税と貨幣
■旧約時代の税
以下で、税と貨幣についてごく概略を見ることにします。「税」という言葉については、ヘブライ語で、動詞「アーラック」(見積もる/評価する)の能動使役態(ヒフィル)から出た「税を課す」(列王記下23章35節)があります。ヘブライ語の名詞では「マスエート」(貢ぎ物/税)(歴代誌下24章6節)があり、またサムエル記上17章25節には形容詞で「ホフシーにする」(自由にする/税を免れさせる)があります。アラム語の名詞では、エズラ記4章13節/同20節に「ミッダ」(税/年貢)と「ベ/ブロー」(関税/益税などの訳)と「ハラーク」(土地税/交通税などの訳)があります。
これで見ると、イスラエルの捕囚期以前では、サウル王に始まりダビデ王朝時代には徴税や貢ぎ物や捧げ物の形で課税されていましたが(民数記31章28節など)、本格的な税制度はまだ実施されていなかったようです。「課税」が本格化するのはイスラエルが外国の支配下に置かれた頃からで(列王記下15章20節)、宗主国への納税とイスラエルの神殿への献金(列王記下12章5節)がその主なものです。イスラエルで「税」という名詞が本格的に使用されるのは歴代誌やエズラ記やネヘミヤ記以降のことですから、捕囚期以後に、イスラエルが政治的独立を失って、ペルシア帝国やエジプトのギリシア系プトレマイオス朝の時代になってからです。
前63年にローマの将軍ポンペイウスによってユダヤが支配されるようになり、さらに前6年にユダヤが北のサマリアと南のイドマヤと共にローマ皇帝の直属州に組み込まれるとシリア総督の支配下に入ります。シリアの総督クィリニウスは、この地域の人口調査を行ない(紀元6年)、本格的な税制が実施されるようになりました。
■パレスチナの貨幣
〔シェケル銀貨〕古代のイスラエルでは、銀が「シェケル」と呼ばれる通貨の単位とされていましたが、「シェケル」は、ほんらい、重さを表す単位ですから、当初の銀は「はかり売り」されていました。パレスチナで、銀が貨幣として使用されたのは、ペルシア王朝の支配の後期からギリシア王朝の支配の前期にかけての頃ですから(前4世紀)、ネヘミヤ記5章15節の「銀(貨)40シェケル」が、「銀貨」が使用される初めになるようです〔TDOT(7)271頁〕。イエスの頃は、銀1シェケルが、ほぼ5.6グラム(?)でしたが、銀貨はパレスチナ北部のティルスかアレクサンドリアで鋳造されたもので、高価な貨幣は、流通も限られていました。「ユダに支払われたシェケル銀貨30枚は、120デナリ分」だとありますから〔Anchor
Bible Dictionary(1)1086〕、このシェケル銀貨一枚は、当時のギリシアのドラクメ銀貨4枚=ローマのデナリ銀貨4枚に相当したようです。なお、ペルシア帝国の時代、前5〜4世紀のダレイオス1世の治世に、ユダヤで鋳造された金貨と銀貨には梟(ふくろう)のような神の像と「ユダ」の銘があり、裏に兜と弓を持つ王(宗主国の王か)の像が刻まれています。しかし、諸王朝の支配下にあった旧新約中間期のパレスチナでは、政治的な自治が認められていた時代でも金貨や銀貨の鋳造は行なわれず、イスラエルでは、せいぜい青銅貨幣の鋳造に限られていました。ユダヤが独立を勝ち取ったハスモン王朝の時代でも、君主アレクサンドロス・ヤンナイオス(在位前103〜76年)の時代の青銅貨幣には、片面にヘブライ語で「ヨナタン王」とあり裏面にはギリシア語で「アレクサンドロス王のもの」とあります。ハスモン王朝の最期の王アンティゴノス(在位前40〜37年)の時代の青銅貨幣では、七枝の燭台(メノラー)と供えのパンが刻まれています。
■イエスの頃の貨幣と税
〔税〕新約聖書のギリシア語で「税」は
(1)「ケーンソス」(マタイ22章17節)で、これはラテン語「census(ケーンスゥス)=査定/人口調査」から出たギリシア語で、主として「人頭税」のことです。
(2)特に人頭税を指すギリシア語には「エピケファライオン」があり、これはラテン語「capitularium(カピトラーリゥム=人頭税)」の直訳語です。
(3)「テロス」(マタイ17章25節)があります。これは主として通行税や関税を指し、複数形で用いられます。「徴税人」(テローネース)はこの語から出ています。
(4)ギリシア語の「フォロス」は、ラテン語の「tributum(トリブトゥム=貢ぎ物/租税)」にあたる語で、征服民が被征服民に課す税です(英語のtribute)。しかし、イエスの頃のパレスチナでは、(1)(マルコ12章14節)と(4)(ルカ20章22節)はそれほど区別されませんでした。
ローマ帝国では、原則として、成人一人の収入の10分の1の人頭税と、穀物の収穫の10分の1の穀物税が徴収されました。その他穀物や物品の輸送に課せられる関税もありました。1世紀のイエスの時代のパレスチナでは、ガリラヤはヘロデ・アンティパスの支配する領土ですが、ユダヤは紀元6年からは、ローマ皇帝の直轄領になっていました。ユダヤのように皇帝の直属州からの税は皇帝の金庫に納められました。ほかに元老院に属する諸州があり、ガリラヤなどヘロデ家の領地では、税はヘロデ家の金庫に入りました。ただし、ヘロデを含む地方の諸王から皇帝や帝国に貢ぎや税が納入されましたから、ヘロデ家による税の取り立ては、領地内の宮殿建築などと皇帝への貢ぎ物の課税が重なるために、過酷な取り立てが行なわれました。
イエスの頃のパレスチナでは、クイリニウスがシリア州の総督になると、census(ケーンスゥス=査定/人口調査)が施行され(6〜7年)ました。これによるローマ帝国からの直接税は二つに大別されます〔コリンズ『マルコ福音書』552〜53頁〕。
(1)農産物などに課せられる税で、家ごとに収益の10分の1ほどの税額で、これの納入には、品物と貨幣の両方があてられました。
(2)家族の構成員個人に課せられる「人頭税」があります。一人あたり年額1デナリほどでした〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)214頁〕。人頭税は女性と奴隷にも課せられましたが、子供と老人は免除されました。ただし、人頭税のほうは、これが実際に課せられたのは、ユダヤが滅びた70年以後のことではないかという見方がでています〔コリンズ『マルコ福音書』553頁〕。
通常は徴税の役を請け負うテローネース(徴税人/取税人)たちがいて、ローマ総督やヘロデ家のために徴税を行ないました。徴税は総額の請負制だったために、不当に徴収したり、不公平な徴税が行なわれたようで、このために、テローネースたちは人々から憎まれ蔑まれていました。税が払えないときには、息子や娘を奴隷として売るために連れ去ることもありました。赤いマントをまとい馬に乗ったローマ兵と徒歩の徴税人が家々を訪れて、徴税人が税を徴収するのをローマ兵が黙って見ている姿が目に浮かびます。
〔貨幣の像〕ハスモン王朝からイドマヤ出のヘロデ大王(在位前37〜4年)の時代の青銅貨幣には、片面にアポロンの三脚台と片面に香の祭壇が刻まれていて、ヘレニズムとユダヤの両方向きの図柄になっています。大王の息子でガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパス(在位前4年〜後39年)の頃の青銅貨幣では、椰子や花冠の図柄だけしか用いられていませんが、同じ頃の東方ガウラニテスの領主フィリポの鋳造青銅貨幣には皇帝の像や異教の神殿が刻まれていました〔教文館『聖書大事典』311〜312頁〕。イエスの頃は、初代皇帝アウグストゥスの養子であるティベリウス帝(在位14〜34年)の時代で、
当時のデナリウス銀貨の片面には、皇帝の頭が刻んであり、これを囲むように、右下から左下までを順に読むと、TI(BERIUS)/CAESAR/DIVI/AVG(VSTYS)/F(ILIUS)/AVGVSTYS(ティベリウス・カエサル・神君アウグストゥスの子・ティベリゥス=神君アウグストゥスの子である、皇帝ティベリウス・アウグストゥス)と刻んであります〔『旧約新約聖書大事典』教文館778頁〕〔『新約聖書・ヘレニズム原典資料集』51頁〕。これの裏には、貞節と不変の杖を持つ女神コンスタンティア(王妃を表す?)が刻まれています。このため、ユダヤ人はこれを偶像と見なして、使うのを嫌ったようです。ただし、日常生活では、皇帝像のない青銅貨が用いられていました。
〔神殿税〕旧約時代では、ほんらい神殿それ自体のための「捧げ物」は、自由な意志による「随意(ずいい)の捧げ物」とされていました(出エジプト記35章29節/レビ記22章21〜23節/エズラ記1章4節/同6節など)。年ごとに神殿税として成人男子に課せられるようになったのは、神殿への自発的な捧げ物を重んじるサドカイ派が後退した前1世紀の半ば頃ではないかと想定されます〔ルツ『マタイ福音書』(2)686頁〕。以後神殿税は、パレスチナの内外を問わず、20歳以上のユダヤの男性に課せられましたが、エッセネ派などはこれに対して批判的でしたから、この税がどの程度「一律に」守られていたか確かでありません。
神殿税は年に半シェケル(ギリシア銀貨2ドラクマ)です(出エジプト記30章13節/歴代誌下24章6節参照)。1ドラクマはローマの1デナリ(労働者1日分の賃金)に相当しますから、2ドラクマは労働者2日分の賃金に当たります。神殿税は、過越祭での巡礼の際に、直接支払うことができましたが、諸国の貨幣には皇帝の像や異教の神殿が刻まれていたために、それらの貨幣は、神殿で認められたティルスの貨幣に「両替」しなければなりませんでした。また、巡礼(と神殿での税の納入)を行なわない場合は、パレスチナでも地方でも、過越祭の一ヶ月ほど前に徴税人によって各地で徴収されました。マタイ17章24節に神殿税のペトロに対する徴収がでてきますが、この時イエスの一行が過越祭のためにエルサレムへ上る途中だったとすれば、直接エルサレムで税を払う予定だったのかもしれません。
なお、エルサレム神殿の崩壊(紀元70年)と共に、神殿税は無くなりましたが、ローマのウェスパシアヌス将軍は、従来ユダヤの金庫に納めるべき神殿税をユピトル・カピトリヌス(旧エルサレム神殿の代わりのジュピター神殿)への神殿税としました。この神殿税を納める代わりに、ユダヤ教はローマ帝国によってその存続を認められたのです。
■貨幣の種類
イエスの頃の貨幣には、ギリシアのものとローマのものがあり、その他離散のユダヤ人が各地から持ち込んだ諸国の貨幣などがありました。基本となるのは次の2種類で、高価な単位から順にあげると次のようになります。
〔ギリシアの貨幣〕
1タラント(貨幣ではなく金額の単位です)=60ムナ
1ムナ(これも金額の単位か?)=100ドラクメ銀貨
1ドラクメ銀貨=6オボロス青銅貨
1オボロス青銅貨=8カルコス青銅貨
1カルコス=2レプトン銅貨
〔ローマの貨幣〕
1アウレリウス金貨=25デナリ銀貨
1デナリ銀貨=4セスティルス青銅貨
1セスティルス青銅貨=2.5アース(アサリオン)銅貨
1アース(アサリオン)銅貨=4クァドランス銅貨
〔相互関係〕ギリシア(G)/ローマ(R)/ユダヤ(J)の略語。
・銀1シェケル(約5.6グラム)(J)=4ドラクメ銀貨(G)=4デナリ銀貨(R)/