立って、「義なる者」(38章)があり、「選民の人の子ら」(39章)があり、「(霊魂の主=至高者の御前にいる)四人の御使い」(40章)がでてきます。「高齢の頭をもった者」とは、「時時間の始まり(頭)」を指しますから、これは神の永遠の神性を意味します。「人の子」のほうでは、「頭」ではなく「顔」がでてきますが、これは、「人の子」をとりわけ神に近い四天使(ミカエル/ラファエル/ガブリエル/ペヌエル)に近づけるためでしょう(使徒言行録6章15節も参照)[Nickelsburg 1 Enoch(2)156--157]。ダニエル書7章13〜14節では、「人の子」の業と、彼に授与される権能が簡潔に語られますが、『エチオピア語エノク書』では、「人の子」が、なぜ「高齢の者」と共に居るのかが語られ、「人の子」について詳しく語られ、人の子が「神(霊魂の主)に油注がれたメシア」であることが明らかになります(47章〜48章)。
 『エチオピア語エノク書』62章3〜8節では、終末の時を指す「その日」に、「王たち、権力者たち、高位の者たち、領土の所有者たち」が「栄光の御座に坐す方(至高の神)」による裁きを受けます。その時、母親が今まさに胎児を生み出そうとする時のような苦痛が彼らを襲い(ヨハネの黙示録12章1〜2節参照)、その中のある者たちは、「人の子が栄光の座に坐すのを見て」、怖れおののきます。「人の子」は、(世界の)初めから、(人々の目からは)「隠されていて」、至高の方(神)によって護られていたのですが、至高の方は、選ばれた者たちに、「人の子を啓示した」のです[Nickelsburg 1 Enoch(2)254]。
 神に背いて圧政を行なっていた者たちが、彼らの有り様が暴かれ、その目が啓(ひら)けて、恐れおののく事態に陥りますが、ここには、イザヤ書52章13節〜53章12節の「主の僕が受ける苦難と栄光」が反映しています。圧政者のおののきは、人の子が、それまで「隠されてきた」ことでいっそう強くなります(圧政者が恐れおののく様は、知恵の書5章1〜2節と共通)。この「人の子」と、彼に導かれる「選ばれた民」とは、ダニエル書7章13〜14節で告げられているとおりに圧政者を倒し、人の子は「全世界を統治する」でしょう。ちなみに、選ばれた聖なる民が「(種のように)蒔かれる」(8節)とある隠喩は、後にパウロに受け継がれて、「人の死と復活」の隠喩として用いられます(第一コリント15章42〜44節)[Nickelsburg 1 Enoch(2)263--265]。
 ■新約聖書の「人の子」
  紀元前のユダヤに伝承された「人の子」は、ユダヤ黙示思想の影響を受けており、そこには、ダビデ王朝の王権的な「人の子」と、エノク系の文書に見る祭司的な「人の子」の性格が含まれています。さらに、この人の子には、ダニエル書7章に見る「雲に乗ったメシア的な人の子」像が加わります。四福音書を主とする新約聖書の「人の子」では、イエスが用いた例だけでなく、イエス以後のキリスト教会による解釈も加わりますから、イエス以前のユダヤの「人の子」とは異なる「人の子キリスト論」という新たな段階に入ります〔TDNT(8)429〜430頁〕。
 学者の中には、「人の子」称号をイエスまでさかのぼらせることに反対して、イエス自身は、この称号を用いなかったと主張する者もいます。イエスがダニエル書7章で預言された人物(メシア人の子)だと称したのは、(イエスではなくイエス以後の)キリスト教会のほうだと彼らは主張したのです。あるいは、学者の中には、イエスの頃のアラム語「バル・ナーサー」(人の子)は、生死の危機に瀕(ひん)した人が、「自分」を指す場合に用いたものであるから、(新約聖書の中で)この内容に合致した(イエス自身を指す)「人の子」言葉だけが真正であって、それ以外は、ダニエル書7章にならうことを意図した後の教会が書き加えた「人の子」だと判断しました〔W.D.Davies & Dale C. Allison, Jr. The Gospel According to Saint Matthew. Vol.U ICC. T&T Clark(2004)45--47.を参照〕。
 イエスは自分を「人の子」だとは「言わなかった」のか?それとも、イエスが自分を指して言う「人の子」だけが、真正なのか? そもそも ダニエル書の「人の子」伝承を用いることそれ自体が、イエスによるのではなく、イエス以後の教会によるのか? (その気になれば用いることができた)師独特の「人の子」用法を、師ではなく、その弟子たちが初めてできたと主張するこの(おかしな!)論理は、おそらく、「人の子」が内蔵する「謎/神秘」への神学的な解明が、後代の教会によって試みられたことと、イエス自身がこの言葉を自分の「人となりの謎」を説明するために用いたこととを混同するところに生じたと思われます。千年単位で受け継がれ伝えられる宗教思想や宗教的な営みが、過去の出来事の真の意義を驚くべき正確さ伝達できることを過小に評価すると、誤り犯すことになります。
 「1世紀初頭のユダヤ教では、『人の子』は、メシア的な意義を具えた超自然の終末的な人物を指す称号として確立していました」〔Davies & Allison, Jr. The Gospel According to Saint Matthew. 43--44.〕。ただし、ユダヤ社会での一般的な理解では、「人の子」は、ダニエル書で預言されたメシア性を具えた名称ではあっても、(後の教会が表わすような)人と神とを結ぶ仲保者の役割とは受け取られていませんでした。
 イエスは、エゼキエル書の「人の子」用法にならって、「人の子」を自分に当てはめています。イエス自らは、自分に対して、「メシア」という称号を用いませんでしたが、ダニエル書7章が預言する「人の子」を踏まえて、この表現で自分を言い表わしました〔Davies & Allison, Jr. The Gospel According to Saint Matthew. 48.〕。「人の子」は、本来「人間」一般を指す言葉ですが、間接的に「自分」をも指すことができます。イエスは、自分に宿る主の霊の働きをこの言葉で自覚的に言い表わしたのです。この意味での「イエスの実存」が、弟子たちの復活信仰の土台になります。
 マルコ13章26節/同14章62節は、明らかにダニエル書7章13節を反映しています(おそらくルカ18章8節も)。四福音書では「人の子」言葉が繰り返されているのに対して、新約聖書では、四福音書以外に、(ヨハネ黙示録を除いて)ダニエル書への言及がわずかであることを考え併せると、イエスは、ダニエル書7章を踏まえて語っていると見ることができます。しかも、イエスは、それまでの「預言者」ではなく、終末的な期待をもたらす独特の「預言者」として、人々から「メシア」だと称されました。このことと、イエスが「人の子」に独特の意味を与えたこととを切り離すことができません〔Davies & Allison, Jr. The Gospel According to Saint Matthew. 49.〕。
 イエスへの復活信仰以後に、キリスト教会によって、「神の御子キリスト」を表わすキリスト論的な「称号」が生まれます。それまでとは異なるこの称号は、イエスに始まるのではなく、後代の教会によるものです。「主」、「キリスト」は、キリスト教会が編み出した称号ですから、これらはイエスにさかのぼるものではありません。
 これに対して共観福音書の「人の子」は、ダニエル書7章の用法を反映して、繰り返し用いられています。だから、イエス自身が、ダニエル書7章を受け継いでいたと考えることができます〔Davies & Allison, Jr. The Gospel According to Saint Matthew. 49.〕。ただし、「人の子」言葉のすべてがイエスにさかのぼるとは言えません。マルコ14章62節やマタイ24章44節=ルカ18章8節やマタイ10章23節などは、イエスの言葉の真正性について、議論が割れています〔Davies & Allison, Jr. The Gospel According to Saint Matthew. 48.〕。
 父なる神の権能を授与された「人の子」は、マルコ2章10節やヨハネ5章27節に見ることができます。四福音書を主とする新約聖書の「人の子」は、ダニエル書7章13節の「人の子」を受け継いでいて、個人であると同時に共同体的な存在でもあり、天上の神の神性を帯びながら、人間性をも有するという独特の二重性を具えています。この二重性から、「人の子」は、ヘブライ語「バル・エナシ」を引き継ぐ「人」をも意味することができます(マタイ9章8節/第一テモテ2章5節)〔TDNT(8)405頁〕。
 「人の子」は、アダムの罪を贖うことで終末的な人間存在を授与するという意味で、メシア性を有していました。イエス自ら、贖罪への犠牲としての「人の子」になることで、「復活のイエス」の霊がイエスを信じる者に宿る。人の子の復活の命は、こういうメシア的な働き帯びて、人々に終末的な人間の理想を現実させる力を具えています。このようなキリスト実存が、時空を超えて人々に働き、教会のキリスト論の核心になります。
【*】共観福音書書における「人の子」の具体的な用例については、ホーム・ページの共観福音書講話のそれぞれの節を御覧ください。
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